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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

初代御住職 横田智研御尊師 インタビュー

『妙教』121~123号



第1回

 この度は、本山本門寺に横田智研御尊師をお尋ねして、御尊師のご幼少の頃のこと、小学三年生の得度の頃のこと、師匠の相馬日鳳御尊能化のこと、昔から本門寺に伝わる風習、本門寺が大石寺に合同した経緯などをお伺いした。

編集部
 本門寺様におかれましては、本日は大変にお忙しいところ、妙教誌「源遠ければ流れ長し」の取材を快くお受け下さいまして、誠に有難うございます。早速ではありますが、本門寺様の生年月日と御出生地をお聞かせ下さい。
横田師
 生まれは昭和七年十月二十二日です。出生地は、香川県、本門寺のじきそばなんですけれど、三豊郡大見村(みとよぐんおおみむら)。ここ(本門寺の村)は下高瀬村(しもたけせむら)と言うのですけれど、その隣の村です。今は町村合併してみんな三野町(みのちょう)になっているのですが、大見村と下高瀬村と吉津(よしづ)村と合併して三野町となったのです。
編集部
 この近在はみな先祖代々本門寺の檀家であったのですか。
横田師
 いや、下高瀬村は全村日蓮正宗の檀家ですが、大見村や吉津村は一部が日蓮正宗の家です。全村日蓮正宗と言うのは下高瀬村だけです。
編集部
 ここの近くに上高瀬と言う場所がありますよね。
横田師
 そこは今では町が違うのです。今は高瀬町と言って立正寺や上之坊や宝光坊のあるところです。上高瀬村と言っていた当時は、日蓮正宗の檀家は全体の五割ぐらいで残りが他宗でした。
編集部
 上高瀬も下高瀬も昔は秋山泰忠(あきやまやすただ)公の領地だったのですか?
横田師
 そうです。そのポイントポイントにお寺が造ってあるのです。上高瀬には上之坊、西山坊、宝光坊。下高瀬には中之坊と言うふうにね。
編集部
 なぜ本門寺からかなり離れているのに、みな名称が何々「坊」で「寺」ではないのですか?
横田師
 それは、それらの坊を全て含めて本門寺と言ったのですよ。ここは今は本門寺大坊と言っておりますが、昔は「大福坊」と言っていたといわれています。主軸をなす坊を「大福坊」その他を「何々坊」と言っていたそうで、それで、琴平(ことひら)に福成寺、丸亀に妙行寺、善通寺に妙法寺と末寺があったのです。
編集部
 本門寺の大坊と塔中との檀家は合わせて何件ぐらいあるのですか?
横田師
 えーと。約一千三百軒ですね。先祖から分家したりして多少は増えていますが、その半面、郷里を出て行ってしまった人なんかは、お寺の方としては追跡調査などはしていませんから分からないのですけれど。だから県外に出てしまった人は疎遠になってしまって余り帰って来ると言うことはないですね。だから一千三百軒というのが大体の数で、増えてもいないし減ってもいない。
編集部
 本門寺出身の僧侶と言うと、現在宗門に何人ぐらいいらっしゃるのですか?
横田師
 今は私と、梶原慈文さん、梶原孝昭さん、高木副部長さん、細川明仁さん……ぐらいですかね。
編集部
 本門寺は代々この一千三百軒の檀家の中からお坊さんが出て、本門寺の法灯(ほつとう)を嗣(つ)いで守って来られたのですか?
横田師
 そうですね、大体そうです。
編集部
 では次に、御住職の出家の動機をお聞かせ願えますか?
横田師
 直接の出家の動機というのはね……。このあたりでは日蓮正宗の外には真言宗や念仏の小さな寺が多いのですよ。そのような小さな寺の中でも、この本門寺はずばぬけて大きな寺だったので、道で他宗の僧侶とすれ違う時も、他宗の僧侶は本門寺さんが来ると端に寄って道を譲って、本門寺さんが通ってからでないと歩かなかったという言い伝えもあるぐらいで、格式もあったし威厳があったのですね。
 私も小さい時に、出家するならば本門寺大坊のような立派なお寺で出家したいとかねがね親に言っていたのですよ。でまあ、小学校三年生の時にそう言ったものですから、親も気が変わらないうちに出家させた方が良いだろうということで、僧侶になったのです。(笑)
編集部
 小学校三年生の時ですか?お幾つだったのですか?
