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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

所作仏事ー臨終と葬儀

臨終-葬儀-墓所-追善供養

臨終の大事

先ず臨終を習ふべし
 日蓮大聖人の仏法は、三世にわたる生命の実相を説き明かし、一切衆生を成仏に導く最極円満の教えです。
『上野殿後家尼御返事』に、
「い(生)きてをはしき時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり」(御書336)
と仰せのように、私達は大聖人の仏法を信仰し、仏道修行に励むことにより、現当二世(現世と来世)の即身成仏を果たし、また故人をも救うことができるのです。
 現代の人々は、死を不吉なものとして恐れ、考えることを避けているように見えます。しかし、大聖人が『妙法尼御前御返事』に、
「人の寿命は無常なり。出づる気(いき)は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚(なお)譬(たと)へにあらず。かし(賢)こきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(御書1482)
と御教示されるように、生を受けた者は必ず死を迎えるのですから、まず臨終について学ぶことが大切です。その上で「生きる」ことについて考えるならば、有意義な人生とは何か、どのように生きればよいのかということを真剣に思索し、ひいては妙法の信行に励んで即身成仏を果たすことができるのです。

臨終の相
大聖人は『妙法尼御前御返事』に、
「大論に云はく『臨終の時色黒きは地獄に堕つ』等云云(中略)天台大師の摩訶止観に云はく『身の黒色は地獄の陰を譬ふ』等云云(中略)大論に云はく『赤白(しゃくびゃく)端正なる者は天上を得る』云云」(御書同1482)
と諸論を引かれ、また、
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる(中略)善人は(中略)色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる」(千日尼御前御返事・御書1290)
と仰せられて、臨終における成仏・不成仏の相について御教示されています。私達は、人生の最期に安らかな臨終の相を現すことができるよう、不退の信行を貫いていきましょう。

臨終正念
 最期まで妙法の信心に住し、南無妙法蓮華経と唱えて死を迎えることを臨終正念と言います。第26世日寛上人は、臨終について多念の臨終と刹那の臨終を示されています。
@多念の臨終
日寛上人は、
「多念の臨終と云ふは日は今日、時は唯今(ただいま)と意(こころ)に懸けて行住坐臥に題目を唱ふるを云ふ也(中略)臨終の一念は多年の行功(ぎょうく)に依(よ)ると申して不断の意(こころ)懸けに依る也」(臨終用心抄・富要3−259)
と御指南されています。
 木が倒れる時には、必ずその木が傾いている方向に倒れます。これと同様に、私達は常日ごろから不断の信行を積み重ねておくことによって、いざという時に自然と題目を唱えることができるのです。普段から唱題をしない人が、臨終の時だけ題目を唱えようとしても無理というものです。大聖人が『生死一大事血脈抄』に、
「臨終只今にあり」(御書513)
と仰せのように、私達は平生から臨終の心構えを持って唱題に励んでまいりましょう。

A刹那(せつな)の臨終
 日寛上人が、
「刹那の臨終と云ふは最期臨終の時也、是れ最も肝心也」(臨終用心抄・富要3−259)と仰せのように、刹那の臨終とは、まさに臨終の一瞬を言います。
 大聖人が『妙法尼御前御返事』に、
「最後臨終に南無妙法蓮華経ととな(唱)へさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(御書1483)
と御教示されるように、この臨終の刹那に平生の仏道精進が一遍の題目となって現れれば、即身成仏は疑いありません。
 また日寛上人は『大智度論』を引かれて、
「臨終の一念は百年の行力に勝れたり」(臨終用心抄・富要3−268)
と仰せられ、臨終に唱える題目の功徳は、計り知れないほど大きいと御指南されています。

臨終に心を乱すもの
 臨終には、様々な障礙(しょうげ)が正念を妨げるため、臨終正念は容易ではありません。日寛上人は、臨終に心が乱れる理由を三点、示されています。
@断末魔の苦の故
 諸経論には、人が息を引き取る時に、断末魔の風というものが体内を吹き抜け、千の刀に身を刺されるような苦しみを受けると言われています。これは、生前に非難することを好み、人の心を傷つけることによるとされ、善業のある者は苦悩が少ないとされます。
 日寛上人は、断末魔の苦によって心を乱されない用心として、普段から他人を非難して傷つけないよう心掛けること。我が身は地水火風の四大が仮りに和合した存在であり、この四大が法界に帰るのが死であると覚悟すること。常に御本尊と境智冥合する唱題行に励むこと、が大事であると御指南されています。

