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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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学会問題の経過と往復文書

(大日蓮号外、平成3年1月25日発行)



目  次

「号 外」の発刊に当たって  経過説明   日蓮正宗総監 藤本 日潤   

① 宗務院より創価学会宛の 第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね(平成2年12月13日付)

② 創価学会から宗務院への九項目の「お伺い」(平成2年12月23日付)

③ 宗務院より創価学会への「通知」(平成2年12月26日付)   

④ 宗務院より宗内教師宛に発せられた「急告」(平成2年12月28日付)

⑤ 創価学会から宗務院への返書 (平成2年12月28日付)   

⑥ 創価学会からの「お伺い」書に対する宗務院の返書(平成2年12月29日付)

⑦ 宗務院より創価学会への返書(平成2年12月30日付)   

⑧ 宗務院よりの「お尋ね」に対する創価学会からの回答(平成3年1月1日付)

⑨ 創価学会からの「『お尋ね』に対する回答」についての宗務院よりの指摘(平成3年1月12日付)

⑩ 宗務院より宗内僧侶宛に発せられた「急報」(平成3年1月15日付)


「号外」の発刊に当たって

 このたび、現時点における「学会問題の経過と往復文書」を一冊の本にまとめ弊誌の号外として発刊することとした。
 今般の創価学会問題は、当誌の巻頭に掲載した藤本日潤総監の「経過説明」に示されるように、池田大作名誉会長と、秋谷栄之助会長をはじめとする創価学会首脳の、甚大なる慢心によって引き起こされたものと言えよう。
 当誌には、平成2年12月13日付の、宗務院より創価学会宛の文書から始まって、平成3年1月12日付文書までの8通の往復文書と、それに関連しての、宗務院より宗内僧俗に発せられた2文書の、都合10文書を日付順に掲載した。
 このほかにも、聖教新聞に連日掲載している如く、創価学会からは多数の文書が宗務院等に届いているが、それらはおしなべて、根本から大きく外れた、いわば枝葉末節の論を大々的に展開しているにすぎないものである。つまり、「宗規の改正」や「テープ引用のミス」などを取り上げて、法律的にどうのとか、一連の措置の根底が崩れたなどと、あたかも鬼の首を取ったかのように喧伝しているが、今般の問題の本質はそのようなところにあるのではない。むしろ、根本を隠して枝末をあげつらう聖教新聞の論調は、創価学会首脳が等しく持つところの慢心と、姑息にして不正直な性質が露呈していると言えよう。
 読者諸賢におかれては、様々な情報に紛動されることなく、当誌に掲載した諸文書を熟読して今般の問題の経過とその本質を正しくご理解いただくとともに、唯授一人・血脈付法の御法主上人猊下に信伏随従して、いよいよ正法護持・信行倍増にご精進されるよう祈るものである。
   平成3年1月20日
                               大日蓮編集室


経過説明
                               日蓮正宗総監
                                藤本 日潤

 昨年末来の学会の問題の経過について、概略の御説明をさせていただきます。
 昨年夏の講習会の時、御挨拶の中で、学会との間に不協和音が生じている旨を申し上げましたが、具体的には申しませんでした。それは、それまでの間に、池田名誉会長の発言の中で、色々、不穏当な発言が風聞の形で入ってきていたからであります。しかし、いずれも風聞の域を出ませんでしたので、具体的な対応には至りませんでした。
 一方で、7月度の学会との連絡会議において、学会側から末寺の諸問題が集中攻撃の形で、一方的にまくし立てるような形で出されました。これがきっかけで、宗門の綱紀自粛へと進みました。
 この連絡会議の中で、学会は、前に名誉会長が猊下にお目通りの時に、一度は、ヨーロッパから帰国した時、猊下から立川寺院の建設が遅れていることについてお尋ねがあったのであります。それからもう一度は、名誉会長がアメリカから帰国して、お目通りの時、猊下から丑寅勤行の参加者のことについてお言葉があったのであります。
 学会はこれを取り上げて、「外国から帰ったばかりで疲れている名誉会長に、猊下から出る話ではない、連絡会議に出せばよいことだ」というようなことを言い出したのであります。これはまさに猊下の御発言を封ずるものであり、憍慢に当たるものであるとして、次の名誉会長、秋谷会長のお目通りの時に、猊下から御注意があり、たしなめられたのであります。ところが今度はそれを、猊下が権威を笠(かさ)に着てどなりつけた、と非難しているのであります。
 そして、次の8月度連絡会議の席で、学会側から名誉会長、秋谷会長が、猊下から「法主の発言封じは憍慢だ、謗法だ、懲罰にかける」とどなられた、として、その非をならしてきたのであります。
 あとで猊下にそれを御報告いたしましたところ、猊下は「憍慢謗法とは言ったが、懲罰云々は絶対に言っていない」と仰せられました。学会へその旨(むね)電話で伝えましたところ、秋谷会長は、最初は「猊下がそうおっしゃるなら、そうかも知れない」と納得した形でありましたが、その後、秋谷会長より私・藤本へ電話があり、「名誉会長はその日、帰りの車の中で八尋に『宗門の懲罰はどうなっているのか』と聞いているので、『懲罰』ということはたしかに言われた」と言い張ってきました。
 しかし、猊下は「絶対に言っていない」と仰せでありましたので、重ねて秋谷会長に電話でその旨を伝えましたところ、秋谷会長は「ああ、そうですか、恐れ入ります。申しわけありません。有り難うございました」と答えました。このような経緯で、学会側もこの間題は納得したものと思っておりましたところ、今回の問題の中で、九項目の非難の一つとして、またこの問題を蒸し返し、「懲罰だ」とどなられたとして、非をならしてきているのであります。全く反省のかけらもないと言うべきであります。
 さて、今回の問題は、こうした流れの中で、10月の開創七〇〇年慶讃大法要、初会、本会も無事盛大に奉修せられ、11月の総本山御大会の砌、名誉会長お目通りの時、猊下より、正信会問題を発言する時には、その原因となった学会の教義逸脱問題を忘れてはならない旨、また「権威・権力」という発言の問題等について、御注意や戒めがあったのであります。
 そして、12月の上旬ころになって、11月16日、第三五回本部幹部会における名誉会長スピーチの録音テープが手に入ったのであります。その中での名誉会長の発言は、新聞発表とはおよそ掛け離れた、猊下、宗門、僧侶を蔑視、軽視するひどい内容が含まれていることが判りました。
 宗務院としては、これは総講頭という、信徒を代表する、影響力の極めて大きい、責任重大な立場の人の発言でもあり、その内容から話し合いで解決できる性質のものではないと考えましたので、この内容について、問題の部分を六項目にまとめ、文書により「お尋ね」という形をもって、12月度の連絡会議の時に提出したのであります。
 ところが、秋谷会長は、出処不明のテープを元にして作成した文書は受け取れないとして拒絶いたしました。そこで宗務院は、他の会場の出席者から入手した他の数本のテープと照合して、このテープが改竄(かいざん)したものではないということを確認した上、12月16日、郵送をもって、この「お尋ね書」を学会へ送ったのであります。
 ところが12月24日、学会から文書をもって、六項目のお尋ねに対しては全く回答せず、かえって九項目にわたる不遜な「お伺い書」なるものを提出してきたのであります。
 その中で、先程の懲罰云々の蒸し返しと、さらに、7月21日、お目通りの時に、猊下が名誉会長に向かって、「学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか」と言われたとして、これを事実無根のことであるとして非難しております。ところが、猊下は全くこのようなことを仰せられておらず、事実無根のことを学会側が捏造して非難してきているということであり、本宗信徒としてあるまじき言動であります。
 宗務院といたしましては、この非礼な文書を受け取った時点で、学会は、宗門からのお尋ねに対して、全く誠意ある回答をする意志がないものと認め、その旨を学会へ通告し、しかして12月27日、臨時宗会を開いて、かねての懸案であった宗規の一部を改正施行したのであります。
 これは、法華講総講頭の任期が、宗制では、宗規において定める、としながら、宗規には定めがないので、これを今回、任期5年と規定し、大講頭その他の役員については従来の2年を3年と改め、また、附則によって、これまでの総講頭・大講頭の役にあった人の資格は喪失することとしたのであります。
 これについて、学会では、事前に何の連絡もなく突然の措置であり、陰湿で姑息だとか、また、学会よりも先にマスコミに流したのは不当だなどと非難しておりますが、本来、宗規の改正は、その内容が信徒に関わることであろうと、なかろうと、宗門独自に行うことであり、一切、信徒に事前に話し合ったり、連絡したりする必要はないのであります。しかも、このような状況のもとで、話し合いなどできるはずがないのであります。また、マスコミに対しては、宗門が事前に流したなどということは絶対にありません。マスコミの一部が、どこからか聞きつけて取材に来たので、特に拒否する理由もないため、応じたに過ぎないのであります。
 また、名誉総講頭の制度を廃止いたしましたが、これは、総講頭という役職そのものが名誉職に等しい役職でありますので、その上にさらに名誉総講頭の職を置くのは、屋上、屋(おく)を重ねるものであるということ、さらに、今回、総講頭の任期を5年と定めたことにより、従来のままであれば、将来、名誉総講頭が何人も出来てくるという不自然さが生ずる恐れもある、ということもありまして、今回、廃止したのであります。
 また、信徒の懲戒条項の中に、新たに「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき。」という一項が加えられました。これは、僧侶の懲戒条項にはありますが、信徒のほうには脱漏しており、これもかねてよりの懸案事項でありましたので、今回、併せてきちんと規定したものであります。
 日蓮正宗においては、信仰の上から、元々、御法主の尊厳性は冒(おか)すべからざるものであり、誹毀、讒謗はもとより、批判も許されるべきものではないのであります。故に、そのような不心得を戒め、そのような罪を冒させることのないよう、その防止を目的として、明確に規定したのであります。
 それを、言論封殺を狙(ねら)ったものであるとか、民主主義の時代に逆行するものであると解釈するのは、全く日蓮正宗の信心というものを知らないか、または失ってしまったものであり、気の毒としか言いようがありません。また、批判と誹毀、讒謗とは、どこがどう違うのか、とか、批判はどこからどこまでを批判というのか、などと言ってくるのは、そこに批判しよう、誹謗しようという心があるからに他ならないのであって、そういう質問をもってくる人には、その心を戒めてあげるべきであります。批判や誹毀、讒謗の解釈をしてあげる必要は全くありません。
 また、「我々は、11月16日のスピーチを聞いたが、全く不審な点はなかった、おかしいと思うことはなかった」と言う人がおります。連絡会議の時にも、学会側メンバーの人が「自分達も出席していたが、まずいなとか、おかしいなと思うことは一切なかった」と明言しておりました。私どもは、あきれると同時に、「あのスピーチを聞いて、おかしいなと思わない、ということ、それ自体がおかしいんだ」と言ってやりました。あのスピーチを平気で聞いていられる会員の信心というものは、既に日蓮正宗の信心ではなくなってしまっているということを、強く訴えていかなければならない、と痛感したものであります。
 また、正信会の僧侶が許されたのか、今後も許されるのか、という質問があります。この件について申し上げます。
 元正信会に属していた岩切寿英と原田篤道の二人が、三年から四年くらい前に、自らの非を認め、心から反省懺悔して、不法占拠していた寺院を明け渡し、在家として陰ながら寺院の仕事を手伝い、謹慎生活を続けて今日まで勤めてまいりました。この様子を御法主上人猊下がお聞きになり、開創七〇〇年という慶祝の年に当たって、本人が心から前非を悔い、反省し、また、許されるなら是非、僧侶に復帰を願っている、という心を御覧あそばされて、大慈大悲を賜り、必要な手続きを経て、12月17日、特赦の措置をとられたのであります。二人とも、来る1月11日から、白衣小僧として当分の間、大坊に在勤修行の上、末寺へ所化として数年間在勤し、しかるのち、元の僧階に復帰を許されるという予定になっておりますので、皆様方にはよろしく御理解の上、もし本人にお会いの節は、暖かく励ましていただきたいことをお願いいたします。
 なお、今後もそういうことが有るのか、ということに対しましては、私は、まず有りえないものとお答えしておきたいと思います。
 宗門の今の状況を見て、あるいは正信会側から末寺僧侶に接触を求めてくる可能性は大きいと思われますが、宗務院といたしましては、正信会の不逞の輩との接触は厳禁いたしますので、これは固く守っていただきたいと思います。
 次に、12月27日、総講頭失格ののちの経過につきましては、まず、宗務院といたしまして、先に学会より提出された不当なお伺い書、これは本来、当方よりのお尋ねに対する回答がない状況のままでは、答える必要のないところでありましたが、そのお伺いの内容が、余りにも信徒としてあるまじき内容でありますため、その戒めのためにも12月29日、この「お伺い」九項目に対する返書を出しました。同時に、宗務院から宗内教師各位に対し、これまでの学会との往復文書四点をセットにしてお送りいたしまして、実情の理解をお願いいたしました。
 一方、学会側から、宗務院の12月26日付書面に対する返書が到着いたしました。それに対して、宗務院からさらに学会へ、12月30日、テープの引用に誤りがあれば、その旨、指摘せられたい旨、書面を送りました。
 続いて、学会から12月30日付で、総講頭・大講頭資格喪失について、権威主義的であり、不当であるとする抗議の文書を宗務院へ出してまいりました。
 さらに、年が明けて1月3日に至り、学会側から宗務院宛に、最初の宗門からのお尋ね六項目に対する回答の文書が、ようやく到達いたしました。そこには、宗務院からのお尋ねの中における、テープ引用の誤りを指摘した部分を除き、全体的に、全く宗務院からの指摘に対する反省の色は見られず、すべて誤解であるとか、意味の取り違いであるとか称して、自らの非を全く認めようとしない反抗的な態度に終始したものであります。いずれ、これに対しては再び宗務院として、その非を指摘してまいりたいと考えております。
 また、その後、学会においては、聖教新聞によって大々的に反抗的な態度を表明し、末寺においては、年末から正月にかけて地元会員を動員して、面談、電話、手紙等によって、いやがらせ、あるいはおどしに近いようなやり方で反抗を示し、最近はまた、宗規改正にからんで、森田理事長の名をもって宗務院に対し質問書を出してくる一方、地元幹部を使って、末寺に同様の趣旨の質問状を突き付けてくるなどの、およそ信者とは思えない態度に終始しているという状況であります。
 日蓮正宗において、戒壇の大御本尊と血脈法水の尊厳というものは、時代の変化とは全く関わりなく、永遠不変の、動かすべからざる信心の根本であるということを、私どもは全学会員に強く訴え、また、名誉会長の非を糺(ただ)し、反省を促していくことこそ、これからの大事なことであると考えるものであります。
 そして、これは、どこまでも、我々は我々としての、僧侶の立場における、慈悲の精神を基本とする正法護持、令法久住の具体的な実践であると自覚して、御法主上人猊下のもと、一致団結して勇往邁進していくことを誓い合いたいと存ずる次第であります。
 今後の具体的方針としては、まず、基本は一切、宗務院の指示に従い、勝手な言動は厳に慎むことであります。その上で、当面の方針として、
 一、御講の席、その他の適当な場において、随時、名誉会長の誤り
  に対して反省を求め、また、一般会員の自覚を促す発言をしてい
  くこと。
 二、葬儀、法要の席などでは、行わないことを原則とするが、その場
  で質問を受けたり、説明を求められた場合には、時と場合を考え
  ながら、これに応ずること。
 三、会員よりの葬儀、授戒、婚礼、法要、その他の法務は、すべて従
  来どおり受け入れて執行すること。
 四、個々の会員に対する応対は、親切丁寧を旨とし、些かも粗暴な振
  る舞い等があってはならない。
 五、学会からの脱会者については、寺院の直属信徒、あるいは法華
  講員として受け入れていくこと。これは従前から定められていたこ
  とでありますが、今までは消極的な姿勢でやってまいりました。し
  かし、今後は積極的に受け入れてまいります。
  ただし、現に学会員である者に対して、脱会を勧誘することは固
  く禁じます。しかし、「どうしたらよいか」と相談に来た者に対して
  は、本人の意志によって脱会すれば、「受け入れてあげる」と答え
  て結構であります。
 それから、先程も触れましたが、
  六、正信会の輩との接触は厳禁いたします。
 以上、当面の方針として、この六点を申し上げておきますので、よろしくお願いいたします。今後は、必要に応じて文書その他の方法によって指示いたしますので、よろしく御承知願います。

 以上、経過説明ならびに当面の方針とさせていただきます。有り難うございました。

                  (平成3年1月6日の全国教師指導会から)


①宗務院より創価学会宛ての第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね

 創価学会会長
 秋谷 栄之助 殿

 去る12月13日の連絡会議の席上において、11月16日第三五回本部幹部会における池田名誉会長の発言に関するお尋ねの文書をお渡ししようといたしましたが、出処不明のテープを本とした文書は受け取ることができないとの理由にて受領を拒絶されました。
 宗務院として、このテープについて数本のテープと照合しつつ、厳密な調査をいたしましたところ、改竄されたものではないことが判明いたしました。
 さらに、11月16日のスピーチの全国衛星放送の会場に出席した信徒からも、手紙や電話によって、疑問や不信の声が、総本山・宗務院へ寄せられております。
 この問題は、極めて重要な内容を含んでおりますので、話し合いによる解決は不可能と考えます。
 よって、改めてこの文書を送達いたしますから、到達の日より7日以内に宗務院へ必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います。
                                      以 上
  平成2年12月16日

                          日蓮正宗総監 藤本 日潤

第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね

 創価学会会長
 秋谷 栄之助 殿

 この度、平成2年11月16日、第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチのテープを聞きました。
 それによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されていることがわかりました。しかも衛星中継をもって全国の学会員に放送するため、当日のテレビ放映と新聞の内容の違いに不審を抱いた学会員から、学会について行けない旨の手紙が寄せられております。確かにテープの中には、昭和53年六・三〇、一一・七等で確認されたことが、まったく忘れ去られている感もありますので、改めて拾い挙げてみました。何卒、責任ある回答を示されますよう、お願いいたします。

(一)御法主上人・宗門に関する件

1 「文化運動、ね。文化も一生懸命、今、仏法を基調にしてね、文化・平和。文化は要らないと、謗法だ。もうわけがわからない、ね。なんにも苦労していないから。本当のことを、社会を知らないから、折伏もしていないから。 (日達上人の昭和五〇年のNSAの第一二回の総会の平和文化運動に関するメッセージを引いて)それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」

2 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。」

3 「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いているみたいにね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』って。そんなのありませんよ、この時代に。時代とともにやればいい、学会は。」