横田師
 えーつと。数え年で十歳ですね。
編集部
 お師匠様は、相馬日鳳(そうまにっぽう)御尊能化ですよね。
横田師
 ええそうです。私か入った時には、上に四人の兄(あに)弟子がいて私か一番下の弟子でした。一番上が、香川智泉(ちせん)さん、次が三好智浄(ちじょう)さん、その次が平田智教(ちきょう)さん、次が竹内智原(ちげん)さん、そして私ということで、この五人がここに居(お)ったわけです。ですが、香川さんは戦争で戦死してしまってね、平田さんと竹内さんは還俗してしまって。だから残ったのは二人ということですね。
編集部
 相馬日鳳御能化が遷化(せんげ)されたのは何時(いつ)のことなのですか?
横田師
 昭和二十九年八月三日です。
編集部 
 何年間お師匠様にはお仕えされたのですか?
横田師
 私は十七歳の時まで七年間お仕えしていました。十七歳の時に私は総本山に在勤で上がったのですが、それまで師匠の元に居ました。
編集部
 お師匠様はどういうお方だったのですか?
横田師
 厳格なお師匠様でしたねえ。まあ、私は一番末の弟子で小さかったから随分可愛がられましたけれどね。 上の兄(あに)弟子たちには厳しかったですよ。
編集部
 では次に、本門寺独自の伝承や法度(はっと)などがありましたら教えて頂けますか?
横田師
 本門寺独自の伝承といいますと……。まあ村全体が本門寺を中心に動いて下さっておりますので、例えば、本門寺でお虫払いをするとかお会式をするという時は勿論、大事な法要の際には、町の有線放送でお参りをするように放送してくれて、役場の方でそういうことをやってくれる。また、年に五回の大掃除の時には、朝の六時から百三十人ぐらいの人が集まるのですよ。
 だから本門寺には全館放送の設備があって、外にも聞こえるようになっていて、私は住職として「皆さんお早うございます。大掃除にお手伝いくださいまして有難うございます。これから一々の部署にお礼の御挨拶にまわります」と言って。大体、自治体毎で掃除や草むしりの場所が決まっているのですね。それで朝の勤行が終わると「御苦労さん、御苦労さん」と言って廻るのですよ。大掃除の時も、村の有線放送で流してくれますので、こちらが何も言わなくてもみんな来てくれるわけです。
編集部
 掃除の日取りは毎年決まっているのですか?
横田師
 そうですね。お彼岸前、お盆前、お虫払い前、お会式前、暮れと決まっていますね。日にちはだいたい日曜日で、婦人部長がみな決めてくれるのですよ。
編集部
 檀家の総代さんが決めるのではなくて婦人部長さんが決めるのですか?
横田師
 総代さんはそっちのほうはあまりタッチはしなくて、婦人部長がするのですよ。
編集部
 本門寺さんの婦人部長は権威がありますね(笑い)。
横田師
 あははは、大変な役ですからね。それで、その時にみんなにお土産としてお寿司を出すのですよ。
編集部
 いなり寿司のようなものですか?
横田師
 いやいや、混(ま)ぜ御飯。パックに入れて名々(めいめい)に出すのです、それとカリン酒。本門寺の境内にはカリンの木が随分あるのです。その実をスライスして漬け込んでカリン酒を造って、その原液をうすめてみんなに振る舞って帰ってもらうのです。
編集部
 その百三十人分のお寿司の炊き出しは大坊でするのですか?
横田師
 ええ、大坊でするのですよ。何斗もお米を炊きますからね。
編集部
 へえ……。それも婦人部の方々が前の晩から米を研いだり具を作ったりするわけですか?
横田師
 前の晩から支度をしてそれを出すのですね。本当に有り難いですよ。六千坪も境内があるのですから。掃除するにしても広すぎてままならないですけれども、いまはそのようにしてみんなが来てくれているから本当に助かります。
編集部
 本門寺の御開基(ごかいき)は日興上人の本六の弟子である日仙(にっせん)上人ですけれども、日仙上人の御命日の法要などほどのようになさっておられるのですか?
