【原文】海岸ノ青蓮華
安房国長狭郡東條の郷、小湊の海岸。頃は人皇八十五代後堀川天皇の御宇の貞應元年。この小湊の海岸に青蓮華の生い出でゝ今を盛りと咲き開く。
老幼男女打ち集いて最とも訝かし気に見物す。夏ならでは咲かぬ蓮の未だ寒き、まして此の海岸に見事に蓮華の咲つるは、一定何かの奇瑞ならん。
必ず目出度き事のあるならんと人々皆心々に喜び口々に称え合う。
【現代文】海岸の青蓮華
安房国長狭郡東條の郷、小湊の海岸。頃は人皇八十五代後堀川天皇の御宇の貞応(じょうおう)元年。この小湊の海岸に青蓮華が生い出て今を盛りに
咲き開いた。老若男女一同に集まって不思議そうに見物している。夏でないと咲かない蓮華が、まだ寒いこの季節に咲き、ましてこのような海岸に見事に
咲くということはきっと何かの前兆であり、必ず良いことが起こるだろうと人々は互いに喜びあり語り合った。
【原文】御誕生
斯る祥瑞によりて人間界に出現せられた聖人は、小湊の海邊、御父は貫名次郎重忠、御母は梅菊女と申。夫婦ともども常に日輪を拝し、國運長久を祈る。
梅菊女懐妊し月満ちて安こと玉の如き一男子を擧ぐ。これぞ日蓮大聖人にして、貞應元年壬午二月十六日のことなりき。此日、宅畔には清泉噴出の祥あり。
幸い其水を吸んで産湯となす。幼名を善日麿と命づけて大切に養ひ育つ。
【現代文】御誕生
このような吉祥瑞兆があって人間界に出現されたのが大聖人である。場所は。小湊の海辺で、御父は貫名次郎重忠、御母は梅菊女といった。
夫婦ともども常に日輪を拝し、国運長久を祈るほど信心深かった。梅菊女が懐妊し月満ちて安産によって玉のような一男子を産んだ。
この方こそ後の日蓮大聖人であり、貞応元年壬(みずのえ)午(うま)二月十六日のことであった。この日、自宅の側から清泉が噴出するという慶事があり、
その水を汲んで産湯とした。幼名を善日麿と名づけて大切に養い育てた。
【原文】清澄登山
善日麿の生立は果して事毎に非凡で在せらせられた。御年十二才になりたれば、貫名氏は、其天分を撥揮せしむべく、同郡天津の清澄寺にその頃學徳高き
道善坊が許に連れ行き、學問の道を託したるに、道善も其非凡なるを悦んで薬王麿と命名して、寵愛措かず内外の學を授くるに、元より一を聞て萬を知るの
聰明は忽ちに儕輩の群を抽んでて、今は同寮の徒弟誰れ一人として其右に出づるはなし。
【現代文】清澄登山
善日麿の成長は当然のようにことごとに非凡あらせられた。御年十二歳になったときに、貫名氏は、その天分を発揮させようとして同郡天津の清澄寺に
その頃学徳高い道善坊の許に連れ行き、学問の道を託され、道善もその非凡な様子を悦んで薬王麿と命名して、寵愛を惜しむことなく内外の学を授けると、
元より一を聞きて万を知るような聡明さが、ただちに同輩たちを抜いてしまい、今では同僚の弟子として誰一人としてその右に出るものはなかった。
【原文】御剃髪
時に嘉禎三年十月八日、御年十六。道善、直に一山の大衆を本堂に集め、嚴かなる儀式を具へて薬王麿の剃髪を行ひ、名をも改めて是生坊蓮長と命ず。
蓮長師氣魄雄大にして識力群を抜んで躯幹魁偉にして精力亦た人に倍す。刻苦三年にして既に千巻の経を読み、又三密の訣を了りて、今や才學一山に冠たり。
一日蓮長師、一心に眼を経文に曝らす。一疑胸裏に起る。
【現代文】御剃髪
時に嘉禎三年十月八日、御年十六歳のとき、道善坊は、直ちに一山の大衆を本堂に集め、厳かなる儀式を具えて薬王麿の剃髪を行い、名をも改めて
是生坊蓮長と命名した。蓮長師の気魄(きはく)は雄大にして識力は群を抜いて躯幹(くかん)魁偉(かいい)にして精力また人に倍している。刻苦する
こと三年にしてすでに千巻の経を読み、また三密の訣(けつ:奥儀のこと)をさとりて、今や才学は一山で最も優れていた。一日蓮長師は、一心に
眼(まなこ)を経文に 曝(さら)す。すると一つの疑問が胸裏に起こる。
【原文】虚空蔵祈願
御書
幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く。日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給ひて、明星の如くなる智慧の寶珠を
授けさせ給ひき。そのしるしにや。日本國の八宗竝に禅宗、念佛宗等の大綱ほぼ伺ひ侍りぬ。時に仁治元年御年十九、此山の経論書籍悉く読盡したれば、
読むべき書なく語るべき友なし。此上は諸国に遊学せんと志したり。
【現代文】虚空蔵祈願
御書
幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云く。日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩が、眼前に高僧となられて、明星のような智慧の宝珠を
授けられた。そのためであろうか、日本国の八宗並びに禅宗、念仏宗等の大綱をほぼ学びつくされた。その時は、仁治元年御年十九歳。この山の経論や書籍
をことごとく読盡(どくじん:読みつくすこと)してしまい、読むべき書もなく語るべき友もなかった。この上は諸国に遊学しようと志(こころざ)した。
【原文】相州米ヶ濵
久しく家をこそ離るれ遠く國を出づるは今日ぞ。始めて蓮長師遥かに師の坊の方に禮し、又父母の方を拝し、道を上總に取りて下總に出て隅田を渡りて
武蔵野に出づれば、盡端もなき茫々たる草原遠く天に連なり雲に接す。草原廣しと雖も一條の本道あらんと、草を分け道を求めて漸く程ケ谷なる帷子の里に
一泊し 翌朝此處を立ちて鎌倉に御着く。角なし螺の話は略す。
【現代文】相州米ヶ浜
久しく家を離れて遠くへ国を出るのは今日である。始めに蓮長師ははるかに師匠の坊の方に礼をし、また父母の方を拝して、道を上総に取りて下総に出て
隅田を渡って武蔵野に出れば、これより先はないという端で、茫々として草原が遠くまで続いて天にまで連なり雲に接している。草原が広しといっても一條の
本道があったので、草を分け道を求めて漸(ようや)く程ケ谷なる帷子(かたびら)の里に一泊して翌朝ここを立って鎌倉に御到着された。 角(つの)なし螺(さざえ)の話は略す。
【原文】尊海に伴ハれて比叡山に赴く
政権一たび武門に移りてより鎌倉は政治の中心となり、武人の淵叢となる。材木座の光明寺、長谷の観音崫、谷小路の不動等寺院の繁昌、市中の繁華、
今ぞ盛りと見へたり。蓮長師、今や此地に来りて各宗の教旨を研究し宗義は粗々之れを窺いぬ。此上は叡山を始め各本山に遊びて其宗義を究め見んと
思う折りしも、比叡山の學僧尊海なるものと知己となり、尊海に伴はれて叡山に登る。
【現代文】尊海に伴われて比叡山に赴く
政権が一たび武門に移ってから鎌倉は政治の中心となり、武人の淵叢(えんそう:中心として栄えている所)となる。材木座の光明寺、長谷の観音崫、
谷小路の不動等寺院の繁昌、市中の繁華、今ぞ盛りと見えたり。蓮長師、今やこの地に来りて各宗の教旨を研究し宗義は粗々これを窺(うかがい)終わった。
この上は叡山を始め各本山に遊びてその宗義を究めようと思っていたところに、折しも比叡山の学僧尊海なるものと知己となり、尊海に伴われて比叡山に
登る。
【原文】叡山修学
翠巒闢くるところ、堂塔林の如く碧樹連なるところ、香𤇆雲の如し。一心三観の月は高く懸りて十方の暗を照らし、四明千尋の雲は遠く散じて、
十州の雨と作る。蓮長師天縦の才を抱きて来りて此霊場に學び、日夜心を法華経に潜めて頗ぶる自得する所あり。熟々天台宗の教旨を案ずるに傳教大師は
唐土天台大師の教旨を得て帰って其宗門を開く。これ法華経迹門の山なり。
【現代文】叡山修学
翠巒闢(すいらんへき)くるところ、堂塔林のごとく碧樹連なるところ、香𤇆(こうえん:香をたく煙)雲のごとし。一心三観の月は高く懸りて十方の暗を
照らし、四明千尋の雲は遠く散じて、十州の雨となる。蓮長師天縦の才を抱きて来りてこの霊場に学び、日夜心を法華経に潜めてすこぶる自得するところあり。
熟々天台宗の教旨を案ずるに伝教大師は唐土天台大師の教旨を得て帰ってその宗門を開く。これ法華経迹門の山なり。
【原文】叡山定光院
蓮長師、東塔圓頓坊の司となり、横川香芳谷定光院も兼務す。三塔の碩学に交を結びて、眼を一宗の註疏に曝す。倩々當宗の流儀を思ふに、
慈覺大師に至り傳教大師の法水を濁し、師敵對のことのみ多し。三千の學徒皆それに靡く。慈覺大師は法敵なり、佛敵なり。宜しく傳教大師の宗旨に
復すべしと論じられた。
【現代文】叡山定光院
蓮長師は、東塔円頓坊の司(責任者)となり、横川香芳谷定光院も兼務する。三塔(西塔・東塔・横川のこと)の碩学と交流し、眼を一宗の
註疏(ちゅうそ:経を解釈した註と、それをさらに解釈した疏)に曝す。倩々(せいせい:よくよく)当宗の流儀を思うに、慈覚大師に至り伝教大師の