4 「あくまで御書です。御本尊です、法は。これが解かればいいんです。あと、ちゃんと日淳上人、それから堀猊下、全部日達上人、きちーっと学会を守ってますよね。」

 以上の1から4は、名誉会長の今回のスピーチの中から、その流れに沿って拾い出したものであります。
 昭和55年4月2日の聖教新聞に、「恩師の二十三回忌に思う」と題する名誉会長の所感が掲載されておりますが、そこでは、「学会は、絶対尊崇の本源たる本門下種人法一箇の御本尊、宗祖大聖人に対し奉る信仰を根本とし、永遠に代々の御法主上人猊下を仏法の師と仰ぎ奉り、強き広宣流布の戦士たる誇りも高く、さらに、日蓮正宗の信徒として、いっそうの外護の任を全うしてまいる決意であります。」また、会員各位に対しては、「今一度、学会の存立基盤に立ち戻り、あくまでも外護と布教という根本の宗教活動を主体とし、そのうえで、社会的存在としての文化活動を推進してまいるようお願いしたい。その意味から、僧俗の和合をあくまでも根本とし、学会の使命遂行には、いささかも揺るぐことなき信心の大確信を堅持し、社会との融合を図りながら、広宣流布を進めていかねばなりません。」と創価学会の基本姿勢を述べられております。
 この名誉会長の所感にありますとおり、日蓮正宗では、古来人法一箇の御本尊即大聖人を信仰の根幹とし、また大聖人の法体を継承遊ばされたすべての歴代御法主上人を正法の正師と拝し奉ってまいりました。すなわち、歴代の御法主上人は、法体を護持継承される上から御本尊を書写され、またそれぞれの時代に応じて種々御指南されたのであります。したがって、現時点においては、日顕上人を仏法における根本の師匠、大導師と仰ぎ奉り、信伏随従する信仰姿勢が僧俗ともに肝要であることは、申すまでもありません。また、創価学会の基本姿勢についても、日蓮正宗の信徒団体として、僧俗和合を根本に、布教活動を行い、それに伴う文化活動を推進していくことは大変大事なことであります。その意味で、名誉会長の「恩師の二十三回忌に思う」との所感は、まさに正論であるといえましょう。
 しかし、今回のスピーチは、その正論を述べられた名誉会長の言葉とは思えない内容であります。宗務院といたしましては、こうした発言の中に、名誉会長の本心、また血脈に対する拝し方に、大きな疑いをもつものであります。以下、その問題点を挙げてみたいと思います。

 第一番目に、聖教新聞紙上において、頻繁に「悪しき権威・権力と戦う」という語が見られますが、大概の場合、その「悪しき権威・権力」というものが、何を意味するのか明らかではありません。しかし、2の発言によれば、「悪しき権威・権力」とは別して御法主上人を指していることがわかります。しかも、この発言によれば、「現猊下は法主という権威に身を寄せて権力を振りかざすばかりで、信徒の幸福などはまったく考えていない」ということを言っているのであります。このように、名誉会長は御法主上人に対して「権力」と決めつけておりますが、創価学会でいう「悪しき権威・権力と戦う」の「悪しき権威・権力」が、なぜ御法主上人に相当するのか、お示しいただきたいと思います。

 また、第二番目に、3の発言は、主語はないけれども、これを見聞した人は、明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います。すなわち、猊下の御説法、御指南というものは、外国語を聞くようにただ難しいだけで、信徒にとって現実的に役に立たないものと決めつけております。御法主上人の御指南にも、御説法、お言葉、その他種々の内容があり、その中で、特に御説法は、本宗の甚深の法義を説くのでありますから、難しいのは当然であります。信徒として、深く拝聴理解すべく心掛けるのが当然であるにもかかわらず、このように批評するのは、御法主上人を蔑視するものであります。また、「俺偉いんだ。お前ども」等の発言は、まさに日顕上人を指していると思われますが、日顕上人は、かつてそのようなことを言われたことは、一度もありません。これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います。

 第三番目に、創価学会の推進する仏法を基調とした平和文化活動につきましては、名誉会長自身が「恩師の二十三回忌に思う」の中で、折伏弘教と外護を根幹とした文化活動を推進するという大義を述べております。また、日達上人の賛同された御指南も多くありましたし、同様に現御法主上人も代替奉告法要、あるいは日目上人の第六五〇回遠忌の折に、本当の意味で仏法を基調とする平和文化活動は、大聖人の仏法を宣揚していく上で大事なことであると説かれております。ところが、これも主語はありませんが、前後の流れから、御法主上人を指していると思われる、1の発言によれば、「かつて折伏をされたことがまったくなく、布教について何も苦労したことのない世間的無知であるから、平和文化活動を理解出来ずに無条件に否定する」ということであります。まず、御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか、お伺いいたします。また、多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動に対して、どう責任を取られるのでしょうか。

 第四番目に、2の発言では、
  「猊下というものは」
などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますか。

 第五番目に、4の発言でありますが、ここで、59世日亨上人、65世日淳上人、66世日達上人が、学会を守って下さっていると言っておりますが、日達上人の御在職中の、いわゆる五二年路線のころ、創価学会の教義の逸脱について、日達上人から、「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。」等と、厳しい御指南があったのも事実であります。にもかかわらず、そのような御指南には一切触れずに、都合のいいところだけを引用し、創価学会は60年の歴史の中において、まったく間違いがなく、間違いはすべて宗門の側にあったように述べております。そして、学会のやっていることに対して御先師方が理解を示され、学会を守られたという表現にすり替えているのであります。また、この一連の言葉の裏には、当然現御法主上人が学会に対して理解を示さない、学会を守らないという意味を含んでいるものと解釈されます。しかし、正信会から学会及び名誉会長を守られたのも、また名誉会長を総講頭に再任されたのも現御法主上人であります。したがって、「(今の)猊下はまったく学会を守ってくれない」と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか。

(二)創価学会創立五〇周年当時の回顧の件

 池田名誉会長はスピーチの中で、創価学会の創立五〇周年当時を回顧して、「五〇周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から。馬鹿にされ、そいでその上北条さんが『もう、お先まっ暗ですね。』『何を言うか、六O周年を見ろもう絢爛たる最高の実が、六O周年が来るから元気だせ。』会長だから、これがよ。私は名誉会長だ。『そうでしょうか。』馬鹿かー。本当にもう、誰をか頼りに戦わんですよ、本当に」と言われております。この発言は事実に反するばかりか、宗門に対する怨念すら窺われる内容であり、五二年路線に見られた教義上の逸脱への反省が、全く忘れられているように思います。
 いわゆる北条新体制発足に先立ち、昭和53年11月7日、総本山において行なわれた全国教師総会並創価学会代表幹部会の席上、名誉会長は、 「先程来、理事長、副会長等から、僧俗和合の路線の確認、その他の問題について、いろいろと話がありましたが、これは総務会議、県長会議、各部最高会議の全員一致による決定であり、また私の決意であります。」と述べられ、ついで昭和55年4月2日、池田名誉会長の「恩師の二十三回忌に思う」と題する所感の中に、 「創価学会が急速に拡大し、膨大化した結果、とくに近年、現実社会への対応に目を向けるあまり、信徒として、もっとも大切な御宗門との間に、さまざまな不協和を生じてしまったことは、まことに残念なことであります。」
 「私が展開した昭和五十二年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります。」と述べられているように、会長在職中の指導に教義の逸脱があり、それが宗内において、重要な問題となったために、その責任をとり、自らの意志に基づいて会長職を辞任したのであります。すなわち、 「昨年4月24日、私が会長を勇退し、合議と協調を基調とした新会則を制定し、規則の改正を図り、そのもとに、北条第四代会長の体制が誕生したのも、安定路線を具体化するためのあらわれの一つでありました。」と、後進に道を開くために、自ら進んで勇退したことを言明されております。それを今になって、 「会長を辞めさせられ」「宗門から散々にやられ」と公言するのは、まったく自語相違であります。よって、この発言を撤回し、改めて自らの意思で辞任したことを表明すべきであります。

 また、五二年路線の学会問題から正信会問題へと移行する史実の取り扱いについてでありますが、史実としては、創価学会の五二年路線という教義上の逸脱があり、それに対する宗門からの戒めと学会の反省があったことは、先程来引用の名誉会長の所感やスピーチによっても明らかであります。この反省を前提として、御法主上人が、創価学会、並びに池田名誉会長を守られたのであります。
 しかるに、正信会の輩は、これを不服として血脈二管論等に代表される血脈否定の大謗法と、それに伴う教義上の異説を唱えたために、宗門から擯斥されたのであります。
 ところが近年、名誉会長のスピーチの中で、かつての宗門問題を取り上げるとき、「僧という立場、衣の権威を利用して、健気に信・行・学にいそしむ仏子を謗法呼ばわりし、迫害した悪侶らがいた」という趣旨のことが言われております。すなわち、創価学会における教義上の逸脱を覆い隠し、学会にはまったく非がなかったような言い方をしておりますが、これは、正信会の名を借りて宗門を批判し会員に宗門不信を懐かせることを目的としているように思います。また、正信会に関することを述べる場合、学会の逸脱の問題から述べなければ、信徒に事実と反する誤認を懐かせ、宗門や寺院、僧侶等に対する不信を招く結果となることは明白であります。これらのことについて、学会はどのように考えておりましょうか、お示しいただきたいと思います。

(三)僧侶軽視の発言に関する件
 「全然、また難しい教義、聞いたって解んないんだ。誰も解らないんだ、ドイツ語聞いているみたいにね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』って。そんなのありませんよ、この時代に。」
 「大聖人が我が門下の死は、私どもの死は、信者の死なんて言わないです、大聖人は。そういうことはほとんどないです。門下、我が一類とかね、正信会なんて『信者、信者』言って、みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。」
 「今はですよ、出家ってもね、あのー、ちゃんと奥さんをもらって赤ちゃんつくってさ。」
等々と、「正信会の僧侶」と言いつつも、明らかに現宗門の僧侶に宛てて非難しておりますが、これは僧侶軽視の発言であります。日顕上人は、昭和55年11月26日の学会創立五〇周年記念幹部登山会の折に、宗門僧俗の在り方について、 「宗門は法主があり、また、多くの僧侶があって法を内から守り、在家信徒は法を外より護るのであります。また大聖人より唯授一人の血脈を伝える法主も、僧のなかからでてくるのであります。ゆえに、一番基本的な認識として、涅槃経に『内には智慧の弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん』という文をもって、僧俗を戒められているごとく、僧侶が厳として法を伝えてきたこと、また、今日以後も永遠に法を伝えていくのであることを、十分考えていただきたいと思います。しかして、そのうえで僧俗和合して広宣流布に向かって前進していくことこそ肝要であります。」と御指南遊ばされ、それを受けて北条会長は、創価学会を代表して、 「御指南を賜った諸々の点については、学会をもっともよく御理解くださり、永い将来を慮り、御嚮導くださった深い御慈愛と拝し、着実に実践に移して正法広布の大道を誤りなく前進していきたい。」と応えられております。これこそ僧俗和合して、広宣流布への大道を進む日蓮正宗の万代に至る在り方でなければならないと思います。また、信者・信徒という言葉が、在家の門下に対し、あたかも侮辱しているようにとって、「そんなのありませんよ」という批判があります。しかし、日有上人の化儀抄にも、 「信者門徒より来たる一切の酒をば……」とあり、また本宗宗制第三条にも、 「この法人は(乃至)広宣流布のため信者を教化育成し……」とあって、信者なる語が格別に侮辱的な言辞とは思われません。諸橋大漢和辞典では、信者の項には、「宗教を信仰する者。教徒。信徒。」とあり、また信徒の項には、ただ二字のみ「信者」とあります。つまり、信者・信徒の語には、なんら在家を見下し、侮辱するような意味はありません。むしろ日蓮正宗の在家の信仰者として、胸を張って「私は日蓮正宗の信者・信徒である」と自負すべきであります。したがって、信者・信徒という言い方が、在家の方を馬鹿にしているという道理はまったくないのに、このようなことで、僧侶を批判されるのは、かえって池田名誉会長が、その短見を暴露されるだけであります。もし、僧侶のなかで「信徒ども」などと言って、信徒を見下している者がいるなら、具体的にお示しください。

 また、僧侶も御本尊を拝するという上から、一応信者であることには間違いありませんが、日有上人は化儀抄に、 「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」と仰せられ、また昭和五五年の特別学習会テキストには、創価学会において、 「この点、私達は日蓮正宗の信徒であることの意義を明確にし、僧侶に対しても礼節を重んじ、信徒としての姿勢を正すなかに僧俗和合の道を進めてまいりたいと思います」と、僧俗の立て分けを示しております。このように、御本尊を拝する姿においては、一応平等でありますが、そこには当然僧俗の区別があり、礼儀をわきまえなければなりません。それにもかかわらず、 「みんな信者だ、御本尊のよ、坊さんだって。違いますか、坊さんだけほか拝んでんのかよ。」と、野卑な言葉で、あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものであると思いますが、どのように弁明されるのでしょうか。特別学習会での基本内容との食違いも含めて、お示しいただきたいと思います。

次に、「今はですよ。出家ってもね、あのー、ちゃんと奥さんをもらって赤ちゃんつくってさ。」と、あたかも小乗教の戒律を守る者が聖僧で、女房・子供を持つ僧侶は破戒僧のような言い方でありますが、寺院における寺族の役割は、並大抵のものではありません。こうした発言は、僧侶のイメージを悪くしようとするところの誹謗であると思いますが、いかがですか。

(四)宗門の布教と平和文化活動に関する件

 布教について、日淳上人の御指南を引きながら、
 「七〇〇年間折伏がそんなに出来なかったんですよ。よーく知っていらっしゃるんです。今はもう当たり前と思ってね。威張っている人がいる。とんでもない」
また、
 「ゴ大統領は、新思考法といって、もう、どんなことでも模索している。同じ布教においても、こういうふうに、みんな一生懸命考えながら、工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります。」と、日蓮正宗では、700年間まったく折伏・布教ということをやってこなかった、あるいはまったく出来なかったと言われております。確かに創価学会の出現によって、大きく広宣流布が進んだのは事実でありますが、初代牧口会長を折伏したのは、法華講の三谷素啓氏であります。また、700年間の歴史の中には、宗史を飾る数々の法難が起きております。中でも加賀金沢においては最寄りの寺院もなく、藩の厳しい大石寺信仰の禁制の中にもかかわらず、不退の信心を貫いた信徒の姿は、久保家に伝えられる弘化3年12月15日の古文書に、
 「久保家子孫代々に伝へまいらせ候。今日まで正宗の法華経唱へ奉り候へども、藩の取締り堅固なれば思ふままに信心致し難く、大石寺にまかり出る事なかなか至難に相なり候へば、ただひたすら襖の影より心ひそかに題目を唱へ居り候。何しか当家にも大声高らかに題目のひびき渡る時を祈り、正宗の経文を唱へらせたく、其の日を旭日の昇るが如くに心待ち居り候……」と、制約された中にも、ひたすら総本山を渇仰する姿を窺うことが出来ます。こうした強信の徒が居たればこそ、加賀に延宝年間から明治にかけて一六の講中が結成され、さらに数十の講中が誕生したと伝えられております。この外、尾張法難をはじめ、数多くの法難の歴史は、皆その時々における折伏弘教によって起こった法難であることは、歴史が如実に物語っております。また、現在においても、多くの法華講員が日夜折伏・弘教に努めていることは、ご存じのはずであります。したがって、日蓮正宗が700年間まったく折伏をしなかったなどと言うのは、大聖人の仏法を、正しく今日に伝えられた僧俗の尊い弘教を冒涜するものであると思いますが、いかがでしょうか。

 また、学会の大折伏に対して、宗門、あるいは僧侶が、それを軽んじたり、見下したり、また当たり前だなどと思っているように言っておりますが、日顕上人が僧俗の関係について、
 「僧と俗は令法久住と広宣流布について一体の使命をもつものであります。ただし、一体といっても、そのなかに自ら区別があります。すなわち、僧侶はとくに令法久住という意義において、在家は折伏、広宣流布という面において、それぞれ重大な使命を担っているのであります。」と御指南のごとく、広布への実践の姿は違っていても、日蓮正宗の僧侶の中に、学会員の折伏弘仏教の姿を尊しとこそすれ、当たり前と思って威張っている者などは、一人もおりません。もしいるなら、具体的に示してください。

また、「教条的な画一的な、時代にも相反した、そんなんで、今日のね、大宗教の発展があるわけがない。その苦労がわからないんです。どれほど学会がすごいか」
 「世界の仏法流布という平和文化運動の実践運動をですよ、それがいけないと言うんですよ。折伏だけで、全部ね、教条的にね、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに。」
と言われておりますが、これは今日においては、平和文化運動を抜きにして、当面する具体的な状況を考えず、機械的に折伏をさせようとしても無理だ、と言いたいのだと思います。宗門においては、平和文化運動の必要性は、日顕上人の御指南にもあるとおり、必要なことであると思っております。ただ仏法の道理に照らして、あくまでも、「仏法を基調とすべきであること」
「仏法流布のための平和文化運動でなければならないこと」
「仏法を社会へ展開するためのものでなければならないこと」と考えおります。誰が、どこで、平和文化運動をいけないと言っておりますか、示してください。

(五)「真言亡国・禅天魔」の発言に関する件

 名誉会長のスピーチの中に、
 「平和運動、正しいんです。文化運動、正しいんです。大いにやりましょう。それがなかったならば、何やってきゃ、どうしたら折伏出来るか。そうでしょう。ただ……、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。」とあります。
 この発言は、平和・文化運動の推進を意図するものでありましょうが、それに付随して、 「真言亡国。禅天魔、法を下げるだけでしょう。」との発言は、見逃すことが出来ません。
 このような発言は、平和文化運動がこれからの仏教の第一義であって、邪宗破折の四箇の格言は、現代社会に受け入れ難いものであるから法を下げるものである、と言うことなのでありましょうか。
 しかし、大聖人は、 「此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法・並に謗法の諸僧満ち満ちて上一人をはじめ奉りて下万民に至るまで御帰依ある故に法華経・教主釈尊の大怨敵と成りて現世には天神・地祇にすてられ他国のせめにあひ、後生には阿鼻大城に堕ち給うべき由・経文にまかせて立て給いし程に此の事申さば大なるあだあるべし申さずんば仏のせめのがれがたし。」と仰せのごとく、折伏正規の末法においては、あくまでも立正安国論等に示される破邪顕正を第一義とすべきであり、平和文化運動は、仏法が導入されやすいように、人と人との信頼と、情愛の絆を深めるためのものであると思います。
 それを、
 「真言亡国。禅天魔、法を下げるだけでしょう。」との発言は、摂折二門の上から明らかに摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したものであると思いますが、いかがでしょうか。