A魔障の故
 大聖人が『治病大小権実違目』に、
「三障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時具(つぶさ)に起これり(中略)御臨終の御時は御心へ(得)有るべく候」(御書1238)
と仰せられ、また『兄弟抄』に、
「魔競はずば正法と知るべからず」(御書986)
と仰せのように、正法を信仰する私達が臨終を迎えようとする時に、成仏させまいと魔が競い起こるのは当然とも言えます。
 日寛上人は、臨終に際して、たとえ諸仏が迎えに来るような善相を見てもむやみに喜ぶことなく、逆に諸悪が身に迫ってこようとも恐れることなく、ただ心静かに題目を唱えることが大事であると教えられています。

B妻子眷属の歎きと財宝等に執着する故
 遺族が大切な家族の死を悲しむのは当然のことですが、いたずらに歎き悲しむ声は、臨終者の心を乱してしまいます。説話には、臨終の際に妻を哀れんだ者が、死後に妻の鼻の中に住む虫に生まれたり、隠した財宝を思いながら死んだ者が、死後その財宝に巣くう蛇と生まれたことなどが伝えられています。
 大聖人は『上野殿後家尼御返事』に、
「故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑ひなし。さのみなげき給ふべからず。又なげき給ふべきが凡夫のことわりなり」(御書338)
と仰せられています。妙法の信仰を貫いた人は、御本尊の大功徳によって必ず成仏を遂げることができるのですから、家族は、当人が安らかに成仏できるよう、共に題目を唱えることが肝要です。
 なお財産等については、生前に遺言等を用意して心残りのないようにしておき、また家族は、臨終者が執着する物を当人に見せないよう留意しましょう。

臨終の作法
 臨終の時には、だれしも冷静になることが難しいものです。したがって当人・家族共に、その時になって困らないように、前もって臨終の正しい作法を心得ておくことが大切です。
 ここでは、第26世日寛上人の『臨終用心抄』『妙法尼抄記』の御指南より、正しい臨終の作法を学びます。
 臨終の状況は様々ですから、必ずしも御指南の作法通りにできない場合もありますが、可能な限り準ずるよう努めることが大切です。なお、臨終に際しては、できる限り早い段階で所属寺院に連絡し、御住職・御主管の指示を仰ぎましょう。

@臨終を迎える場所は清浄にし、御本尊を安置して香華や灯明を供えることが理想です。自宅では御本尊を安置している部屋が望ましいでしょう。

A臨終を迎える人が、様々な障礙(しょうげ)に襲われて題目を唱えることを忘れないように、そばにいる人が勧めてあげることが大切です。
日寛上人は、
「其の勧め様は唯(ただ)題目を唱ふる也」(臨終用心抄・富要3−264)
と仰せられ、枕元で、当人の呼吸に合わせてゆっくりと唱題することが、臨終正念を勧めることになると御指南されています。
 このことから、私達が元気なうちから、「臨終の時には題目を唱えるよう勧めてほしい」と家族に頼んでおくことも、臨終正念のための大事な用心の一つと言えます。

B当人のそばでは、特に当人が腹を立てたり、執着しそうな話は厳に慎むべきです。

C当人が何か質問してきたら、当人の心を乱さないよう注意して返事をします。

D当人の目に触れる所に、日ごろから大切にしていた物等、気を引きそうな物を置かないようにします。

E当人に対し、「様々な想いが起こってきても、何事も夢のようなものと思って忘れ、南無妙法蓮華経と唱えましょう」と唱題を勧めます。

F当人が好まない人は、近づけないようにします。また、見舞いに訪れた人のことを、いちいち当人に伝える必要はありません。

G騒々しくなって当人の心を乱さないように、枕元に付き添う人数は、なるべく多くならないようにしましょう。

H肉類や五辛(にら・にんにく・はじかみ・ねぎ・らっきょう)など、臭いの強い食物を食べた人や酒に酔った人は、親しい人でも当人に近づけないようにします。

I時折、脱脂綿等に水を含ませ、少しずつ当人の口をうるおしてあげます。

Jいよいよ臨終と思われる時には、当人に御本尊を拝させ、耳元で「日蓮大聖人が迎えにきてくださいます。題目を唱えましょう」と勧め、当人の呼吸に合わせて一緒に唱題をします。