法水を濁し、師敵対のことのみ多し。三千の学徒皆それに靡(なび)く。慈覚大師は法敵なり、仏敵なり。正しくは伝教大師の宗旨に復すべきことであると
論じられた。
【原文】叡山講堂
一日、例に依りて講堂に出づれば、法華経と大日経との差別如何との問題を出だした大衆の答案を促がす。これぞ我が言はんと欲するところ、
蓮長師突と進んで師席の前に出づ。それ法華経は醍醐の極説にして大日経は生蘇味の権経のみ。其懸隔天と地との如し。何ぞ同日にし論ずべけんやと、
席を拍て二経の勝劣を論じたるに、三塔の學者等一言の答辦だにあらず。
【現代文】叡山講堂
ある日、例によって講堂に出てみれば、法華経と大日経との差別はどうだとの問題を出だした大衆の答案を促がしていた。これこそ自分が言おうと望んでいる
ことであると、蓮長師が突然に進んで師匠の席の前に出た。その答えは法華経は醍醐味の極説であるが、大日経は生蘇味の権経である。それら違いは
天と地ほどの差がある。どうして同じに比較して論ずることができようかと、席を立って二経の勝劣を論じたが、三塔の学者等一言も答弁できなかった。
【原文】奈良
蓮長師比叡山に在ること五年。三塔の経疏其有用なるものは、皆これを読破し學識益々進みてその志望愈々大なり。這度は智證大師の宗風を問はんが為めに、
三井寺に登りて其経蔵を探りて普ねく古記舊録を読破し、更に奈良に向ふ。平城は六宗の根據にして七大寺の盤踞するところ。蓮長師乃ち六宗研究の目的を
以て此地に至る。時に寶治二年御年二十七。
【現代文】奈良
蓮長師は、比叡山に入って五年となった。三塔の経疏(きょうそ:経典とそれを説明した書物)の有用なるものは、皆これを読破し学識は益々進んで
その志望は愈々(いよいよ)大きくなった。こんどは智證大師の宗風を問わんがために、三井寺に登ってその経蔵を探して普(あまね)く
古記舊録(きゅうろく:古い記録)を読破し、さらに奈良に向かう。平城は六宗の根拠にして七大寺の盤踞(ばんきょ:根を張って動かないこと)する
ところである。蓮長師は、すなわち六宗研究の目的をもってこの地に至った。時に寶治二年御年二十七になっていた。
【原文】比企能本
蓮長師、奈良の研究を終へ、高野山に登りて真言の密義を探り、京都に帰り比企氏を問ふ。大學三郎能本と云ふ人、常に月卿雲客と生来して、其名九重の上にも
達す。蓮長師、能本の書庫に入りて四書五経より諸子百家の書を閲す。天稟の才に加ふるに刻苦の力を以てす。巻を披けば五行並び下るの勢あり。忽ちにして
千巻の書を読破す。
【現代文】比企能本
蓮長師は、奈良の研究を終え、高野山に登って真言の密義を探究し、京都に帰り比企氏を訪ねる。大学三郎能本という人、常に月卿雲客(げっけいうんかく
:公卿と殿上人のこと)と生来して、その名九重(天使の住居)の上にも達す。蓮長師は、能本の書庫に入って四書五経より諸子百家の書を閲読する。
天稟(てんぴん:うまれつきの才能)の才に加うるに刻苦の力をもって励んだ。巻を披(ひら)けば五行並び下る(本を読むときに、五行まとめて読み進み、
読書の速度が非常に速いこと。)の勢いがあった。たちまちにして千巻の書を読破した。
【原文】冷泉家
儒教を比企氏に研究し歌道を冷泉家に學ぶ。當時冷泉為家と言へる人、定家卿の子として歌名頗る隆し。蓮長師すなわち贄を執りて和歌を學ぶ。大才の人は
諸芸諸学之くとして可ならざるはなし。忽ちにして歌道に通じ、殊に筆蹟にも巧みなり。為家見て貴僧の書風、古の三蹟にも過ぎたりとて感賞措かざりしと
云ふ。
【現代文】冷泉家
儒教を比企氏に研究し歌道を冷泉家に学ぶ。当時冷泉為家といえる人、(藤原)定家卿の子として歌名がすこぶるたかかった。蓮長師すぐに贄(し)を
執りて(贈り物をして入門すること)和歌を学んだ。すぐれた才能を持つ人は諸芸諸学について、何をやってもみな十分の成果をあげることができる。
たちまちにして歌道に通じ、殊に筆蹟にも巧みなり。為家見て貴僧の書風、昔の三蹟(書道の大御所三人のこと。小野道風、藤原佐理、藤原行成のこと。)を
も超えていると感心してほめたたえることを、止めなかったという。
【原文】神宮奏上
遊學十有四年、佛教修業の功、今や全く成る。諸経中王最為第一の法華経を以て日本國の一切衆生を助けんとの大決心を立てて帰途につく。先づ立宗の大主意を
大廟に上奏せんとするの志を抱きて伊勢に到る。大廟の寶前に跪づき、大法開宣の旨を奏上し暫く法味を献じ終えて、父母の國、立志の國たる故郷の安房に
御帰省。
【現代文】神宮奏上
遊学すること十四年、仏教修業の成果は、今や完全く達成した。諸経の中の王、最も第一である法華経をもって日本国の一切衆生を助けんとの大決心を立てて
帰途につく。まず立宗の最も大きな決意を大廟に上奏するための志しを抱きて伊勢に到る。大廟の宝前にひざまづき、大法を開宗宣言の主旨を奏上し、
しばらく法味を献じ終えて、父母の国であり立志の国である故郷の安房に御帰省された。
【原文】父母ノ許諾
一両日を経て、蓮長師再び家に帰れば、父母出で迎へて慇懃に歓待し、重忠い云ふ。我れ凡眼なりとは言へ、御身の胸中必定大願ありとこそ見つれ、
如何にやと図星を刺せば、蓮長師云く、驚き入ったる御眼力にやと、立宗開教の大要を物語れば、扨も雄々しうこそ候。法の為、國の為に盡し候へと、
父母も今は快よく許諾しぬ。
【現代文】父母の許諾
一両日を経て、蓮長師が再び家に帰れば、父母は出迎えて慇懃に歓待し、重忠がいう。我れは凡眼なりとはいえ、御身の胸中に必定の大願があるとみた。
いかがかと図星を刺せば、蓮長師は、驚きいったる御眼力にです。そこで、立宗開教の大要を物語った。すると、さずかに男らしく勇ましいと言った。
法のため、国のためにつくしなさいと、父母も今は快く許諾された。
【原文】宗旨建立
時は維れ建長五年癸丑四月二十八日、蓮長師清澄山の一角、旭の森に到りて、儼然海上を望んで立つ。瞳々たる旭日早や東天に半顔を露はす。彼の時早く
此時遅く、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。高く清く力ある聲にて題目を唱ふること十回。旭に向って最とも荘厳に最とも雄大に
開宣せられ畢んぬ。
【現代文】宗旨建立
時はこれ建長五年癸(みずのと)丑(うし)四月二十八日、蓮長師は清澄山の一角、旭の森にやってきて、厳然海上を望んで立つ。瞳々(とうとう)たる
旭日早や東天に半顔をあらわす。その時に同時に、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、高く清く力ある声で題目を唱えること十回におよぶ。
旭に向って最も荘厳に最も雄大に開宗宣言し終えられた。
【原文】清澄説法
其日の正午を期して清澄の法堂に初めて大法輪を転じられた。諸宗はすべて謬りであった。法華経を奉ぜざる國は亡びる。法華経に従ふを大善とし、
これに背くを大悪とする。此旨に違ふものは都て悪魔の眷属であると折伏なされた。一會俄かにどよめき地頭東條景信烈火の如く憤りて即座に聖人を
斬らんとしたが、老師道善の陳謝で纔かに思ひ止った。
【現代文】清澄説法
その日、正午に清澄寺の法堂にて初めて大法輪を転じられた。諸宗はすべて誤りであった。法華経を奉ぜざる国は亡びる。法華経に従うを大善とし、
これに背くを大悪とする。この旨に違うものはすべて悪魔の眷属である、と折伏なされた。一会がにわかにどよめき地頭の東條景信は烈火のごとく憤りて
即座に聖人を斬らんとしたが、老師道善の陳謝でわずかに思いとどまった。
【原文】大聖ノ改名
蓮長師、生家に戻り、父母を教化し本門の受戒を授けたれば、直ちに宗旨を改め父は妙日、母は妙蓮と號す。この時、聖人も父母の法号を取りて、
是れより御名を日蓮と称す。明かなること日月の如く、清きこと蓮華の如し。自解佛乗して日蓮といふ。時は是れ建長五年五月中旬。懇ろに父母に暇を告げて
鎌倉さして御北發足遊ばさる。
【現代文】大聖人の改名
蓮長師は、生家に戻り、父母を教化し本門の受戒を授けた。すると、直ちに宗旨を改め父は妙日、母は妙蓮と法号を名乗った。この時、聖人も父母の法号を
取りて、これより御名を日蓮と称した。明らかなること日月、清きこと蓮華のようである。みずから仏乗を理解して日蓮という。時はこれ建長五年五月中旬。
ねんごろに父母に暇(いとま)を告げて鎌倉さして御出発あそばさる。
【原文】成辨聖人ヲ訪フ
聖人、鎌倉に到着。名越の松葉ケ谷と云へる處に、聊かの空地ありしを幸ひ、一宇の草庵を建てて日夕御題目を唱へ、経文を読誦し、暫勇氣を養ふ。
