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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

日寛上人伝(第48世日量上人 著)

『富士宗学要集』第5巻から現代語に訳す



日寛上人伝
   序
天台大師が著した摩訶止観に、
「如来が丁寧にこの法を称歎されるに聞いた者は歓喜の心を起こす。常啼菩薩は東方に「般若波羅蜜」を求めて旅をし、善財童子は南方に善知識を求め、薬王菩薩は肘を焼いて燈明を供養し、普明は頭を刎られた。
一日に朝昼夕の三度、ガンジス川の砂の数ほどの身を捨てたとしても、なお一句の力に報いることはできない。いわんや両肩に担って百千万劫過ぎても、むしろ仏法の恩に報いるだろうか」
また、摩訶止観第五上に、
「常啼菩薩が、香城で般若波羅蜜を修行し、修行を終えて供養のため、わが身の骨を砕いたことや、雪山童子が、鬼神から法を聞くために、雪山で自分の身体を投げて鬼神に与えようとしたことと比較しても、どうして報いることができようか」
とあるとおりである。
 ここに当山の第26祖日寛上人尊師は、生来智慧・才知がすぐれ、頭のはたらきがよく、今の世の中で抜群に優れた学匠であって信心と修行を兼ね備え、悟りの眼が明らかな師である。
 真に仏法の中の麒麟であり、仏閣の龍像と言うべきである。
 とりわけ当宗(日蓮正宗)の御書等を注釈し、天台の教えに関する書物を解釈し、ことのほか著作等に勝れて計り知れない。
 その中でも本仏を詳しく明らかにすることおいては、古今において他に抜き出ているのである。それは、雲霧を払って天の三光(日・月・明星)を見るようである。
 我々のような愚かな輩(やから)は、日蓮大聖人の御書の一句を読み講義を受けて、教える者も教えられる者も同じく仏の智慧を得ることを期待することのみが、尊師の高徳であり、僧(日寛)のその他の教えである。
 つらつらその仏法の恩を思えば、中国にある泰山より倍に高く、その徳沢を考えてみれば蒼海よりも深いのである。その徳の流れを顧みれば青々とした広い海よりも深いのである。
 この時、今年の晩夏8月19日は、日寛上人の第百遠忌の祥月命日にあたるが、世の財産を三宝に投じようとも貧道であるためその資力が得られない。
 法施の協力を僧俗に得ようとしても、才能が乏しいのでので、その糧を貯めることができない。
 そのような訳もあって先人や賢人の記録を調査して、山のような恩を受けていることに対して一塵であっても恩に報い、勝れた先師の伝えを聞いて、大海のような徳の中にある少しばかりの滴(しずく)を汲もうとするものである。
 師の誕生の始めより涅槃の終わりに至るまでの一代の行業を集録して、これを門家の耳目に触れさせて一遍の唱題を勧めて報恩謝徳の一部を真似ようと思う。
 ただ、私のいやしい文辞のせいで、聖徳の名を汚してしまうこと恐れるのであるが、こいねがわくは、大勢の後世に閲覧されるであろう明哲の方々に補っていただきたいことを願っている。
 文政8年(1825年)乙酉(きのととり)の春分の日に寿命坊に隠居している私(日量)がこの序を書く。

第26世日寛上人伝
 師の諱(いなみ)は日寛であるが、初め日如といっていた。字(あざな)は覚真、諡号(しごう)を大弐阿闍梨堅樹院(だいにあじゃりけんじゅいん)という。
 寛文5年乙巳(きのとみ)納音(なっちん)にいう覆燈火(ふくとうか)8月8日卯の上刻(午前5時40分)の誕生である。
 俗姓は、群馬県館林の前の城主であり雅楽頭を勤めていた酒井忠清の家臣であった伊藤浄圓の子である。母を妙真といい継母を妙順という。
 8歳にして実母と死別し義母の妙順によって育てられ、幼名を市之進という。
 志学の頃(15歳)より江戸に出て旗本の館に勤める。
 天和3年癸亥(みずのとい)の夏(19歳)に勤めの暇に納凉しようと門前を歩いていた。
 その時に法華経を66回書写して、一部ずつを66か所の霊場に納め歩いていた巡礼者がやって来た。
 日寛上人が修行者に尋ねた。
「笈の後に書き附けてある『納め奉る大乗妙典六十六部』とはどういう意味か」
 行者が答えて言った。