 さらに、11・16以後の池田名誉会長の発言として、大聖人と親鸞のイメージを比較し、「親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏が出来ない」として、「親鸞のイメージのごとき親しみが、これからの折伏の条件」のように言われ、「大聖人の慈悲深い面をもっと表面に出したり、法門の中にもよいことがあるので、それを判りやすく説く私のスピーチを元にするよう」に、と言われたそうです。しかし、大聖人は、法華経に予証されたとおりの大難に逢われ、「但日蓮一人これを読めり」と、尊い身読をされました。その如説修行の上において、国家権力を相手としつつ、一切の邪義を破折して、末法適時の正法を建立する法体の折伏を遊ばされたのであり、この御姿にこそ、一切衆生に対する御本仏としての、第一義の大慈大悲が存することを見過ってはならないと思います。これは報恩抄・諫暁八幡抄等の御文に拝せられるとおりであります。
 もちろん、個々の信徒に対する優しく御慈悲溢れる御文も多々ありますが、もし、そういうところのみを世間の人々にアピールして第一義を伏せ、親しいイメージを、というのであれば、それは大聖人を正しく拝することにはならないと思います。
 このように、正義をそのまま正直に述べる大聖人の教法と人格が折伏出来ない理由になるというのは、大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背であると思います。また、「大聖人の法門の中のよいところを判りやすく説く私のスピーチを元にせよ」というのも、池田教による大聖人観であって、大聖人の法門の全体ではありません。勝手に大聖人の法門を分断するのは、私的な法門であり、明らかな誤りと思いますが、いかがですか。

(六)「歓喜の歌」合唱について

 「歓喜の歌」の合唱について、
 「昭和62年の年末に学生部結成30周年を記念して、この演奏、第九の演奏を私は聞きました。本当にいまでも忘れない。したがって、私は、提案だけれども、創立65周年には、5万人で、創立70周年には10万人の、私はこの『歓喜の歌』の大合唱をして後世に残したいと思います。」
 「それで、あの日本語でもやるけれども、そのうちドイツ語でもやりましょう」
と言われております。現在歌われている岩佐東一郎作詞の「よろこびの歌」自体には宗教色はまったくなく、結構だと思いますが、原語(ドイツ語)の詩は、フリードリヒ・フォン・シラーという詩人の「歓喜に寄す」という詩で、「歓びよ、神々の美しい輝きよ、楽園の娘よ、我ら炎のごとくに酔い、天の汝の聖殿に足をふみ入れる……」等と訳され、キリスト教の神を讃歎した内容になっております。したがって、これを原語で歌うということは、外道礼讃となり、大聖人の、「さきに外道の法弘まれる国ならば仏法を・もつて・これをやぶるべし」との御聖意にも反し、下種本門大法の尊い信者が、キリスト教を容認・礼讃することになると思いますが、それでもなおかつ当然と思われるのですか、お伺いいたします。

 以上、かいつまんで問題と思われるところを述べさせていただきましたが、御法主上人並びに僧侶に対する蔑視及び非難や、過去五二年頃の逸脱についての無反省が明らかであります。故に、教条的なる語をもって宗門を軽蔑し、自らの考え方を主とし、是として、宗門を従わしめようとする野望が感じられます。これは、正しい令法久住、広宣流布の道ではないと思われます。
 大石寺開創七〇一年を迎えるに当たり、 「富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざること」と、御開山日興上人が大聖人の御意をそのままに伝えられた富士の清流を濁すことなく、末代に流れ通わすために、日蓮正宗の基本的な信仰の在り方と、それに基づく広布への正しい進展を確認したいのであります。
 以上を発言者池田名誉会長にお伝えの上、何卒、本年12月20日迄に、文書によって当院宛に、責任ある回答をお願いいたします。

 平成2年12月13日
                        日蓮正宗 宗務院


②創価学会から宗務院への九項目の「お伺い」
                       (平成2年12月23日付)
日蓮正宗総監
 藤本 日潤 殿

 宗務院より郵送されました「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」を謹んで拝読致しました。到着の日より7日以内に文書で回答をということですが、さる12月13日の連絡会議でお話し申し上げました通り、お尋ねの問題については、文書に致しましても「文は意を尽くさず」で、なかなか真意が伝わらず、かえって誤解を生じても申し訳ないことですので、私どもと致しましては、あくまでも話し合いで、理解を深めさせていただきたいとお願い申し上げます。ご法務ご繁多のところまことに恐縮ですが、お時間をいただければ、年内でも結構ですし、連絡会議を開催いただき、そこで、ゆっくりご教示をいただきながら、お話し合いを賜ればと存じます。何卒、ご寛大なご配慮をお願い申し上げるものでございます。日程につきましては、宗務院の御意向通りで結構ですので、どうぞよろしくお願い致します。
 さて、近年、私どもにとりましても、ご宗門のことで、幾つか、胸につかえ、思い悩んでいることがございます。とくに、本年に入って、7月の登山の際のお目通りの席でのご法主日顕上人猊下のお振る舞い、11月の御大会のお目通りの折のお言葉等につきましては、どう拝すればよいか、大変苦悩しております。猊下のことにつき、少しでも云々することは、私ども信徒にとりまして、まことに恐れ多いことでありますが、余りに一方的かつ客観的にみても理解に苦しむお言葉につきましては、僧俗和合の将来にとりましても、きわめて重大な問題と憂慮せざるをえません。
 そこで、私ども信徒の気持ちもお汲みとりいただきたく、左記にお伺いしたい事項をまとめさせていただきました。もとより、これは総本山を外護申し上げる私どもの憂宗護法の思いの上から、お伺いしたいことをまとめたもので、決してご宗門を追及しようとか、そういうことでは一切ございません。従いまして、これに対するお答えも、いつまでにということは、私どもとして申し上げるものではございません。次の連絡会議の時でも結構ですし、民主主義の時代、対話の時代ですので、よろしい時にお話し合いをさせていただき、その折にご教示いただくことで結構でございます。要は、私どもの気持ちをおわかりいただきたいのであります。
 広宣流布にとって最も大切なものは、万年にわたり崩れざる僧俗和合を築くことであることは申すまでもございません。私どもも一段と努力を重ねてまいる所存でございます。おたがいに、固執したり、感情的になったりすることは、後世のためにもあってはならない愚かなことでございます。この点どうか、ご賢察、ご勘案の上、重ね重ね、ご慈悲を腸りますようお願い申し上げます。
 末筆ではございますが、ご法主上人猊下に、名誉会長から「くれぐれもよろしくお伝えください」と申しておりますことをお伝えしますとともに、猊下のますますのご健勝、宗門のご隆昌を、心よりお祈り申し上げます。

    平成2年12月23日
                     創価学会会長  秋谷 栄之助

お伺い

(一)本年7月21日午後2時20分より総本山大石寺大坊(大奥対面所)で行われたご法主日顕上人猊下と池田名誉会長、会長秋谷とのお目通りの砌。
 猊下は、7月17日夜、東京・常泉寺において開かれた宗務院・学会連絡会議での学会側・秋谷並びに副会長・八尋の発言に対して、恐れ多いことですが、大声をあげて、立ち上がらんばかりの剣幕で「法主の発言を封じた。憍慢だ!憍慢謗法だ!」と怒鳴られ、叱責されました。
 この件に関して、お伺い申し上げます。

(イ)猊下がお目通りの時指摘された、7月17日の連絡会議での秋谷並びに八尋の発言は、もったいなくも猊下の発言を封ずるような話をしたのでは全くございません。長期間の海外指導から帰国した直後、疲れもとれないなか、猊下のもとに報告に参上した名誉会長に、猊下が立川寺院の工事が延びているとか、丑寅勤行の参加人数が少ないとかの問題を話されましたので、そのような問題は、実務に関することでもあり、連絡会議でどんどん話し合い、猊下にそのようなことでご心配をおかけしないよう、連絡会議として、お互いが努力していきたい旨申し上げたものでございます。
 そのことは、席上、藤本総監に「このようなことは連絡会議で取り上げていきましょう。そうしないと私共の責務を果たしていないことになるのではないでしょうか」と秋谷が申し上げましたら、総監は「そうですね」と同意をされたことでもありました。
 従いまして、これがどうして「法主の発言を封ずる、憍慢謗法だ!」というような猊下のお叱りをうけなければならないことになるのか、全く理解に苦しみます。これでは、当日の連絡会議の報告が猊下に正確になされたのか、疑問に思わざるをえません。どうしてさきの秋谷、八尋の発言が仏法上の十四誹謗の「憍慢謗法」に当たるのか、御教示いただきたいと存じます。

(ロ)次に、右の発言は、連絡会議という場で、信徒のお願いを申し上げたものです。それが「謗法」であるとの猊下のご叱責は、信徒がそういう場で猊下のことに関して、一切発言してはいけない、何らのお願いもしてはならないということなのでしょうか。この点についても、お教えいただきたく存じます。

(ハ)また、あの場での発言が憍慢謗法であるなら、それについてただ黙って聞いておられた僧侶方に、何ら問題はないのでしょうか。秋谷、八尋だけが謗法と言われ、同席していた僧侶が何もいわず、結果として猊下の御宸襟を悩ましめたことは、何の謗法にも当たらないのでしょうか。ご教示をお願い申し上げます。

(ニ)更に、これはまことに恐縮ですが、猊下は、同日のお目通りに際し「私は、僧侶ですから大きな声は出しません。冷静に公平にすべてをみております」と仰せになりました。ところが、この「憍慢謗法!」とのご叱責の折には、大奥対面所の階下で待機していた学会副会長の森田、八尋、平野の三名が「閉まっていたのに、ドア越しに大きな猊下の声が聞こえるのでびっくりした」という程の大声で怒鳴られたのでございます。私どもには、猊下が双方の言い分も聞かず、一方的な報告によって叱られたように感じられ、まことに残念でならなかったのであります。ご法主は、敬われるお立場ですから、どうか私ども信者を小馬鹿にしたり、蔑んだりするお言葉を使わないでいただきたいと、僭越ながらお願い申し上げるものでございます。
 いずれにしても、この最大の原因は、公平な報告をされなかった宗門首脳にあるのではないでしょうか。今後、二度とこうしたことのないよう、宗門首脳に強くお願い申し上げますが、いかがでしょうか。

(二)次に、同日のお目通りの砌。 猊下は、名誉会長に向かって「学会の記念行事があるので、御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか!」と頭から決めつけて詰問されました。
 この件について、お伺い申し上げます。

(イ)名誉会長が総代に言ったということですが、名誉会長はいつ、どこで、何という総代に、どう言ったというのでしょうか。具体的に明示して下さい。

(ロ)また、この件を猊下に報告した人を明らかにして下さい。

(ハ)更に猊下に報告が入ったとして、猊下がお目通りで話される前に、その総代なりに、宗門の責任ある立場の人が事実の確認をされたのでしょうか。お教え下さい。

 そもそも、お目通りの席で詰問されたような事は名誉会長には全く身に覚えのないことであり、事実無根も基だしいものであります。いやしくも日蓮正宗宗内にあって最高にして最も尊厳な法主のお目通りという場で、しかも猊下から、信徒の代表の総講頭たる名誉会長に直接話された事柄であります。そこにいささかも根拠のない噂話や告げ口による軽々な発言は絶対にあってはならないことであります。まして、宗門興隆に今日まで未曾有の貢献をし、渾身の尽力をしてきた最大の功労者であり、大檀那である、名誉会長に対して、余りにも非礼なことといわねばなりません。とくに、この問題は、総講頭が総代に直接指示したという、正宗内にあっては、きわめて重要な重みをもつ問題として出されたわけで、単なる誤りとして片づけられないものであることは、いうまでもございません。従いまして、私どもとしましては宗務当局に、この件についての事実関係をすべてお調べいただき、責任ある回答をお願いするとともに、もし事実でなければ、いかがなされるのか、お伺い致します。
 この件は、世間法に照らしても、名誉会長の名誉、人格を著しく傷つける名誉毀損であり、人権蹂躙も甚だしいといわざるをえない問題です。このようなことが今後も起こると、宗門自体の体質の問題ともなりますので、将来のためにも、断じて曖昧にせず、事実の経過を詳らかにしていただくことを、重ねてお願い申し上げるものであります。

(三)昭和61年7月、東京・常泉寺での宗務院・学会連絡会議における大村教学部長の発言について、お伺い致します。
 大村教学部長は、退転者・福島源次郎が書いた学会誹謗記事を使い、またこれに同調して、学会批判を、直接秋谷にされました。福島源次郎は、法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者であります。かかる謗法の徒の言動を根拠とするのみならず、同調されたのは、何か特別な関係か、それとも他の理由があってのことでしょうか。お伺い申し上げます。

(四)次に、本年の7月2日に行われた東京・世田谷の宣徳寺の本堂・庫裡増改築落慶法要の席上での高野法雄尊師(調御寺住職)の話などは、いかなる法義にもとずくものでしょうか。
 高野尊師は、宣徳寺増改築に当たり、住職の秋元渉外部長に資金を貸した経緯を語り、その際、秋元尊師の娘さん、奥さんを、借金の担保にする、しないなどの会話がかわされたことを話したのであります。厳粛な落慶法要の席で、いきなり借金云々、また娘、夫人などを担保に云々など冗談にでも口にすること自体、真面目な信者を侮辱した言動であり、許されるべきものではありません。僧侶ならば信者に向かって何を言ってもいいということでしょうか。また、高野尊師に借金し、そうしたふざけたやりとりをした秋元渉外部長の言動にも問題があると思われます。宗務院は、これらの点につき、いかなる見解に立たれるのか、お伺い致します。
 またこれに関し、億を超える金銭貸借が、住職間で個人的に行われたかのような雰囲気の話になっておりますが、もとよりこれは、寺院としての法人間の貸借であると思われます。宗教法人法上、またこれをうけた寺院の規則上、両寺院とも事前に法人の総代会(責任役員会)に諮るべきであると考えますが、この点、どのようになっているのでしょうか。これは日蓮正宗寺院の法人運営上の根幹にかかわることでもありますので、ご確認いただきたいと思います。

(五)再び、7月21日のお目通りの砌。 猊下は、秋谷に前記の「憍慢謗法」と大声で怒鳴られたあと、更に激昂され、名誉会長に「あんたにもいっておきたいことがある。懲罰にかけるから」と激しい口調で、早口で興奮して語られました。

 この件につきましては、後日(8月22日)藤本総監を通し、電話で「懲罰云々については、私は言わない。懲罰というのは、重大なことであるし、心にも思っていないことだから絶対に言うわけもない」との猊下のご意思がはっきりと伝えられ、懲罰云々は言っていない、と否定されましたので、そこに猊下の一切の真意があると、私どもは拝しております。ただお目通りの折りには懲罰云々と言われ、余りの唐突なご発言に、秋谷もびっくりした次第です。名誉会長も明確に聞いており、このことは、お目通りの終わったあとの車中、同乗した秋谷、八尋に「宗門の懲罰委員会の構成はどうなっているか」とすぐ聞いていることからも明らかであります。
 申すまでもなく、創価学会は、日蓮大聖人の仏法を、今日、世界百十五か国にまで弘め、七百年間、誰も出来なかった未曾有の折伏をし、宗門を外護申し上げてきたことは、周知の事実でございます。その功徳無量なることは、もったいなくも堀日亨上人をはじめ日昇上人、日淳上人、日達上人の御歴代のご先師上人が最大に賛嘆されているところでございます。その信徒の代表に対して、かりそめにも、懲罰云々などという言が宗内に出るようなことがあれば、それこそ、宗門にとっての一代汚点となりましょう。この点、猊下が明快に否定されたわけでありますので、宗務当局にも、この猊下の御指南を根本に、後世のために、重ねて明確にしていただきたく存じますが、いかがでしょうか。

(六)本年11月20日午後零時20分より総本山大石寺大坊(大奥対面所)で行われた猊下と名誉会長、秋谷ら五人の学会幹部のお目通りの砌。
 猊下は、正信会を擯斥処分にしたのは「法主の血脈を否定したから」と言われる一方で、「その彼ら正信会が血脈を否定してまで法主を批判せざるをえなかった原因は、学会にある」と仰せになりました。
 この猊下のお言葉について、お伺い申し上げます。

 もとより日蓮正宗にあって、金口嫡々唯授一人の血脈相承が宗旨の根本であることは論を待ちません。それを正宗僧侶の身でありながら否定したとなれば、最大の師敵対であり、獅子身中の虫であって、言語道断といわざるをえません。かかる正信会に対し、猊下が厳然と擯斥処分の断を下されたことは、令法久住の上から当然の大英断であられたと拝するものであります。

 そのうえで、これはまことに僭越なお伺いになるかと存じますが、「正信会が血脈を否定してまで法主を批判した原因は学会にある」という趣旨のお話しは、どう拝してよいか、思案に苦しんでおります。と申しますのも、法主の血脈という問題は、宗義の根幹のことであり、根本問題であります。いかなる理由があるにせよ、それを正信会が否定したということは、この根本に対する疑いを持っていたからであり、そこに彼等の信心の本質があったと見るべき問題であります。従いまして、法主の血脈を否定したのは、何よりも彼ら正信会に、この日蓮正宗の根本の信心がなかったことに最大の原因があり、学会とは関係ない問題であると私どもはうけとめていますが、ご教示をお願い致します。
 私どもは、日蓮正宗にとって根本たる法主の血脈を、状況次第でいとも簡単に否定し、あまつさえ恐れ多くも猊下を裁判で訴えた正信会の行動は、信心の狂いの極みであり、悪鬼入其身の所業以外の何ものでもなく、人間としても最も糾弾されてしかるべきであると思っております。事実、信者を自分たちの「オモチャ」と称して見下したり「学会員の葬儀はしてやらない」と脅迫したり、葬儀の席で「学会をやめないと成仏しない」と脅すなど、正信会の悪侶の過去の悪行は、これが僧侶か、否、人間かと思うほどの非道ぶりであり、これらを厳しく糾弾することは、猊下をお守りし、正宗の正しい信心を指導していくことにとって、最も大事なことと信ずるものであります。
 とともに、もし、さきのような正信会に対するお話が宗門の公式見解であるとすれば、私どもの承知している宗門裁判の行く末にも多大な影響があるものと憂慮するものであります。

(七)続いて、同日のお目通りの砌。
 猊下より、「最近の学会は、柔軟になった、折伏、破折をしなくなった、聖教新聞からも、破折、折伏のことが消えてしまった」というお話がありました。
 しかし、事実は、今年もすでに十万人を超える人が入信していますし、ここ五年間をとってみても、毎年、少ない時でも、十万人、平均して十五万から二十万の人の新入信をみています。これだけの入信者が生まれるには、毎年、百万を超える人に仏法の話、下種をしているわけであります。
 また、最近の折伏に破折がなくなったということも、理解に苦しむお言葉であります、地区や支部で、一人の人を日蓮正宗に入信させるにあたり他宗の破折を含め、謗法払い等、どれほど苦労して折伏しているか。社会の真っ只中で、あらゆる誹謗中傷をうけながら、広布のため、人のため、懸命に折伏に励み、日蓮正宗の御本尊を弘めているのは、学会員であります。
 また、聖教新聞では、折伏に関する活字が消えたということですが、本当に聖教新聞を読まれ、調べた上でのことでしょうか。聖教新聞には、今年5月7日から12月の初旬までで、折伏に関する活字は、実に1715回も出ているのであります。それ以前もあらゆる所で、学会員の日常行動の前提として、また組織の活動のポイントとして、頻繁に出ております。更に、破折についても、聖教新聞に加え、創価新報、大白蓮華等に、最近の新宗教まで含め、そのつど、シリーズで掲載されています。今年各地で結成した青年大学校等では、破折コーナーを頻繁に設けて、折伏力を磨く努力をしており、ここには、二百万人を超える青年が参加しているのであります。
 こうした明確な事実があるにもかかわらず、猊下が「学会は折伏、破折をやっていない」と仰せられた根拠は、何なのでしょうか。この点につきましても、猊下に正確な報告がされていないと考えられますが、いかがでしょうか。全会員の折伏、広宣流布への懸命な実践に対して、どのようにお考えなのか、明らかにされるようお願い申し上げます。