折りしも門外に音つるものあり。こは成辨といふて叡山の學僧篤學の人、自ら進んで法弟たらんことを乞へば、聖人快く其請を容れ、本門の大戒を授け、
日昭と名づく。これぞ六老僧の一人なりける。
【現代文】成辨が聖人を訪ねる
聖人は、鎌倉に到着し、名越の松葉ケ谷というところに、いささかの空地があったので、一棟の草庵を建てて日夕に御題目を唱え、経文を読誦し、
しばらく勇気を養った。おりしも門外に知らせる者がいた。これは成辨(じょうべん)といって比叡山の学僧で篤学の人。自ら進んで法弟にしてもらいたいと
願ったので、聖人は快くその請いをいれ、本門の大戒を授け、日昭と名づけた。この人こそ六老僧の一人である。
【原文】辻説法
ここは鎌倉の中心たる小町の辻。来往しげき街路の中、大聖人は石上に突っと立ちて演説す。念佛無間、禅天魔、真言亡國、律國賊。四大格言の理由を具に
示す。我は是れ法華経の行者なり。順ふ者は救はん。反く者も亦た救はん。順縁逆縁皆齊しく我が妙化を受けよやと大聲疾呼論し去り論し来って獅子の
吼ゆるが如し。其周圍は黒山を築き聖人を罵詈悪口し石瓦は雨霰の如し。
【現代文】辻説法
ここは鎌倉の中心たる小町の辻である。来往が多い街路の中、大聖人は石の上に突っと立って演説する。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊。四大格言の
理由をつぶさに示す。我はこれ法華経の行者である。したがう者は救わん。そむく者もまた救わん。順縁逆縁皆等しく我が妙化を受けよやと大声で激しく
呼び立て、去ってはさとし来っては獅子の吼ゆるようであった。その周囲は黒山を築き聖人を罵詈悪口(めりあっく)し石瓦は雨霰(あめあられ)のようで
あった。
【原文】富木殿出船
下總富木播磨守胤継は、聖人の母梅菊の縁者なれば、聖人の御遊學、修業中の衣食及一切の費用は主として胤継の支給せるものなれば多年の恩義をも謝し、
且は我が本意を告げ參らせんと遙々下総に到れば、富木殿には只今鎌倉へ向け出帆とのこと故、急ぎ海岸に馳せ付大音に呼ばれば、直ちに小船を以て迎へ
本船へ移り、富木殿をこの船中において改宗せしむ。
【現代文】富木殿出船
下総に住む富木播磨守胤継は、聖人の母梅菊の縁者であり、聖人の御遊学や修業中の衣食及び一切の費用は主として胤継が支給したのであり、多年の恩義をも
謝し、かつ我が本意を告げまいらせようと、はるばる下総に到ったところ、ただいま鎌倉へ向け出帆とのことであり、急ぎ海岸に馳せ付け大声で呼べば、
直ちに小舟で迎えて本船へ移り、富木殿をこの船中において改宗せしめた。
【原文】伯耆坊慕ヒ来ル
正嘉元年以来天変地異頻々として打續く。聖人熟々世上の有様を観しつつ、慨然として此の國諌を進めんと心を決す。正元元年を以て駿州岩本實相寺に赴き
立正安國論の準備として一切経を閲覧し、帰途沼津に至れる頃ひ、實相寺の所化伯耆坊と云へる十四才のもの息せき馳せ来り、願ふて聖人の弟子となる。
即ち此人六老僧の一人にして白蓮阿闍梨日興といふ。
【現代文】伯耆坊が慕い来たる
正嘉元年以来天変地異が頻々として打ち続く。聖人は、熟々として世上のありさまを観察しつつ、慨然として、この国諌を進めようと心を決める。
正元元年をもって駿州岩本実相寺に赴き、立正安国論の準備として一切経を閲覧し、帰途沼津に到れる頃合いに、実相寺の所化伯耆坊といえる十四才の者が、
息せき切って馳せ来って、願って聖人の弟子となる。すなわちこの人六老僧の一人にして白蓮阿闍梨日興という。
【原文】安國論
日蓮大聖人は國家の危きを憂い給ひ、立正安國論一巻御撰述なされ、文應元年七月十六日を以て上書して、公式に邪法禁遏、正法帰依を諌告なされた。
若しこれに順はざれば三災七難具に起り、必ず自界叛逆難といふて國中の同士討始り、他国侵逼難といふて外國より攻め来たるべしと、一々経證を引て後年の
元寇を豫言なされた。
【現代文】安国論
日蓮大聖人は国家が危ないことを憂い、立正安国論一巻を御撰述なされ、文応元年七月十六日をに上書して、公式に邪法禁遏(きんあつ:禁じてやめさせる
こと)正法帰依を諌告なされた。もしこれに従わなければ三災七難がつまびらかに起こり、必ず自界叛逆難といって国中の同士討ちが始まり、他国侵逼難と
いって外国より攻め来たることは間違いないと、一々経文証書を引いて後年の元寇を予言なされた。
【原文】松葉ヶ谷焼打
下山御消息ニ曰く。先づ大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻註したり。是を故最明寺入道殿に奉るに御尋も無く御用ひも無りしかば、國主の御用ひ無き
法師なれば設ひ過ちたりとも失に非とや思けん念佛者竝に檀那等、又さるべき人にも同意しけるごぞ聞えし夜中に日蓮が小庵に数千人押寄せて殺害せんと
せいしかども如何したりけん。其夜の害も脱ぬ。然れども、心合せたる事なれば、寄たる者は失無して大事の政道を破れり。日蓮の未だ生たるは
不思議なりとて伊豆国へ流す。
【現代文】松葉ヶ谷焼打
下山御消息にいわく。先ず大地震について去る正嘉元年に書を一巻註した。これを故最明寺入道殿に奉ったがお尋ねも無く用いられることもなく、
国主が用いられない法師なれば、たとえ過ちであっても失にならないと思い、念仏者並びに檀那等、またさるべき人にも同意していると聞いている。
夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとしたけれど、どうしたことか、その夜の害も免れた。しかし、心合わせたことなので、襲った者は罪に
問われないで大事の政道が破られた。日蓮が未だ生きていることは不思議だとして伊豆国へ流す。
【原文】御猿畑
松葉ケ谷の草庵には進士太郎、善春勇僧能登坊等居合し獅子奮迅の勇を振して防ぎ戦ふ。火の手は益々燃へ募り炎烟見る見る高く騰りて天に冲す。
大聖人には此夜白猿に導かれ引かるる儘に、庵を出でて山に入り山王堂の岩窟の前に到ると我が草庵とおぼしき町、炎烟高く天を衝く。聖人別に驚く
色もあらず窟の中に一夜を明す。
【現代文】御猿畑
松葉ケ谷の草庵には進士太郎、善春勇僧能登坊等が居合わせ獅子奮迅の勇ましさを振るい防ぎ戦う。火の手はますます燃え募り炎烟(えんえん:
ほのおとけむり)みるみる高く騰(あが)って天に昇る。大聖人は、この夜白猿に導かれ引かれるままに、庵を出て山に入り、山王堂の岩窟の前に着くと、
我が草庵とおぼしき町は、炎烟が高く天を衝く。聖人は、別に驚く様子もなく岩窟の中で一夜を明かす。
【原文】伊東御流難
草庵焼打後、聖人は富木殿の招待に依り、中山に到り百座の説法畢りしころ、草庵の新築成り、鎌倉へ御帰着。日々辻説法の大折伏弘通、弘長元年
五月十二日の朝、琵琶小路に説法の折しも二三十人の武士、不意に現はれ聖人の周圍を取り巻き、いきなり取って押へて縄を掛け、由井ガ濱へ引立て伊豆の
伊東へ流罪と定った。如何にも鎌倉殿の政道の理不盡のやり方であった。
【現代文】伊東御流難
草庵が焼き討ちされた後、聖人は富木殿の招待により、中山に到り百座の説法が終わった頃に、草庵が新築され、鎌倉へ御帰着された。日々辻説法の大折伏
弘通をなされていた弘長元年五月十二日の朝、琵琶小路にての説法のおりに、二三十人の武士が、不意に現われ聖人の周囲を取り巻き、いきなり取って
押さえて縄をかけ、由井ガ浜へ引き立てて、伊豆の伊東へ流罪と定まった。いかにも鎌倉殿の政道の理不尽なやり方であった。
【原文】魚俎岩
いざ御出航といふ場合、御弟子及帰依の男女の馳せ来たり一同の驚を御諭し、南無妙法蓮華経の御聲浪のまにまに遠ざかる浪路嶮はしき五月雨の天日も
暮れもてし頃。名に高き海の地獄の篠見が浦に魚俎岩といふ暗礁へ捨て船の官人はここより伊東へ勝手に行かれよと、無慈悲にも船を漕戻して行方知れず
なった。あわや満潮ともならば御身は海底の藻屑となるべかりしところ。
【現代文】まないた岩
いざ御出航というとき、御弟子及び帰依した男女が馳せ来って一同の驚きを御諭しなさって、南無妙法蓮華経の御声浪のまにまに遠ざかる浪路険しき
五月雨の天日も暮れもてし頃、と詠み、名に高き海の地獄の篠見が浦にまないた岩という暗礁へ置き去りにして、船の官人は、これより伊東へ勝手に
行かれよと、無慈悲にも船を漕ぎ戻して行方知れずになった。あわや満潮ともならば御身は海底の藻屑となるところであった。
【原文】川奈
巌を拍つの波濤脚下に碎く。聖人心静かに御題目を唱ふ。折りしも一そふの漁舟現はれ出づ。これぞ宿縁淳厚なる船守彌三郎が之を救ひ參らせ我が家へ
御連れし、夫婦もろとも厚き御教化を蒙むる後に、地頭伊東朝高の帰依となり、教化を謫居に垂れ給ふ。聖人この伊東に在すこと、満二年弘長三年五月