「日本国にある66箇所の観世音菩薩に法華経一部すべてを納め奉りて後世に幸せになるよう祈るためである」
 日寛上人が再度尋ねて言った。
「腰に小さな鉦(たたきがね)と太鼓を鳴らして口に何を唱えているのか」
 行者が答えて言った。
「金を鳴らして無常を示し、口に『観無量寿経』の中にある阿弥陀如来の光明は,十方を照し,念仏を称えるものを救い収めて決して捨てないという『摂取不捨の名号』を唱えている」
 日寛上人がまた尋ねて言った。
「口に阿弥陀仏の名号を唱え、心に観世音菩薩を念じ、納めるところの経典は法華経である。もしそうであるならば、身口意(やっていること・言っていること・思っていること)が相応していないのではないか」
 行者はたちまちに閉口してしまい、
「わしは出家していない俗人である。その意義は知らない」と言って去って行った。
 ここに門番をしていた佐兵衛という者がいた。そばにいて二人のやり取りを聞き、非常に感心してほめた。
 日寛上人が言った。
「修行者を詰めるつもりはなかった。私は、長い間、妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五を書写して浅草にある浅草寺の観世音菩薩に納めた。観世音菩薩を心に念じ、口に阿弥陀如来の名号を称えたならば、たとえばあなたに向かって「六兵衛」と呼ぶようなもので、あなたは返事をしますか。 その上納めるところの観世音菩薩普門品の題に妙法蓮華経とあり、全く阿弥陀如来の名号がない。しかれば観世音菩薩を念ずれば妙法の題目を唱えるようなものである。たとえば私を「伊藤市之進」と言うようなものである。妙法の五字は観世音菩薩の苗字である。 どうして余経の苗字である阿弥陀如来の名号を唱える理由があろうか。このことは、長い間不審に思っていた故に修行者に問うたのである」
 佐兵衛が言った。
「素晴らしい質問である。私の菩提寺にて常に教化するところはこのことである。いわゆる妙法蓮華経の五字は十方三世の諸仏の御師範、一切衆生成仏得道の大導師である」
 日寛上人が言った。
「あなたの菩提寺はどこか」
 佐兵衛が言った。
「下谷町の常在寺である」
 日寛上人は、たいへん喜んで、翌日には佐兵衛とともに常在寺に詣でて、日精上人【本山18世で隠居して江戸に出で常在寺を創建された。今年84歳で遷化の年の夏のことである】の説法を聴聞して信行を修したくなり、疑問に思っていたことが氷がたちまちに溶けるように理解できて、随喜して信伏した。
 しばしば出家したいと思い、主人に暇を請うたが主人は惜しんで聴こうとしなかった。
 その年の12月下旬に自ら髻(もとどり)を切り、駆けて常在寺へ行き、当時の住職日永上人【本山24祖で入山する前のことである】を師として剃髪の儀式を経て出家し修行を始めた。
 元禄元年戊辰(つちのえたつ)9月に日永上人が会津の実成寺に移転することになり、日寛上人も随って行った。
 同じく2年己巳(つちのとみ)の年、25歳にして細草談林に新規に入る。
 日寛上人の性格は、聴聞すること明らかにして人並み外れて優れており、博学にして広い才能を持ち、筆使いに秀で和歌に堪能していた。
 研鑚修養の年月が経過し26代の法主となる。
 条箇・集解・玄籖・文を頭に冠する四部の論文で、それぞれに草鶏記と名付ける意味深長にして天台宗学にその名を残す書を著す。
 正徳元年辛卯(かのとう)の夏に日永上人の命令を受け学頭職に就任し、蓮蔵坊【六代】に移り、御書の講説会を再興し、三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)や五大部(立正安国論・開目抄・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄)の記を製作する。
 古今において、他に並ぶものがないほどすぐれており、名誉を日蓮正宗に顕す。夜中に出る満月、晴天の日輪のようである。門徒の法灯は新たに威光を倍増し、自宗や他宗の出家者も在家も始めて霞んではっきりしていない眼を開らく。
 享保3年戊戌(つちのえいぬ)3月、54歳にして、大勢の檀家の要請に応じて大坊に入り、日宥上人から付嘱を受け正嫡として第26世の法主となる。
