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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

御難会 9月12日 (YouTubeへ

 御難会は文永8年9月12日に宗祖日蓮大聖人が、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所。所司は次官のこと。 長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱によって斬首されようとした竜ノ口法難に対してご報恩申し上げるために、毎年9月12日に行なわれる法要です。
竜ノ口法難に至る状況を種種御振舞御書(現代文)にみてみましょう。
(予言の的中)
 去る文永五年の後、閏(うるう)の正月十八日に、西戎(せいじゅう)・大蒙古国から、日本国を襲うという通告状を送ってきた。
 これによって、日蓮が去る文応元年・大歳(たいさい)庚申(かのえさる)に勘(かんが)えた立正安国論の予言が少しも違うことなく符号した。
 この安国論は、かの唐土の白楽天(はくらくてん)の楽府(がくふ)よりも勝れ、釈迦仏の未来記にも劣らず、このような予言の的中は、末法の世の不思議であり、これを越えるものがまたとあるであろうか。
 賢王や聖主の御世(みよ)であるならば日本第一のお褒めにもあずかり、在命中に大師号の贈呈もあるであろう。必ずや蒙古についてのお尋ねがあり、軍議の相談も受け、蒙古調伏の祈りなどの依頼があるだろうと思ったのに、幕府からはそのようなことはなかったので、その年(文永五年)の末の十月に十一通の手紙を書き送ってそれらに警告した。
 もしも国内に賢人等がいるならば「まことに不思議なことである。これはただことではない。天照太神と八幡大菩薩がこの僧に日本の国が助かる方法をお計りになられたのではないか」と思われるべきであるのに、そうではなくて、あるいはこの十一通の状を持って行った使いの者を悪口し、あるいは嘲(あざけ)り、あるいは手紙を受け取りもしない。あるいは返事もなく、あるいは返事はよこしたが執権へ取り次ぎがなかった。
 これはただことではない。例えこの手紙の内容が、日蓮の一身上のことであったとしても、国主となって政治をする人々は、それを執権へ取り次いでこそ政道の法にかなう行為ではないのか。
 ましてこのことは、幕府にとって大事件であり、各人の身に当たって大きな嘆きが起ころうとしているではないか。
 それなのに、この忠告を用いることがなくとも、悪口まで言うとはあまりである。
これはひとえに日本国の上下万人が残らず法華経の強敵となって長い年を経たので、誹謗の大罪が積もり重なって、大悪鬼神が各人の身に入ったうえに、蒙古の通告状に正念を抜かれて、狂ったのである。
 例として、殷の紂王(ちゅうおう)は、比干(ひかん)という者が諌めたのに、用いないで彼の胸を割って辱め、結局、周の文王の子・武王に亡ぼされた。
 呉王は伍子胥(ごししょ)の諌めを用いないで、かえって伍子胥を自害させ、その結果、呉王は越王・勾践(こうせん)の手にかかって亡ぼされた。
 幕府もまた、紂王や呉王のようになるだろうとますます不憫に思い、日蓮は悪名を立てられるのも惜しまず命をも捨てて強盛に邪法を禁止せよと主張し続けたので、あたかも風が強い程波が大きいように、竜が大きければ雨が烈しいように、ますます日蓮に仇をし、ますます憎んで、評定所で日蓮等の処置について相談があり、 頚を刎(は)ねるべきか、鎌倉を追放するべきか、また、日蓮の弟子檀那の中で所領のある者は所領を取り上げて頚を斬れとか、あるいは牢に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどと、様々に意見が出る有様であった。
(死身弘法)
 これを聞いて日蓮が悦んで言うには、このような難があるのは初めから承知していたことである、と。
 雪山童子は半偈の為に鬼神へ身を投げ与え、常啼(じょうたい)菩薩は身を売り、善財童子(ぜんざいどうじ)は高山から火の中に入り、楽法梵士は自身の皮を剥いで紙とし、薬王菩薩は臂(ひじ)を焼いて燈明とした。不軽菩薩は増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者は壇弥羅王(だんみらおう)に頚を斬られ、提婆菩薩は外道の弟子に殺された。
 以上の例はどういう時期に起こったのであろうかと考えてみると、天台大師は法華文句巻八に「摂受・折伏は時に適って行うのである」と書き、それを受けて章安大師は涅槃経の疏に「摂折二門は時に拠って取捨宜しきを得て偏るべきではない」と記している。
 であるから法華経は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時によってその修行の方法は様々に差がある。
 仏が記して言うには「我が滅後・正像二千年をすぎて末法の始めにこの法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。その時には悪王や悪僧等が大地の微細な塵よりも数多くいて、あるいは大乗教や小乗教をもってこの法華経と競おうとし、この題目の行者に責められて、在家の檀那等と相談して、悪口し、打ち、牢に入れ、所領を取り上げ、流罪し、頚を斬るなどと言って脅迫するけれども、にもかかわらず、退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をする者は、国主は同士討ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、後には他国から攻めさせるのである。これはひとえに梵天王・帝釈天・日天・月天・四天等が法華経の敵となった国を他国から責めさせる」と説かれている。