K断末魔の苦しみが起こった時には、指を一本触れただけでも、大きな岩を投げつけられたほどの苦痛を受けるとされますから、臨終を看取る人は、けっして荒々しく介護をしてはいけません。当人が臨終の時に瞋恚を起こせば、悪道に堕ちる原因となってしまいます。

 以上、臨終の作法に関する御指南を挙げましたが、日寛上人はその心得について、
「総じて臨終の時には、当人に御本尊以外は見せるべきでなく、妙法の声以外は聞かせるべきでない」(臨終用心抄・富要3−265取意)
と御指南されています。

日寛上人の御遷化
 享保11(1726)年の春、既に御自身の臨終が近いことを悟られていた日寛上人は、江戸の僧俗に対する『観心本尊抄』の御講義終了に当たり、たわむれのように、
「羅什三蔵の舌が焼けなかった故事にちなんで、日寛も一つ言い残すことがある。私は臨終の時に、好物である蕎麦を食べて唱題をするうちに死ぬであろう。もしその通りにならなければ、私の言葉は信じなくてよい。しかし、もしその通りになったときは、私の語った法門は宗祖大聖人の御意と全く違わないと思いなさい」(日寛上人伝17取意)
と仰せられました。
 同年3月、総本山に帰られた日寛上人は、5月に第28世日詳上人に金口嫡々の血脈相承をあそばされ、徐々に衰えるお身体をおして、総本山および後代の御法主への寄金、五重塔の造営基金の準備、常唱堂の建立など、後事の手配をすべて済まされました。
 そして、同年8月、法衣を着て駕篭に乗られ、御影堂・墓所で読経・唱題されたあと、時の御法主日詳上人、御隠尊日宥上人をはじめ有縁の方々に別れの御挨拶をなされ、職人に棺桶を造らせました。
 8月18日の深夜、日寛上人は侍者に命して御本尊を奉掲し、香華灯明を捧げて、間もなく死を迎えることを告げられ、臨終に際しての指示をされたあと、末期の一偈一首を認められました。
「本地水風 凡聖常同 境智互薫 朗然臨終(本地の水風 凡聖常に同じ 境智互に薫じ 朗然として終に臨む)」(日寛上人伝29)
「末の世に 咲くは色香は 及ばねど 種はむかしに 替らざりけり」(日寛上人伝29)
 そして直ちに蕎麦を作るよう命じられ、侍者が蕎麦を差し上げると、それを七箸召し上がり、にっこりと笑みを含まれて、
「ああ面白きかな寂光の都は」(日寛上人伝30)
と仰せられました。その後、うがいをされて御本尊に向かわれ、一心に題目を唱え、翌19日辰の刻(午前8時)、半眼半口にして眠るように、安祥として御遷化あそばされたのです。
 このように、日寛上人は御遷化に際し、生前の御自身のお言葉が正しいことを証明されるとともに、後世の私達に臨終正念の大事を示されたのです。


日蓮正宗の葬儀

 世間では、葬儀を営む際の宗旨はなんでもよいと、簡単に考えている人が多いようです。
 しかし、故人が今世の生涯を終え、来世に臨む境目となる時に営まれる葬儀は、故人の成仏・不成仏を左右する大切な儀式です。したがって、この儀式を執り行う宗旨を「なんでも構わない」と考えることは誤りです。
 私達は、正しい宗教、すなわち仏教の肝要である寿量文底下種の南無妙法蓮華経によってのみ、故人の成仏と、来世の幸福がかなうことを知らなくてはなりません。
 かつて、葬儀の在り方について、第9世日有上人は、
「霊山への儀式なるが故に、他宗他門・自門に於いても同心なき方をばアラガキ(荒垣)の内へ入るべからず、法事なるが故なり」(化儀抄・聖典981)
と御指南され、本来は、謗法・異信の人は入れず、異体同心の人によって執り行われていました。
 私達は、この日有上人の御指南を体した上で、生前にできる限り親族を折伏して正しい信心を持たせることが大事です。また現代は、未入信の会葬者が多いこともあり、正法正義に基づく葬儀を見せて折伏に努めることが大切となるのです。