(八)本年7月21日のお目通りに関して。
 前記のお目通りに関して、ある週刊誌には「七月二十一日のお目通りの際、日顕上人猊下の前で池田名誉会長が机をたたいて怒鳴った」云々という捏造の記事が出ました。これにつきましては、例によって宗門と学会を反目させようとする徒輩の策謀であることは明白でありますが、全く虚偽の記事であるにもかかわらず、一度、活字に出ますと、それを真に受けた何人かのご僧侶、寺族、その他の方々から、名誉会長とはなんと非礼な人か、そんな常識も品位もない、また信心のない人だったのか、と激しく非難されました。
 もとより、名誉会長が、猊下の前で机をたたいて怒鳴った事実などないことは、その場におられた猊下が一番よくご存知のことであり、猊下もかの週刊誌を見られれば、週刊誌記事なるものがいかにデタラメなものであるか、呆れ果てられることと存じます。しかし、このニセ記事に対し、これまで名誉会長も学会もいつものように歯牙にもかけない態度できましたし、馬鹿馬鹿しくて相手にもしてきませんでした。今後とも、眼中に置かぬ態度に変わりありませんが、宗内では、一度も、この記事の公式な否定がありませんので、不幸なことに、いまだに名誉会長のことを、この件で疑っている人もおります。
 ことは猊下と名誉会長とのお目通りに関することであり、宗内的に、かりそめにもこの捏造記事が信じられ、定着するようなことがあれば、今後の僧俗和合にとって、重大な支障となり、不信の溝をつくるキッカケとなりかねません。そこで、宗内的にこの記事が全く間違いであることを、宗務院から、是非とも明らかにしていただきますよう、お願い申し上げるものであります。

(九)本年11月14日夜、東京・常泉寺に於ける宗務院・学会連絡会議の折。
 この連絡会議の席上、藤本総監より、学会寄進の二百か寺計画の件につき、とくに東京における進捗状況が遅いということで「江戸川の大護寺以来、都内二十三区に一か寺もできていない。理由は何か」と厳しい問責がありました。
 この件について、お伺い並びにお願い致します。

 二百か寺の建立寄進につきましては、宗門外護の赤誠から、大石寺開創七百年の記念事業の一環として、学会が建立御供養申し上げることを発願し、昭和五十九年から十年計画で進めているものであることは、ご承知の通りであります。
 僭越ながら申し上げれば、供養とは、徳勝・無勝童子の土餅の譬えを申し上げるまでもなく、私どもが自らの信心の真心を尽くして供給奉養するものであり、ご宗門はあくまでも納受される立場にございます。それが当日のお話しは「東京が一か寺しか出来ていない。理由は何か。一か寺ずつの詳しい経過を聞きたい」と、大変高飛車な言い方で、しかも何か追及するような口調で切り出されたのであります。日頃から真剣に御供養申し上げてきた私どもが、まるで被告席に居て尋問をうけているような硬い、厳しい雰囲気でした。余りに一方的な詰問に、怒りが込み上げてくるとともに、余りに情けなく、悲しみすら覚えたほどでした。
 それはともかく、二百か寺建立寄進計画は、本年12月21日の三重・白山寺院の落慶をもって、この六年余りで、実に百十一か寺が完成致し、すでに用地取得済みのものを含めれば、百十九か寺まで進んでおります。建築の専門家にいわせても、これ自体、奇跡的なペースであり、他のどの世界でもできないことと驚嘆しております。とともに、この現代という時代で、十年間で二百か寺を一挙に建立しようとすること自体、常識では到底、考えられないことであり、ありえないことであるというのが、一般的な見方でありましたが、私どもは、宗門外護の使命を果たすべく、今日まで、業者にもそれは大変な無理もいって、ひたすら一心不乱に建立寄進に邁進してきたのであります。
 その私どもの努力・尽力に対して席上、何らのねぎらいの言葉もなく、ただ都内に出来ないのは、学会側の努力が足りないからではないかと糾されたのでは、余りにも無慈悲、無慙な仕打ちと言わざるをえません。どうか、宗門の僧侶方におかれては、今後は寺院の建立は、どこまでも信徒の真心の御供養から発するものであるという原点に立ち返って、何があっても温かく受けていただき、もともと契約のようなものではありませんので、遅い理由を明らかにせよなどということは、やめていただきたいとお願いするものですが、私どものこうした考えは、誤りでありましょうか。お伺い致したく何卒、よろしくお願い申し上げます。 以上、とりあえず、現在、私どもの心中にわだかまっていることを、お伺い事項として、九項目に要約させていただきましたが、このほかにも、まだお伺いしたいことは、いろいろございます。従いまして、これからも、場合によっては、お伺いさせていただきたいと存じますが、それも、連絡会議等の話し合いで結構ですので、何卒、そこで温かく御教示、御教導賜りますよう、心よりお願い申し上げるものであります。


③宗務院より創価学会への「通知」
                        (平成2年12月26日付)

  平成2年12月26日
                            日蓮正宗総監
                               藤本 日潤
 創価学会会長
  秋谷 栄之助 殿

 12月23日付書面を拝見いたしました。
 「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」の文書に対して、7日以内に文書による回答を求めましたところ、話し合いで理解を深めたいとの御返事をいただきました。
 宗務院といたしましては、問題の本質が余りにも重大であり、かつスピーチの本人である池田名誉会長不在の連絡会議の場で話し合いをしたり、解決をはかることの出来る性質のものではありませんので、最初から文書による責任ある回答をお願いしているのであります。然るに、全く回答を示されないのみならず、かえって「お伺い」なる文書をもって、事実無根のことがらを含む九項目の詰問状を提出せられるなど、まことにもって無慙無愧という他ありません。
 宗務院といたしましては、最早や池田名誉会長の11・16のスピーチについては、文書による誠意ある回答を示される意志が全くないものと受けとめました。
 上記のとおり御通知いたします。
                              以上


④宗務院より宗内教師宛に発せられた「急告」
                         (平成2年12月28日付)

  平成2年12月28日

                         日蓮正宗宗務院
 宗内教師 各位

     急告

 最近の宗門と学会との問題について、取り急ぎお知らせいたします。
 すでに聖教新聞紙上でご承知のとおり、池田名誉会長は各会合におけるスピーチにおいて、御法主上人や宗門への批判と思われる言動を繰り返してきました。特に、本年11月16日の第三五回本部幹部会における実際の名誉会長のスピーチは、聖教新聞紙上に掲載されているものとは異なる、大変ひどい内容であることが、その録音テープによって判明いたしました。
 この言動に対して、宗務院としては12月13日の宗務院・学会の連絡会議の席上で、当該スピーチの内容についての「お尋ね」の文書を学会側に手渡そうといたしましたが、「出処不明のテープによった文書は受け取れない」として拒否されました。宗務院としては、入手した他の数本のテープ(それぞれ別会場で録音したもので入手先が別のもの)と照合調査し、その内容が改竄されたものではないことを確認し、12月16日に、「お尋ね」の文書を学会に送付いたしました。
 これに対して、12月24日、学会より返書が送付されてきましたが、先の「お尋ね」に対して、まったく回答せず、かえって九項目にわたる不遜な「お伺い」書なるものをもって、御法主上人や宗門を讒謗してきました。
 このような一連の流れの中で、現行の宗規に不備が認められたので、12月27日、臨時宗会を開催し、宗規の一部を改正して、即日施行することを議決いたしました。この結果、12月27日付けをもって、従来の総講頭・大講頭などの法華講本部役員は、その資格を喪失したのであります。
 ところが、こうした宗門の動きを聞き付けた学会は、種々な対応策を立てているようであり、総本山及び各末寺への参詣を停止、乃至制限するなどの動きもあるように聞き及んでおります。
 宗内教師各位には、こうした状況をよく認識し、かつ紛動されることなく、また先走って軽挙妄動することのないよう、宗務院の指示に従って、一意御奉公の誠を尽くされることを願います。
 なお、追ってこれらに関する資料をお送りいたしますので、熟読するよう願います。
                                    以 上


⑤学会から宗務院への返書
                     (平成2年12月28日付)


 平成2年12月26日付書面を拝見致しました。
 宗務院からの12月16日付文書の内容につきましては、その根拠とされているテープの出所が不明確であるのみならず、私どもが懸念していたとおり、その引用自体がきわめて不正確であり、明らかに意味を取り違えたものとしか思えない部分が少なからずございます。さらに、根拠のない伝聞に基づいて憶測を加えたうえ、あろうことか「池田教」とか「私的な法門」などと決めつけた部分まで見られます。
 従いまして、私どもと致しましては、このような書面を前提にしたままで、文書によっては責任ある回答をすることはできないと考え、かつまた、ことがらの性質に鑑みれば、何よりも真摯な胸襟を開いた話し合いこそ重要であると思われますので、その旨のお願いを申し上げたわけでございます。
 とともに、互いにわだかまりを残したままでは、僧俗和合の実をあげることはできませんので、九項目にわたるお伺いをさせていただき、あわせて話し合いの場でご教示いただきたいと申し上げたのでございます。
 それに対して、私どもの「お伺い」を「詰問状」であるとか、「回答を示される意志が全くない」とか、「無慙無愧という他ありません」などと一方的に決めつけられ、その旨通知するというのは、あまりにも独断的かつ理不尽きわまりないものであります。私どもと致しましては、何故、ご宗門がこのように頑なに話し合いを拒絶されるのか、全く理解に苦しむものであります。
 また、池田名誉会長不在の場では話し合いはできないとのことでありますが、ことは創価学会の弘教活動それ自体の問題であり、執行部として責任をもって対処してまいる所存でございます。
 従いまして、私どもは、あくまでも話し合いによって、池田名誉会長のスピーチの真意と広宣流布・宗門外護にかける真情をご理解いただきたいことを、重ねてお願い致します。その際には、スピーチのテープを再生し互いに確認しあいながら、すべてをありのままに明らかにしたいと存じます。
 ご宗門におかれましては、どうか、私どもの心情をお汲み取りいただき、よろしくご再考いただきたいことをお願い申し上げる次第でございます。
 平成2年12月28日
                    創価学会会長
                         秋谷 栄之助
日蓮正宗総監
  藤本 日潤 殿


⑥学会からの「お伺い」書に対する宗務院の返書
                      (平成2年12月29日付)


創価学会会長
 秋谷 栄之助 殿

 第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ねの文書に対して、7日以内に文書による回答を求めましたところ、あくまでも話合いでという一方的な返答で、回答を示されないばかりでなく、かえって「お伺い」なる文書をもって、九項目の詰問状が提出されてまいりました。
 当方からの文書に誠意ある回答が寄せられない今、これに答える必要はありませんが、あまりにも信心のない、哀れな姿を黙視することが出来ず、正信に目覚める一助になればと認めました。
 よくよく熟読玩味下さい。
                              以 上
 平成2年12月29日
                     日蓮正宗総監 藤本 日潤


(1)本年7月21日の池田・秋谷両氏の御目通りの件
                  ―御法主上人の発言封じについて―


 (イ) の件は、御法主上人のお言葉のすり替えと軽蔑の言が目立ちます。
 まず、御法主上人が「丑寅勤行の参加人員が少ない」と言われたように書いていますが、これはお言葉のすり替えです。長い間、学会では登山宿泊者の四分の一しか出席させなかったことが判り、かつ、せっかく登山したのに丑寅勤行に出られないという一部信徒の声も耳に入り、また登山センターの中心者に話しても、一向に埒が明きませんので、「画一的に四分の一にしないで、出たい人は出させてあげたらどうですか。そのかわり出たくない人が多いなら、出なくても、また少なくてもよいのです」という趣旨を述べられたので、参加者が少ないという苦情を申されたのではありません。一人一人の信心を大切にされる御法主上人のお心に対し、本年7月17日の連絡会議に出席した学会首脳の各氏が、軽はずみな批判をしたことは、御法主上人を蔑ろにしているものと思います。
 すなわち、当日の席上、まず八尋氏は「ヨーロッパの微妙なことをお話して理解してもらい、それが終わって立川寺院が遅れている、どうしたのかと猊下から言われた。名誉会長は疲れて行った。今度はアメリカから帰ってきて西片へ行った。疲れて行った。丑寅勤行の話しが出た。こういう話が出るのかと思った。疲れた身体に鞭打って行った。そういう中で、ふさわしい話ではないと思った。猊下と名誉会長の話の中で出てくる話ではないな。むしろ連絡会議でやるべき話しではないか。ふさわしくない話だと思った」と批判しています。次に、山崎氏は「今のような話は、連絡会議でやってもらいたい」と述べ、次に秋谷氏が「丑寅勤行の話は、連絡会議で言っておけよと言っていただきたい。名誉会長を煩わせたくない」と言い、野崎氏は「名誉会長が、猊下に呼ばれて言われたという形になる。権威を押しつけられるような印象で、よくないと思う」と、わけの判らない形式論を述べて、御法主上人が権威を押しつけるものと謗り、また森田氏は「猊下と名誉会長の話はもっと高次元の話をしてもらいたい」と、御法主上人のお話を侮辱しております。
 御法主上人が、たまに名誉会長の訪問を受けて、「ご苦労様でした」と種々ねぎらわれた後、名誉会長の話を長時間聞かれ、その後、立川寺院の建立が遅れていることや、丑寅勤行に関することをそれぞれ申されたことが、なぜそのような批判とか憤慨に当たるのでしょうか。丑寅勤行に出たい人が出られないのは可哀想だという御法主上人の御慈悲のお言葉を、低次元とする批評こそ無漸極まりないものと信じます。また、そのことを、怨念をもって後々まで問題にするのでは、本当に恐ろしく、呆れ果てて言葉もありません。さらに、それほど名誉会長がお疲れならば、ゆっくり疲れを癒した後に御目通りをされるのが、むしろ礼儀ではないでしょうか。御法主上人は、いついかなるときでも、早急においで下さいなどとは、一言も仰せられたことはないはずであります。
 しかるに、前記の各氏の一連の発言は、明らかに御法主上人のお言葉に対する干渉であり、言掛りをつけるものであります。これはまさに御法主上人に対する軽蔑以外の何ものでもありません。軽蔑の言には、すなわちその心に憍慢があるからであります。これは誰が見ても明らかな道理であると思います。したがって、御法主上人はこの報告を聞かれて、7月21日の御目通りの際に、池田・秋谷両氏に対して「そういう言は、法主の発言を封ずることになる」と、何度も意を尽くしてお話をされたのですが、一向に理解しないという経過の上で、「憍慢謗法ですよ」と仰せられたのであります。まことに理路整然としていると確信しております。
 とくに、野崎氏の「権威云々」とか「よくない」などの発言は、どこに信仰心があるのかを疑うものであります。逆に、御法主上人が自らの分を弁えずに、権威ある名誉会長を呼びつけたというような印象を懐くとするのは、本宗の信仰から見て本末転倒であると指摘します。一宗を統率される御法主上人が、必要と思われたことを、誰人に対して述べられても、それに信伏随従するのが信徒の立場であり、仮にも文句や言掛りをつける筋合いはありません。しかも、7月21日の御目通りの席上、御法主上人からの御注意に対して、最終的に名誉会長は、「(今後、御法主上人の御発言の)封じ込めみたいな言い方に対しては、注意します」と述べた由、伺っております。それにもかかわらず、今回、このように蒸し返してきたことを考えるとき、「注意します」という反省の意が、まったく失われております。このことは、信徒として、いかに誠意なく、不正直であるかが明白であります。
 なお、私藤本が、連絡会議の席上で「そうですね」と同意したと言われますが、御法主上人の御発言を封じたかたちで、連絡会議で取り上げるようなことに、同意したことなどは絶対にありません。もし、そのように思われたとしたら、それは長い対話の流れの中で、それ以外の事柄に頷いたのを、学会首脳の各氏が問違って取ったのであります。
 要するに、御法主上人のお言葉を問題として批判された諸氏は、その心底に無信心より起こる軽蔑と見下しがあることは明白で、これはまさしく憍慢に当たるものであります。大聖人の「信心するは随喜なり」「随喜と申すは随順の義なり」、また「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」との御金言を深く体すべきであります。

 (ロ) 次に、「右の発言は、連絡会議という場で、信徒のお願いを申し上げたものです。」「信徒がそういう場で猊下のことに関して、一切発言してはいけない、何らお願いもしてはならないということなのでしょうか」とありますが、御法主上人の御発言を封じるような言動がいけないと言っているのであります。もし名誉会長や秋谷氏が、信徒として、御法主上人にお願いがあるならば、御目通りの手続きを経て、直接猊下に申し上げるべきで、従来もそれを拒まれたことなどは一度もありません。その筋を違えて、連絡会議という事務上のレベルの場において、御法主上人のお言葉を批判することは、信徒としてあるまじきことであります。しかも、これに関する諸氏の発言は、お願いというより、むしろ御法主上人に対する軽蔑、見下しの批判であったと断言いたします。

 (ハ) 7月17日の連絡会議の席上での学会首脳の各氏の発言が、「憍慢謗法であるなら、ただ黙って聞いておられた僧侶方に、何ら間題はないのでしょうか」とのお伺いですが、当日の会議は、学会側が「今日は話を聞いて頂く」というものすごい剣幕で、一方的に宗門に対する種々の問題をまくし立てたのであります。不審な点を聞こうにも、当方の言葉を差し挾ませないばかりか、一人の話が終わらぬうちに、次の者が宗門や僧侶を批判するという有様で、言いたい放題言い終わるや否や、当方の返答など一切聞かず、「今日はこれで」と座を立ったのであります。このように、当方の発言を封ずる状態にしたのは、学会側ではありませんか。常識的に考えて、あのような状況下では、まともな返事ができるわけがありません。したがって、この批難は、質問としてまったく当を得ておりません。反対に、連絡会議という宗務院と学会における、実務上の最も重要な場において、あのような状況を作り出した学会首脳の、憍慢の姿を指摘するものであります。

