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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

門松について

門松の歴史
 一説には中国の唐代に正月に松の枝を門に飾る風習があり、それが平安時代に日本に伝わったという説がある。
 別の説では、平安時代の宮中において「小松引き」という行事が行われた。これは、初子の日(はつね:十二支においてその年の最初の子(ね)の日)に外出して松の小木を引き抜いて持ち帰り、「地に足がつくように」「成長し続けるように」といった願いを込めて飾ることが起源といわれる。



 長治年間(1104年~1105年)に撰された『堀河百首』に藤原顕季(ふじわらのあきすえ)が
「門松を いとなみたつる そのほどに 春明け方に 夜やなりぬらむ」
と詠んだ歌が収められており、この頃には京都で門松を飾る風習があったことが分かる。
14世紀中頃の『徒然草』にも「大路のさま 松立てわたして 花やかにうしれげなるこそ またあはれなれ」
と詠まれている。  現在の門松は中心の竹が目立つが、その本体は名前で解るとおり「松」である。
古くは松などの常緑樹を飾っていたが、鎌倉時代以後、竹も一緒に飾るようになった。
 室町時代になると「松竹梅」が慶事に使われるようになり、竹を門にあつらえることで、そこに松の葉を飾り梅の枝を加えることで「松竹梅」を形作ったものと考えられる。
「松は千歳を契り竹は万代を契る」めでたい植物である。
 古くは、木のこずえに神が宿ると考えられていたことから、門松は年神を家に迎え入れるための依り代(よりしろ)であると考えられ、神霊が依り憑くことから依代、憑り代、憑代ともいわれてる。
 松は冬でも青々とした常緑高木で新しい生命力の象徴となっている。
神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきた。
 ここに年神が門松を目印に降臨してくることを待つ(松)ことから門松といわれている。

門松の形
 神社にある獅子と狛犬は、向かって左側が吽形(うんぎょう)で雄の狛犬、右側が阿形(あぎょう)で雌の獅子である。(両方が狛犬であるとの説もある)
 日蓮正宗の紋である鶴丸についても、向かって左側が口が開いて「南」と唱える雄の鶴丸、右側が口を閉じていて「無」と唱える雌の鶴丸である。
 同様に、門松も向かって左側が雄で葉が太くて長い松のクロマツ(雄松)を飾り、右側が雌で葉が細くて柔らかい松のアカマツ(雌松)を飾ることが本来である。しかし、松の葉形が太くて長いクロマツの伸びきった勢いの良い芽が美しいことから、左右共にクロマツを飾ることが多くなってきている。
 竹は、関東風では一番上から、中、外、内に並ぶように配置され、関西風では一番上から、中、内、外に並ぶように配置されている。(2番目の竹が外側にあるのが関東風、2番目の竹が内側にあるのが関西風)
 他に門松を立てるものに丸い樽があれば四角なものもある。また樽などを竹囲むものやコモで巻くものがある。
 樽を縛るものは一般的には荒縄であるが、通常底を7回、中ほどを5回、上を3回巻くが、これはいずれも2で割れないことから「夫婦別れをしない」と意味を込めている。しかし、2回巻を2箇所で縛る門松もある。
荒縄の結び方には「男結び」や「梅飾り結び」がある。
 門松の竹には、先を斜めに切った「そぎ」と、水平に切った「寸胴」と呼ばれるものがある。
「そぎ」についても、尖った先の一部を水平に切ったものもある。
 門松の竹は「寸胴」が本来の形だったが、現在の主流「そぎ」に変わったのは約400年以上前の江戸時代のことである。