二十二日赦免をえて多事鎌倉へ御帰着。御弟子日興上人恩師を慕ひ伊東に来る。
【現代文】川奈
巌を打つ波濤が脚下に碎(くだ)けている。聖人心静かに御題目を唱う。おりしも一槽の漁舟が現れ出る。これこそ宿縁淳厚なる船守弥三郎であり、
聖人を救いまいらせ我が家へお連れし、夫婦もろとも厚きご教化を蒙る。後に、地頭伊東朝高の帰依となり、教化を謫居(たっきょ:流罪になって、
その地に住むこと)で行われる。聖人この伊東に在すこと満二年。弘長三年五月二十二日に赦免をえて、多事鎌倉へ御帰着される。御弟子日興上人は
恩師を慕い伊東に来る。
【原文】御母蘇生
聖人帰庵。少しく御身に餘閑あり。一つには亡父の墓に詣て、二つには慈母の安否を問はんが為めに、故郷の小湊に向ひ給ふ。頓て我家に近づく折りしも
何となく胸頻りに悸く。急ぎ我家の門邊に着けば、宅にては今しも母の縡切れしとて、水よ薬よと立騒げるところ、大聖人大ひに驚き、直ちに本尊を認め
松の枝に掛て招魂の法を修す。忽ちに母、蘇生す。壽き延ぶること四年。
【現代文】御母蘇生
聖人が帰庵されて、少しく御身に余閑ったので、一つには亡父の墓に詣でて、二つには慈母の安否を問わんがために、故郷の小湊に向かわれた。やがて
我が家に近づくおりしも何となく胸が頻(しき)りに悸(おのの)く。急ぎ我が家の門辺に着けば、宅にては今しも母が縡(こと)切れて、水よ薬よと
立ち騒げるところであった。大聖人も大いに驚き、直ちに本尊を認め松の枝に掛けて招魂の法(衰弱している人を活性化させるために行われる修法)を
修された。たちまちに母は、蘇生した。そして、壽(ことぶ)き延ぶること四年であった。
【原文】小松原法難
聖人、故郷に留ること數十日。天津の地頭工藤左近丞吉隆は、戴髪の弟子として聖人を尊信すること極めて厚し。十一月十一日のこと。工藤吉隆の招待により、
弟子、信徒十名ばかり引連れ、吉隆の邸へ向ふ。一帯の松樹、路傍に連なれるは名にし負う小松原。聖人の一行、何氣なく其前を過ぐる折りしも忽然として
吶喊の聲近く樹陰より起る。
【現代文】小松原法難
聖人は、故郷に留まること数十日。天津の地頭工藤左近丞吉隆は、戴髪(たいはつ)の弟子として聖人を尊信すること極めて厚かった。十一月十一日のこと。
工藤吉隆の招待により、弟子、信徒十名ばかり引き連れ、吉隆の邸へ向かう。一帯の松樹、路傍に連なれるは名にしおう小松原である。聖人の一行、何気なく
その前を過ぐるおりしも忽然として吶喊(とっかん)の声が近くで樹陰より起こる。
【原文】吉隆出陣
聖人御書に、射る矢は雨の如く打太刀は電の如し。とかねてより怨嫉重なる東條左衛門景信數百人の軍兵を駆催し一齊に突進す。随従の弟子鏡忍及註進により
馳せつけ来りし檀越天津の城主工藤左近之丞吉隆の両人奮戦すと雖も多勢に無勢、終に両人戦死す。景信馬上より大聖人目がけて真向に斬って下ろす。
聖人珠數にて受け給へば親玉を切割って聖人の眉間に三寸の疵負わせ、其とたんに落馬し終に死す。
【現代文】吉隆出陣
聖人御書に、射る矢は雨のようで、打つ太刀は電(いなずま)のよううであった。その時、かねてより怨嫉重なる東條左衛門景信が数百人の軍兵を
駆催(かけもよお)して一斉に突進する。随従の弟子鏡忍及び註進により馳せつけ来けた檀越天津の城主、工藤左近之丞吉隆の両人奮戦するといえども
多勢に無勢、終に両人ともに戦死する。景信は馬上より大聖人目がけて真向いに斬って下ろす。聖人は珠数にて受けられたが、親玉を切り割って聖人の眉間に
三寸の疵(きず)を負わせ、そのとたんに落馬し終に死んだ。
【原文】雨乞
文永八年の大旱魃で良観が命を受けて雨乞をする事になった。聖人、これに因て法の邪正を決せんと良観のもとへ使を遣し貴僧の雨乞験あらば日蓮貴僧の
弟子になるべし。験なくば日蓮の弟子となりたまへと告げた。良観も然るべしと答へて丹誠祈願をこらしたが毫も験がない。十四日間祈るに一滴の雨だに
あらず、大聖人田鍋ケ池に至り徐かに経文を誦す。忽然として雨降、小止みなく降り続き、降り荐ること殆んど三日三夜。
【現代文】雨乞
文永八年の大旱魃で良観が命を受けて雨乞いをすることになった。聖人は、これによって法の邪正を決せんと良観のもとへ使いを遣(よこ)し、貴僧の
雨乞いが、験(しるし)あらば日蓮は貴僧の弟子になるべし。験なくば日蓮の弟子となりたまえと告げた。良観もしかるべしと答えて丹誠祈願をこらしたが、
毫(すこし)も験がない。十四日間祈るが一滴の雨だにあらず。大聖人田鍋ケ池に到り徐(おだや)かに経文を誦する。すると、
忽然(こつぜん:にわかに)として雨降り、小止みなく降り続き、降り荐(しき)ることほとんど三日三夜であった。
【原文】問註所へ讒訴ス
良観の憤怒やるかたなく諸宗の僧と力を戮せて聖人を除かんと欲し、各々一書を認め問註所に上フりて聖人を弾劾す。侫人平ノ左衛門頼綱、急ぎ時宗の許に
到りて聖人の状を訴ふれば、時宗今は容赦せず。日蓮平生上を蔑にし、憎っきやつ。若し捨て置かば一大事ぞ。左衛門尉急ぎ名越に馳せ向ひ日蓮を搦め捕って
死罪に行ひ候へと命じたり。
【現代文】問註所へ讒訴(ざんそ)する
良観の憤怒はやるかたなく諸宗の僧と力をあわせて聖人を除こうと考え、各々一書を認め問註所にあがって聖人を弾劾する。侫人(ねいじん:口先巧みに
へつらう心のよこしまな人)平ノ左衛門頼綱は、急ぎ時宗の許に行き、聖人の現状を訴えたところ、時宗は、今は容赦しない。日蓮は平生からお上を
蔑(ないがしろ)にしている憎っきやつ。もし捨て置けば一大事ぞ。左衛門尉急ぎ名越に馳せ向い日蓮を搦(から)め捕って死罪に処せよと命じた。
【原文】日蓮聖人召捕
時は文永八年九月十二日申の刻。時宗の嚴命として平ノ頼綱、小具足に身を堅めたる兵士三百余人を引具して松葉ケ谷の草庵に馳せ向ふ。草庵には
大聖人説法の真最中、頼綱馬上に在って怒りの聲荒ららぐ。聖人云く、あら面白や平ノ左衛門尉が物に狂へる状を見よ。殿原、今ぞよ、日本國の柱の
倒るること、と宣べば、士卒大いに怯む。頼綱いふ、物な言わせそ、疾く搦めよと、衆卒どっと飛び掛かりて縄をかく。
【現代文】日蓮聖人を召し捕える
時は文永八年九月十二日申(さる)の刻。時宗の厳命として平ノ頼綱、小具足に身を堅めた兵士三百余人を引き連れて松葉ケ谷の草庵に馳せ向う。
草庵では大聖人が説法の真最中、頼綱馬上にあって怒りの声を荒ららげる。聖人がいうには、あら面白ろや平ノ左衛門尉が物に狂える状を見よ。
殿原、今ぞよ、日本国の柱を倒すと、と宣べば、士卒は大いに怯(ひる)む。頼綱がいう、ものを言わせるな、疾(と)く搦(から)めよと衆卒どっと
飛び掛かりて縄をかけた。
【原文】社頭諌暁
三百余人の士卒鋒を列ね厳しく前後左右を警固しつつ片瀬の龍の口に送らんとす。頓て鶴が岡赤橋の畔に到れば聖人忽ちひらりと鞍上より飛び下り、
八幡宮の神殿見上げて御聲高らかる。種々御振舞御書。日蓮云く、各騒がせ給な。別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申べき事ありとて、馬よりさし下りて
高聲に申す様と八幡宮に諌暁の御言葉あり。四條金吾馬の口を取りて龍の口へ向ふ。
【現代文】社頭にて諌暁
三百余人の士卒が鋒(ほこさき)を列ねて厳しく前後左右を警固しつつ片瀬の龍の口に送ろうとする。やがて鶴が岡赤橋の畔(ほとり)に到ったとき、
聖人はたちまちひらりと鞍上より飛び下り、八幡宮の神殿を見上げて御声を高らかに発せられた。種々御振舞御書。日蓮云く、各騒がせ給うな。
別のことはなし。八幡大菩薩に最後に申すべきことありとて、馬よりさし下りて高声に申す様と八幡宮に諌暁の御言葉あり。四条金吾は馬の口を取りて
龍の口へ向かう。
【原文】龍ノ口
大聖人龍の口刑場に到る時に弦月既に没して天光海色自から黒し、一陣の怪風驀地として地を捲き満天の妖雲猛然として雨を驅る奔電東西に閃き渡り
怒雷縦横に鳴りはためく。柵は倒れ幕は裂け炬火の光一時に滅ゆると齊しく團々たる怪光東南の天より不意に飛び来る。大さ満月の如く疾きこと飛箭の如し。
山川震び動きて天地も為めに崩れ落ちんばかり。太刀取依智三郎直重蛇胴丸の名劔三断に折れる。
【現代文】龍ノ口
大聖人が龍の口刑場に到る時に、弦月はすでに没して天光海色はおのずから黒し。一陣の怪風は驀地(ばくち:まっしぐらに突き進む)として地を捲き、
満天の妖雲は猛然として雨を駆る。奔電(ほんでん:いなずまがはしる)東西に閃(ひらめ)き渡り怒雷は縦横に鳴りはためく。柵は倒れ幕は裂け
炬火(きょか:たいまつ)の光は一時に滅(き:消)ゆると同じくして団々たる(円いさま)怪光が東南の天より不意に飛び来たる。大きさ満月のようであり、
