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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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盂蘭盆会 8月15日 (YouTubeへ

 毎年8月15日(地方によっては7月15日)に、先祖供養を行なう仏教行事を『お盆』といいます。『お盆』は、『盂蘭盆(うらぼん)』のことで「盆」だけをとり「お盆」と呼び習わしています。
 盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」【ullambana】という音を漢語に書き写した音写語で、古くは「烏藍婆拏(ウランバナ)」、「烏藍婆那(ウランバナ)」と音写されています。意味は、「逆さに吊されたような激しい苦しみを解く」という意味で、「解倒懸(げとうけん)」と訳されます。
 さて、仏教が栄えていた当時、仏教僧侶は各地を遊行して法を説いていたのですが、雨期には草木が生え繁り、昆虫などの小動物が活動するため、誤って殺生を犯してはならないことから、一定の場所に定住していました。これを安居(あんご:サンスクリット語の「ヴァーシカ」【vārsika】を漢語に訳したもの)といいます。雨期となる夏に行うことから、夏安居(げあんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれます。
 この安居が終わる日に、人々が僧侶に飲食などを供養する習わしがありました。同時に僧侶に飲食などを供養して善根を積んで祖先の霊を鎮める行事が定着していました。やがて、安居に僧侶に飲食などを供養することが、先祖供養に結び付いていきました。
 やがて、盂蘭盆経が成立し、その中で餓鬼道に堕ちた母を救う目連尊者の物語が影響し、
餓鬼界の苦しみ = 逆さづりの苦しみ ⇒ 盂蘭盆
となったのです。
 つまり、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる者を救うために、百味飲食を盆に盛って、聖僧を通じて仏に供養し、その苦しみを取り除いて成仏に導くという儀式です。
 この盂蘭盆会が、日本で行なわれるようになったのは、仏教が伝わって約百年後の第37代の斎明天皇(在位655~661年)の時代であると伝えられていますが、その根拠は、仏説盂蘭盆経によっています。(仏説盂蘭盆経の詳細は、次のとおりです。漢文書き下し文現代語訳
「昔、釈尊の十大弟子の中に目連尊者という神通第一といわれたお弟子がいました。この目連尊者は、幼い時生母に死に別れたので、生きていた時に孝行ができなかったことを大変残念に思い、それを何よりも悲しく思っていました。
 そこで母のようすを知りたいものと、阿羅漢の悟りによって得た神通力をもって三千大千世界を見渡したところ、驚いたことに母の青提女が、生前、仏への供養を惜しんだ罪によって、死後、餓鬼道に堕ち、見るも無惨な姿で苦しんでいました。
 目連尊者は、早速、神通力をもって食物を送って母を救おうとしましたが、どうしたことか食物は火となって燃えあがり、それを消そうとして注いだ水も、かえって油となってますます燃えひろがり、火だるまになった母は、悲鳴をあげて泣き叫ぶのでした。
 自分の力ではどうすることもできないことを知った目連尊者は、いそいで釈尊のところへかけつけ、母を救う道を乞いました。
 釈尊は、静かにこういいました。
『目連よ、常々よいことをしていれば良い結果が報いられ、悪い種子をまけば悪い実がみのるのです。お前の母は、自分の欲ばかりに目がくらみ、恵みということを知らなかった。だから死んだ後までも欲心にしばられて、そのように苦しまなければならないのです。これを因果応報というのです。今は、お前が一日も早く仏の正しい道を悟ることです。そうすれば、お前の母の浅ましい心もなおるであろう。だが、さし当りこの7月15日に、百味の飲食を供え、十方の聖僧を招いて供養しなさい。そうすれば、母を餓鬼道から救いだすことができよう』
 目連尊者は、その教え通りに実践して、はじめて母を餓鬼道一劫の苦からのがれさせることができました。喜んだ目連尊者は『この大功徳を、自分一人に止まらず、未来世の人々にも伝えて、その人達の父母はもとより、七世の父母にも功徳善根を積ませてあげたい』と、仏に願ったところ、釈尊は『それは、私の思うところである』と、一座の大衆に対して、後々までもこの仏事を怠りなく行なうことを勧められました。」

 さて、目連尊者が得意の神通力をもっても母を救うことができなかった理由は、目連尊者が悟った阿羅漢果とは、小乗の悟りであり、最高の法華経には、遠く及ばなかったからです。釈尊の教えにしたがってようやく母親を餓鬼道から救い出すことができたものの、それは、聖僧の唱えた妙法の功徳によって、僅かに餓鬼道一劫の苦を救ったにすぎませんでした。
 日蓮大聖人が、盂蘭盆御書に「目連が色心は父母の遺体なり。目連が色身、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」(1,376)とおおせのとおり、真の成仏は目連尊者が、後に法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱えた時に、はじめて自分自身が、多摩羅跋栴檀香仏(たまらばせんだんこうぶつ)という仏になり、その功徳によって、父母を成仏に導くことができたのです。(盂蘭盆御書の詳細は、次のとおりです。原文現代語訳
 しかしながら、目連尊者の母を救うことができた文上の法華経も、今末法においてはまったく在世脱益の法にすぎず、現在これに固執していては、先祖の成仏は望めないし、目連尊者が母を苦しめたと同じ苦汁を、先祖に味わせることになることも知らなくてはなりません。
 つまり、末法における法華経とは、御本仏日蓮大聖人のご当体である人法一箇の御本尊以外になく、この御本尊に、南無妙法蓮華経と唱えた時、はじめて境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって先祖も成仏ができるのです。
 日蓮正宗においては、常盆・常彼岸で、毎日がお盆であり、お彼岸であると心得て、先祖の供養を怠りなくしていくことはいうまでもありませんが、ここに「盂蘭盆会」という特別な法要日を設けることは、先祖の供養と同時に、おのおのの信心に新たな心構えをもたせ、また、間違った教えで盂蘭盆会を行なっている人々に、本当の盂蘭盆会を教えて、成仏に対する認識をあらためさせるのです。
 そして爾前経の行事から、真実本門の行事に引入し、さらに御本尊への結縁を深めていくという意味から、大事な行事といえましょう。
 さらに草木成仏口決に「妙法とは有情の成仏なり、蓮華とは非情の成仏なり。有情は生の成仏、非情は死の成仏、生死の成仏と云ふが有情・非情の成仏の事なり。其の故は、我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり」(522)と仰せのように、塔婆を立てて先祖の菩提を弔らうことによって亡くなった精霊の成仏を実現できるのです。
 いずれにせよ、三大秘法随一の一閻浮提総体の大御本尊のもとで、まず自分自身が仏になることが肝要であり、その功徳を先祖に回向することこそ、真実の盂蘭盆会であり、末法今時においては、日蓮正宗だけしか正しい盂蘭盆会法要を行なうことはできないのです。