 日寛上人は細草檀林に地位が日養上人の次だけれど、日寛上人が年上だったので、日養上人が辞退し譲って日寛上人を押して先に就任された。
 在位3年というあらかじめ約束していたとおり享保5年庚子(かのえね)2月24日に嫡々相承を日養上人に附属して法主の座を退いて再び学寮に入り内外の御書を講義する。
 享保8年癸卯(みずのとう)6月に日養上人が亡くなられたため、大坊に再び住することになり大石寺に在すること4年となる。
 この間に常唱堂を建立し、鐘楼を作り一日中妙法の題目を唱えて絶えることがなかった。
 開所式の日に、和歌一首を詠じた。
「富士の根に 常に唱うる堂建てゝ 雲井に絶えぬ 法の声かな 日寛判」
 また、日興上人の説法石の傍(かたわら)において一つの堂宇を創建する。名付けて石之坊という。五首の和歌があるが、繁雑になることから、そのうちの一つを紹介する。
「羽衣
久かたの 天の羽衣 撫てやらて 守らせ給へ 石の坊りも」
 また、本堂の前の釣り鐘を溶かして鋳物の青蓮鉢の作るなど功績があるが省略する。
 享保10年乙巳(きのとみ)2月より6月にかけて日蓮正宗の大事である六巻抄を著述し【題号秘して顕さず】、これを学頭職にあった日詳上人に授け示して言った。
「この六巻抄という師子王があるときは国中の諸宗諸門の狐や兎のような邪宗が集まって大石寺に襲来したとしても敢えて驚き怖れることはない。ただし、秘蔵すべきである。秘蔵すべきである」
 翌11年丙午(ひのえうま)正月に中央政府に年賀のあいさつのために関東に行った。同じく2月、僧侶や檀家の要請に応じて今生の名残りとして観心本尊抄を講義し思うところや修行に関する法門を説いた。
 聴衆は法を強く求めて感激のあまり涙を流した。
 日寛上人は、講義の最終日に戯れのように聴衆に言った。
「それ羅什三蔵は荼毘に付されたときに舌が焼けなかった現証がある。その故に人は仏教を信じるのである。日寛は釈尊の十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな)の弁舌を得て、神通第一の目蓮の神通力を現じたといえども、言ったことが後に当らなければ信じることはできない。 私は、常に蕎麦を好むから、正に臨終の最期には蕎麦を食して一声大いに笑って題目を唱えて死ぬであろう。 もしそのとおりになったら、私が言うところの一文一句に疑惑を生じてはならない」
 享保11年3月に大石寺に帰る。僧侶も檀家も泣いて送別した。
 日寛上人は、発心の始めより老大家となった今に至るまで、日夜仏法をさらに盛んにしようと肝胆をくだいて、あえて身命を愛しなかった。朝暮に寺院の修理や造営の構想に丹精を凝らして、休息することもなかった。
 このため身体が自然に疲労し6月の頃よりすでに軽い病を発し、それが日を追って重なっていた。
 人々は嘆いて、薬餌を勧めたけれども日寛上人はあえて服薬しようとせず、次のように言った。
「年老いて娑婆には用が無くなった。生死は仏意に任したい」
 享保11年6月中旬までに、日寛上人が在職中授与した御本尊の冥加料として金銀が都合三百両あった。そのうち二百両を御金改役(ごきんあらためやく)後藤宗家において、人手に渡らない吹立によって溶かした一分金(小粒金)に両替し、カゴに入れ封印して御宝蔵に納め置いた。
 これは事の広宣流布の時に戒壇を造営するの資金に備えるものである。
 その証文に次のようにある。
「一金子二百両  ただし八百粒なり
右は日寛が筆の先よりふり出した御本尊の文字である。このたびこれを三宝に供養し奉る。永く寺附(てらつけ)の金子であると定めおいた。されば御本尊の文字が変じて黄金となられたのであれば、この黄金が変じて御本尊となられる時に、この黄金を使うべきである。そうでないならば決して使ってはならない。後の代の弟子檀那は、この旨を守らるべきである。
享保11丙午(ひのえうま)年6月18日          日寛
   老僧へ  檀家頭へ」
 残りの金百両は、毎月必要な金と名付けて大坊に納め、後の住職代替の時の用途にあてがう。その証文に次のようにある。
「覚
 一金子百両  但古金也