 (ニ) の伺いは、まさしく御法主上人に対する、侮辱と反抗の言辞と受け取ります。
 従来述べてきたように、御法主上人の「憍慢謗法」とのお言葉には、整然たる理由があり、その事実を述べられたのであります。日蓮大聖人以来の御法体を厳護継承せられ、この世でただ御一人、本門戒壇の大御本尊の御内証を御書写遊ばされる御法主上人に対して、「どうか私ども信者を小馬鹿にしたり、蔑んだりするお言葉を使わないでいただきたい」との不遜この上ない言葉を、牧口・戸田両歴代会長が聞かれたら、何と悲しまれることでありましょう。こうした暴言を、何の憚りもなく吐けるのは、無道心の現学会首脳の体質の現われでありますから、この御法主上人への暴言は、そのまま学会首脳へお返しいたします。


(2)本年七月二一日の池田・秋谷両氏の御目通りの件
                     ―事実無根の発言について―


 猊下のお言葉として「『学会の記念行事があるので御講に行かなくてよいと、あんた自身が地域の総代に言ったじゃないか!』と頭から決めつけて詰問されました」と言っていますが、これも実際とはまったく相違した、事実無根の誤りであります。
 御法主上人は、一般の学会員の中で、そういう指導があることについて注意されたのであります。
 御法主上人は、「あんまり寺へ行くな」とか、「これからは好い加減にしろ」とか、「いつといつはいかないようにしろ」などの幹部指導がなされているという報告が耳に入ってきているという意味のことは述べられましたが、名誉会長に「御講に行かなくてよいと、あんた(名誉会長)自身が地域の総代に言ったじゃないか」などとは、決して言っておらず、恐らく御法主上人に対して、当日の池田・秋谷両氏の混乱した感情による聞き違いか、あるいは両氏によるまったくの捏造であります。
 したがって、そちらの(イ)、(ロ)、(ハ)の詰問のすべては、まったく事実に反した大変な見当違いであります。反対に、このような誣言によって御法主上人を攻撃せんとすること自体が、わざと御法主上人のイメージダウンを狙う卑劣にして悪辣な策謀であり、宗門を外護する純真な信徒としては、絶対にあるまじきことであると指摘します。


(3)昭和六一年七月の宗務院・学会連絡会議における
   大村教学部長の発言の件


 今回、「大村教学部長は、退転者・福島源次郎が書いた学会批判を使い、またこれに同調して、学会批判を、直接秋谷にされました。福島源次郎は、法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者であります。かかる謗法の徒の言動を根拠とするのみならず、同調されたのは、なにか特別な関係か、それとも他の理由があってのことでしょうか」と言っておりますが、まず大村教学部長は、福島源次郎氏とは何の関わりもありません。まして、特別の関係などがあろうはずはありません。
 また、「連絡会議における」と言っておりますが、これも明らかな思い違いであり、正しくは連絡会議の場ではなく、その終了後の別室における席上であります。
 大村教学部長は、福島源次郎氏の言葉のみによったのではなく、一般の人々の間でも噂になっていることでもありますので、あえてその噂を否定するつもりで、「財務をノルマのようにしてはいませんね」と伺っただけのことであります。この質問は、そうしたことで、むしろ学会内における異体同心の絆がこわれてはいけないと案じたからであります。そのどこが、学会批判になるのでしょうか。
 なお、本年七月の連絡会議で、秋谷会長は「福島は下劣な人間である」と言われましたが、今回は「福島源次郎は法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者」と言っております。福島源次郎氏が、現在創価学会に所属していないとしても、法主の血脈を否定したなどということは、まったく聞いたことがありません。しからば、日蓮正宗の信仰をしている者について、「大謗法の退転者」と頭から決めつけるのは、むしろ「法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり、仏を毀りては罪を得るなり」との御文に違背する謗法行為であることを指摘します。


(4)本年七月二日の宣徳寺本堂・庫裏増改築落慶法要における
   高野法雄師の祝辞の件


 本年7月2日の宣徳寺本堂・庫裏増改築落慶法要における高野法雄師の祝辞は、確かに慎重を欠くものであり、軽率な発言でありました。このような発言に対し、宗務院として、当人に厳重に注意いたしました。
 また、宣徳寺の事業については、宗務院の承認を得た上で、所定の手続きを経て宗教法人宣徳寺の事業として遂行されたものであります。
 なお、金銭貸借の問題については、住職個人間のものではなく、法人間の貸借ではありますが、確かに手続き上の瑕疵もあり、この点については、今後、宗務院として厳正に指導いたします。


(5)本年七月二一日の池田・秋谷両氏の御目通りの件
                         ―懲罰云々について―


 7月21日の御目通りに際して、御法主上人が「名誉会長に『あんたにもいっておきたいことがある。懲罰にかけるから』と激しい口調で、早口で興奮して語られました」と書いてありますが、創価学会の首脳である者が、これほど卑劣で邪悪な言掛りをつけることに対し、本当に恐ろしい気がいたします。これは(2)の(ロ)よりも、なお悪辣、無慚な捏造であります。
 御法主上人は、当日の御目通りの時はもとより、過去十数年の御目通りにおいても、名誉会長に「懲罰云々」などの言は、まったく述べたことはないと断言されております。当日は御法主上人お一人に対し、池田・秋谷両氏が御目通りしたわけで、二人が口裏を合わせれば、どのような卑劣なでっち上げも可能であります。しかし、御法主上人のご記憶は明晰であり、そのような御発言は断じてありうるはずはありません。それを「名誉会長も明確に聞いており、(中略)車中、同乗した秋谷・八尋に『宗門の懲罰委員会の構成はどうなっているか』とすぐ聞いていることからも明らかであります」と、さも車中における名誉会長の発言が、明白な依拠であるように言っておりますが、これは当日の御目通りで、御法主上人より種々指摘され、混乱した名誉会長が、日頃の宗門誹謗の言動と相俟って、「懲罰云云」と言われたように思い込み、車中におけるこの発言につながったのでありましょう。そうでないとすれば、わざと御法主上人のイメージダウンを図るために、あえて万々承知の上で「懲罰云々」をしつこく述べているとも取れます。いずれにせよ「懲罰云々」のことは、当日、御法主上人はまったく述べておられません。したがって、この件について、宗務当局が重ねて明確にする必要はないと同時に、かえって学会首脳が御法主上人を讒謗するものであると申しておきます。


(6)本年一一月二〇日の名誉会長など五人の学会幹部の
   御目通りの件

                   ―正信会に対する考え方について―

 本年11月20日の名誉会長など五人の学会幹部の御目通りに際し、御法主上人が「正信会が血脈を否定してまで法主を批判した原因は、学会にある」という趣旨のお話は「どう拝してよいか、思案に苦しんでおります」「何よりも彼ら正信会に、この日蓮正宗の根本の信心がなかったことに最大の原因があり、学会とは関係ない問題であると私どもはうけとめています」と言っておりますが、ここに現創価学会のまことに無慚無愧な体質が現われていると指摘します。
 日達上人の御在職中、いわゆる創価学会の五二年路線における教義の逸脱がありましたが、それらは昭和53年の六・三〇、一一・七によって是正され、翌54年5月3日の本部総会の席上、日達上人は創価学会が今後日蓮正宗の信徒団体として、六・三〇、一一・七で示された基本を忠実に守るという前提のもとに、僧俗和合の協調路線を進めていく旨御指南され、学会問題の一切を収束されたのであります。その後、日達上人の御遷化にともなって御登座された日顕上人は、御登座以来、一つには日達上人の宗門対学会の紛争の収束を尊重され、二つには牧口・戸田両会長以来の、正法正義の堅持と弘通という学会の伝統を信頼されて、日達上人が最終的に敷かれた協調路線を受け継がれ、訓諭や院達などで宗内僧俗を訓戒され、もって名誉会長や創価学会の組織を守られたのであります。
 しかし、これを不服とした正信会の者達が、宗門の制止にもかかわらず、第五回檀徒大会を行って名誉会長や創価学会に攻撃を行なったので、宗門の統制の上からも、止むを得ず参加者に処分を加えたのであります。ところが、正信会の徒輩は、この状況より名誉会長と創価学会を守る御法主上人に対して、反抗の火の手を挙げたのが実状であります。それが、次第にエスカレートした結果、日顕上人への血脈を否定する暴挙に出たため、遂に擯斥処分に付されたのであります。
 したがって、これらの経緯からすれば、正信会の徒輩の信心の誤りは当然ながら、その不祥事件の元をただせば、学会の教義上の逸脱という、大きな問題があり、そこに根本原因があったことは事実であります。正信会としても、当初は学会の逸脱についての日達上人の御意を体して、その誤りを糾すべく立ち上がった経緯があったのであります。それゆえに、名誉会長自身が、昭和55年4月2日、聖教新聞紙上に掲載された「恩師の二十三回忌に思う」との所感の中で、「私が展開した昭和五十二年の一連の指導に発端の因があったことは事実であります」と言われ、また数年前、名誉会長が東京の大石寺出張所において、御法主上人に御目通りした折、宗門の擯斥処分等について、「私の不徳です。深く反省しています」と述べられた旨伺っております。これこそ創価学会の首脳として、今後の僧俗一致のための、基本的にして忘れてならぬ反省であります。
 これらの経緯を踏まえた場合、創価学会の首脳に、仮にも良心があるならば、正信会の問題が「学会とは関係のない問題であると私どもは受け止めています」などとは、決して言えることではありません。このようなことを、創価学会の公式見解として平気で言えるところに、五二年路線における六・三〇、一一・七への反省が、まったくなされていないことを指摘するものであります。また、名誉会長自身、現在はまったくそのような念を抛棄してそれらに触れず、反省もなく宗門を云々し、また正信会のことを取り上げていることは、一連の経緯を無視し、自らの悪しき過去を、わざと隠蔽せんとするものであると、指摘するものであります。
 11月20日の御目通りでの御法主上人のお言葉は、現在の名誉会長や創価学会の体制に対して、このような一連の流れの上から、公正なる道理としてなされたものであると承っております。
 なお、「私どもの承知している宗門裁判の行く末にも多大な影響があるものと憂慮するものであります」とは、まさに宗門に対する脅しとも受け取られ、日蓮正宗の信徒団体としての公式発言であるとは思えません。もともと「さきのような正信会に対するお話」というものが、創価学会首脳部の、六・三〇、一一・七への無反省からくる曲解した表現でありますから、宗務院としては、逆に創価学会首脳に対して、正直にして純粋なる信仰心に立ち返ることを、あえて要請いたします。


(7)本年一一月二〇日の名誉会長など五人の学会幹部の
   御目通りの件
                        ―学会の折伏について―


 11月20日の御目通りの際、御法主上人より「最近、聖教新聞紙上に他宗の謗法義に対する批判が少なくなった」と言われたことを、学会は折伏をしなくなったと捉えているようですが、これは、信仰心を失って、御法主上人の御真意を捩じ曲げてしか捉えられなくなった証拠であることを、はじめに指摘いたします。
 猊下は、末端の方々が苦労をして折伏をされていることは充分ご承知であります。そのために信徒各位が常に息災であるようにと、毎日御祈念をされているのであります。
 日蓮正宗には、大聖人の仏法を広宣流布せしめ、一切の民衆に真の幸福をもたらすべき重大な使命があり、またその唯一の宗団であることは、御開山日興上人の「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」との御遺誡にも明らかであります。したがって、信徒各位がそれに向かって自行化他の信心を倍増せしめ、「いかなる大善を作り法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも責めざれば得道ありがたし」と仰せのように、真の功徳を信徒一同に得させてあげたいとの仏法の道理に照らしてのお言葉であることは、申すまでもありません。
 日蓮正宗の信徒であるならば、かかる御法主上人の御指南は、自分達に功徳をいただく道をお示し下さったと、寧ろ拝跪合掌すべきであります。それを御法主上人に対して、「最近の折伏に破折がなくなったということも理解に苦しむお言葉であります」と批難し、聖教新聞紙上の「折伏」の語句を数えて数字を出すなどの大人げない所業や言動は、もはや日蓮正宗の信仰者の姿とは思えません。冷静に御法主上人の御慈悲を汲み取っていただきたいものであります。


(8)本年七月二一日の池田・秋谷両氏の御目通りの件
                          ―週刊誌に関して―


 週刊誌に学会の記事がいろいろ出ているようですが、宗門と週刊誌の記事とは何ら関係ありません。
 あえて申し上げますが、この度の伺書の(1)の項において、「大声をあげて、立ち上がらんばかりの剣幕で『法主の発言を封じた。憍慢だ、憍慢謗法だ』と怒鳴られ、叱責されました。」と、第三者が聞くと、いかにも御法主上人が暴虐な態度をとったように、誇張した書き方をしております。このことについて、御法主上人は、断じてそのようなことはなかったと仰せであります。
 また、「憍慢だ」と言い捨てるような言い方をしたように書いておりますが、猊下は常に「です」という丁寧な言葉を使われております。これでは、いかにも猊下の言葉使いが荒いと言わんばかりであります。これらは少しでも御法主上人のイメージを悪くさせようとする底意以外の何ものでもありません。
 こうした曲言をしながら、ただ名誉会長の事に関してのみ、当方に週刊誌の記事が間違いであることを表明してもらいたいと要求するのは、御法主上人軽視も甚だしいもので、宗門外護の団体としてはまったく逆の行為であります。
 また、週刊誌に掲載される事柄についても、「これまで名誉会長も学会もいつものように歯牙にもかけない態度できましたし、馬鹿馬鹿しくて相手にもしてきませんでした。今後とも、眼中に置かぬ態度に変わりありません」といい、連絡会議等においても当方に対し、「週刊誌の記事など真に受けて学会のことを云々しないで下さい」といいながら、ここに来て「宗務院から是非とも事実を明らかにして下さい」とは、明らかに矛盾であり、その甚だしさに呆れるばかりであります。
 誤解を解きたいというのであれば、「歯牙にもかけぬ」等と言わずに、学会首脳として、まず御法主上人に関する種々の捏造記事を斬り、しかる後に、名誉会長についても弁明しては如何ですか。それが外護の立場というものであります。


(9)本年一一月一四日の宗務院・学会連絡会議の件
                         ― 二百箇寺に関して―


 本年11月14日の東京常泉寺における連絡会議の折、藤本総監より学会寄進の二百箇寺計画の件につき、とくに東京における進捗状況が遅いということで、「『江戸川の大護寺以来、都内二十三区に一か寺もできていない。理由は何か』と厳しい問責がありました」と、いかにも宗務院が権威を振りかざしているような言い方をしておりますが、事実を歪曲しております。このことは、11月度の連絡会議の際、当初の計画として東京二三区内に一一箇寺の寺院を建立される予定で、初年度には順調に江戸川の大護寺が建立されました。ところが、二年目以降、毎年一箇寺ずつの建立寄進の予定になっているにもかかわらず、六箇年が過ぎても何の進展も連絡もありませんので、都内の状況はどのようになっているのですかと伺ったのであります。それに対して、種々問題があるとのことでしたので、それについて教えて下さいと、お願いしたのであります。そのように聞くことのどこが悪いのでしょうか。それを「大変高飛車な言い方で、しかも追及するような口調で切り出された」「まるで被告席に居て尋問をうけているような硬い、厳しい雰囲気でした」との言い方は、まさに悪辣な虚偽のでっち上げであり、明らかに宗門に対する悪意の現われとしか言えません。
 学会が主張するように、こうした寺院建立の問題こそ事務的レベルの問題で、連絡会議で充分検討すべきことなのではないでしょうか。それをちょっと伺っただけで、このような被害者意識を露呈して反論をされるのでは、宗務院として何も言えません。宗門の僧侶においては、誰一人として、学会の寺院建立の浄業を尊いと思わない者はおりませんし、とくに落慶入仏法要では、御法主上人より長い間にわたって、その都度、真心の賛辞を賜っていることは周知のとおりであります。それにもかかわらず、このような悪口の限りを尽くす学会首脳の体質に対して、本当に悲しく淋しい思いがいたします。
 よって今後、宗門としては真の御供養の精神に基づいて寺院を建立していくつもりであります。本年末をもって、総本山開創七百年も終了いたしますので、これを機会に、これまで記念事業として行われてきた二百箇寺建立寄進は、学会が言われるように、「もともと契約のようなものではありません」ので、三重県白山町の仏徳寺を最後として、平成三年以降、残りの八九箇寺については、寄進を辞退いたしたいと存じます。よろしく御了承下さい。
                                      以 上


⑦宗務院より創価学会への返書
                     (平成2年12月30日付)


平成2年12月30日
                       日蓮正宗総監
                            藤本 日潤
 創価学会会長
 秋谷 栄之助 殿

 平成2年12月28日付書面を拝見いたしました。
 「(テープ)引用自体がきわめて不正確であり、明らかに意味を取り違えたものとしか思えない部分が少なからずございます」とのことでありますが、それならば「お尋ね」の文書に示された引用文の、どの部分がどのように不正確であるのか、また意味を取り違えているとすれば、どの部分をどのように取り違えているのかを指摘出来るはずであります。この点を文書によってお示しいただきたく思います。
                                     以 上


⑧宗務院よりの「お尋ね」に対する創価学会からの回答
                       (平成3年1月1日付)


「お尋ね」に対する回答


   (一)
 宗務院よりの平成2年12月16日付書面をもって送付されました「第三十五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」につきましては、私どもと致しましては、あくまで話し合いでというお願いを申し上げてまいりましたが、その思いは今も変わるものではございませんので、私どもの真情を是非ご理解いただきたく、重ねて申し上げさせていただきます。