横田師
 日仙上人の祥月命日が正月の七日ですから、七日は御開山日興上人の命日でもありますので、七日、十三日、十五日は塔中の住職は朝大坊に詰めて、満山衆会(まんざんしゅうえ)があるわけですね。
編集部
 御講は総本山大石寺と同じなのですね。その時は御住職が全てお説法をなさるわけですか?
横田師
 いやいや、私が説法をするのは十三日だけとなっています。あとは、お参りだけで、献膳の儀があるのも十三日だけなんです。そして、正月の七日の日は全山の人が大坊に集まって、本堂(御影堂)、位牌堂、開山堂、客殿というふうにずっと諸堂を廻ってお経をあげて、その後中之坊の日仙上人のお墓参りに行くのです。日仙上人は、次の日寿上人に住職を譲って、中之坊に御隠居されたんですね、それで、御正墓が中之坊にあるのでお墓参りをして、その後また中之坊の本堂でお経をあげるのです。そして、参詣の御信徒に新年の御挨拶をしたり、中之坊を外護してくれている檀家の方々にお礼を本門寺住職の私がすることになっているのです。
編集部
 それは昔からの本門寺の風習なのですか?
横田師
 そうです、昔からの習わしでずっとしています。それで、昔は秋山家の本家(本門寺開基檀那秋山泰忠公の子孫)が今の役場の下の駐車場のところにありまして、その家が中之坊に行く途中ですので、本門寺の住職・塔中の住職はみな寄って、そこで(秋山本家の当主に)新年の御挨拶をするのです。いまはもう家がありませんからいたしませんが。
 その時にね、住職が塔中の住職や弟子をお供に連れて歩いて行くのですが、所化さんの一番下の者が先に走って行って「お礼申ーす!」って言うのですよ、そうしたら秋山家の人が「通れー!」って答えるのです(笑)。そうしたら玄関をあけてくれて、家に上がって題目を三唱して、正月の御挨拶をしてその後に中之坊に行ったものなのですよ。
編集部
 秋山家の今の子孫の方は九州にお住まいになられていると聞いていますが。
横田師
 ええ、九州で医者をしていて、今は亡くなって奥さんしかいないそうですが、その弟さんが埼玉県の大学でフランス語の先生をしているそうです。
編集部
 本門寺さんのお虫払いやお会式の時には、子孫の本家の方々はお参りに来られるのですか?
横田師
 ええ、来られますね。お虫払いには来ませんが、秋山家の法要が三月五日になっていて、この日は泰忠公の命日になっていましてね、「日高会(にちこうえ)」というのですけど。毎年三月五日に「日高会」を行なうのです。泰忠公の戒名が、「本源院殿日高大居士」と言いまして、それはもうね全国の秋山姓の方が寄る(来る)のですよ。こちらから御案内も出すのですが。それでね、秋山能化(北九州八幡法抱寺御住職・秋山日浄御尊能化)もその一族なのですよ(笑い)。今年来られましたけれどね。
編集部
 それでは、この高瀬が本貫地(ほんがんち)の秋山さんはみなここに集まるのですか。
横田師
 そうそう。名簿もあるのですよ。みんながみんな集まるわけではないのでしょうが、百二、三十人ぐらい来ますかね?そして搭婆を立ててね。本門寺に泰忠公のお墓がありますから、みんなで墓参をして解散するのですよ。その時は勤行の後に布教講演もするのですけれど、今年の布教講演は、九州の秋山能化にして頂きました。皆さんが大変喜びました。
編集部
 現在宗門で、御開山上人の時代からの大檀越(だいだんのつ)の子孫が残っているのは総本山総代の井出さんとこちらの秋山さんだけですね。
横田師
 本山の南条さんは?
編集部
 南条時光公の子孫は総本山第九世の日有上人の頃までで、ほぼ絶えてしまったと思います。大石寺でも妙蓮寺でも毎年大行会(だいぎょうえ)を五月一日に奉修していますが、子孫の方はいらっしゃいません。ですから、御開山上人の頃より確かに家系が繋(つな)がっていることが分かるのは、総本山総代の井出さんとこちらの秋山さんしかいらっしゃらないのではないでしょうか?