故人が未入信の場合
日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「今日蓮等の類(たぐい)聖霊を訪(とぶら)ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ」(御書1724)
と仰せられ、正法を信仰する人が追善供養のために読経・唱題するならば、その題目は光となって最底の地獄である無間地獄まで届き、故人を即身成仏させることができると御教示されています。
 このように、たとえ故人が末入信であっても、願主となる遺族が本宗信徒であれば、本宗の葬儀を行って、故人を即身成仏に導くことができるのです。

遺族が未入信の場合
 次に、故人は本宗の信徒で、遺族が未入信の場合について、日有上人は、
「縦(たと)い昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主等が無くんば仏事を受くべからず、但し取骨(しゅこつ)までは訪(とぶ)ろうべし」(化儀抄・聖典989)
と御指南されています。つまり、信心を受け継ぐ子女がいない場合、故人の生前の信心により、枕経・通夜・葬儀・火葬・収骨(骨上げ)までは、本宗で執り行うことができますが、それ以降の追善供養の法要は、執り行うことができません。
 追善供養は遺族が願主となって行うもので、その遺族が未入信ならば、謗法者からの願い出となり、受け付けることができないのです。
したがって、生前における法統相続がまことに大切となるのです。

導師御本尊について
 葬儀の際に奉掲される導師御本尊は、故人を即身成仏に導いてくださる御本尊です。
 大聖人は『妙法曼陀羅供養事』に、
「此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文なり。冥途にはともしびとなり、死出の山にては良馬となり、天には日月の如し、地には須弥山の如し。生死海の船なり。成仏得道の導師なり」(御書689)
と御教示されています。

導師は大聖人の御名代
 葬儀には、所属寺院より僧侶を導師としてお迎えします。
 大聖人は『上野殿御返事』に、
「とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ(中略)御臨終のきざみ、生死の中間(ちゅうげん)に、日蓮かならずむか(迎)いにまいり候べし」(御書1361)
と御教示されています。この御文について、第59世日亨上人は、大聖人の御弟子である僧侶が御名代として葬儀の導師を勤められることが、大聖人が迎えにきてくださる意義に当たることを御指南されています。
 私達は、導師を大聖人の御名代と拝してお迎えすることが肝要です。

地域の風俗・習慣やしきたり
 葬儀に関わる風俗や習慣、しきたりも、地域によって様々です。
 それらのうちで、他宗の教えを起源とするものについては、私達は本宗の謗法厳誡の上から厳格に排除しなければなりません。しかし、謗法でない事柄は、地域の習慣を用いることもあります。
 大聖人は『月水御書』に、
「仏法の中に随方毘尼(ずいほうびに)と申す戒の法門は是に当たれり。此の戒の心は、いた(甚)う事か(欠)けざる事をば、少々仏教にたが(違)ふとも、其の国の風俗に違(たが)ふべからざるよし、仏一つの戒を説き給へり」(御書304)
と仰せられ、地域の習慣等が仏法に由来しないものであっても、謗法に当たらなければ用いても構わないと御教示されています。

末期(まつご)の水
末期の水とは、臨終を迎えようとする時、その口に含ませる水のことで、死水(しにみず)とも言います。
 一般には、臨終者とのつながりの深い人から順に、樒(しきみ)の葉や脱脂綿等に水をつけ、軽く唇をうるおす程度に含ませます。

通夜・葬儀の準備
@寺院への連絡
 故人が息を引き取ったならば、まずその旨を所属寺院に連絡し、今後の予定等について相談しましょう。

A葬儀社との打ち合わせ
 今日では、通夜・葬儀の準備、進行等を葬儀社に依頼するのが一般的となっています。
 葬儀社と日程や式場・斎場(火葬場)・式次等を打ち合わせる時に、必ず日蓮正宗の化儀による葬儀を執り行うことを伝えます。必要ならば、葬儀社から寺院に連絡してもらい、指示を受けましょう。