疾(はや)きこと飛箭(ひせん)のようであった。山川は震(ふる)い動きて天地も為に(それによって)崩れ落ちんばかりであった。太刀取り
依智三郎直重の蛇胴丸という名剣が三断に折れる。
【原文】行合川
種々御振舞書、聖人御書。太刀取目暗み倒ふれ臥し兵共をじ怖れて一町計り馳りのき或は馬より下りて畏り、或は馬の上にて蹲まる者もあり。日蓮申す様、
何に殿原かかる大禍ある召人をば遠く退くぞ。近く打寄や打寄やと高々と喚れども急ぎ寄人もなし。奉行頼綱急ぎ状を具して時宗の指揮を仰ぐ。
頼綱の使者馬を驅って鎌倉に向ひ金洗澤の濵邊に於てはたと時宗の使者南條七郎に行逢ふ。
【現代文】行合川
種々御振舞書、聖人御書。太刀取りは、目がくらみ倒れ臥(ふ)し、兵共おじ怖れて一町ばかりはしりのき、あるいは馬より下りて畏(かしこま)り、
あるいは馬の上にて蹲(うずく)まる者もあり。日蓮が申すようには、どうして殿原このような大禍ある召人(めしうど)をば遠く退くぞ。近く打ちよれや
打ちよれやと高々と喚(よぶ)れども急ぎよる人もなし。奉行頼綱急ぎ状をもって時宗の指揮を仰ぐ。頼綱の使者馬を駆って鎌倉に向かい
金洗澤(かなあらいさわ)の浜辺において、はたと時宗の使者南條七郎に行き会う。
【原文】星降之梅
沙門日蓮儀。一、先當国依智郷の住人本間六郎左衛門重連へ引き渡し候へ、との下知なり。斯くて兔も角も假に依智の郷本間が邸に御預けとなり、
翌十三日は後の明月庭に降立ち給ひ、月に對って諸宗の違目を数へ自我偈少々読誦し給ふ。折りしも明星天子梅の古木に来下して問訊應酬ありし奇瑞に
見聞の諸人我を折て帰伏する者數千人に及びしとある。
【現代文】星が降りる梅
沙門日蓮に関すること。一、先ずは当国依智郷の住人本間六郎左衛門重連へ引き渡しなさい、との命令であった。かくしてともかくも仮りに依智の郷
本間が邸に御預けとなり、翌十三日に、後の明月庭に降り立たれ、月に対(むか)って諸宗の違目を数え自我偈を少々読誦された。おりしも明星天子が
梅の古木に来下して問答をするやりとりがあり、その奇瑞を見聞した諸人は我見を折って帰伏する者が数千人に及んだとある。
【原文】弟子日朗ノ召捕
草庵には日朗尚ほ此處に留まる所へドヤドヤと入り来れる雑人原片端より草庵を壊はし始む。不圖日朗の此處に在るを見るより日蓮が一類こざんあれ。
それ搦めよと多勢折り重なってひしひしと縄を掛られば、我をも縛ばり玉はれと言ひつつ次の室より馳せ来れる小法師こそ十二才の日進なり。
情を知らぬ雑人原容赦もなく縄を掛け両人共奉行所へ引立て長谷の土牢に捕う。
【現代文】弟子日朗の召し捕らえ
草庵に日朗がまだ留まっていたところにどやどやと入ってくる雑人ばらは、片端より草庵を壊し始める。ふと日朗がここにいることをみつけ、
日蓮の一類がいたぞ。それ搦(から)めよと多勢が折り重なってひしひしと縄を掛けられていると、自分も縛れと言いながら、次の部屋から馳せ来れる
小法師こそ十二才の日進であった。事情を知らない雑人ばらは、容赦なく縄を掛け両人とも奉行所へ引き立て、長谷の土牢に捕えた。
【原文】日朗土籠
土籠御書
日蓮は明日佐渡の國へまかるなり。今夜のさむきに付てもろうのうちのありさま思ひやられていたはしくこそ候へ。~中略~色心二法共にあそばされたるこそ
貴く候へ。天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害と説かれて候へば、別の事はあるべからず。籠をばし出でさせ給ひ候はば、とくとくきたり給へ。
見たてまつり見えたてまつらん。恐恐謹言。文永八年辛未十月九日、日蓮花押。筑後殿
【現代文】日朗は土籠に
土籠御書
日蓮は明日佐渡の国へ行ってしまう。今夜の寒い状況についても、牢の中にいるありさまを思えば気の毒に思う。(中略)色心の二法を共に実行されたことは
尊いことである。安楽行品に「天の諸の童子、以って給仕を為さん。刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と説かれていることは、別のことではない。
牢から出たら、急ぎおいでなさい。お互いの姿を見ましょう。恐恐謹言。文永八年辛(かのと)未(ひつじ)十月九日日蓮花押。筑後殿
【原文】佐渡遠流波題目
文永九年十月十日、依智御出立同二十七日越後寺泊より御出航。ここは佐渡への渡津なり。碧波を隔てて近く一島の横たはれるは即ち配所の地。一帆直に
北海の濤を截って進む。洋中に出づる頃ひ、逆風大いに吹き起り船體あわや覆へらんとす。大聖人突と起ちて船首に到り、矻と海上を見渡し水棹を取って
海面に南無妙法蓮華経の七字を書すれば、其跡歴々波上に印りて霎時は消へも遣らず。
【現代文】佐渡遠流の波題目
文永九年十月十日、依智を御出立、同二十七日に越後寺泊より御出航された。ここは佐渡への渡津(としん:渡し場)である。碧波(へきは:あおい波)を
隔てて近く一島の横たわれるは即ち配所の地である。一帆直ちに北海の波をきって進む洋中に出づるころあい、逆風大いに吹き起こり船体あわや
覆(くつがえ)らんとする。大聖人突(とつ)と起(た)ちて船首に到り、矻(こつ:着実に)と海上を見渡し水棹を取って海面に南無妙法蓮華経の七字を
書けば、その跡(あと)歴々波上に印(とどま)りて霎時(しょうじ:しばらくの間)は消えも遣(や)らず。
【原文】佐渡塚原三昧堂
二十八日夕刻、佐渡松ケ崎に御着。北海の寒山佐渡が島は一度流されたものの生きて還るは希れなりとさえ傳へられたる難境。塚原三昧堂といふて一間四面の
小堂、軒は六尺雪は一丈という中に泰然として法華三昧の自受法楽に安し給ひ雪を束ねて壇と為し氷柱を噛んで食となして、従容自若毫も自己の憂ひと
思召すことなし。茲に遠藤為盛、聖人を法敵として襲ひ来りて只一打にせんと斬りかかりしも却て御教化に預かり夫婦諸共改宗し御供養申上奉る。
【現代文】佐渡塚原三昧堂
二十八日の夕刻、佐渡の松ケ崎に御到着された。北海の寒山佐渡が島は一度流されたものの生きて還ることは希れなりとさえ言い伝えられる難境である。
塚原三昧堂といって一間四面の小堂があり、軒は六尺雪は一丈という中に泰然として法華三昧の自受法楽に安住され、雪を束ねて壇となして、氷柱を噛んで
食となして、従容自若毫(すこし)も自己の憂いと思召すことはない。茲(ここ)に遠藤為盛、聖人を法敵として襲い来て、ただ一打にしようと
斬りかかったがかえって御教化に預かり、夫婦諸共改宗して御供養申し上げ奉る。
【原文】塚原問答
時は正月十六日、各宗の僧侶、依経依経を首に掛け脇に挟み印生坊慈道坊等を先きに立ちて、諸國の僧侶其總勢数百人、塚原へと繰出す。本間重連自ら士卒を
率ゐて見分す。諸宗の僧侶、聖人を罵り叫びて止まず。聖人此光景を見ながら泰然として驚かず。各々鎮まり候え、一定法門の為めにこそ御渡り候はめ。
由なき悪口は益なし。御止め候へ、御止め候へ。さて法門に及べば一言二言にして口を噤む。はては衆僧一句をも出でず。一同閉口す。
【現代文】塚原問答
時は正月十六日。各宗の僧侶は、依経を首に掛け脇に挟み印生坊・慈道坊等を先頭にして、諸国の僧侶その総勢数百人が、塚原に繰り出す。本間重連は、
自ら士卒を率いて見分する。諸宗の僧侶は、聖人を罵(ののし)り叫びて止まない。聖人は、この光景を見ながら泰然として驚かない。各々鎮まりなさい、
決まって法門のために、ここに渡って来たのであろう。理由のない悪口は得益はない。止めなさい、止めなさい。やがて法門になると一言二言にして口を
噤(つぐ)む。果ては衆僧は、一句をも出てこない。一同は閉口する。
【原文】鎌倉ヨリ佐渡へ軍ノ注進
各宗僧侶退散すれば、本間重連亦た士卒を率ゐて去らんとす。聖人不意に言葉をかけ、御待ち候へ本間殿、重連訝し氣に跡へ引かへす。聖人云く、
鎌倉に軍さあり、疾く疾く出陣の用意せられ候へと、宣べば、重連不審顔にて新穂の邸に帰る。居ること三十日ばかり二月十八日に至りて鎌倉より軍の
注進来る。重連愕然として色を変し急ぎ塚原に馳せ行きて大聖人の前に跪づく。これより本間重連深く聖人を帰依し法華経の信者となれり。
【現代文】鎌倉より佐渡へ軍さの注進
各宗の僧侶が退散したので、本間重連も亦(ま)た士卒を率いて去ろうとした。聖人は不意に言葉をかけ、お待ちなさい、本間殿。重連は訝(いぶか)し気に
跡へ引きかえす。聖人がいうには、鎌倉に軍さがある。疾(と:急ぎ)く出陣の用意をしなさいと宣べば、重連は、不審顔でにて新穂の邸に帰った。
それから三十日ばかりの二月十八日になって鎌倉より軍さの注進が来た。重連は、愕然として色を変え急ぎ塚原に馳せ行って大聖人の前に跪(ひざま)づく。
これより本間重連深く聖人に帰依し法華経の信者となった。