 この件につきましては、先に、総監が秋谷に文書を手渡そうとされた12月13日の宗務院・学会連絡会議の席上でも申し上げましたが、ご宗門と学会のこれまでの関係からすれば、何事もまず話し合いがあって然るべきであると思うのでございます。そのうえで、話し合っても埒があかないから文書でということはあったとしても、こうした僧俗間の問題について初めから文書でやりとりするというのでは、いかにもご宗門と学会の間が対話すらできない状態にあったようで、後世に禍根を残すことになると思うのでございます。
 しかも、ことは連絡会議の席上でのことであり、直前までは、お互いに膝を交え、議題に沿って、二百か寺建立計画、寺院の入仏式・起工式、ロサンゼルス・妙法寺庫裡の新築、香港・インドなど世界広布の進展状況等、平常通りの打ち合わせ、報告をさせていただいていたわけですから、突然、文書を突きつけて一週間以内に文書で回答せよと迫るご宗門の態度には、どうしても納得できない思いを禁じえなかったのでございます。
 総本山が疲弊の極にあった戦後の混乱期を含め、過去半世紀余、ご宗門と学会の間には、確かに摩擦もありました。しかし、それは、いつの時代でも胸襟を開いた双方の率直な話し合いで解決し、僧俗和合して日蓮正宗の今日の大興隆を築いてきたわけでございます。にもかかわらず、今回に限って、唐突に文書を突き付けられ、しかも一週間以内に回答せよと仰せられたのは、何か特別な意図でもあるのだろうかとの感を受け、まことに腑に落ちぬことでありました。
 また、席上、総監より、手に入ったテープをもとに作成した文書である旨お話がございましたが、そのテープの出所を明かすことはできない、とも言われました。そこで秋谷が、「それが改竄されたテープであったり、不確かなものであった場合、それを根拠に公式文書とされたのであれば、総監の重大な責任問題ともなります。総監さんのためにそれを心配するのです。その点から文書でなく話し合いの方がいいのではないでしょうか」と申し上げたのであります。また、出所の不明なテープをもとにした問い糺しでは、到底、信頼関係にあるとはいえず、平成二年、開創七百年の年頭にあたって「僧俗和合」の「訓諭」を発せられた日顕上人のご宸襟を悩ましめることにもなりますので、まず出所を明らかにしていただきたいと、お願いしたわけでございます。
 そして、秋谷より、学会として完全なテープは保管している旨をお答えし、これに対し、最後に総監より、「今日は文書は出しません。別のやり方を考えましょう。テープを学会のものと突き合わせたらよいと思います」とのお話がありましたので、私どもは、その日はそれで失礼させていただいたわけでございます。この間約三十分にわたり、この件についての話し合いが行われたのであります。
 したがって、私どもは、当然、その後、ご宗門よりテープの真偽についてお話があるに違いない、と思っておりましたところ、12月17日、突如、「お尋ね」文書に接したのでございます。
 いかなる理由があるとしても、なぜ話し合おうとされないのか、私どもは、ご宗門の真意がどこにあるのか、非常に理解に苦しんだのであります。
 文書でいただいたお尋ねには、文書でご返答してもよいのですが、心からのご信頼をいただけぬままに文書でご返事申し上げれば、あるいは誤解のうえに誤解を重ねる結果となり、かえって問題を複雑化する恐れもあり、永い将来の僧俗和合のためにも決してプラスになるとは思われません。私どもは、あくまでも話し合いで解決することが正しい道であると信じ、あわせて私どもの胸にわだかまっている事柄も、真実の和合を築くためには、この際、お聞きいただいた方がよいと考え、12月23日付の総監宛の書面で、重ねてお話し合いをお願い申し上げ、また、お伺いをさせていただいたのでございます。
 しかも、私どもは、それについては、文書でなければならないとか、期日を限るとかということではなく、いつでもご都合のよいときに連絡会議等で、お教えいただきたいとお願いしたのでございます。
 さらに、12月28日付で私から総監宛に差し上げた書面でも、名誉会長の真情をご理解いただくために、スピーチのテープを再生し、互いに確認しながら、お話し合いをさせていただきたいことをご提案申し上げたのでございます。
 私どものこのようなお願いに対し、ご宗門が、総監から秋谷宛の12月26日及び29日付書面において、あくまでも文書での回答をと言われるのは、なぜ、そうまで対話を拒絶されるのか、まことに訝しく思われてなりません。頑ななまでに対話を拒まれ、取り合おうとされない態度には、悲しみすら覚えるのでございます。

 さて、一連の書面で、ご宗門からの「お尋ね」文書に返答がないとご立腹の件ですが、なぜ私どもが文書より話し合いをお願いしたかという件について、私どもの考えを、一歩立ち入って申し上げさせていただきます。
 第一に、テープの「盗みどり」という卑劣な行為を憎むからでございます。
 学会の会合では、参加者はテープをとらないことになっております。それは、テープは不正確にしか聞こえない場合が多いし、また、その場の雰囲気も正確に伝わらないため、後でそれを聞く人が必ずといっていいほど誤解するおそれがあるからです。したがって、「お尋ね」文書の論拠となっているのが出所不明のテープであるということは、そのテープは盗みどりされたものということにほかならず、この、テープの盗みどりという行為をご宗門はどうお考えになられるのでしょうか。盗みどりなどということは、道義的にもけっして許さるべきではなく、そうした行為を諫めるのが聖職者のあるべき姿ではないでしょうか。仮にどこからか届けられたものだとしても、ご宗門と学会との関係にあっては、出所不明のテープが寄せられたがこれは本当かどうかと、まず真偽についてのお尋ねがあって然るべきではなかったかと、残念に思われてなりません。それをされないままに、いわば公式文書の論拠とすることは、世間では、到底通用しない非常識なことといわざるをえません。
 したがって、私どもとしましては、そうした文書に文書をもってお答えすること自体、テープの盗みどりという卑劣な行為を結果として容認することにもなりかねませんので、文書による回答を控えさせていただいたわけでございます。

 第二に、発言の不正確な引用及び切り文による誤解、曲解でございます。
 話し言葉による発言を引用した、こうした文書には常にありがちなことでありますが、今回も、名誉会長の発言として引用されているものが、大事な部分において実際の発言と違っており、それにより、発言の意味が全く違ったものになってしまっているのであります。
 例えば、「お尋ね」文書では、「ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう」と言ったとしておられますが、実際には、「どうしたら折伏ができるか」と前置きし、実践の上からの折伏の方法論を述べる中で、「ただ朝起きて『真言亡国・禅天魔」(笑)法を下げるだけでしょう」と述べているのであります。すなわち、時と場所と状況もわきまえず、ただ「真言亡国・禅天魔」というような言葉を繰り返しているだけでは、折伏はできるものではないし、それでは逆に、結果として「法を下げるだけでしょう」と、折伏の実践に即して論じたものであることは、明らかなところであります。
 そのことは、この会合に参加してその場の雰囲気を肌で感じ取ってスピーチを聞いている者には明確なことであり、四箇の格言を否定した発言であるなどと理解した者は誰もおりません。
 それを、「朝起きて」という、状況を説明する文言を省いて、切り文的な文章にしてしまっているのは、意図的なことなのでしょうか、それとも、他の理由によるものなのでしょうか。それによっては、テープが改竄されたものであるか否かを判断する重要な材料になりますので、是非とも明快なお答えをいただきたくお願い致します。
 いずれにしても、この発言が、あくまでも折伏を本としたものであって、四箇の格言を否定したものでないことは、明らかであります。それを、摂受を本とした言い方であると断じているのは全くの間違いであり、それは、雰囲気の伝わらないテープをもとにし、しかも、発言を切り文的に取り上げて曲解したために生じたものではないかと思われます。
 しかるに、「お尋ね」文書は、このような間違いをもって法義違背の発言とする根拠とされているわけでありますので、私どもとしては、これにつき、公式な場において誤りであることを認め、撤回していただきたいことを強く申し入れるものであります。
 また、「お尋ね」文書の十三頁の、「ゴ大統領は」云々のくだりには、「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい」という記載がございます。
 これは、名誉会長のスピーチの引用なのでしょうか。もし引用であるとすれば、スピーチのどの部分を引用されたものなのでしょうか。それとも、出所不明のテープには、そのように録音されていたのでしょうか。明らかにしていただきたいのでございます。
 これに該当するのではないかと思われる名誉会長の発言箇所としては、「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よく分かっていますよ。それを学会がやってるから、学会は絶対にすばらしい」という部分があり、「お尋ね」文書の記載とはスピーチの内容が全く異なっているのであります。
 このように「お尋ね」文書では、実際には発言されていない「折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ」という言葉を勝手に作出し、これを、別の箇所の「七百年間折伏がそんなに出来なかったんですよ」という発言と並べることによって、池田名誉会長が、日蓮正宗が七百年間全く折伏をやってこなかった旨の発言をした、という根拠に用いているのであり、そこに意図的な策を感ぜざるをえません。
 池田名誉会長が、日蓮正宗の折伏について言及したのは、唯一「そんなに出来なかったんですよ」という部分だけであります。ご宗門では「そんなに」と「まったく」とが全く同一の意味であるとお考えなのでしょうか。この点も明らかにしてください。
 学会は、過去の尾張法難をはじめとする数々の折伏・弘教による法難の歴史を否定したことなど一度もございません。それにもかかわらず、このような意図的とすら思える言葉のすりかえを根拠に、「僧俗の尊い弘教を冒涜するもの」とまで決めつけられることは、まことに心外でございます。
 さらに、「お尋ね」文書の二頁に記載されている「それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」という部分と、同文書十五頁に記載されている「世界の仏法流布という……折伏だけで、全部ね、教条的にね、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに。」という部分とは、名誉会長のスピーチのどの部分の引用なのでしょうか。また、二頁と十五頁の引用は、同じ部分の引用なのでしょうか、それとも違う部分の引用なのでしょうか。このとおり、出所不明のテープに録音されているのでしょうか。
 一見するかぎり同じ部分の引用であるように見受けられますが、そうであるならば、なぜ表現がこれほど異なっているのでしょうか、そのこと自体からも、この「お尋ね」文書の根拠とする「テープ」なるものの再生・反訳の不正確さ、杜撰さが明白です。
 いずれにしろ、両箇所に該当すると思われる実際の発言とはかなり異なっております。
 このように、いくつかの例をあげただけでも、「お尋ね」文書は、不正確きわまりない引用、もしくはすりかえとしか思えない引用にもとづいて作成されているものでありますから、このようなものを前提にして文書による回答をすることは適切ではないと申し上げているのでございます。

 第三に、伝聞をもとに断定する恐ろしさでございます。
 「お尋ね」文書は、伝聞によれば、名誉会長が親鸞を賛嘆したとか、自分のスピーチを元にせよと言ったとし、「池田教」であるとか、「私的な法門」であると断定しております。
 では、親鸞の件については、名誉会長が、いつ、どこで、誰に、どういう内容で言ったのか。この点について、総監より、是非とも責任ある回答をお示しいただきたい。単なる伝聞を確かめもせずに公式文書にし、それを前提として「仏法違背である」などと信仰者にとって致命的といえる断定を下すのは、名誉会長を陥れようとする悪意以外の何物でもありません。いつ、どこで、誰に言ったのか、お示しいただけないのであれば、速やかにかつ公式に、この部分を明確に撤回し、取り消しをすべきであります。

 第四に、推量、憶測から結論を導く独断の弊でございます。
 これは、文書を拝した誰もが感じる点でありましょう。「と思う」「と思われる」「と解釈される」等というのは、あくまでも受け止め方であり、受け止め方というのは人によっておのずから違いがあるものであります。それは論理というより、多分に感情の次元の問題であり、そうした中での文書のやりとりでは、文面では十分には意が通じないだけに、いたずらに感情の行き違いが増幅されてしまうことを恐れるのでございます。これを埋めるのは、率直な話し合い以外にはないのではないでしょうか。

 以上のような考え方にもとづき、今日まで学会としては、話し合いを根本に、文書での回答を控えさせていただいたわけであります。したがって、話し合いは今後も是非お願い申し上げるものですが、12月30日付書面で、「お尋ね」文書に示された引用文の不正確な点や意味を取り違えた点を指摘せよ、との強いご指摘がございましたので、いままで申し上げたことを前提としたうえで、以下において、謹んでお尋ねの諸点につきお答えさせていただくものでございます。

   (二)

一 前文の部分について

 池田名誉会長のスピーチのテープによると、聖教新聞の内容と大幅に違っており、特に宗門に関することが故意に削られ改作されている、とのことでありますが、これは、全くの言いがかりであります。

 そもそもスピーチというものは話し言葉でありますから、重複したり、ユーモアを交えて多少本論から外れ、話の本筋と関係のないことに言及したり、そのままでは文章にならない言い回しがあったりするのは当然のことであります。また、会合の独特の雰囲気のなかでの発言や動作を交えての発言など、その場にいる者にしかわからないこともあります。これを記事にする段階で、スピーチの趣旨にてらして整理し、無関係の部分を削除したりなどするのは、これまた当然であり、編集の基本であります。
 したがって、そのテープ再生のものと、新聞記事と異なる部分があるのは当たり前で、その場合でもスピーチの趣旨自体にはなんら変わりはなく、これを改作などというのはあたらないのであります。

二 「御法主上人・宗門に関する件」について

1 「名誉会長は御法主上人に対して『権力』と決めつけておりますが、創価学会でいう『悪しき権威・権力と戦う』の『悪しき権威・権力』が、なぜ御法主上人に相当するのか、お示しいただきたいと思います。」との点について――

 これは、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。
 まず、11・16のスピーチにおいて、名誉会長は、「悪しき権威・権力」とか、「悪しき権威・権力と戦う」などとは、一言も述べておりません。
 該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「私(日達上人)も人類の恒久平和のために、そして世界の信徒の幸福のために、猊下というものは信徒の、幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。毎日毎夜、大御本尊に御祈念申し上げております」という内容であります。
 これは、日達上人のメッセージを紹介したもので、傍線の部分はその日達上人のお言葉の趣旨を強調し、敷衍したにすぎないものであります。これが、日達上人の信徒を思われる大慈悲のご境涯を賛嘆する意味で述べたものであることは明らかであり、それ以外の何ものでもございません。
 また、11・16以外のスピーチの際に、名誉会長が「悪しき権威・権力」について述べたことはありますが、それは、民衆を圧迫してきた国家権力、社会的ないし宗教的権力や権威等を指しているのであり、具体的には、本来、民衆の幸福のために奉仕しなければならない政治家、聖職者、マスコミ、組織・団体のリーダー等のあるべき姿勢を、一貫して厳しく指摘しているのであります。そして、私たち学会幹部に対しても、大切な仏子である会員に奉仕すべきことを、厳しく指導しているのであります。

2 「これらは、明らかに御法主上人に対する誣告であると思いますが、御意見を聞かせていただきたいと思います」との点について――

 ご指摘の名誉会長の発言に主語がないことは自ら認めておられるとおりであり、これは猊下がそのようなことを言われたとか、猊下のことを指しているとかというものではなく、正信会等の、信徒を見下した僧侶の本質的傾向性を指摘したものであります。そして、この発言の真意は、あくまで布教にあたって、法を説く場合の時や機根等を勘案して賢明に行わなければ布教は進まないということを述べただけにすぎません。
 それを、「明らかに御法主上人に対する言葉と受け止めるものと思います」とか、「日顕上人を指していると思われます」などという憶測にもとづいて、猊下に対する誣告と決めつけられることは、まことに心外なことでございます。

3 「御法主上人は、いつ、どこで、仏法を基調とする平和文化活動を否定し、謗法だなどと言われていますか」及び「多くの会員の前で、このようなことを公言している池田名誉会長の不遜な言動に対して、どう責任を取られるのでしょうか」との点について――

 ご指摘の名誉会長の発言については、スピーチの中で、日顕猊下が学会の平和文化運動に対して深いご理解をいただいているお言葉を引用させていただいていることからも明らかなとおり、決して猊下のことを指しているものではありません。
 ただ、「お尋ね」文書に、べートーベンの「歓喜の歌」の合唱についての誤った認識にもとづく指摘がなされていることに如実に示されているように、ご僧侶方のなかには、文化平和運動について誤解をされている方もおられるのではないかと感じられてならないのでございます。
 一例をあげれば、宗内の教学の責任者として要職にあられる大村教学部長は、平成元年十月号の大白蓮華の裏表紙にガーター勲章の写真が掲載されたことに関して、それに十字章があることをとらえて、「これは十字架であり、キリスト教の本尊というべきものである」として、掲載にクレームをつけられました。そして、その後の連絡会議の席上でも、「イギリスという国はキリスト教の国でしょう」と言われ、ガーター勲章の十字章がキリスト教の十字架であるという自らの考え方に固執しておられました。しかしながら、十字の形をしているからといって、それを直ちにキリスト教と同一視するのは全くの無認識であります。紋章学の世界的権威である、卜ーマス・ウッドゴック氏は、「宗教的意味は全くない」と明言しております。同勲章は、英国王室の伝統と格武を象徴するものであり、信仰の対象となるものでないことはいうまでもありません。こうした事実を認識せず、先のように言うのは、文化運動に対するあまりの無理解をさらけ出すものであり、日顕上人のご指南にも反するのではないかと恐れる次第でございます。

4 「『猊下というものは』などと、御法主上人を指導、もしくは批評するごとき言語表現が、公然となされておりますが、日蓮正宗の信仰をする者として、あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言であると思いますが、創価学会としてこうした発言に対し、どのように申し開きをされますか」との点について――

 第一番目のお尋ねに関して申し上げましたとおりでございます。ご指摘の発言にある「猊下」が日顕猊下のことを指しているとか、まして、猊下を指導もしくは批評しようとするものであるなどということは、けっしてございません。また、「というものは」という表現につきましても、前後の文脈からお分かりいただけますように、日達上人のメッセージの趣旨を、話し言葉で強調し、敷衍したものに他ならないのであり、これをとらえて、「あまりにも謙虚さに欠けた慢心の言」とまで仰せになるのは、いかがなものかと思われます。

5 「『(今の)猊下はまったく学会を守ってくれない』と考えるのは、まったく過去に受けた恩義を省みない無慙な心であると思いますが、いかがでしょうか」との点について――

 これもまた、名誉会長のスピーチを誤解されたことにもとづくお尋ねであると思われますので、その点について申し上げます。
 まず、該当部分の11・16のスピーチを正確に引用致しますと、「あくまで御書です。御本尊です。根本は。これだけわかればいい。あと、ちゃんと日淳上人、堀猊下、全部日達上人、きちっと学会を守って下さる、ね、方軌はできあがってるんです。不思議なことです、御仏智というものは」という内容であります。
 「方軌はできあがってるんです」という言葉があることから明らかなように、名誉会長は、代々の猊下により、学会を守って下さる方軌ができあがっているということを言っているのであって、けっして現猊下が学会を守って下さらないということを言っているわけではないのです。
 それにもかかわらず、実際のスピーチの断片をとらえ、意味を取り違えて、「無慙な心である」と決めつけるのは、余りに一方的であると言わざるをえません。


三 「創価学会創立五十周年当時の回顧の件」について

1 「『会長を辞めさせられ』『宗門から散々にやられ』と公言するのは、まったく自語相違であります」との点について――

 ご指摘の昭和五十三年十一月七日の全国教師総会並創価学会代表幹部会における挨拶及び昭和五十五年四月二日の「恩師の二十三回忌に思う」の所感は、現在もいささかも変わるものではございません。
 ただ、十年前の一連の問題の経過の中では、山崎正友、原島嵩、宗内一部僧侶(後の正信会僧侶)等による学会攻撃と名誉会長追い落としの策謀があったことはまぎれもない事実でございます。池田名誉会長は、その点から会長を辞めさせられたということを述べているのであり、また、後世への戒めとして、そのような反逆者、退転者の本質を厳しく弾呵しているのであります。

2 「正信会の名を借りて宗門を批判し、会員に宗門不信を懐かせることを目的としているように思います。また、正信会に関することを述べる場合、学会の逸脱の問題から述べなければ、信徒に事実と反する誤認を懐かせ、宗門や寺院、僧侶等に対する不信を招く結果となる」との点について――

 正信会が、猊下の血脈を否定したことはまぎれもない事実でございます。血脈の否定こそは、日蓮正宗の根本教義の否定であり、究極の悪業ではないでしょうか。故にこれをいかに糾弾してもしすぎることはないものと考えます。その意味では、正信会の輩が血脈の否定にいかなる口実をかまえようとも、ことの本質は彼らの信心の根本の狂いにあるのであり、学会とは関係のないことであると思います。むしろ、ご宗門が正信会を破折し続けないとしたら、法主の血脈を根本とする日蓮正宗にとって、そのことこそ理に反することではないでしょうか。
 いずれにせよ、「正信会の名を借りて宗門を批判し」などというのは、あまりにもうがった見方であり、池田名誉会長がそのような趣旨で話した事実は全くございません。