B枕経
 当人が息を引き取ったあと、北枕に直し、図のように枕元に経机・三具足・鈴を調え、枕経を行います。

 枕経は、御住職・御主管を導師にお迎えし、導師御本尊を奉掲して行うのが本来の在り方です。たとえ、そのようにできない場合でも、遺族によって枕経を修するようにしたいものです。
 「北枕」
 遺体を、頭を北に向けて寝かせることを北枕と言います。釈尊の涅槃の姿が、頭を北に向け、右脇を下にして臥した姿勢であったと伝えられることが起源のようですが、本宗に
おいては、御本尊が南面して御安置される故であるとも拝されます。もし、部屋の状況等で北枕にできない場合には、必ずしも固執する必要はありません。
「枕飾り」
一般に枕飾りは、三具足に加え、故人のための水、一膳飯、また地域によっては枕団子を供えます。一膳飯は、御飯茶碗に御飯を丸く盛り付け、箸をまっすぐに立てたものです。枕団子は、三方や皿に半紙などを敷き、その上に小さな白い団子を中高(なかだか)に盛ったものです。
 以上、基本的な事柄を述べましたが、詳しくは所属寺院に指導を仰いでください。

C喪主の決定
 喪主は、一般的に通夜・葬儀の際、遺族・親族を代表して弔問者に挨拶をします。
 喪主は、相続人の代表が務めるのが通例ですが、相続人が未入信の場合には、なるべく入信者に代わってもらいます。それが不可能な場合には、願主(信仰上の立場)と喪主(世間的な立場)を分けることもあります。

D日程の決定と寺院への申し込み
葬儀社を通して式場や斎場(火葬場)の都合等を確認した上で所属寺院に連絡し、葬儀の申し込みに行きます。
 申し込みには、故人の名前、生年月日等が必要であり、白木の位牌(葬儀社から受け取る)をお持ちします。
 葬儀と同日に初七日忌の法要を繰り上げて行う場合は、塔婆を申し込みます。また、事情により導師御本尊を一時お貸し下げいただく場合は、講中の責任者と共に寺院に伺います。
 その他、葬儀に際しての御供養の方法や導師の送迎など、所属寺院の指示を仰ぎましょう。
 こののち、親族・友人・知人等に葬儀の日程を連絡します。

湯潅と納棺
 湯潅とは、納棺の前に故人の遺体を湯浴みさせることですが、今日では、お湯やアルコールを用いて、近親者の手で遺体を拭き清めることが一般的となっています。この際、経帷子(きょうかたびら:木綿の白衣)を着せるのが慣わしですが、清潔な浴衣でもよいでしょう。
 湯潅ののち、遺族・親族の手によって、唱題のうちに遺体を棺に納めます。故人の手を胸の上で合掌の形にして、数珠をかけさせます。

祭壇の設置
 式場や祭壇は、地域の慣習や故人の社会的立場によっても異なりますが、無理をして豪華なものにする必要はありません。
 この際、故人の写真等によって、導師御本尊や位牌が隠れることのないように注意しましょう。
 導師御本尊の奉掲後は、その部屋での飲食・喫煙・雑談等は慎むべきです。
 なお、七本塔婆、門牌、大幡(ばん)、小幡、銘旗(めいき)などの要否は、地域の慣習によればよいでしょう。

色花の扱い
 本宗では、常緑樹である樒を御宝前に供え、色花(生花)は供えません。あらかじめ葬儀社には、必ずその旨を伝えましょう。一般の人から色花を贈られた場合は、祭壇以外の場所に置くようにします。

導師の控え室を準備
式場には、導師が法衣に着替えられる控え室を準備します。導師が到着されたら控え室にお通しして、遺族が御挨拶します。式が終了し、導師が控え室に戻られたら、遺族が御礼の御挨拶をします。