 右の金子は日寛にとっては、たいへん心がこもった金子である。朝夕、質素な食事と衣類につとめ、万事倹約して古金百両にした。この金子を後代の住職が就任する時に受け取って、在職中に毎月五両とか三両づつを蔵に貯めたものを、住職が退任する時に渡すことを繰り返し、長い間住職となる人が同様のことをして使用するため、大切に残しおいたものである。
享保11丙午(ひのえうま)年6月18日    日寛   後々の住職へ」
 また、他に金百五十両を五重宝塔造立の用意としてこれを残し置かれる。
 享保11年7月下旬に自ら起たざることを知って密かに学頭職の日詳上人を招き金口嫡々の相承を行い、(器の)底を傾けて潟瓶し、また歿後の諸事を遺言し、さらに弟子として文承(東師)・寛成・寛貞・学要・唯円・貞応・文貞(元師)・覚隆(堅師)・寛隆等の十人に託して、和歌を一首詠じ始める。
「思ひ置く 種こそなけれ なてしこの みをも残らす 君に任せて」
日詳上人の返歌に
「君か蒔く 種のみのりを まつか枝に 栄えん時を 待ち出つるかな」
 日詳上人が薬を服用するよう勧める。
 日寛上人が言った。
「(妙法蓮華経という)色香美味の大良薬を服するをもって足りる。更に何をか加えんや」
 日詳上人は再三服用するよう話す。
 日寛上人が言った。
「実は思うところあって医療を用いない。理由は、天台大師の摩訶止観第五に『行解既に勤めぬれば三障四魔粉然として競ひ起る。(乃至)随うべからず、畏るべからず。これに随えば人を将いて悪道に向わしむる。これを畏れば正法を修することを防ぐ』等とある。
 日蓮大聖人は、『兄弟抄』に『この解釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり』【以上内16、以下内28】『治病大小権実違』に『一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理である。今は事である。
観念が当然に勝る故に、大難の樣相は色がまさるのである。天台・伝教は迹門の一念三千、日蓮は本門の一念三千である。天地の違いのようにはるかに異なっていると御臨終の御時はしっかりと心得ておくべきである』【以上御書】
 推し量るに大石寺は年を追って繁栄し、参拝者は倍増し、発展している。まさに三類の強敵が競い起る状況である。私は、春よりこのかた災いをはらうことを三宝に祈って誓いを立てること三度。仏天は哀愍を垂れ病魔をもって法敵に代えた。いわゆる転重軽受とはこのことである。 憂うことはない。憂えてはならない」
 同じく8月1日、君子は死して財を残さずと言って、所持の衣類や道具を取り出だし死後の遺物として、すべて帳面に記し札を付け終わって狂歌一首を詠んだ。
「丸裸 露の身こそは 蓮の葉に 置くも置かぬも 自由自在に」
 また、納所(なっしょ:庶務を行う部署)に二首の狂歌をもって蕎麦を求めた。
「古蕎麦粉 棒の如きは 否に候と かなき我れを うちや殺さん
挽きたての 糸のこときの 蕎麦そよき 我が命をは つなき留むれ」
 夕方に風呂に入って上がり終わって両足を伸ばし、病中に痩せたすねの細さよと言って、また一首を詠んだ。
「痩こけて 力なくとも よも負けし いさ来い蚊との 臑をしをせん」
 詠じ終わって、何と無く吟じて言った。
「天下道 ある時貧しきは 恥なり 天下道 なき時富めは恥なり」と、この吟詠は深い意味がある。以前の六巻抄のことを思うべきである。詳しくは別紙のごとし。
 日寛上人は、発病の始めより終焉の砌に至るまで、更に病気による苦しみはなかった。ただ日々に衰えるのみであった。
 遷化される一両日には、その前に暇乞いに巡るからと言って、三衣(法衣・袈裟・数珠)を著し、寝所より駕籠に乗り、輿の前に香炉を台に置き香をつまむ。
 お伴には駕籠かきとして四人の僧侶が付き、宣雅と覚隆の両人は履物取り等である。
 始めは本堂に詣で輿に乗ったまま、堂の外陣に担ぎ上げられて、しばらく読経・唱題を行った。
 次に廟所に参詣し、続いて日宥上人の隠居所である寿命坊や学寮に寄り、いずれも輿の中より懇(ねんごろ)に暇を乞い寺中を回る。老いも若きも家から出て跪いて、慈しみや恵みが絶えることを嘆く。