【原文】日妙聖人
日妙聖人御書。日本第一の法華経の行者の女人也。故に名一つつけ奉りて不軽菩薩の義になぞらへん、日妙聖人等云云。相州鎌倉より北國佐渡の國まで
其の中間一千里に及べり、山海遥かに相隔たり山は峨々たり海は漫々たり、風雨時に順ふ事なし。山賊海賊充満せり。宿々泊々民の心虎のごとし犬のごとし。
現身に三悪道の苦をうる歟。其の上當世は世亂れて去年より謀反の者國に充満せり。
【現代文】日妙聖人
日妙聖人御書。日本第一の法華経の行者の女人である。それゆえ名を一つ付けてつけて不軽菩薩の義になぞらえよう。日妙聖人等と。相州の鎌倉から
北国の佐渡の国までのその中間は一千余里に及んでいる。山海をはるかに隔て、山は峨峨(がが)としてそびえ海は涛涛(とうとう)として波立ち、
風雨は時節にしたがうことがない。山賊や海賊は充満している。途中の宿宿の民の心は虎や犬のようである。さながら現身に三悪道の苦しみを
経験するかと思うほどである。そのうえ当世の乱れで、去年から謀叛の者が国に充満している。
【原文】時宗ノ夢
左しも深かりし北條一門の憎しみも今や漸く釋くるの時ぞ来たりける。時は文永十一年二月八日の夜なりける。執権時宗臥房の中に在り、忽然として
童子現はれ出でて、日蓮を赦せよ、日蓮を赦せよ、と三度呼はりしと思へば夢俄かに覺ゆ。四方を見廻はせば沈々として夜色尚ほ深し。時宗と兎角に此事心に
掛かりて再び睡氣さへ萠さず。熟々日蓮聖人の事を思へば頷づかるることのみ多し。これに依て時宗終に聖人を赦すに決す。
【現代文】時宗の夢
左(さ)しも深かりし北條一門の憎しみも今や漸く釈(と)くる時がやってきた。時は文永十一年二月八日の夜である。執権時宗が臥房(寝室)の
中にいたとき、忽然として童子が現れ出でて、日蓮を赦せよ、「日蓮を赦せよ」と三度呼んだと思えば夢が俄(にわ)かにさめた。四方を見回せば
沈々として(静まりかえっている様)夜色は尚(な)お深い。時宗はとかくにこのことが心にかかって、再び睡気さえ萠(きざ)さなかった。
熟々(つらつら)日蓮聖人のことを思えば頷(うな)づけることのみ多かった。これによって時宗終(つい)に聖人を赦すことを決心した。
【原文】日朗坂
寺社奉行宿屋光則、日朗を土牢より引き出して告ぐ。悦ばれ候へ、御坊、日蓮聖人は今日流罪御赦免に相成りんぞ、其御下知状これに有り、御坊佐渡に
持ち行きて守護所へ渡し候へ、と赦状を取って渡せば、日朗天に歓び地に喜び入牢中の疲勞を事ともせず、赦状を首に掛けて早々佐渡へと馳せ向ふ。
雨を衝き風を冒し夜を日についで漸く佐渡に着きしも身体疲れ果て目も眩み我れ知らず路傍の石に倒れ掛かりて暫しが程は正體もあらず。
【現代文】日朗坂
寺社奉行宿屋光則は、日朗を土牢より引き出して告げた。悦びなさい。日蓮聖人は今日、流罪御赦免になったぞ。その御下知状(命令書)がここにある。
あなたは、佐渡に持って行き、守護所へ渡しなさい。と赦状を取って渡せば、日朗は天に歓び地に喜び、入牢中の疲労もなくなり、赦状を首に掛けて早々に
佐渡へと馳せ向う。雨を衝(つ)き風を冒し夜を日についで漸く佐渡に着いたが、身体が疲れ果て、目も眩(くら)み意識を失い、路傍の石に倒れ掛かって
暫(しば)しが程(あいだ)は正体がなかった。
【原文】白頭ノ烏
此日、聖人一の谷の草庵に在り、不圖庭樹にとまれる鴉を御覧ありて左右を顧みつつ、ホホウ、日蓮の流罪も今に赦れ候ぞ、と告ぐれば居合はす人々
皆怪みて其故を問ふ。聖人和漢の故事を引き来って説き示し給ふ。山がらす頭も白くなりにけり我が帰るべき時や来ぬらん。法門を伺う為最蓮坊、
この草庵に来り居しも黄昏に及びし故、日興に送られて帰る。日興、最蓮坊を送り届け帰途後山にて日朗に出遇ひ日朗を扶けて草庵に連れ帰る。
【現代文】白頭の烏
この日、聖人は一の谷の草庵にいた。ふと庭樹にとまっている鴉(からす)を御覧ありて左右を顧みつつ、ホホウ、日蓮の流罪も今に赦(ゆるさ)れるぞ、
と告げれば居合わす人々は皆怪しんで、その理由を問う。聖人は、和漢の故事を引き来って説き示された。山がらす頭(かしら)も白くなりにけり我が
帰るべき時や来たぬらん。法門を伺うため最蓮坊が、この草庵に来ていたが、黄昏になったので、日興に送られて帰る。日興が、最蓮坊を送り届け帰途後、
山で日朗に出遇い日朗を扶(たす)けて草庵に連れ帰る。
【原文】第三國諌
文永十一年三月、めで度鎌倉へ御帰着。大聖人佐渡に在すること四年、今は将軍をはじめ執権北條時宗も漸く覺醒の時機来る。果して四月の八日といふに
改めて柳営に於て正式の對面あるべしとの事となりぬ。此時政府は大聖人に正法弘通を公許し愛染堂の別當職に補し、一千町の良田を寄附して國家の祈りを
托さんと宣したるに、大聖人毅然と之を拒け守殿邪法を捨てたまはずば一切叶ふまじと循々最後の極諌を呈された。
【現代文】第三国諌
文永十一年三月、めでたく鎌倉へ御帰着。大聖人佐渡に在すること四年、今は将軍をはじめ執権北條時宗も漸(ようや)く覚醒の時機が来た。果して四月の
八日に改めて柳営(りゅうえい:将軍のいる所)において正式の対面あるべしとの事となった。この時に政府は大聖人に正法弘通を公許し愛染堂の別当職に
補し、一千町の良田を寄附して国家の祈りを托すると述べたが、大聖人は毅然とこれを拒(しりぞ)け、守殿が邪法を捨てなければ一切叶わないと
循々(じゅんじゅん:ながくめぐるさま)と最後のこの上ない諌暁をなされた。
【原文】身延御閑居
三たび諌めて聴かずんば説諌遂に用なし。身を山林に遁れて別に詮ありと官の推賞を拒けて鎌倉の弘教を門弟子に託し五月十二日小町の草庵を御出立、
甲州波木井の郷身延の山に分け入り給ふ。身延山御書。聖人曰く。峰の紅葉いつしか色深くして断々に傳ふ。懸樋の水に影を移せば名にし負う龍田河の
水上もかくやと疑はれぬ。又後ろには峨々たる深山聳へて梢に一乗の果を結び、下枝に鳴く蝉の音滋く、前には湯々たる流水湛へて實相真如の月浮び
無明深重の闇晴れて法性の空に雲なし。
【現代文】身延御閑居
三たび諌めて聴かなければ説諌(ぜいかん:説苑という書の巻9正諌のこと)にあるような説得は、ついに役に立たなかった。身を山林に遁(のが)れて
別に詮(せん:みち)ありと、官の推賞を拒(しりぞ)けて鎌倉の弘教を門弟子に託し、五月十二日に小町の草庵を御出立され、甲州波木井の郷身延の山に
分け入られた。身延山御書。聖人が言われる。峰の紅葉いつしか色深くして断々に伝う。懸樋(かけひ)の水に影を移せば、名にし負う龍田河の水上も
このようであろうかと疑われぬ。また後ろには峨々たる深山が聳(そび)えて梢に一乗の果を結び下枝に鳴く蝉の音が滋(しげ)く、前には湯々たる流水を
湛えて実相真如の月が浮かび無明深重の闇が晴れて法性の空に雲はなし。
【原文】善智法印
小室の修驗者慧頂法印、名を善智と呼ぶ。曩の日、法論にいたく敗亡を取りてより心中の無念言はん方なく折を見て日蓮を失なわんと心ぐみ毒餅を持って
聖人の許に来る。聖人早くもこれを看破したるに法印の面色見る見る変じて土の如し。聖人一首の和歌を詠じ給ひ、おのづから邪に降る雨はあらじ風こそ
夜の窓をうつらめ。法印ひれ伏したる儘暫く面をも擡げ得ず。そこで自己の大罪を謝し御弟子となって名を日傳とたもう。
【現代文】善智法印
小室の修験者慧頂法印、名を善智と呼ぶ。曩(さき:以前)の日、法論に強く敗亡(負けて逃げること)を受けてから、心中の無念は言語に絶し折りを
見て日蓮を失なわんと計略して、毒餅を持って聖人の許に来る。聖人は、早くもこれを看破したところ法印の面色(顔色)がみるみる変じて土のようであった。
聖人は一首の和歌を詠じられた。おのづから邪(よこしま)に降る雨はあらじ風こそ夜の窓をうつらめ。法印ひれ伏したる儘(まま)暫く面(おもて)をも
擡(もた)げることができす、そこで自己の大罪を謝し御弟子となって日伝とう名をいただいた。
【原文】蒙古ノ来寇
聖人の豫言、少しも違はず。文永十一年十月蒙古の兵船九百餘隻、突然海を掩うて佐須の浦に押し寄せ来る。其の總勢二万五千餘人、高麗の総管洪茶丘
八千餘人を以て先鋒に在り、兵二千を分って上陸し直に矢を放つ。壱岐の守護平内左衛門尉景隆、手兵百餘騎を督して防ぎ戦ふと雖も利あらず景隆以下
難と殉す。賊兵残忍、男子は之れを屠り女子は之れを捕ふ。賊兵恣に金銭米穀を略奪し船に載せて出帆す。曾々暴風雨起こり賊船の覆没するもの二百餘隻に
及ぶ。
【現代文】蒙古の来寇
聖人の予言、少しも違わず文永十一年十月に蒙古の兵船九百余隻が、突然海を掩(おお)うて佐須の浦に押し寄せ来た。その総勢二万五千余人であり、
高麗の総管の洪茶丘は八千余人で先鋒にたち、兵二千を分けて上陸し直ちに矢を放した。壱岐の守護平内左衛門尉景隆は、手兵百余騎を督(ひきい)して