 なお、地方によっては、お盆に自宅で行う先祖供養の方法として、先祖が帰る道を間違えないように13日(または12日)の夕方に迎え火を焚き、お盆の期間を一緒に過ごした先祖の霊を送り出すため16日(または15日)夕方に送り火を焚きます。

 また、先祖に供物を供えるための棚として、盆棚を設置する場合は、小机や台の上に、「まこも(イネ科の多年草)」のござを敷て作ります。現在では、昔ながらの盆棚を作ることが難しいことも多く、仏壇の前や横に小机を出して行うようです。机の上には、季節の果物や野菜をお供えします。キュウリに割り箸を刺して馬の形にし、馬に乗って早く帰ってきてと願い、ナスに割り箸を刺して牛の形にし、牛に乗ってゆっくり、帰って行くよう願ってお盆を過ごします。


 盂蘭盆会によく似た法要に「施餓鬼会」というものがあります。これは、餓鬼道に堕ちて苦しむ衆生に食事を施して供養する法会のことです。
 この施餓鬼会のはじまりは、仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(くばつえんくがきだらにきょう)です。(仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経の詳細は、次のとおりです。漢文書き下し文現代語訳
「釈迦仏の十大弟子で多聞第一と称される阿難尊者が、静かな場所で坐禅瞑想していると、焔口(えんく)という餓鬼が現れた。痩せ衰えて喉は細く口から火を吐き、髪は乱れ目は奥で光る醜い餓鬼であった。
 その餓鬼が阿難に向かって『お前は三日後に死んで、私のように醜い餓鬼に生まれ変わるだろう』と言った。
 驚いた阿難が、どうしたらその苦難を逃れられるかと餓鬼に問うた。餓鬼は『それにはわれら餓鬼道にいる苦の衆生、あらゆる困苦の衆生に対して飲食を施し、 仏・法・僧の三宝を供養すれば、汝の寿命はのび、我も又苦難を脱することができ、お前の寿命も延びるだろう』と言った。 しかしそのような金銭がない阿難は、釈迦仏に助けを求めた。すると釈迦仏は『観世音菩薩の秘呪がある。一器の食物を供え、 この『加持飲食陀羅尼」』(かじおんじきだらに)を唱えて加持すれば、その食べ物は無量の食物となり、一切の餓鬼は充分に空腹を満たされ、 無量無数の苦難を救い、施主は寿命が延長し、その功徳により仏道を証得することができる』と言われた。阿難が早速その通りにすると、阿難の生命は延びて救われた。」


 慣用句に「盆と正月が一緒に来きたよう 」というものがあります。これは盆と正月という時期は昔から多くの人が動き、にぎやかになり、商売などが繁盛する時期であることから、非常に忙しいさまをいったものです。
 また、別の意味として、昔の日本では休日が、正月とお盆くらいしかなく、商家で住み込みで働いてる奉公人などは実家に帰れるとして正月とお盆を楽しみにしていたことから、喜ばしい出来事が幾つも重なり、非常にめでたいさまをいったものです。


【お中元】
 お盆と同じ日の旧暦の7月15日に、中国の道教において祭日とされている「三元」の一つの「中元」があります。
 道教でいう「三元」とは、
•上元:旧暦1月15日
•中元:旧暦7月15日
•下元:旧暦10月15日
をいいます。
 中元は、旧暦7月15日で贖罪(しょくざい)の日とされており、一日中火を焚いて神様を祝う風習があり、盂蘭盆会も同日に行われていました。やがて、室町時代になると、お盆が死者を迎えて、その魂を鎮魂するのに対し、中元の行事は「生身玉」あるいは「御めでた事」と呼ばれ、「今生きている事を喜ぶ」「無事を祝う」という生きている人のための行事に変わっていきました。
 朝廷や武家の間では、親戚や知人の家に訪問し合って、交流を深め、お互いの無事を喜ぶことが盛んに行われるようになり、やがて、江戸時代になると、その風習はもっと盛んになつていき、そうなると、交際範囲の広い人は、中元の日の一日だけでは対応しきれなくなりました。しかし、そうは言っても知らん顔するわけにはいかないから、そういう人は中元の日の前後に、贈り物をしたり、手土産を持って挨拶に行くようになり、現在のように「親しい人、お世話になった人にお中元を贈る」風習ができあがったものです。  

 
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