 市場村に行き、日永上人の妹妙養日信尼に逢い、門前町通りを経て大坊へ還られた。男も女も街道に伏して永く別れる憂いを懐いた。
 また、大工である桶職人に命じて葬式の具である棺桶を造らせて、自ら棺桶の蓋を取って言った。
「桶をもって棺(ひつぎ)に代える。
 空(くう)を囲みて 桶を為(つ)くる 空は即ち 是れ空 桶は即ち 是れ仮 吾れ其の中にあり 日寛判」
「死ぬるとは 誰か言ひそめし 呉竹(くれたけ)の よよはふるとも 生き留まる身を」
 弟子に告げて言った。
「この文を入棺の時に三回唱えて蓋をしなさい」
 同じく18日の夜に大漫荼羅を床(とこ)の上に掛け奉り、香華燈明を捧げ、侍者に告げて言われた。
「私は、まさに今夜中に死ぬであろう。決して慌ててはいけない。騒がしくすると大事なことを間違えるものである。息が絶えてのちに各所に知らせること。一人か二人の他はそばにいてはならない。読経・唱題のほかはしゃべってはならない。 臨終の時は舌の根元が固くなるため、私と一緒に題目を十分にゆっくりと「経」の発音を伸ばして唱えること」
 その時に、紙と硯を取り寄せて自ら筆をとって末期の一偈一首を書く。
「本有の水車 凡聖常に同じ 境智互に薫し 朗然として 終に臨む
 末の世に 咲くは色香は 及はねと 種は昔に 替らさりけり、日寛判」
 書き終わって侍者に命じて言った。
「蕎麦を作ってくれ。冥途の出立にふさわしい」
 侍者は直ちに用意した。
 日寛上人は、これを七箸食してにっこりして一声笑って言った。
「ああ、面白や寂光の都は」
 そして口をすすいで、大漫荼羅に向い一心に合掌して題目を皆で唱えて、身体を少しも動かさず、半口にして、なお眠るように安祥として入滅された。
 この時、享保11年丙午(ひのえうま)8月19日の朝、辰の上刻(7:00~7:40)であった。62歳であった。僧俗の悲哀と懊悩は計ることができないほどである。
 同じく20日の午前10時頃に沐浴をして寝台に載せ、奥殿の上段に安置し最後の御供養を供え、集まった檀家たちに拝せさせた。
 同日の午後4時頃に入棺して客殿に移し、昼夜に読経唱題が止むことがなかった。
 同じく23日の未の上刻(13:00~13:40)に葬儀を行った。その樣子は全く日蓮大聖人や日興上人と同じであった。
 遺言にしたがって、墓を師範であった日永上人の左の方に並べ経蔵の後ろに築いた。
 およそ在世の高徳(釈尊)は概ねこのようであり、滅後の神仏の不思議で測り知れない力のあらわれは、なお新たにして憐れみや利益は広大である。
 そもそも日寛上人の平素の行動を考えると、午前6時からの勤行、毎日のお堂参り、絶えることがない化導と訓諭、常住御本尊の書写、これを修するに懈ることなく、これを行するに怠りがない。 これを地涌の菩薩の一類ではないと誰が言おうか。実に地涌の菩薩である。誠に仏家の棟梁であり、釈門(迹門)の枢揵(すうけん:扉を開く取っ手のこと)である。
 そうはいっても、他の命に支えられている人間のはかない夢を払って、生滅のない悟りの世界へ昇られる。
 このようなことがあって、日月が早く移って三万六千日がたち、星霜は少し積もって、まさに今年の秋に百遠忌の命日を迎え、利益を永きに亘り増して、威光を万代に輝かせるために、愚かで道理が分からないことを考えないで、心を込めて日寛上人の伝記を記録し、山のような恩や海のような徳に対してわずかでも感謝するものである。
 仰いで願うことは、この丁寧な志に応えて、日寛上人の尊霊が哀れんで情けをかけて受け入れてくださり、慈悲と恥を耐え忍んで、心を動かさない功徳を回してくださることを。
 この記録を見聞した信者が、現在と未来にわたる祈願を悉く満足させてください。
 重ねてお願いする。長寿であり日寛上人の名が広まり宗門が発展して日寛上人が前々から抱いている考えにかなっているとおり、世界の広宣流布と利益が遍ねく行き渡ることを。
 この時は文政8年乙酉(きのととり)の春分の日である。
法嫡48世久遠阿遮梨本寿院日量 花押

 編纂者が言うには、正本は無く二・三回の転写文によって仮名交じり文にした。

 
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