防ぎ戦うが利あらず景隆以下難(なん)と殉死する。賊兵は残忍極まりなく、男子は屠(ほふ)られ女子は捕えられた。賊兵は恣(ほしいまま)に
金銭や米穀を略奪して船に載せて出航する。曾々(ところが)暴風雨が起こり賊船が覆没(ふくぼつ)するものは二百余隻に及んだ。
【原文】南條殿身延山へ種々ノ御供養
南條殿御書
去る文永十一年六月十七日にこの山の中に木を打ち切りて假初(かりそめ)の庵室を造り候ひしが漸く四年が程柱朽ち垣壁落ち候へども直す事なくて夜火を
點さねども月の光にて聖教を讀みまゐらせ、我れと御経を巻きまゐらせ候はねども風自から吹き返しまゐらせ候ひしが、今年は十二の柱四方に頭を投げ四方の
壁は一所に倒れ、又有待保みがたけ連ば、月は住め雨は止まんと勵み候ひつれ程に、人夫なくして學生どもを責め食なくして雪をもちて命を助けて候ところに、
前きに上野殿より芋二駄これ一駄は珠にも過ぎ候。
【現代文】南條殿身延山へ種々の御供養
南條殿御書
去る文永十一年六月十七日にこの山の中に木を打ち切りて假初(かりそめ)の庵室を造った。それから漸く四年が程(あいだに)柱は朽ち垣壁は崩れ
落ちてしまった。けれども直すことができず、夜には火を點(とも)さねくても、月の光で聖教を読んだ。自ら御経を巻かなくても、風が吹いて経を
巻いてくれたが、今年は遂に十二本の柱が四方に傾き、四方の壁も同時に落ちてしまった。有待(うだい:衣食の助けによって生命を維持すること)の
身を保ちがたいので、月が住(澄)んで、雨が降らないよう祈りに励んでいる。そして、人夫がいないため、学生(弟子)たちを励まして修復している。
しかし、食料もなく、雪で命をつないでいるところへ、前(さ)きに上野殿よりいただいた芋二駄と今回の一駄は珠にも過ぎるものである。
【原文】父母ノ御追慕
身延の嶺は御聖居より五十町、此遠き高き山の巓きに風雨を嫌はせられず御登り遙かに故郷安房の國を望み父母の御墓を拝して追孝の法味を捧げ給ふ。
聖人身延の山中に在すこと既に數年に及ぶ。法妙なるが故に人貴く、人貴きが故に地尊し。偏僻の山中も今は妙法の霊場と変じて参詣の男女年と與に
益々加はる。茲に於いて南部六郎實長堂宇建立の儀を聖人に願ひ御許しを受けて新たに十間四方の堂宇を建立す。
【現代文】父母の御追慕
身延の嶺は御聖居より五十町のところにあり、、この遠くて高い山の頂きに風雨をいとわず登られ遥かに故郷安房の国を望んで父母の御墓を拝して追孝の
法味を捧げられた。聖人は、身延の山中に在すこと既に数年になる。法が妙なるが故に人貴(とうと)く、人が貴きが故に地が尊いのである。
偏僻(へんぺき:かたよること)の山中も今は妙法の霊場と変じて参詣の男女年と與(とも)に益々増加する。茲(ここ)において南部六郎実長が
堂宇建立の儀を聖人に願い出て、御許しを受けて新たに十間四方の堂宇を建立する。
【原文】御本尊及最初佛
弘安二年十月十二日、大聖人御染筆あって一閻浮提第一の大本尊を現し給ふ。末法万年の外盡未来際迄も御利益あらせらるる事なれば紙にて後世朽ち果ん事を
嘆かせ給へて楠の厚き板に御認め彫刻は御弟子中老僧日法に仰せ付られ日法これを彫刻し奉る。此御本尊の板の切れ端を以て大聖人の尊體を一體三寸に彫刻し
奉りたりしに大聖人是を御手の上に据へさせられ莞爾と笑を含ませ能く我が姿に似たりと印可し玉ふ。
【現代文】御本尊及び最初仏
弘安二年十月十二日、大聖人が、御染筆あって一閻浮提第一の大御本尊を現された。末法万年の外尽未来際までも御利益がある御本尊なので、紙では
後世朽ち果てしまうことを心配されて楠の厚い板に御認め、彫刻は御弟子の中の老僧日法に仰せつけられ、日法はこれを彫刻し奉る。この御本尊の板の
切れ端をもって大聖人の尊体を一体三寸に彫刻したところ、大聖人はこれを御手の上に据(す)えさせられ莞爾(かんじ)と笑(えみ)を含ませ、能(よ)く
我が姿に似ていると印可された。
【原文】元寇
時は弘安四年五月二十一日、蒙古の大軍西海を襲ふ。十餘萬の兵を率ゐ、突如として壱岐對馬を攻め、六月六日更に轉じて筑前博多に迫る。我軍兵を督して
防ぎ戦へども利なし。時に日蓮大聖人蒙古来襲の報を聞こしめし、憂慮措き給わず身延山頂より西海の方に向ひ敵國降伏を御祈念あること數日、閏七月朔日
颶風忽然として吹き起り怒浪狂瀾、數千の賊船見るうちに微塵に砕け将士の溺れ死する筭多し。賊兵の死者十餘万七千と聞こへたり。
【現代文】元寇
時は弘安四年五月二十一日に、蒙古の大軍が西海を襲った。十余万の兵を率い、突如として壱岐対馬を攻め、六月六日更に転じて筑前博多に迫る。我が軍兵を
督して防ぎ戦ったが利がなかった。時に日蓮大聖人は、蒙古来襲の報せを聞かれて、憂慮を措(お)くことなく、身延の山頂より西海の方に向かい敵国の
降伏を御祈念されること数日に及んだ。閏(うるう)七月朔日(一日)に颶風(ぐふう:強く激しい風)が忽然として吹き起こり
怒浪狂瀾(どろうきょうらん:怒り狂った波)が、数千の賊船をみるみるうちに微塵に砕き、将士が溺れ死する筭(かず)は多く、賊兵の死者十余万七千と
聞こえた。
【原文】御付属
大聖人身延山に在すること九年御入滅の期近きにあることを了知し給ひ、六老僧中殊に秀でて學行智徳第一と稱せる白蓮阿闍梨日興を以て後継者と定め、
親しく三大秘法並に深秘の法義を口授したる上、我が滅後は汝代りて大法弘通の大導師となり候へとて本門戒壇の大本尊等の法寶を譲り賜ひ一期弘法鈔を
授與せられ武州池上に到りて日興上人に重ねて御相承あり。弘安五年十月十三日御年六十一、安祥として涅槃に入らせ給ふ。
【現代文】御付属
大聖人は、身延山に在すること九年になり、御入滅の期が近いことを了知された。六老僧中殊(こと)に秀でて学行智徳第一と称せらる白蓮阿闍梨日興を
後継者と定め、親しく三大秘法並びに深秘の法義を口授したるうえ、我が滅後は汝が代って大法弘通の大導師となりなさいと、本門戒壇の大御本尊等の
法宝を譲られ、一期弘法鈔を授与せられた。さらに武州池上に着いて日興上人に重ねて御相承された。弘安五年十月十三日御年六十一で、安祥として
涅槃に入られた。
【原文】下之防
駿河國富士郡下條にあり。本門戒壇大本尊御着の地、日興上人御遺命に随ひ宗祖御入滅後身延山に七ケ年在住し給ふ處、地頭波木井入道日圓、侫人讒者に
惑はされ四箇の謗法重疊せるに依て日興上人之を嘆かせ玉ひ再三再四諌むと雖も用ひざる故にかねての御遺命に地頭不法ならん時は、我魂ひも此山に
住すべからずとの御意に基き強て争はず大聖人より付属せらるる御霊寶を残らず馬數十に駄して此處へ引き移らせ給ふ。
【現代文】下之防
駿河国富士郡に下條がある。本門戒壇大御本尊が御着きになられた地である。日興上人は、御遺命に随い宗祖御入滅後、身延山に七ケ年の間、在住された。
地頭波木井入道日円は、侫人の讒者に惑わされ四箇の謗法を重ねたことにより、日興上人はこれを嘆かれて、再三再四諌めたけれど、謗法を止めなかったため、
かねての御遺命に地頭が不法な時は、我が魂もこの山には住まない、との御意に基づき強(し)いて争わず大聖人より付属された御霊宝を残らず馬数十に
載せてここへ引き移られた。
【原文】日興上人説法石
日興上人下條に移り給ひしより教化の傍ら本門戒壇の霊場を索(もと)む。下條より二十餘町の北方に當りて大石の原と稱する所あり。茫々たる平原富士の
山裾より展開し来りて廣袤遠く數里に亘り玲瓏たる八朶の芙蓉近く目捷の間に峙ち平野廣大にして本門根元の霊境たるに適し景致高崇にして本門戒壇を置くに
相應す。大聖人の霊山浄土に似たる最勝の地と宣ひたるは正しく斯かる地勢こそあるべけれと思ひ定め給ふ。
【現代文】日興上人説法石
日興上人は、下條に移られてから教化の傍(かたわ)ら本門戒壇の霊場を索(もと)められた。下條より二十余町の北方に当たる大石の原と称する所がある。
茫々たる平原で富士の山裾より展開し廣袤(こうぼう:東西と南北の長さ)遠く数里にわたり、玲瓏たる八朶(八本の枝)の芙蓉の近く目捷(もくしょう)の
間に峙(そばだ)ち、平野は広大にして本門根元の霊境たるに適した景致が高崇であり、本門戒壇を置くにふさわしい大聖人の霊山浄土に似た最勝の地と
宣(のたま)われたところは、正しくこのような地勢ではないかと思われた。
【原文】大石寺総門
三大秘法抄に曰く。戒壇とは王法佛法に冥じ佛法王法に合して王臣一同に三秘密の法を持し有徳王覺徳比丘の其乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並に