通夜
 通夜とは文字どおり、夜通し読経・唱題をして故人の冥福を祈ることですが、現在では、導師による読経・唱題が午後7時前後に行われるのが通例となっています。
その後、親族や知人等が、さらに読経・唱題を行うこともあります。
 通夜の基本的な式次は次のとおりです。
一、喪主、親族等着席
一、導師出仕
一、読経
一、焼香
     (寿量品に入ったら導師に続き、喪主・遺族・親族・会葬者の順で行う)
一、唱題
一、観念・回向
一、題目三唱
一、導師退座

葬儀
葬儀は通常、通夜の翌日に行います。
葬儀の基本的な式次は次のとおりです。
一、喪主、親族等着席
一、導師出仕
一、読経(方便品・寿量品長行)
一、焼香
 (寿量品に入ったら導師に続き、喪主・遺族・親族・会葬者の順で行う)
一、弔辞・弔電披露
一、読経(自我偈)・唱題
一、観念・回向
一、題目三唱
一、導師退座

別れ・出棺
 葬儀が終わり、導師御本尊を奉収したあとに出棺となります。唱題のうちに、導師・喪主・遺族・親族・会葬者の順に、棺に樒の小枝を入れて故人とお別れをします。
 なお、葬儀に使用した樒は、その後、御本尊に供えることはできません。

葬儀と告別式
 葬儀は、御本尊に故人の即身成仏を祈る信仰上の儀式であり、告別式は、生前、故人と縁のあった人々が別れを告げる世間的な儀式と言えます。今日では、葬儀と告別式を兼ねる場合が多くなっていますが、事情によって葬儀とは別に告別式を行うこともあります。このような場合でも、本宗の化儀に反しないよう、注意しましょう。

葬儀は故人の折伏の場
 弔問に訪れた会葬者が、本宗の化儀に則った厳粛な葬儀に接し、また故人の安らかな成仏の姿を目の当たりにすることは、故人が最後の折伏をしている姿であると言えます。遺族・親族は、故人の最後の折伏をお手伝いするという気持ちで、厳粛な儀式となるよう努めましょう。

火葬(荼毘)
 火葬の時は、棺を火炉に入れ、荼毘の準備ができたら、通例として、炉前で読経・焼香・唱題を行います。
 収骨(骨上げ)の際には、唱題のうちに遺骨を取り上げます。
 なお、火葬のあとに、初七日忌法要を繰り上げて行う場合もあります。
 葬儀後は、自宅の仏壇の横等に精霊台をしつらえて遺骨を安置し、七七日忌(あるいは五七日忌)の法要が終わって納骨するまで、白木の位牌を安置し、御本尊のお給仕とは別に、精霊にも三具足と水・御飯等のお供えをします。

葬儀後の回向−塔婆供養と法事−
葬儀のあと、初七日忌より七七日忌(四十九日忌)まで、七日ごとに寺院に参詣して塔婆を建立し、追善回向をします。
 一般に、初七日忌と七七日忌(または五七日忌)には寺院において、あるいは自宅等に
僧侶を迎えて法事を営みます。
 法事は故人の忌日に行いますが、当日に都合のつかない場合は、遅れることのないよう
に繰り上げて行いましょう。前もって寺院に日程を相談し、申し込みをします。
 法事を自宅で営む場合は、御本尊に仏供(仏飯)と御造酒(おみき)・菓子・季節の果物等をお供えし、精霊用のお膳があれば、肉や魚のほか、五辛(にら・らっきょう・ねぎ・にんにく・しょうが)を避けて精進料理を供えます。
 その後の法事には、百カ日忌・第一周忌・第三回忌・第七回忌・第十三回忌・第十七回忌・第二十三回忌・第二十七回忌・第三十三回忌・第五十回忌等があります。

戒名
 戒名は本来、仏法に帰依した時に授けられるものですが、今日では、死後、葬儀に当たって授けられるのが一般的となっています。
 他宗では、布施の多寡によって戒名が決められるようですが、本宗では葬儀に際し、あくまで故人の生前の信心に基づいて戒名が授けられます。
 葬儀以降、遺族・親族が故人の追善供養をする時には、戒名をもって行います。