 各々日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。
 親を思い、妻子を思い、所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで、親子のため、所領のために命を捨てたことは、大地の微細な塵の数よりも多い。
 しかし、法華経のためには未だ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をかなり修行したけれども、このような大難が起きてきたので退転してしまった。
 譬えば湯を沸かしておきながらそれを水に入れたり、火をおこすのに途中で止めておこしきれないようなものである。
 各々思い切りなさい。この身を法華経にかえるのは、石を黄金に換え、糞を米に換えるようなものである。
 仏滅後二千二百余年の間に、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教の弘法者でさえも、いまだかつて弘められなかった法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字を、末法の始めに一閻浮提に弘まらせていく瑞相として、今、日蓮が魁(さきがけ)したのである。
 我が一党の者、二陣三陣と日蓮に続いて 大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えていきなさい。わずかばかりの小島の主等が脅すのをおじ恐れては、 閻魔王の責めを一体どうするというのか。仏のお使いと名乗りながらいまさら臆するのは下劣な人々である、とよくよく弟子檀那達に言い含めた。
(自界叛逆難と他国侵逼難)
 こうしているうちに、念仏者や持斎・真言等は、自分の智慧では勝つ見込みがなく、幕府へ訴え出ても目的を果たせなかったので、上朗や尼御前達に取り付いていろいろと讒言をした。
 日蓮が、故最明寺入道時頼殿と極楽寺入道重時殿を無間地獄へ堕ちたといい、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えといい、道隆上人・良観上人等の頚を刎(は)ねよという。
 それでは、評定が決まらなくとも日蓮の罪は免れ難い。ただし以上の件を間違いなく言ったかどうか直接召し出して確かめるようにと言いつけたため、奉行所へ召還された。
 その席上、奉行人の言うには、
「お上の仰せは以上の通りである。それに間違いないか」と言ったので、それに答えて
「その件については一言も違わずに言った。ただし故最明寺入道時頼殿と極楽寺入道重時殿とが地獄へ堕ちたと言うのは嘘である。そのことについては既に最明寺殿・極楽寺殿が御存生の時から言っていたことである。詮ずるところ、その件はこの国の前途を思って言ったことであるから、世を安穏に保とうと思われるならば、彼の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼ら法師達に代わって理不尽に日蓮を罪に落とすようならば、国に後悔する大事が起こるであろう。
 日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏のお使いを用いないことになるだろう。
 その結果、梵天・帝釈・日天・月天・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にした後、百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条一門に同士討ちが始まるであろう。
 その後は他国侵逼難といって四方から、ことに西方から攻められるであろう。その時、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」
と平左衛門尉に申しつけたけれども、太政入道(平清盛)が狂ったように、彼は少しも周りをはばからずものに狂った。
(御勘気)
 去る文永・大歳辛未(たいさいかのとひつじ)九月十二日に御勘気を蒙(こうむ)った。
 その時の御勘気の有様も尋常ではなく、法を超えた異常なものであった。
 九条堂の了行が謀叛を起こした時よりも、大夫の律師良賢が世を乱そうとして召し捕られた時によりも大掛かりであった。
 その有様は平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を着せて、烏帽子掛けにして眼を瞋らし声を荒げていた。
 大体、この事件の真相を考えてみると、太政入道平清盛が天下を取りながら国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただこととも見えなかった。
 日蓮はこれを見て思うには「日頃、月頃に考え覚悟していたことはこのことである。幸いなるかな、法華経のために身を捨てようとは、臭い頚を斬られるならば砂と黄金を換え、石をもって珠を買い換えるようなものである」
と。
  さて平左衛門尉の第一の朗従・少輔房という者が走り寄って、日蓮の懐にある法華経の第五の巻を取り出し、それで日蓮の顔を三度殴りつけて散々に投げ散らした。また九巻の法華経を兵士達が打ち散らし、あるいは足で踏み、あるいは身に巻きつけ、あるいは板敷きや畳など、家の中の二三間に散らさないところがなかった。
 この時日蓮は大高声で彼等にこう言った。
「なんとも面白いことか、平左衛門尉がものに狂うを見よ。各々方、ただ今日本国の柱を倒しているのであるぞ」と叫んだところ、その場の者全てが慌ててしまった。