横田師
 そうですか。しかし、ここの秋山も直系は九州の方に行ってしまいましたからね。それは心細いものですが、でも中之坊の檀家には秋山家の直系ではないが(分家の)子孫の方の家がいっぱいあるのですよ。みんなしっかりしていますからね。それは絶えるということは絶対にありませんよ。最初に「日高会」を、「これは、やらにゃいかん」と言って発起人になって行なったのも中之坊の檀家の秋山ですから。
 しかし、本門寺には不思議と秋山姓の檀家はないのですよ。ですから、秋山と名乗る人はみな中之坊の檀家なのですよ。
編集部
 では、九州の秋山能化さんも札幌の常義院(日正寺第四代御住職・秋山日誉(にちよ)贈上人)さんもみな先祖はこちらなのですか。
横田師
 そうです。この下高瀬に秋山一族がずっと住んでいて、あと流岡(ながれおか)といって観音寺市の方と、柞田(くにた)の方にも秋山姓があって、大体日蓮正宗の家になっています。ですから、宗門の僧侶で秋山という人は大体この流れですね。総本山第六十三世日満上人、常義院さん、常智院さん、高木副部長(旧姓秋山)さんなんかはみなそうですね。
編集部
 よく戦国時代や動乱の時代に一族がバラバラになってしまわなかったですね。
横田師
 そうですね。信心のお陰なんでしょうが、今掘り起こして追跡調査をして段々先祖のことも分かるようになって来たのです。中之坊の檀家の秋山幸憲(あきやまゆきのり)さんと言う方が詳しくてね。家系図をよく調べて下さっています。
編集部
 では次に、讃岐本門寺が北山本門寺の末寺から脱して、正式に大石寺と本末関係を結び、日蓮正宗に合同した時の思い出などありましたら詳しく教えて下さい。
横田師
 それは、昭和二十一年のことだったけれど、その思い出といいますのはね、その当時私はまだ小僧だったわけで、時の猊下が第六十三世の秋山日満上人だったわけだよ。ですから、日満上人は郷里もこっちの方だったし、相馬日鳳能化ともよく話しておられて。
 本門寺第三十五代御住職であった相馬日鳳能化は上高瀬の出身で、出家されてから且(しばら)くは本門寺におられて、その後総本山の大石寺に所化さんとして上がられました。そして、北海道深川の宝龍寺・理境坊・栃木の信行寺・名古屋の妙道寺と住職を歴任して、最終的に妙道寺から本門寺に入られたのだよ。ですから、ここの出身ではあったけれど、ほとんどは日蓮正宗の末寺で過ごしたわけでね。だから名古屋の妙道寺からこの本門寺に迎えられたときも、日鳳上人は、元々の本筋の日蓮正宗に本門寺を戻そうという気があったのでね。それで、讃岐御出身の日満上人が猊座におられたから、このチャンスを逃したら後がないとの考えで急接近をされたのだよ。
編集部
 それでここの本末十一力寺が全部正式に日蓮正宗に合同したわけですか。
横田師
 そうです。それはもう全ての住職、檀家の者全てが両手(もろて)を挙げて日蓮正宗に合同することに賛成したのだよ。「こうでなければならん」との決意でね。
編集部
 その時の本寺であった北山本門寺がよく黙っていましたね。
横田師
 そうですね、でも北山も文句はつけられなかったのじゃないですかね。
編集部
 この本門寺の本末の住職として、北山の系列の僧侶が入って来たことはあったのですか?
横田師
 私は北山系の僧侶が住職をしていたことは知りません。貞廣日文(さだひろにちもん)能化という相馬日鳳能化の次に本門寺の住職になった人が、この人は上之坊の住職をしていた人ですが、この人が若い頃、北山に修行に行っておられたと言うことは聞いていますが、北山の人が讃岐本末の住職になったと言うことは聞いていませんね。
編集部
 相馬日鳳能化は誰のお弟子さんだったのですか?
横田師
 本門寺の二十九代の日弘(にちぐ)上人の弟子として得度をされて、のち総本山第五十七世日応上人の弟子となられたと聞いております。だから、古い大日蓮なんか見るとね、日鳳上人は理境坊の住職の時、大石寺の録事という役についていましたよ。宗務院に務めていたのでしょうね。そして、理境坊に務めておられた時に、妙玄院(常泉寺四十一代高野日深上人)さんが百貫坊におられて上下で仲が良かった。また、向かいの久成坊には本種院(常在寺第三十五代佐藤日成上人)さんがいて、やはり仲が良くて、そんな関係から御自分が本門寺の住職になった時に正宗との合同の話しがスムーズにいったのではないかな。また、この方々も合同の地ならしに本門寺によく来ていらっしやいましたよ。そして、合同の手順をよく教えていたようですね。
 また、日満上人がこちらの出身なので話しがしやすかったのもありますし、そして、いよいよ合同が出来て日満上人が御下向されて合同帰一法要を奉修されたのですよ。その時たしか光久諦顕(みつひさたいけん)(現東京妙縁寺御住職)さんが日満上人の奥番でお供としてきていましたよ。
 昭和二十一年七月十一日ですか、確か夜にお着きになって、八時ぐらいじゃなかったかな。
編集部
 だれも、この本末で日蓮正宗に合同することに反対する勢力と言うものは無かったのですか?