位牌
今日、一般的には、位牌に故人の魂が宿っていると考えている人が多いようです。
 しかし、位牌の起源は、中国の儒家において、葬儀の際に故人の世間的地位を知らせるため、葬列の先頭で故人の官位・姓名を書いた札を捧げ歩いたことにあるとされています。
 このことからも解るように、位牌に故人の魂が宿っているのではありません。また、礼拝の対象ともならないのです。
 日蓮大聖人は『千日尼御返事』に、
「故阿仏房の聖霊は今いづくむにかをはすらんと人は疑ふとも(中略)多宝仏の宝塔の内に、東むきにをはすと日蓮は見まいらせて候」(御書1475)
と仰せられています。すなわち、即身成仏を遂げた故人の生命は、三大秘法の御本尊に帰入して、安穏な成仏の境界に住するのです。
 よって本宗では、葬儀に際し、所属寺院の御住職・御主管が認められた白木の位牌を供えますが、五七日忌(三十五日忌)あるいは七七日忌(四十九日忌)の法要が終わって納骨したあと、その位牌は寺院に納め、自宅の過去帳に戒名を記載していただきます。その後、自宅では新たに位牌をしつらえて祀(まつ)ることはしません。

墓所(むしょ)
 法華経如来神力品第21には、
「当知是処。即是道場(当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり)」(法華経514)
と説かれています。すなわち、法華経の行者の修行する所は、どこであっても道場であるとの意味であり、これを基として墓所について考えるならば、妙法の信者の墓所も、そこが即身成仏の道場であると言えるのです。
 世間では、墓相などと言って、墓の向きや形状、造り方等について様々な迷信が横行していますが、本宗の化儀に則った墓であれば、そのようなことを気にする必要はありません。
 不明な点がある場合は、寺院に相談しましょう。

墓石に刻む題目の染筆・開眼供養
 本宗の墓石には、御法主上人、または所属寺院・教会の御住職・御主管が認められた題目を刻みますから、題目の染筆を必ず所属寺院に願い出ましょう。題目を刻む石の大きさを決め、墓石の大きさに切ったトレーシングペーパー・模造紙等を二、三枚、寺院に持参し、染筆を願い出ます。
 寺院より題目の染筆が下付されたら、石材店に依頼して竿石(さおいし)に刻んでもらいます。題目の染筆は使用後、寺院に納めてください。

 

なお、墓石の題目の上には、家紋や「○○家之墓」などの文字を刻んだりしてはいけません。
 墓石の完成後に寺院にお願いし、開眼供養を行います。これは埋葬(納骨)と同時に行うこともできます。

墓誌・塔婆立ての設置
 墓石のそばに、埋葬されている故人の戒名・俗名・死亡年月日・行年等を記した墓誌(石板)を建てる場合があります。
 また墓参の際に塔婆を立てるため、墓石の後方に塔婆立てを設置し、塔婆が風で倒れないようにするのがよいでしょう。

墓参の心得
 先祖や故人の精霊に対する追善供養は、御本尊に向かって読経・唱題して得た功徳を、精霊に回向することが本義です。したがって墓参の際には、直接墓地に行くのではなく、まず寺院に参詣し、御本尊の御宝前に塔婆を建立して塔婆供養をしたあと、その塔婆を持って墓所に参るように心掛けましょう。

墓参は三師塔から
 第9世日有上人は、三師塔(宗祖日蓮大聖人・第2祖日興上人・第3祖日目上人の五輪塔)が建立されている墓地に墓参する際には、師弟相対の意義の上から、まず三師塔へお参りし、そのあとに有縁の墓地へ参るべきであると御指南されています。
 墓所における読経・唱題は、方便晶・自我偈・題目、または自我偈・題目を唱えます。
 墓参における焼香は、読経の前に火のついた線香を全員に配っておき、読経・唱題中、導師、親族、その他の墓参者の順で香炉に供えます。

まとめ
 大聖人は『上野殿後家尼御返事』に、
「いかにもいかにも追善供養を心のをよ(及)ぶほどはげみ給ふべし」(御書338)
と仰せられています。
 私達は、三大秘法の御本尊のもとで信心修行に励んだ功徳を故人に回り向かわせることが、故人を成仏の境界に導く正しい追善供養であることを心得て、 真心を込めて追善供養に励んでまいりましょう。

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