 日蓮の方こそ御勘気を受けたのであるから臆して見えるべきであるのに、そうではなく、逆になったので「この召し捕りは、悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのが見えた。
 十日並びに十二日の間、真言宗の失や禅宗・念仏宗の誤り、良観が雨を降らせなかったことを詳しく平左衛門尉に言い聞かせたところ、ある者はどっと笑い、ある者は怒ったことなどは煩わしいので記さない。
 詮ずるところ、六月十八日から七月四日まで良観が雨乞いをして、日蓮に阻止されて降らしかねて、汗を流し、涙だけ流して雨が降らなかったうえに、逆風が絶えず吹いたこと。祈りの間、三度まで使者を使わして、
「一丈の堀を越えられない者がどうして十丈・二十丈の堀を越えられようか。和泉式部が好色の身でありながら、八斎戒で制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身として和歌を詠み雨を降らせたのに、どうして二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まって七日、ふた七日も天を責め立てられたのに、雨が降らないうえに大風が吹いたのであるか。これをもって知りなさい。あなた方の往生は叶うまい」
と責めたので良観が泣いたこと。
 彼がこの敗北を逆恨みして権力者に讒言したことなどを、一つ一つ言い聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたが、弁護しきれなくなってしまったことなどは繁多であるからここには書かない。
(諸天善神を諫暁)
 さて十二日の夜は武蔵守宣時(むさしのかみのぶとき)の預りで、 夜半になって頸を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路(わかみやこうじ)に出た時、四方を兵士が取り囲んでいたけれども、日蓮がいうには
「みんな騒ぎなさるな。他のことはない。八幡大菩薩に最後に言うべきことがある」
 と言って、馬から下りて大音声で次のように言った。
「一体、八幡大菩薩は真(まこと)の神であるか。和気清麻呂が頸を斬られ様とした時は丈(たけ)一丈の月と顕れた。伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられた時は紫の袈裟をお布施として授けられた。
 今日蓮は日本第一の法華経の行者である。そのうえ身に一分の過失もない。日本国の一切衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちようとしているのを助けるために法門を説いている。
 また、大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられない。そのうえ釈迦仏が法華経を説いた時には多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、その有様が日と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになった時、無量の諸天並びにインド・中国・日本の善神・聖人が集まった時、仏に
『各々法華経の行者にいい加減な守護はしないという誓状を差し出しなさい』と責められたので、一人一人誓状を立てたではないか。
 そうである以上は日蓮が言うまでもなく、大至急誓状の宿願を果たすべきであるのに、どうしてこの場所には来合わせないのか」
と高々と言った。
 そして最後には
「日蓮が今夜頸を斬られて霊山浄土へ参った時には、まず、天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと名を指しきって教主釈尊に申し上げよう。それを痛いと自覚されるならば、大至急計いがあるべきである」
と叱って、また馬に乗った。