四 「僧侶軽視の発言に関する件」について

1 「『正信会の僧侶』と言いつつも、明らかに現宗門の僧侶に宛てて非難しております」との点について――

 ご指摘の名誉会長の発言は、すでに擯斥されている正信会等の、信徒を見下し蔑視している僧侶の言動について述べたものであり、現宗門のご僧侶に宛て述べたものではございません。「信者、信者」についても、言葉そのものに問題があるというのではなく、そこにこめられた正信会僧侶等の信徒蔑視の心根を指しているのであります。
 なお、「奥さんをもらって云々」については、そのこと自体の善悪を論じているのではなく、在家と変わらない生活をしながら、我偉しとして信徒を見下すようなことがあってはならないのではないか、ということを述べたものにすぎません。

2 「あたかも僧俗がまったく対等の立場にあるように言うのは、信徒としての節度・礼節をわきまえず、僧俗の秩序を失うものである」との点について――

 私どもと致しましては、宗門外護という精神のうえから、ときに率直に言上させていただいたことはあっても、いままで信徒としての節度・礼節をわきまえず僧俗の秩序を失わしめたことは一度もしてないと確信しております。
 ただ、このようなご指摘、また僧と俗とは「一応平等」というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒が下であるという権威主義的な考え方が感じられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか。
 御書には、「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、(中略)若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」(阿仏房御書)とあります。また、大聖人は諸御書の中で、しばしば、「日蓮が弟子檀那」と、出家、在家を並び称され同等に呼びかけられています。
 このように、僧侶と信徒の関係にあっては、まずなによりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。その上で僧侶と信徒の本分及び役割を生かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか。大聖人は、「よき師とよき檀那とよき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(法華初心成仏抄)と、僧俗和合の精神を示されております。
 それにもかかわらず、「お尋ね」文書は、日有上人の『化儀抄』に基づき、「僧俗の立て分け」「僧俗の区別」「礼儀をわきまえなければなりません」等と、さかんに僧俗の差別を強調されておりますが、「お尋ね」文書に引用されている「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮花経なる故に何レも同等なり、然レども竹に上下の節の有るがごとく、其ノ位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」の文の次下には、「信心の所は無作一仏、即身成仏なるが故に道俗何にも全く不同有るべからず、縦ひ人愚癡にして等閑有とも我レは其ノ心中を不便に思ふべきか、之レに於イて在家出家の不同有るべし、等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり、是レ則チ世間仏法の二ツなり」(富士宗学要集第一巻)とございます。これによれば、僧俗は本質的に平等であって、僧俗の差別のよってきたるところは、「等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり」というところにあると拝され、けっして身分関係の上下ということではないのではないでしょうか。


五 「宗門の布教と平和文化活動に関する件」について

1 「日蓮正宗では、七百年間まったく折伏・布教ということをやってこなかった、あるいはまったく出来なかったと言われております」との点について――

 これについては、前記(一)に述べたとおりでございます。

2 「学会の大折伏に対して、宗門、あるいは僧侶が、それを軽んじたり、見下したり、また当たり前だなどと思っているように言っております」との点について――

 「お尋ね」文書では、「学会員の折伏弘教の姿を尊しとこそすれ、当たり前と思って威張っている者などは、一人もおりません」とお述べになっておりますが、私どもには残念ながらそのようには感じられないご僧侶がおられることは事実であります。
 この点について、学会員の折伏実践に対する宗門側のご理解を是非とも賜りたいことは、先に送付申し上げた十二月二十三日付書面において、お伺いとして述べさせていただいたところでございます。

3 「誰が、どこで、平和文化運動をいけないと言っておりますか」との点について――

 これについては、前記「二、3」で述べたとおりでございます。


六 「『真言亡国・禅天魔』の発言に関する件」について

1 「『真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう。』との発言は、摂折二門の上から明らかに摂受を本とした言い方であり、大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背したものである」との点について――

 この点については、(一)で詳しく触れ、その撤回をお願いしたとおりであり、名誉会長は、四箇の格言を少しも否定しておらず、ゆえに、それをもって、「大聖人の教判並びに権実相対等の法義に違背した」という断定は、全くの的外れなものと言わざるをえません。
 なお、学会においては、教学の基本として、四箇の格言等の教判について、日常的に学習徹底しております。また、教学の基礎的理解を試す教学部の初級試験においてはしばしば四箇の格言を出題しており、最近では、平成二年十二月二日に実施した初級試験でもやはり出題して、その理解の徹底に努めているのでございます。

2 「11・16以後の名誉会長の発言として、大聖人と親鸞のイメージを比較し、『親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏ができない』として、『親鸞のイメージのごとき親しみが、これからの折伏の条件』のように言われ、『大聖人の慈悲深い面をもっと表面に出したり、法門の中にもよいことがあるので、それを判りやすく説く私のスピーチを元にするよう』に、と言われたそうです」との点について――

 名誉会長は、最近確かに大聖人と親鸞について語ったことはありますが、その趣旨は「お尋ね」文書とは全く異なるものであり、そのことをきちんと確認されておれば、このような質問は絶対になかったであろうと思われます。前記(一)で述べたとおり、伝聞にもとづく推測の怖さがここにございます。まして、「私のスピーチを元にするよう」になどと述べたというのに至っては、全くの事実無根であります。
 このような、未確認の伝聞を前提としたうえで推測を重ね、「大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背である」とか、さらには、「池田教による大聖人観」「勝手に大聖人の法門を分断するのは、私的な法門」などと決めつけられるのは、池田名誉会長に対する悪意にみちた陥れといわざるをえません。この点については、強く抗議するとともに、その撤回を求めるものでございます。


七 「『歓喜の歌』の合唱について」について

 べートーベンの「歓喜の歌」のシラー作の原詩には「神々」とあり、「キリスト教の神を讃歎した内容」であるから、これをドイツ語で歌うことは、「外道礼讃」となり、「キリスト教を容認・礼讃することになる」と批判されております。
 しかしながら、「歓喜の歌」をドイツ語で歌ったからといって、それが直ちにキリスト教の「容認・礼讃」になるわけではありません。芸術は、その表現形式や言葉において、いずれもその時代の文化の制約を受けるものであります。シラーの原詩にしても、「神々の」という言葉を使っていますが、詩全体の調べとしては、唯一神教としてのキリスト教の神を礼賛しているものではなく、また、神々一般を礼賛するための歌でもないのであります。
 むしろ、このような表現をとおして、自已のうちにある神々しい力を賛美しているのであり、それはすなわち、理性であり、内からの喜びであり、人間の自由であるということは、広く理解されているところであります。フランス革命の根源にある人間の自由の精神が、「歓喜の歌」によって発揚され、飛躍を遂げたものであるというロマン・ロランの評論に、そのような理解が集約されております。
 このような普遍的なテーマを歌い上げているからこそ、この曲が、芸術作品として時代や国を超えて、広く、また永く人々に親しまれているのであります。それが、信仰の次元とは自ずと異なるものであることはいうまでもありません。

 「お尋ね」文書の指摘は、「歓喜の歌」の原詩のもつ意味を短絡してとらえ、この歌の世界的な普遍性、文化性を無視して「外道礼讃」と決めつけておられますが、まことに頑な、かつ狭量な解釈ではないかと思われます。

                                   以 上
 平成3年1月1日
                        創価学会会長
                            秋谷 栄之助
日蓮正宗総監
 藤本 日潤 殿


⑨創価学会からの「『お尋ね』に対する回答」についての宗務院よりの指摘
                        (平成三年一月一二日付)


 創価学会会長
  秋谷 栄之助 殿

 宗務院より平成二年一二月一六日付をもって送付いたしました「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」について、七日以内に文書による回答を求めましたところ、学会から一二月二三日付で送付された回答は、質問内容に一切答えないものであったばかりか、逆に捏造された事実無根の事項を含む九項目の「お伺い」なる文書をもって、御法主上人や宗門を非難攻撃するものでありました。
 これは、宗務院に対して誠意が示されないばかりか、日蓮正宗の信徒として考えられない不遜な言論行為であります。まして法華講本部役員としてふさわしい姿であろうはずがありません。よって、一二月二六日付をもって、もはや回答を示す意志がないものと受けとめた旨、通知したのであります。今回の宗規改正の措置には、このような背景があったことは事実であります。
 また、宗務院より提示した質問に誠意ある回答を示されなかった学会に対して、当方としては、このように非難攻撃を旨とした九項目の「お伺い」には、本来、答える必要はありませんが、その内容があまりにも信心を失ったものでありましたので、正信に目覚める一助として、一二月二九日付で回答を送付したのであります。
 しかし、学会では、宗務院からの回答を待たずに、捏造を含む九項目の「お伺い」なる文書を、一方的に多くの会員に配布したのであります。また、機関紙等を通じて、あまりにも偏った報道をくり返しております。これは、明らかに御法主上人や宗門に対する悪意によってなされているものとしか捉えられないのであります。一方、学会より宗門の一二月二六日付の書面に対する一二月二八日付返書が到着いたしました。宗務院としては、一二月三〇日付書面で、テープ引用に相違があれば、それを指摘せられたい旨、申し入れました。それに対して、学会より平成三年一月一日付をもって、ようやく当初の「『お尋ね』に対する回答」が送付されてきましたが、一二月二三日付文書に示された不誠実と同様、核心をぼかし、内容をすり替え、弁解にならない弁解に終始しています。また、当方のテープの反訳の相違を挙げておりますが、肝心の部分においては、相違のないことが確認されました。
 そのうえで、宗務院としては、「お尋ね」に対する回答に、まったく反省や誠意のかけらもみられないことを強く指摘するとともに、再度これに対して反省を促すべく、一文を纏めました。
 この書面、及び一二月二九日付回答で指摘したことが、明確に認識できれば、おのずから学会の非が明らかになるものと思います。池田名誉会長、並びに学会首脳の誤った信仰の姿勢が、そのまま純真な信心に励む一般の会員にまで影響することを強く恐れるものであります。池田名誉会長、並びに学会首脳各位には、大聖人の仏法の基本、根幹がいずこにあるかをよく考えられ、自らの大慢の旗を倒して、本宗本来の正信に帰すべきであります。そして、ここで指摘したこと、及び一二月二三日付をもって詰問してきた捏造を含む無礼極まりない九項目の内容に対して、正直に反省し、御法主上人をはじめ奉り、宗門並びに一切の信徒に対して、懺悔の姿の徹底を強くもとめるものであります。
                                   以 上
 平成3年1月12日
                    日蓮正宗総監 藤本 日潤


「『お尋ね』に対する回答」についての指摘

(1)について

①テープの再生・反訳の相違について


 宗務院として、この回答を一読し、改めて池田名誉会長のスピーチを聞き直しましたところ、確かに当方のテープの反訳に、下記のとおり相違がありました。

(イ) 宗務院提出の「お尋ね」一三頁の「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗で、いなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります。」は、「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よく分かっていますよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります。」でありました。

(ロ) 同じく一六頁の「ただ……、真言亡国。禅天魔、法を下げるだけでしょう。」は、「ただ朝起きて、『真言亡国・禅天魔』。(笑い)法を下げるだけでしょう。」でありました。

(ハ) 同じく二頁の「それがいけないって言うんですよ。折伏だけで、全部教条的にね、やれおかしいよって言うんだ。おかしいよ」と、一五頁の「それがいけないと言うんですよ。折伏だけで、全部ね、教条的にね、やれっちゅうんです。おかしいじゃないか。そう書いてあるのに」とは、もともと同一箇所で、二頁の引用はミスプリントでした。
 但し。(イ)、(ロ)の場合、故意によるものではなく、テープが聞き取りがたかったことによるものであります。ともかく相違していた点、及びそれに基づいてお尋ねした件に関してはお詫びし、撤回します。


②改鼠テープでないことが判明

 もとより、宗務院には同日のスピーチについて、数箇所の会場で録音されたテープが寄せられており、当方の調査の上からも、一二・一六の「お尋ね」の元になったテープが改竄されたものでないことは判っておりました。しかし、この度の一・一の学会からの回答における指摘によって、このテープが改竄されたものでなかったことが、より一層はっきりと判明いたしました。
 そこで、当方の反訳の相違は相違として認めた上で、とくに信仰の根幹に関する点について、再度、指摘をさせていただきます。


③テープレコーダーの持込みを禁止する不合理

 学会では、「テープの盗みどりという行為をご宗門はどうお考えになられるのでしょうか。盗みどりなどということは、道義的にもけっして許されるべきではなく、そうした行為を諫めるのが聖職者のあるべき姿ではないでしょうか」といっておりますが、宗門として不合理に思うのは、日蓮大聖人の仏法を基調として指導する名誉会長のスピーチを、テープにとることがいけないということ自体が理解に苦しみます。
 純真な信徒の中には、会館に来れない家族や同志のために、名誉会長の指導を聞かせ、信心の糧にしようと思う人がいても当然のことではないでしょうか。それを禁止する方が不自然であります。そのために、入場に際しては、婦人のバッグを開けさせるような、人格を無視することまでして、テープレコーダーの持込みを禁止するのは、テープにとられては困ることを話しているからではありませんか。民主化とか、対話とかいいながら、その実は閉鎖的で陰湿な体質を端的に表わしていると思います。しかも「そうした行為を諌めるのが聖職者のあるべき姿」というのは、自らの不合理を省みず、他を言う無慚な言であります。
 学会が、やれ世界に開かれるの、民主化であるのというのなら、テープレコーダーの持込みなどの些細なことがらにとらわれず、正々堂々と会合を開き、スピーチすべきであります。


④「親鸞云々」について

 「親鸞の件については、名誉会長が、いつ、どこで、誰に、どういう内容で言ったのか。この点について、総監より、是非とも責任ある回答をお示しいただきたい」とあります。この件に関して、学会は名誉会長を陥れようとする悪意であると決め付けておりますが、これは宗門の捏造ではありません。確かな筋から聞いたことではありますが、これを提出した人を証人にすることは現時点では困難であり、出処を明かせませんので、今回はこの件について「お尋ね」を撤回いたします。


⑤「推量・憶測」等について

 ご承知のように、名誉会長のスピーチには主語や目的語がない場合がかなりあります。そのような中で、「と思う」「と思われる」「と解釈される」と表現するのは、主語や目的語がない以上、それに対して推量でしか言えない性格のものであるからです。とはいえ、11・16の会合に出席した会員から寄せられた証言や、また実際にテープを聞いた私どもとしても、素直に聞いてみて感じられることを述べたものであります。また、学会首脳へ「お尋ね」の形式で質問している以上、いまだ断定はできなかったから推量の形でしたためたのであります。もし、宗門や一般の会員に誤解を招きたくないのであるならば、今後は主語や目的語を明確にして公明正大にスピーチをすべきであります。


(2)一・一回答の問題点について

 学会より送付された一・一の「『お尋ね』に対する回答」では、当方で認めた聞き違い事項を含め、いろいろ反論しておりましたが、その中で、核心の部分についてはまったく触れず、またごまかしているように思いますので、指摘いたします。これは池田名誉会長をはじめ、学会首脳の信仰の基本姿勢にかかわるものですから、熟読の上、速やかに改心されるよう願います。


①「前文の部分」について

 宗務院が問題としているのは、名誉会長のスピーチにおいて、本宗信仰上の不適切な発言を、多くの信徒が聞いているという影響の大きさを問題にしているのであります。もともと、名誉会長の実際の発言が、本宗の信仰において許されるか許されないかの判断は、創価学会側ではなく、つねに日蓮正宗側にあることは明らかであります。その正当な立場からみて、名誉会長の問題とすべき指導が、聖教新聞紙上では削られていたということを、ありのままに述べたまでであります。それを新聞の整理・編集行為と混同すべきではありません。したがって、ここでの学会の回答における指摘は、問題のすり替えであると逆に指摘します。
 なお、それでも執拗にそれをいうなら、スピーチの「会長を辞めさせられ」は、聖教新聞では「私も三代会長を勇退していた」と大きくすり替え、また日達上人の御指南を敷衍したはずの「猊下というものは云々」はまったく削除されております。もし、これが日達上人のお言葉を強調して敷衍したものであるとするならば、なぜ削ったのでしょうか。むしろ積極的に掲載すべきではありませんか。
 このように、実際の問題発言が、聖教新聞紙上ですり替え、あるいは削除されているということ自体、やはり学会として、あるいは聖教新聞社として、故意に問題発言を覆い隠すために改作したものとしか、言いようがないことを指摘します。


②「御法主上人・宗門に関する件」について

1 「猊下というものは云々」について

 「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません」という名誉会長の発言に対し、学会は「これは日達上人のメッセージを紹介したもので、傍線部分(上記の発言)はその日達上人のお言葉の趣旨を強調し、敷衍したにすぎないものであります。これが、日達上人の信徒を思われる大慈大悲のご境涯を賛嘆する意味で述べたものであることは明らかであり、それ以外のなにものでもありません」といっております。
 学会がいうように、この発言の前後には、確かに日達上人のお言葉が引かれております。しかし、それをもって、上記のように釈明するのは、苦しまぎれのごまかしであるとしか思われません。
 スピーチのその部分の流れをもう一度振り返ってみますと、「(日達上人の)『私も人類の恒久平和の為に、そして世界の信徒の幸福の為』ですよ。猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません。『為に毎日毎夜、大御本尊に御祈念申し上げております』」という流れです。
 もし、これが日達上人の御指南を信徒の立場から敷衍したものとするならば、例えば「猊下が、全信徒の幸福を考えておられることは、私どもにとってまことにありがたい極みであります」というような、表現になるのではないでしょうか。
 ところが、それを多くの信徒の前で、力を込めて、「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃあいけない。権力じゃありません」と発言したことは、到底日達上人の御指南を敷衍したものとはとれません。
 大体、「○○というものは◎◎でなければいけない」との表現法は、言い換えると「◎◎であるべきだ」と、その有りようを論じ、規定するものであります。対象が人間であれば、そこに訓戒の意も加わり、一般的に上位の者が下位に対して用いる語法といえます。少なくとも、尊敬する人について用いる言葉遣いでないことは明らかであります。ゆえにこの発言は、信徒の立場で、仏法教導の師として仰ぐべき御法主上人に対し、こうあるべきだと有りようを語った、実に傲慢無礼な暴言であります。それも、何十万という大勢の信徒を対象に指導したスピーチでのことであり、決して許されるべき行為ではありません。
 さらに、続いての「権力じゃありません」との言は、発言者自身が、猊下は権力を振りかざしていると認識していなければ、到底できない発言であります。すなわち、猊下の信徒に対する御指南を、権力によって信徒を抑えつけるものと決めつけ、それを非難したところに真意があるというべきであります。
 そもそも本宗において、御法主上人が至尊の御方であることは、いまさら申すまでもありません。それは、大聖人以来の血脈法水を御相承され、御一身に所持遊ばされているからであります。このことは、御本仏大聖人が末法万年の法体護持、令法久住をはかられる上で、「血脈の次第日蓮日興」と、その方規を明確に定められたところに淵源が存するのであり、以来、嫡々師資相承して、御当代に至っているのであります。
 したがって、時の御法主上人は、その権能の上から一宗を総理し、つねに令法久住、広宣流布への方途を指し示されるのであり、僧俗は挙ってその御指南を拝し、信行に邁進していくべきことは、理の当然であります。
 このことから、名誉会長が「猊下というものは信徒の幸福を考えなきゃいけない。権力じゃありません」と発言し、血脈付法の御法主上人を見下し、悪しき権力と決めつけたことは、本宗信徒として、絶対にあるまじき慢心による不遜な言動であり、強く指弾されるべきであります。