御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべきもの歟。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れ也。日蓮大聖人はかくの如くに
御書を遺された。其抱負其目的、皆以て甚だ偉大である。
【現代文】大石寺総門
三大秘法抄にある。戒壇とは王法が仏法に冥じ、仏法が王法に合して、王と臣が一同に本門の三大秘密の法を持って有徳王と覚徳比丘のその昔の事跡を
末法時代の濁悪の未来に移し現そうとする時、勅宣ならびに御教書を申し下して、霊山浄土に似ている最も勝れた地を探し求めて戒壇を建立すべきものか。
時を待つべきのみである。事の戒法いうのはこれである。日蓮大聖人はこのように御書を遺された。その抱負や目的は、すべてはなはだ偉大である。
【原文】大石寺山門
南條兵衛七郎殿御返事に云く。教主釋尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相傳し日蓮が肉團の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸佛入定の處也。
舌の上は轉法輪の處。喉は誕生の處。口中は正覺の砌なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住所なればいかでか霊山浄土に劣るべき。法妙なるが故に
人貴く人貴きが故に所尊しと申すは是也。日蓮大聖人は下種本因妙の佛にして即ち此の御本尊の事なり。
【現代文】大石寺山門
南條兵衛七郎殿御返事に云く。主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山において相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っているのである。それゆえ、日蓮の胸の
間は諸仏の入定の所である。舌の上は転法輪の所、喉(のど)は誕生の所、口の中は正覚の場所であるはずである。このように不思議な法華経の行者の
住処であるから、どうして霊山浄土に劣ることがあるだろうか。法華文句に「法が妙であるがゆえに、その法を持った人は貴い。人が貴いがゆえに、
その人がいる所も尊い」といっているのはこのことである。日蓮大聖人は下種本因妙の仏であり、即ちこの御本尊のことである。
【原文】塔中ノ桜
法華取要抄
問云、如来滅後二千餘年・龍樹天親天台傳教所残秘法何物。答曰、本門本尊戒壇題目五字也。等と宣べまへり、如此名は三つありといへども其の本體は只だ
一箇の此の御本尊なり。是を本門の本尊と稱す。此の御本尊所住の處は當知是處即是道場と説て則ち本門戒壇の霊地として真の霊山事の寂光土なり。
此本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱信行し奉て無相極理の佛果に至るを本門の題目と云ふ。
【現代文】塔中の桜
法華取要抄
問うていうに、如来滅後二千余年に龍樹・天親・天台・伝教が残された秘法は何か。答えていうに、本門の本尊と本門の戒壇と本門の題目の五字である。
などと述べられ、さらにこのように名が三つありと述べたがその本体はただ、一箇のこの御本尊である。これを本門の本尊という。この御本尊が所住の所は
当に知るべし、是の所即ち是れ道場なりと説いてあり、則ち本門戒壇の霊地として真の霊山、事の寂光土である。この本尊の題目たる南無妙法蓮華経を口唱し
信行すれば無相極理の仏果に至ることを本門の題目というのである。
【原文】御寶蔵
一 本門戒壇大本尊、一 最初佛、一 御生骨。日蓮大聖人も暫く本地自受用報身の御内證を隠して外用本化上行の再誕として本門の本尊、本門の題目をば
弘め玉ふといへども本門の戒壇の一事をば御在世に成就し玉はず、此の戒壇の一事をば例せば教主釋尊本化迹化微塵恒沙の大菩薩在すと雖も獨り上行菩薩に
附属し玉ふが如く宗祖亦六老中老等の御弟子中獨り白蓮の阿闍梨日興上人に附属し玉ふ。其證御遺状に云く。
【現代文】御宝蔵
一 本門戒壇大本尊、一 最初仏、一 御生骨。日蓮大聖人は、しばらく本地自受用報身如来の御内証を隠して外用本化上行菩薩の再誕として本門の本尊、
本門の題目を弘められたが、本門の戒壇の一事だけは御在世に成就されなかった。この戒壇の一事は、例えば教主釈尊が本化迹化微塵恒沙の大菩薩が
いたにもかかわらず付属せず、ただ上行菩薩に付属されたように宗祖にも、同様に六老や中老等の御弟子がいたにもかかわらず、ただ白蓮阿闍梨日興上人に
付属されたのである。その証拠は御遺状にある。
【原文】内陣
三大秘法抄
三國並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釋等も来下して踏玉ふべき戒壇なり等と宣べり、此の聖刹に聞ふる如く時機到来せば、天皇陛下は
勿論諸天等も来下して此の御本尊の寶前に於て三皈戒を受け玉ふ處の尊無過上の大本尊なり。然るに宿縁深厚にして時未だ到らざるに是を信行し奉ると云ふ
事は誠に冥加至極有りがたき事なり。
【現代文】内陣(御宮殿)
三大秘法抄
インド・中国・日本の三国ならびに一閻浮提の人が懺悔し滅罪する戒法だけでなく、大梵天王や帝釈等も来って踏まれるべき戒壇である等と述べられている
聖い刹(さつ:寺)と聞こえるように、時機が到来したら、天皇陛下は勿論諸天等も来下してこの御本尊の宝前において三皈(き:帰の異字体)戒を
受けるところの尊無過上(尊いこと上に過ぐることなし)の大本尊である。しかるに宿縁が深厚にして、時が未だ到来していないが、これを信行されるという
ことは、誠に冥加(神仏から知らず知らずに受ける加護のこと)は、至極でありがたいことである。
【原文】大石寺本堂
一天四海皆帰妙法、廣宣流布となるときは上一人より下萬民に至るまで此の三大秘法を持ち奉る時節となる。是を事の廣宣流布と云ふ。其時、天皇陛下より
勅語を賜はり、富士山の麓に天母が原と申す曠々たる勝地あり。茲に本門戒壇堂建立有て日本乃至一閻浮提の一切衆生即身成佛の戒體を受得する處の尊極
無上の大本尊なり。富士大石寺の寶蔵に秘蔵奉りあり。毎年御大會にこの本堂にて御開扉あり。
【現代文】大石寺本堂(御影堂)
一天四海が皆な妙法に帰し、広宣流布となるときは上一人より下萬民に至るまでこの三大秘法を持つ時節となる。これを事の広宣流布という。その時、
天皇陛下より勅語を賜わり、富士山の麓に天母が原という曠々たる(ひろびろとしたさま)勝地がある。茲(ここ)に本門戒壇堂を建立して日本から
一閻浮提(全世界)の一切衆生を即身成仏させる戒体を受得するところの尊極無上の大御本尊である。富士大石寺の宝蔵に秘蔵されていて、毎年御大会の時に、
この本堂にて御開扉がある。
【原文】五重塔
駿河の富士は日興上人日蓮大聖人の附属を奉じて本門戒壇の霊地を卜せる處。閻浮第一の名山を撰びて閻浮第一の霊檀を立るもの寔に其地を得たり、各國
帝王の来って此聖壇に立つの日は孰れの時ぞ。大聖人曰く、賢王と成って愚王を誡責す。その大断の如く日蓮主義の霊験が天津日嗣の皇室に移る時、
日蓮大聖人の御目的は達せられたのである。
【現代文】五重塔
駿河の富士は日興上人が、日蓮大聖人の付属を受けて本門戒壇の霊地と卜(えらば)れたところである。閻浮第一の名山を選んで閻浮第一の霊檀を立るもの、
寔(まこと)にその地を得たのである。各国の帝王が来てこの聖壇に立つの日は孰(いず)れの時か。大聖人が仰せになるには、賢王となって
愚王を誡責する。その大断のような日蓮主義の霊験が天津日嗣(あまつひつぎ:天照太神の子孫)の皇室に移る時日蓮大聖人の御目的は達せられたのである。
【原文】大石ノ滝
観心本尊抄に曰く。一閻浮提第一の本尊此國へ立つべし。全世界を統一すべき大本尊が此日本國へ立つと云ふことである。所謂本門の本尊、本門の戒壇、
本門の題目。廣宣流布の暁、時の天皇陛下、富士山へ本門戒壇堂建設の時来る其戒壇堂に安置すべき本門の本尊、日蓮大聖人認め置き今に富士大石寺寶蔵に
奉安しあり、廣宣流布戒壇堂建立の砌、御勅宣並に御教書を持ち奉る。
【現代文】大石の滝
観心本尊抄に仰せである。一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし。全世界を統一すべき大本尊がこの日本国に立つということである。所謂本門の本尊、
本門の戒壇、本門の題目である。広宣流布の暁には、時の天皇陛下が、富士山へ本門戒壇堂建設の時に来る。その戒壇堂に安置すべき本門の本尊を
日蓮大聖人が認め置き、今に富士大石寺宝蔵に奉安してあり、広宣流布が達成し、戒壇堂が建立されたとき、御勅宣並びに御教書を持ってくるのである。