(竜ノ口法難)
 由比ヶ浜へ出て御霊社の前に差し掛かった時、 また、
「しばらく待て殿方、ここに知らせるべき人がいる」と言って、中務三郎左衛門尉という者のところへ熊王という童子を遣(つか)わしたところ彼は急いで出て来た。
「今夜頸を斬られに行くのである。この数年の間願って来たことはこれである。この娑婆世界において雉(きじ)となった時は鷹につかまれ、ねずみとなった時は猫に食われた。あるいは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い。だが法華経のためにはただの一度も失うことがなかった。
 そのために日蓮は貧しい身と生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない。
 今度こそ頸を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那に分けよう、と言って来たことはこれである」
と言ったところ、左衛門尉・兄弟四人が馬の口に取り付いて供もし腰越(こしごえ)・竜ノ口へ行った。
 頚を斬られるのはここであろうと思っていたところが、案に違わず兵士共が取り囲んで騒いだので、左衛門尉が「ただいまなり」と言って泣いた。
 日蓮は、
「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いなさい。どうして約束を違えられるのか」
と言った時、江ノ島の方向から月のように光った物が鞠(まり)のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。
 十二日の夜明け前の暗がりで人の顔を見えなかったが、この光り物のため、月夜のようになり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥し、兵士共は怖れて頚を斬る気を失い一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬の上でうずくまっている。
 日蓮が
「どうして殿方、これほど大罪のある召人(めしうど)から遠のくのか。近くへ寄って来られよ。寄って来られよ。」
と声高に呼びかけたが急ぎ寄る者もない。
「こうしていて夜が明けてしまったならばどうするのか。頚を斬るならば早く斬れ。夜が明けてしまえば見苦しかろう」
と勧めたけれども何の返事なかった。

 しばらくしてから「相模の依智という所へお入り下さい」と言う。
「自分の方には道を知る者がいない。案内しなさい。」
といったけれども先立ちする者もないので小休止していると、ある兵士が
「その道が依智への道でございます」
と言ったので道にまかせて進んだ。
 正午ごろに依智というところへ行き着き本間六郎左衛門の邸へ入った。
 酒を取り寄せて、ついて来た兵士達に飲ませていたところ、彼らは帰ろうとして、頭を下げ合掌して言うには、
「今まではどんなお方であるのか存じませんでした。我らが頼んできた阿弥陀仏を誹っていると聞いていたので憎んで参りましたが、直接にお振る舞いを拝見しました所、あまりにも尊いので、長年称えてきた念仏は捨てました」
と言って、火打ち袋から数珠を取り出して捨てる者があり、
「今後は念仏を言いません」と誓状を差し出す者もあった。
 六郎左衛門尉の家来達が警護の役目を受け取った。中務三郎左衛門尉も帰って行った。
(罪なき人)
 その日の午後八時ころに鎌倉からお上の使いということで立文(命令書)を持ってきた。
 頚を斬れという再度のお使いかと武士達が思っていたところ、本間六郎左衛門尉の代官・右馬尉(うまのじょう)という者が立文を持って走って来てひざまついて言うには
「斬首は今夜でしょう、なんとも情けないと思っておりましたのに、このようなお悦びの手紙が来ました。武蔵守殿は今日午前六時ころ熱海の湯へお立ちになりましたから、理不尽なことがあっては大変だと思い、急いでまずこちらへ走って参りましたと言っております。鎌倉から使者は、四時間で走って来ました。そして、今夜のうちに熱海の湯へ走ってまいりますと言って出発致しました」と言った。
 追状には、
「この人は罪のない人である。今しばらくしてから赦されるであろう。過ちをしたならば後悔するであろう」
とあった。
            (以 上)

 大聖人のご一生は、国府尼御前御書に「日蓮ほどあま(遍)ねく人にあだ(怨)まれたるものは候はず」(739)、また、開目抄に「既に二十余年が間此の法門を申すに、日々月々年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくをく、王難すでに二度にをよぶ。」(539)とおおせられるように、竜樹・天親・天台・伝教等の過去の仏教者も肩を並べることができない大法難の連続でした。
 では、なにゆえに大聖人はこのような数々の難を受けることになったのでしょう。
 それは法華経を身で読み、法華経の予言の正しさを示すためであったのです。
 釈尊は、唯一最高の経典である法華経の法師品から宝塔品にかけて、この経を弘める功徳の大きいことを説き、とくに見宝塔品第十一において「三箇の勅宣」を下して、未来にこの経を弘めることを勧められ、さらに「六難九易」を説いてこの経を弘めることの困難を説かれたのです。

※「三箇の勅宣」
第一
 誰かよくこの娑婆国土において広く妙法華経を説かん。今まさしくこれ時なり。如来久しからずして当に涅槃に入るべし。仏この妙法華経をもって付属してあることあらしめんと欲す
第二
 諸の大衆に告ぐ、我が滅度の後に誰かよくこの経を護持し読誦せん。今、仏前において自ら誓言を説け
第三
 諸の善男子、我が滅後において、誰かよくこの経を受持し読誦せん、今、仏前において自ら誓言を説け