横田師
 無かったね。叛旗(はんき)を翻すような者は絶対いなかったと思います。なぜかと言うと、もう、江戸時代の政策上北山本門寺の末寺にされていただけで、ここの本末の人は北山へお参りにも行ったことはないのだから。ですから、富士詣(もうで)と言うと信者さんは大石寺に行っておられた。北山本門寺と本末関係を結んでいるのにもかかわらずそっちには行かない。
 そもそも、讃岐本門寺が北山の末寺にされてしまったのは、ここの第十四代日円上人という人が大石寺にお参りに行った帰りに、「隣の北山本門寺の日興上人の御正墓にもお参りして帰ろう」としたことが原因になって起こった法難なんですから。その時に北山の住職の書いた本尊を日円師がもらって帰った。これが証拠になって江戸時代の裁判で讃岐本門寺は北山本門寺の末寺とされてしまい、本門寺の名称も「法華寺」と改称させられてしまったのです。これは北山本門寺側の策謀ですね。
編集部
 北山もやり口が汚いですね。だまし討(う)ちされたようなものですね。
横田師
 そうですね。向こうの住職が江戸の寺社奉行と親しかったのだろうね、そして、そっちの方に先に登録されてしまって、これが本門寺が北山につく原因になったわけですよね。それで、両方「本門寺」では北山側は面白くない、そこでこっちは泣く泣く「法華寺」と名乗らされるわけですよ。ですから、ここの檀家の人達も御本尊様は大石寺から御下附してもらって、お詣りも大石寺に行く。江戸時代から明治にかけての大石寺の猊下様の御本尊様がここの檀家にはいっぱいあるのですよ。信仰的にはみな大石寺だったのですね。だから北山の住職の書いた本尊なんかは見たこともありませんよ。
 そんな状態が三百年も続いたので、日蓮正宗に帰一するということは讃岐本門寺一門の悲願だったわけですね。だから合同に反対するというようなことは絶対に無かったと思います。
編集部
 戦後宗教法人法が改正され、新憲法のもと信教の自由が約束されたことと、総本山の猊下が讃岐御出身の日満上人でいらしたことと、まさに御仏智による因縁ですね。
横田師
 それで、帰一合同の功を賞せられて、日満上人からの賞与御本尊を一幅本門寺が賜わっておるのですよ。その御本尊下附のいわれが大村寿道師の筆で別紙に額になってあるのですが、この御本尊は毎年お虫払いには奉掲(ほうけい)するのですよ。
編集部
 本門寺一門の方々の三百年にわたる悲願がこもっている御本尊様ですから尊いですね。
横田師 そうですね。(笑い)

第2回

 今回は、本門寺の虫払会に奉掲される御本尊について、お会式の時のお話し、特に本年は宗旨建立七百五十年に当たるので駕寵を出して行列をするとのお話しを掲載した。  また雨乞いをして雨を降らし、城主に、御前机と銀貨十五枚を貰った話し、大学時代の事、北海道御巡教の折り沈没した洞爺丸に乗る予定が、事情で一便遅れて命拾いしたお話し、戸田二代会長の推戴式の様子など、目に見えるようにお話し戴いたことを掲載した。

編集部
 本門寺の虫払い法要にはどのような御本尊様が御奉掲(ほうけい)されるのですか?