 1572年12月22日、上洛する武田信玄に対して徳川家康が浜松城から討って出て戦った「三方ヶ原の戦い」が起こった。
 遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった合戦である。
 徳川家康が大敗するが、武田信玄は新年の挨拶として、追い打ちをかけるような意味のある歌を送った。
「松枯れて 竹類なき あしたかな」(まつかれて たけたぐひなき あしたかな)
 松(松平)枯れて(滅びて)竹(武田)類なき(繁栄する)あしたかなという意味である。
要するに、徳川家康が負けて滅び、武田信玄が勝って勢力を広げるということである。
 これに対して徳川家康は歌を送り返す。
 精神的に追い詰めるはずだったが、反対に闘志を掻き立てることとなってしまった。
「松枯れで 武田首なき あしたかな」(まつかれで たけだくびなき あしたかな)
 松(松平)枯れで(滅びずに)武田首なき(武田が滅びる)あしたかなという意味である。こちらは徳川軍は滅びずに、次は武田信玄を滅ぼすという意気込みが込められている。
 このとき徳川家康が、「武田信玄の首を斬り落とすぞ!」と思いながら門松の竹を斜めに斬り落としたそうである。
ここから現代まで続く「そぎ」の切り方が始まったのである。
 この後武田信玄は病に倒れて亡くなり、徳川家康が天下統一を果たした。首を斬り落とすことはなかったが、門松の竹の切り方がそぎとなったのには歴史と深い関係があったのである。
 江戸期の門松は現在と異なり、松の先を切らずに地面からそのまま家屋の二階屋根まで届くような高さのものが飾られていた。
仙台藩の武家では、松の枝を括り付けた高さ3m程のクリやクヌギの木を門の両脇に立て、その間に竹を渡し、しめ縄と藁の飾りをかける「ケンダイ」を組み合わせる門のような構造である。
 門松の様式には、地方により差がある。関東では3本組の竹を中心に、周囲に短めの若松を配置し、下部をわらで巻く形態が多い。
関西では3本組の竹を中心に、前面に葉牡丹(紅白)後方に長めの若松を添え、下部を竹で巻く。
豪華になると梅老木や南天、熊笹やユズリハなどを添える。
門松を飾る時期
 門松は正月事始めから大晦日までに飾り付けをする。
大晦日は「一夜飾り」といって急いで取り付けることが年神様に失礼ということで避けられている。
また、29日は「二重苦」と言われ、この日に飾り付けをするのも好まれない。
つまり12月13日から12月30日までに飾ることになる。


2021年12月26日に制作した門松。「総本山の門松」を参考にしたので、関東風である。

門松の処分方法
 門松を仕舞う時期は地域によって異なるが、関東では松の内の7日まで、関西では15日の小正月までと言われている。
様々な門松
 兵庫県西宮市の西宮神社では、十日えびすの宵宮で市中を巡幸するえびす様に葉先があたらないよう、松を下向きに付け替えて「逆さ門松」にする。
 地域の言い伝えにより松を使わない所もある。
東京都府中市の大國魂神社では、「待つ」に通じることから、境内には松の木が1本もなく、府中では門松に松を用いない慣習が残っている。
 千葉県市原市の姉埼神社やその氏子も同様に松を嫌って「門榊」を飾る。
千葉県市原市には「門榊カード」も存在する。
兵庫県神戸市の生田神社では、水害で倒れた松の木が社殿を壊したとの言い伝えがあり「杉盛り」を飾る。
 集合住宅の発達など社会環境の変化などから、本格的な門松が設置されることは少なくなったが、一般家庭用に小さな寄せ植え風の門松などが年末に店頭に並ぶようになったため、このタイプの門松を置く場合がある。
 さらに省略版として、枝振りのいい若松に、赤白や金銀の水引を蝶結びにし、門柱などに付ける方法もある。
余 談
 「門松にも二種類ありますね。斜めに削いであるのと横に切ってあるのとね。いろんな説があるようだけれど、僕らが教わったのは、本来、真横に切ってなきゃいけないってこと。
 斜めに削いであるのを時々見かけるけど、不思議でしょうがない。
斜めに削いだ門松が使われるのは、まず水商売。花柳界だったり、料亭であったり、そういうお店ですね。あるいは二号さんの家。
 商人、あるいは隠居さんだとか、家主のところのは、みんな真横に切った門松じゃなきゃいけないんです。
 僕たちは子供の頃から、門松をつくる鳶の職人さんや、噺家さんや、幇間(たいこもち)の人たちからそう教わってきました。
 でも、最近は、銀行でも斜めに削いであるんだね。銀行も水商売になっちゃったのかなと思いますけれども。
                       「江戸のセンス」から


 
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