「六難九易」
六難とは
①広説此経難 悪世のなかで法華経を説く
②書持此経難 法華経を書き人に書かせる
③暫読此経難 悪世のなかで、しばらくの間でも法華経を読む
④少説此経難 一人のためにも法華経を説く
⑤聴受此経難 法華経を聴受してその義趣を質問する
⑥受持此経難 法華経をよく受持する
九易とは
①余経説法易 法華経以外の無数の経を説く
②須弥擲置易 須弥山をとって他方の無数の仏土に投げ置く
③世界足擲易 足の指で大千世界を動かして遠くの他国に投げる
④有頂説法易 有頂天に立って無量の余経を説法する
⑤把空遊行易 手に虚空・大空をとって遊行する
⑥足地昇天易 大地を足の甲の上に置いて梵天に昇る
⑦大火不焼易 枯草を負って大火に入っても焼けない
⑧広説得通易 八万四千の法門を演説して聴者に六神通を得させる
⑨大衆羅漢易 無量の衆生に阿羅漢位を得させて六神通をそなえさせる

さらに、勧持品第十三の二十行の偈において、八十万億那由他の菩薩が滅後悪世において法華経を説くにあたり、それを迫害する「三類の強敵」が出現することを予言します。

※「三類の強敵」
俗衆増上慢
 諸の無知の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん
道門増上慢
 悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心を充満せん
僭聖増上慢
 世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん 是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い(中略)常に大衆の中に在って 我等を毀らんと欲するが故に 国王大臣 婆羅門居士 及び余の比丘衆に向って 誹謗して我が悪を説いて
 

 ところが、大聖人のご出現以前において、インド・中国・日本でこの経文を現実に身にあてて行じた者は一人もいません。もし大聖人が、大小の難を受けなければ、法華経の予言は虚妄になり、釈尊は大妄語の人となってしまいます。
 開目抄には「当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」(541)とおおせです。
 また、種種御振舞御書には「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(1063)と仰せです。
 このことから、大聖人が、三類の強敵によって起きた四度の大難を受けられたのは、法華経を証明し、末法の法華経の行者であることをあらわされるためだったのです。
 では、四度の大難中、どうして九月十二日の竜ノ口法難の日に御難会を行なうのかというと、この法難が起こった理由として、
第一に大聖人の邪宗折伏
第二に北条氏の大聖人に対する忌諱
第三に幕府への直諫(立正安国論の提出)
が原因ですが、これにより斬首されようとした大聖人に一大変化が起きたのです。
 開目抄に「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそ(怖)ろしくておそろ(恐怖)しからず。み(見)ん人、いかにをじ(怖)ぬらむ」(563)とおおせです。
 しかし、実際には不思議な光り物によって頸をはねられることはなかった訳ですが、あえて「頸をはねられ」魂魄が佐渡に渡ったと述べられていることを深く拝さなければなりません。
 さらに、この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。すなわち、子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めです。また子丑は転迷、寅は開悟であり、その中間、すなわち、丑寅の時刻は転迷から開悟に移行する重要な時刻なのです。
 上野殿御返事に「三世の諸仏の成道は、ね(子)うし(丑)のをわ(終)りとら(寅)のきざみ(刻)の成道なり。仏法の住処は鬼門の方に三国ともにたつなり」(1361)とおおせです。
 ゆえに、文永八年九月十二日の子丑の刻は、大聖人の名字凡身の死で、終りであり、寅の刻は大聖人のおん身そのままが久遠元初自受用身、すなわち、御本仏の生で始まりです。
 大聖人は竜ノ口法難の時に、名字凡夫という迹(仮の姿)を開いて、凡夫の身のままで内証に久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」(迹を発【ひら】いて本を顕す)といいます。
 この凡夫のお立場から末法の本仏と発迹顕本あそばされたことに対し、仏恩報謝申し上げると同時に、未曽有の迫害とそのご苦労を偲び、我々もまた、どのような三類の強敵がこようとも不惜身命・身軽法重の精神で正法広布を誓うところに御難会の意義があるのです。
 

 
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