本文へスキップ

日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

毒矢の譬え

翻訳者は不詳で東晋録にある。
このように聞いた。
ある時、世尊は、舎衛城の祇園精舎におられた。
その時、尊者である摩羅鳩摩羅(まらくまら)は、独り坐禅をしながら思った。
「世尊は、邪見を棄て除いたと言われたが、次のことをお説きにならない。
この世界は永遠に続くものだろうか、それとも永遠ではないのか?
世界は際限があるか?ないのか?
生命と肉体とは同じか?異なるのか?
生命は死後も存在するのか?しないのか?
物は存在するのか?しないのか?
命に終りがあるということはないのだろうか?
これらの答えがわからないので、我慢ができないし楽でない。
世尊が、これらのことについて答えてくれるのであれば修行を続けるが、そうでなければここを去ろう」
こう考えると、摩羅鳩摩羅は、坐禅を止め世尊の所に行って、世尊の足に礼し、退いて壁の一面に坐った。

摩羅鳩摩羅は、次のように言った。
「世尊、わたしは、静かなところで坐禅しながらこう考えました。
世尊は、『邪見を棄てた、邪見を除いた』と仰せですが、この世界が永遠かそうでないのかなどについてお説きになりません。もしご存知ならば『知っている』と、もしご存知でないならば『知ることができない』を仰ってください」
世尊は、次のように言われた。
「摩羅鳩摩羅よ。わたしが『この世界が永遠かどうかについて述べれば、わたしに従って修行できるか』と尋ねたことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「摩羅鳩摩羅よ、以前に、お前は『世尊が、この世界が永遠かどうかについて言われれば、修行を続ける』と言ったことがあるか?」
「いいえ、ありません」
「摩羅鳩摩羅よ。わたしは、本よりお前に向って説かず、お前も、本よりわたしに向って尋ねない。お前は、愚か者である。訳もなく、人を罵っておるのだ」
このように言われ、摩羅鳩摩羅は、世尊から叱られて言葉もなく冷や汗を流した。
その時、世尊は、摩羅鳩摩羅から目を離されて、諸ろの比丘に言った。
「ある愚か者が、『わたしは、世尊に従って修行せずに、先に世尊に、この世界が永遠かどうかと述べさせようと思った。その愚か者は、自らが、このようなことをしている間に、命が終ってしまうことを知らないのだ」
世尊は、譬え話をされた。
それはちょうど、ある者が毒矢に当たった時のようである。
毒矢に当たったことを知った彼の親属は、この者を哀れんで急いで医師を探し求めた。
ところが、この者は別のことを考えていた。
「まず先に、この毒矢を射た人のことを、知らなくてはならない。
その人は、姓は何で、名前は何で、容姿はどうか?
背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?
肌の色は、黒いのか、白いのか?
王族の姓なのか?
婆羅門の姓なのか?
居士の姓なのか?
工師の姓なのか?
東方の人か、南方か、西方か、北方か?
誰が、毒矢でわたしを射たのだ?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓について知らなければならない。
薩羅(さら)の木でできているのか?
多羅(たら)の木でできているのか?
翅羅鴦掘梨(しらおうくつり)の木でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓に巻いた筋について知らなければならない。
牛の筋か?
羊の筋か?
氂牛(りご:チベット産の牛、ヤク)の筋か?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その弓の弓束(ゆづか:弓を持つ所)について知らなければならない。
白い骨でできているのか?
黒い漆でできているのか?
赤い漆でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次にに、その弓の弦について知らなければならない。
牛の筋でできているのか?
羊の筋でできているのか?
氂牛の筋でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢について知らなければならない。
舎羅(しゃら)の木でできているのか?
竹でできているのか?
羅蛾梨(らがり)の木でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢に巻いた筋について知らなければならない。
牛の筋でできているのか?
羊の筋でできているのか?
氂牛の筋でできているのか?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その矢の毛羽について知らなければならない。
孔雀の羽でできているのか?
鶬鶴(そうかく:鶴の類)の羽でできているのか?
鷲の羽でできているのか?
何の鳥の羽で作ったのだ?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その鏃(やじり)について知らなければならない。
婆蹉(ばしゃ)か?
婆羅(ばら)か?
那羅(なら)か?
伽羅鞞(からひ)か? これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

次に、その鉄師(刀鍛冶)について知らなければならない。
姓は何か、名前は何か、容姿はどうか?
背は高いのか、低いのか、中ぐらいか?
肌の色は黒いのか、白いのか?
東方の人か、南方か、西方か、北方か?
これらがわかるまで毒矢を抜いてはならない。

この者は、そのようなことをしている間に、毒が体中に回って死んでしまうことがわからないのだ」
「これと同じように、ある愚か者が、『わたしは、世尊からこの世界が永遠かどうかを聞くまで修行しないぞ』と思うならば、そのようなことをしている間に、自分の命が終ってしまうことを知らないのである」
世界が永遠だと知ることで、あるいは永遠でないと知ることで、修行が続けられるのではない。世界が永遠であろうとなかろうと、人は生まれては老い、死んでいき、憂慼(うせき:憂うこと)・啼哭(たいこく:泣くこと)・楽しまないのである。
このような大苦陰(四苦八苦の五蘊盛苦:旧訳では五陰盛苦で物質界と精神界に執着する苦しみ)は習気(じっけ:本来身についていること)である。
「この世界は永遠である」と言うことはできないのである。
なぜ、言うことができないのかと言うと、
義(正しい意味)でもなく、法(正しい教え)でもなく、梵行(正しい修行)でもなく、神通(不思議な力)を成すこともなく、仏と等しい道に至ることもなく、涅槃(理想の境地)と至ることもないからである。
わたしは、苦しみとその原因、原因の消滅とそのための道という四つの真理(四聖諦)を説くのである。(「苦集滅道」)
わたしが、説かないことは説かれるべきでないと了解し、説くことは説かれるべきだと知るべきである」
仏が、このように説かれると諸ろの比丘たちは、世尊のお説きになったことを聞いて、歓喜して楽しんだ。
佛説箭喩経(ぶっせつせんゆきょう)

【解説】
■佛説箭喩経は、大正新脩大藏經で阿含部に属していて、「東晋録」に編纂されているが、訳者は不明である。同種のものが、他にも中阿含経巻第60「箭喩経」にある。
■無記(むき)について
 経典の中で、釈尊が問いに対して、回答や言及を避けたことで、経典に回答内容を記していないので、漢語で「無記」と表現されている。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「如来の死後について」といった仏道修行に直接関係が無く役に立たない内容についての問いに対して、こうした態度が採られている。
 この経典においても、苦しみから涅槃に至るための仏道修行に関わりの無い「世界の永続性や無辺性に関する内容」について無関心であり、否定的でもある。


 
inserted by FC2 system