横田師
 奉掲する御本尊は沢山あるのですけれど、まず大聖人の御本尊が一幅、それと日興上人の御本尊が十幅ほどです。日興上人の御本尊は、各塔中の重宝になっているのを預かっているものもあります。それと、日寛上人の御本尊。日寛上人は中興の祖と仰がれている方ですのでお掛けします。それから、合同の時の日満上人の御本尊を奉掲します。
 客殿にお参りになって気が付かれたでしょうが、御本尊様(二祖日興上人の御本尊)の主題の題目の下が「日蓮聖人」となっています。普通は主題の下はただ「日蓮」とだけ認(したた)めてあって、「日蓮聖人」と認めてある御本尊は大変珍しいのですよ。
編集部
 客殿の御本尊様は板本尊ですけれども、その元の御本尊はどちらに収蔵されているのですか?
横田師
 それはね、宝光坊の重宝の、日興上人の御本尊様をお写し申し上げたもので、本門寺の御宝蔵に収蔵されております。それから、御影堂に御安置の、大聖人様の弘安四年の板御本尊様の、元の紙幅の御本尊様は、東京の常泉寺にあるのですよ。(※常泉寺収蔵の大聖人弘安四年四月二十五日の御本尊は、日興上人の脇書で「摂津公日仙者日興第一弟子也仍所申与件如」と認めてあり、本門寺開基日仙上人に授与された御本尊である)
編集部
 本門寺には大聖人様の御真筆の御本尊様はあるのですか?
横田師
 はい、一幅あります。それはね、脇書に「俗日大(にちだい)授与」と書いてあります。それは大きくはないですよ、我々は俗に「小曼荼羅(こまんだら)」とお呼びしています。
編集部
 話は変わりますが、本門寺さんのお会式や大きな法要の時には、大変賑やかであると伺っていますが?
横田師
 むかしは今のように余り娯楽が無かったですからね。本門寺のお会式やお虫払いなどの時には、露店商がいっぱい出るのですよ。いまでもその名残として、本門寺のお会式は五日間続きますから、その回は農器具類やおでんなどの出店が今でも沢山でます。
編集部
 ははーぁ。市(いち)が立つのですか。
横田師
 そうそう、市が立つのですよ。昔は一週間続けて市が立って、木下サーカスや矢野サーカスなどが来てね。あるいは田舎芝居の小屋が立ったり。
 それから、九月の御難会、お虫払い、そのような時には露店商が来ていましたね。今はお会式の時だけですけれどね。
編集部
 本門寺開基檀那の秋山泰忠公の譲り状にも十月十三日の大聖人様の祥月命日には、仮に仲違(なかたが)いしている一族があっても心を一つにして、大聖人様の祥月命日の法要(お会式)を盛大に奉修するようにと書いてありますから、やはりその伝統が残っているのでしょうね。
(※孫次郎泰忠譲り状「一、十月十三日の御事は泰忠が跡を知行せんずる男子女子孫彦(ひこ孫)に至る迄、忠を致し申すべきなり、此の御堂(本門寺)より外に仮染(かりそめ)にも御堂お建て(謗法の寺を建て)此の御堂を背(そむ)き申すまじき印に、又内内は兄弟と云ひ、又は伯父(おじ)の中従兄(いとこ)の中にも恨むる事ありとも、十三日には相互に心を一つにして御仏大上人(みほとけだいしょうにん)を泰忠が仰ぎ申す如くに、十五日まで皆皆一所にて御勤も申し候べく候、又白拍子(しらびょうし)・猿楽(さるがく)・殿原(とのはら)(郎従)をも分分に従って懇(ねんご)ろに接待申すべきなり、内内は如何なる遺恨(いこん)ありと云ふとも、十月十三日は聊(いささか)も本意無き事をば思ひ捨て祀(まつ)り申すべきなり」(富士日興上人詳伝七七七-四)
 このような秋山泰忠公の書かれた古文書類などは残っているのですか?
横田師
 あります。先般、高瀬教育委員会というところから、御宝蔵を調べに来ましてね、総代にも立ち会ってもらったのですが、その他細川明仁師や榎木境道師にも古文書が読めるので立ち会ってもらって、一応みんな写真を撮って調べてね。教育委員会からは七名もスタッフが来てくれましてね。調べたものを『中世の高瀬を読む』という本にして第一巻を出してもらって、二巻三巻も出るのですが、三巻が本門寺のことが中心に出るのではないでしょうか。また、秋山文書の多くが現在矢野家に行っていますので、矢野家から秋山家に嫁が入って、そんな関係で矢野家に秋山家の古文書の多くが行っているのですけれど、いまはそれがみんな文化財になっているのですよ。
編集部
 矢野家も当宗の信徒なのですか?