2 「御法主上人に対する誣告云々」について

 当方からの「お尋ね」の (1)と(3)で指摘した「全然、またあの難しい教義を聞いたって解んないもの。誰も解んねぇ。ドイツ語聞いているみたいでね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』そんなのはありませんよ。この時代に、ね。時代とともに歩まなきゃいけませんよ。」の発言に対する学会の「ご指摘の名誉会長の発言に主語がないことは自ら認めておられるとおりであり、これは猊下がそのようなことを言われたとか、猊下のことを指しているとかというものではなく、正信会等の、信徒を見下した僧侶の本質的傾向性を指摘したものであります。そして、この発言の真意は、あくまで布教にあたって、法を説く場合の時や機根等を勘案して賢明に行わなければ布教は進まないということを述べただけにすぎません。」「ご指摘の名誉会長の発言は、すでに擯斥されている正信会等の、信徒を見下し蔑視している僧侶の言動について述べたものであり、現宗門のご僧侶に宛て述べたものではございません。」と釈明しておりますが、これは主語がないことを利用して、その本意をごまかしたものであります。
 ここで、「俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者」と言う者がいるとすれば、それは僧侶であります。学会では、これを正信会の僧侶であると言い訳をしておりますが、正信会の徒輩はすでに八年以上前に擯斥された、本宗僧侶ではない者たちであります、ゆえに、そういう者に対して、「難しい教義を聞いたって解んない」とか、「俺偉いんだ。お前ども、信徒ども」というような発言が出てくる必然性がまったくないのであります。よって、名誉会長が11・16のスピーチにおいて、こうした発言をすることは、当然、現宗門僧侶に充てられたものとしかとれません。それは、宗務院へ送られてくる信徒の証言からも明らかであり、これを聞いた者は大概本宗僧侶のことであると受け止めております。
 また、「全然、またあの難しい教義を聞いたって解んないもの。誰も解んねぇ。ドイツ語聞いているみたいでね」との発言は、僧侶の中でも、とくに総本山の二大法要等において甚深の御説法をされる御法主上人に充てられたものであることは明らかであります。
 この二大法要における御法主上人の御説法は、本宗の甚深の法義を説かれるのでありますから、難解であることは当然でありますが、その時々の法門における筋道の深い意義が示されているのであります。信徒としては、この御説法を信心をもって拝聴し、つとめて学んでいくよう心掛けることが肝要であるにもかかわらず、このように批判するのは、名誉会長自身や学会首脳に、基本的な日蓮正宗の信仰心が欠けているためであり、大きな慢心がある証拠であります。
 もしかりに、正宗僧侶の中に信徒を見下し、また僧侶としてあるまじき行為をしている者がいるとすれば、それこそ地方協議会や連絡会議などで取り上げるべきであって、信徒間の会合で発表すべきものではありません。そのようなことをすれば、信徒の間に僧侶不信、宗門不信の念が植えつけられ、溝を深めるだけだからであります。
 なお、この発言が正信会を指したものであり、御法主上人や現宗門の僧侶を指したものでないとするならば、名誉会長や学会首脳が、今でも正信会の徒輩と直接的な接触をもち、その言を聞いているということなのでしょうか。そうとしかとれない弁解であると指摘しておきます。


3 ガーター勲章について

 宗務院として、大村教学部長が創価学会に対して、平成元年一〇月号の『大白蓮華』の裏表紙の写真について注意したのは、「ガーター勲章」正式には「聖ジョージ十字章」の掲載を、「ただちに謗法に当たる」とか「いけない」と言ったのではありません。まして、掲載されてしまったものを、後から「やめてくれ」と言ったところで、どうにもなるものではありません。この件は、大勢の僧侶や信徒の中には、とくに心情的・感情的に鋭敏・潔癖な人も多くあり、『大白蓮華』という、いわば日蓮大聖人の法義を伝える教学理論誌の裏表紙に、「聖ジョージ十字章」が、大写しにされることによって、あたかもキリスト教を容認するように受け取られ、そうした人たちに無用の刺激を与える恐れがあるから、細心の配慮を尽くされるよう、申し入れたものであります。
 この件については、昨年七月の連絡会議において、再度蒸し返して一方的に抗議してきたため、八月の連絡会議において、尾林海外部長からも重ねて説明し、学会側も諒承されたことであります。
 にもかかわらず、一・一の回答のように、いつまでも同じことを蒸し返し、問題視してくるところに、学会の怨念を元とする執拗にして陰湿な体質を感じるのであります。こうした体質が、世間からも嫌悪され、恐れられる一原因になっていることを自覚すべきであります。こうした体質を改め、正直に、潔い姿を示すことこそ日蓮正宗信徒としての正しいあり方ではないでしょうか。


4 「猊下というものは」との言い方について

 この点については、この書の ②の1で述べたとおりであります。


③「創価学会創立五十周年当時の回顧の件」について

1 「会長を辞めさせられ」「宗門から散々やられ」等について

 『恩師の二十三回忌に思う』に関しては、一応「現在もいささかも変わるものではありません」としておりますが、上記で述べた事柄は、まさしくそれに違背しているものとしか言いようがありません。
 また「ただ、十年前の一連の問題の中では、山崎正友、原島嵩、宗内一部僧侶(後の正信会僧侶)等による学会攻撃と名誉会長追い落としの策謀があったことはまぎれもない事実でございます。池田名誉会長は、その点から会長を辞めさせられたということを述べているのであり、後世への戒めとして、そのような反逆者、退転者の本質を厳しく弾呵しているのであります」と弁解をしておりますが、これは事実をすり替えたものであるとしか言いようがありません。
 誰の策謀があろうとなかろうと、五二年路線という学会の教義上の逸脱を主とする一連の問題は、『恩師の二十三回忌に思う』の中に「私が展開した昭和五十二年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります」とあるとおり、やはり当時会長であった池田氏の指導に原因があったことは否めません。とくに、昭和52年1月15日の第九回教学部大会における講演『仏教史観を語る』は、当時の学会問題を表面上に惹起させる大きな機縁となりました。これに対して、宗門は学会の誤りを糺したのであります。それが昭和五三年の六・三〇において教義上の問題は一応是正され、一一・七のいわゆるお詫び登山で学会執行部の責任として、また総講頭の責任として反省とお詫びをしたはずであります。しかし、この問題はそれで済むような簡単な問題ではなかったので、翌年4月24日、この一連の問題の中で会長を勇退し、同26日には一切の責任をとって、総講頭を辞任したはずであります。
 山崎正友や正信会等の策謀は、宗門と学会とを切り離そうとしたところにあるのであって、教義上の逸脱については、池田氏の指導に根本原因があったことは間違いのない事実であります。したがって、宗務院としては、この一連の問題の責任は、すべてその長たる池田氏にあったのであり、そのために一一・七で反省懺悔し、会長を退いたと認識しており、またこれは周知のことであります。それを他人へ責任転嫁して、「裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ、正信会から。馬鹿にされ……」というのは、自身の非を最初から認めないうわべだけの反省であったものか、あるいは今になって五二年路線という、過去の過ちがなかったとしてすり替えようとするものか、この二つの何れかであります。
 現在まで辿ってきた、宗門と学会との協調路線の原点が、昭和53年の六・三〇と一一・七にあることは、お互いに認知するところであり、最近では昨年7月21日の御目通りの折に、御法主上人が池田名誉会長、及び秋谷会長に確認せられたところであります。しかし、上記の考え方は、何れも六・三〇、一一・七に違背するものであります。名誉会長、及び学会首脳の考えが何れにあるにせよ、この二つの中に入るならば、それは日蓮正宗の仏法への違背であります。このことからも、名誉会長、及び学会首脳は即刻改心して、本宗本来の信徒の姿に戻るべきであります。


2 「正信会の取り扱いの件」について

 正信会の取り扱いについて、宗務院としては、正信会の徒輩の血脈否定は、最大の謗法であると認識しております。この根本的誤りにおいて、彼らを擯斥に処したのでありまして、決して学会を非難したからというだけで擯斥したなどということではありません。
 上来述べてきたように、正信会の徒輩の多くは、当初学会の五二年路線という教義上の逸脱を糺していこうとして立ち上がった、若手僧侶であったことは事実であります。その働きかけと日達上人の御指南によって、学会は自らの非を反省し、誤った路線を糺すことができ、そして宗門との協調路線を歩むことになったわけであります。したがって、正信会のことに言及する場合は、つねにこのことを念頭において発言するのでなければ、学会が最初から誤りや逸脱がなかったように糊塗することになり、歴史を歪曲する結果となるのであります。
 本来、このようなことは、いまさら改めて指摘するまでもなく、一連の経過において、名誉会長自身が知悉していることであります。それにもかかわらず、最近のスピーチでは、「僧という立場、衣の権威を利用して、健気に信・行・学にいそしむ仏子を謗法呼ばわりし、迫害した悪侶らがいた」「学会は一切に勝った」というように、短絡的な表現をするのは、明らかに正信会にこと寄せて、一つにはかつての自らの誤りを隠して正当化し、さらには現宗門僧侶に対するイメージダウンを図った策謀と思わざるをえないのであります。まして、正信会のあり方について、その結果のみをもって「学会とは関係のないことであると思います」との回答は、無責任にして、無慚極まりないものであると断じます。


④「僧侶軽視の発言に関する件」について

1 「信者・信者」の発言について

 この点については、この書の ②の2で述べたとおりであります。

2 「一応平等」等について

 日有上人の『化儀抄』の「貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」との仰せについて、当方の「お尋ね」では「御本尊を拝する姿においては、一応平等でありますが、そこには当然僧俗の区別があり、礼儀をわきまえなければなりません」と指摘したことに対して、学会は「僧と俗とは『一応平等』というような表現からは、本質的には、僧侶が上であり信徒は下であるという権威主義的な考え方が感じられてなりません。大聖人の仏法においては、信心の上では僧侶も信徒も全く平等なのではないでしょうか」また「僧俗は本質的に平等であって、僧俗の差別によってきたるところは、『等閑の義をなほ不便に思ふは出家・悪く思ふは在家なり』というところにあると拝され、けっして身分関係の相違ということではないのではないでしょうか」と解釈しておりますが、これは明らかに曲解であります。
 まず、『化儀抄』というもの自体が、一般信徒に示されたものではないということであります。つまり、『化儀抄』は、第九世日有上人の日頃の御指南を、弟子の南条日住師が書き留められ、若くして御登座された第一二世の日鎮上人へ、奉呈されたものであって、一般の僧俗が、自らの考えをもって軽率に判断すべきものではありません。
 また、「信心のうえでは平等である」というのは、当然のことですが、この信心の意味するところを履き違えております。『化儀抄』でいう信心の意味するところは、妙法の御本尊に向かって本門の題目を唱えるところ、すなわち九界即仏界という本因妙成仏の義をいうのでありまして、そこには当然僧俗の差別はなく、平等であります。しかし、『化儀抄』の「然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」との仰せは、明らかに平等の中にも上下の差別があることを示されたものであります。したがって、その外の一切の信仰活動上の化儀について、平等であるという御指南ではありません。
 しかし、学会でいう信心の意味は、信心そのものというより、信仰活動の全体に渡っており、ただ役割分担の上のみに、僧俗の相違があるとするものであります。それは、学会のいう「僧侶と信徒との関係にあっては、まず何よりも、信心のうえでは僧俗平等であることが第一義であると思います。そのうえで僧侶と信徒との本分及び役割を活かした相互の尊重・和合があるのではないでしょうか」という主張から明らかであります。
 ここに、大きな誤りがあります。日興上人の『遺誡置文』の中に、「若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居るべからざること」とありますように、信心の化儀中においては、やはり能化所化の次第、僧俗の分位、初信後信の前後が存するのであります。また『弟子分帳』でも、弟子分・俗弟子分等の区別がなされているごとくであります。
 僧侶は、総本山において修行し、血脈付法の御法主上人より免許を蒙った法衣を着ているのでありますから、大聖人の仏法の法位において、当然信徒より上席であります。これは権威主義などというものではなく、仏法に定められた規範として、仏法流通の上の、僧侶に備わる本来のあるべき姿であります。したがって、僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然であります。平等面のみを見て差別面を排するところには、九界即仏界も、差別即平等も一切なくなってしまいます。なお、学会の回答の中で引いている『阿仏房御書』の「日蓮が弟子檀那」との表現は、他の多くの御書でもみられる表現であります。しかし、あくまでも「弟子」の次に「檀那」であり、「檀那弟子」と示された御書がないことも知るべきであると、指摘いたします。
 信徒としては、『新池御書』の「末代の衆生は法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、法をこころえたる・しるしには僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし、今は仏ましまさず、解悟の智慧を仏と敬ふべし、いかでか徳分なからんや、後世を願わん者は名利名聞を捨てて、何に賤しき者なりとも、法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし」との御文を軽々に看過してはなりません。それを本質的に皆平等であるとし、対等意識をもって僧俗和合を進めるなどというのは、大きな慢心の表われであると同時に、和合僧団を破壊する五逆罪に相当するものであります。
 さらに、このような主張の中には、三宝破壊の兆しがあると言わねばなりません。もともと仏法においては、三宝への絶対の信心が基本であります。かつて、五二年路線を反省する学習教材として、昭和54年11月の『大白蓮華』には、三宝中の僧宝について、「正法を正しく継承伝持あそばされた血脈付法の日興上人を随一として、歴代の御法主上人、広くは、御法主上人の法類である御僧侶の方々が僧宝なのです。(中略)僧宝がいかに尊く大事な存在であるかを知り、尊敬と感謝と報恩の信心をもって御僧侶を敬い、僧俗和合の姿で広宣流布に邁進していくことが肝要です」と、正しい三宝の拝し方を、学会自らが示しているのであります。
 したがって、この点を外して僧俗平等などというならば、それはまさしく当家の三宝を破る大謗法であります。また、この御法主上人に信伏随従する僧侶は、当然、法位において僧宝の一分に入るものでありますから、本質的に僧俗平等、僧俗対等などと主張することは、信徒として仏法の位階をわきまえない大増上慢者と断ぜざるをえません。


⑤「宗門の布教と平和文化活動に関する件」について

1 「宗門僧侶が学会員の折伏を当たり前だと思っている」としていることについて

 学会側としては、 一二・二三付の書面で質問したものとしておりますから、それに対する宗門側の一二・二九の回答を再度熟読すべきであります。


2 僧侶が平和文化運動をいけないと言っているという点について

 この点については、この書の ②の3のとおりでありますから、よく読み返し、学会首脳の認識に誤りがあったことを反省すべきであります。


⑥「『真言亡国・禅天魔』の発言に関する件」について

1 学会の見解について

 この書の (1)で示したとおり、反訳の相違は認めます。
 しかし、折伏の方法論の一つとして、ただ朝起きて「真言亡国・禅天魔」と唱えることによって、折伏ができると信じている人がいるとでも思っているのでしょうか。それをあのような形で、大聖人の四箇の格言を引合いに出して、無慚な笑い話の材料にすること自体が、法を下げることであるというべきであります。
 宗門のいわんとするところは、学会が四箇の格言を否定していないまでも、大聖人の伝統法義を教条主義的と決めつけて、文化・平和運動のみを強調することが、引いては大聖人の教義そのものを廃する危険性につながると指摘するものであります。
 また、四箇の格言の意義は深いものがあり、七〇〇年を経た今日においても、これら権宗の思想的害毒が、社会に広く根強くはびこっていることに対し、破折、並びに教導していかなくてはならないのであり、軽々に教条的だなどと考えるべきではありません。


2 「親鸞云々」について

 この書の (1)の④で述べたとおり、撤回いたします。

⑦「歓喜の歌」について

 歓喜の歌をドイツ語で歌うことは、外道礼讃になると指摘したことに対して、これを狭量な解釈であると決めつけております。当方においても、「歓喜の歌」が、芸術として高い評価を得ていることは、充分承知しております。
 しかし、この歌詩を自己のうちにある神々しい力を賛嘆したものと解釈して、外道とはまったく無関係であるというのは、明らかに間違っております。
 この歌詩をどのように意義づけようと、原詩の表現は、ギリシャ神話の神々・エリュージオン(楽園)、旧約聖書の、知天使ケルビム・創造主等々の語句を見ても、外道そのものといえます。
 したがって、この歌がどんなに世界の名曲であっても、つねに四悉檀を心にかけ、中でもとりわけ第一義悉檀をもって、一切衆生を大聖人の仏法に導くという、尊い使命を持つ日蓮正宗の信徒が、それも外国文化の伝統ある国々においてならともかく、とくに日本国内において、その会合等でことさらに合唱団を組んで歌い上げるのは、明らかに世間への迎合というべきであります。正直に方便を捨てよとの大聖人の仏法における信徒として、まことにふさわしくない姿であります。
                              以 上


⑩宗務院より宗内僧侶宛に発せられた「急報」
                        (平成3年1月15日付)


平成3年1月15日
                              日蓮正宗宗務院
 宗内僧侶 各位

     急   報

 創価学会は1月15日付聖教新聞において大見出しで「宗務当局『テープ』の誤り認め質問撤回」とか「今回の措置が根底から崩れる」などの言辞をもって、宗務院からの「お尋ね」文書がいかにも全面的に誤りであったかのような印象を与える卑劣な記事を掲載しております。
 しかし実際には、1月6日・10日教師指導会で大村教学部長が説明したとおり、テープの一部聞き違いによる相違があったのみで、今回の問題の肝心な部分においては、何らの誤りもなく、名誉会長の猊下蔑視発言は明確にして、厳然たる事実であります。
 このことは、1月12日付で宗務院より創価学会へ宛てて送付した書面に明らかであり、全国寺院へも送付したので熟読願います。この1月12日付け書面を受け取った学会は、宗門の指摘した肝心な部分については全く触れずこのような卑劣極まる宣伝をしたのであり、問題の本質をすりかえる学会の無慙な体質を表すものであります。
 故に宗門の方針は些かも変わらないので、宗内僧侶各位には、このような謀略的な記事に惑わされることなく、いよいよ御法主上人猊下のもと、一結して既定の方針に従ってご精進願います。
                                 以 上

 
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