横田師
 いや、違うのだよ。
編集部
 それは困りますね。
横田師
 そうだよ、本門寺関係のことが多く出ている古文書ですからね。今はもう本門寺に渡してくれませんよ。でもこのように本にしてもらったので助かりました。
編集部
 もったいない話ですね。
横田師
 そうですよ、その矢野家は高瀬町にあるのですよ。本門寺のすぐ近くでね。
 でも、本の方は第一巻も第二巻も総本山の宗務院と図書館に寄贈させてもらいましたよ。三巻目はほとんど本門寺が中心ですから、本門寺史ができたようなものです(笑い)。
 まあ、そういうことで、本門寺独自の行事や法度(はっと)などがありました。今はお会式の時にしか市は立ちませんで、その中心は大聖人様のお会式の十一月の二十二・二十三日なのです。二十二日が御逮夜法要、二十三日が御正当会なのです。
 今年は宗旨建立七百五十年という大きな節目の年に当たっておりますので、本門寺としても力を入れ奉修していきます。
 それで、ここの住職は昔は駕寵(かご)に乗って出かけたのですけれど、その駕寵が客殿の大廊下にずっと吊るしてありましたが、いま修理に出しています。この十月始めには京都から完成して送って来ると思いますよ。
編集部
 たしかその駕龍は、御先師日達上人が本門寺に来られた時乗られたと昔の『蓮華』に出ていましたが。
横田師
 ええ、高瀬大坊の駅から本門寺までね。でも、駕龍を出すということになるとね、スタッフが九人いないと駕龍を出すことができないのです。なぜなら、舁(か)く人が交代もふくめて四人、それと駕寵から下りた時に草履(ぞうり)を揃(そろ)える草履取りが一人、それと裃(かみしも)を着た若党が一人先頭を歩いて、曲録(きょくろく)(僧侶の座る椅子)持ちが一人、大傘持ち一人、ボテ(雨具入れ)持ちが一人と、そういうスタッフが必要なのです。でも、今年はそれを再現しようと思いましてね(笑い)。それと、お稚児(ちご)さんの行列も本年に限りしようと、そしてそれを記録に残して置こうと思っているのです。
 それには、地元の西日本テレビが取材に来てくれるそうでね、その方面にも案内はしてあるのですよ(笑い)。
編集部
 すごいですね。
横田師
 その時は、客殿の大玄関から行列が出発して本堂(御影堂)まで、まあ百五十メートルぐらいあるかな、その間に両サイドに松明(たいまつ)を焚(た)いてお練りをする。駕寵は空ですけれど行列に加わって一緒にゆくのですよ。
編集部
 本門寺の御住職は、駕寵にのる格式があるのですから、お乗りになればいいのではないですか。
横田師
 いやいや、いいですよ(笑い)。
編集部
 お話は変わりますが、このあたり一帯は丸亀藩(まるがめはん)の京極家(きょうごくけ)が治めていた土地であると伺っていますが、京極家より与えられた朱印状(しゅいんじょう)や何かそれに類するものは本門寺に残っているのですか?
横田師
 ありますよ。客殿に総欅(けやき)造りの御前机(まえづくえ)があるでしよ、その中に書いてあるのですけれども、享保(きょうほう)十一年(一七二六)九月にこの地域に雨が降らなくて、それが水騒動になってしまって大変だった。そこで、この辺の有名な神社仏閣、金毘羅(こんぴら)だとか善通寺だとかに、丸亀城のお殿様の命令で雨乞いをすることになった。しかし、雨乞いをしたけれどもいっこうに雨が降らない。それで、本門寺が雨乞いをしたら雨が降った、その雨の降り方も大変にしっかり降ってみんなが助かったということです。それで、その御褒美(ごほうび)に丸亀のお殿様から欅(けやき)の御前机一脚と銀貨十五枚を戴いたそうです。
 その時なぜ金貨ではなくて銀貨をもらったかというと、金貨では使ってもお釣りを払ってもらえないし、そんな大金見たこともないし、というのでお殿様の御慈悲で銀貨にしてもらったそうです(笑い)。
 実際御前机にそのいわれが彫刻してあるのですよ。今でも御前机を造った工匠(こうしょう)の子孫かおり、先日御前机を見にこられました。
編集部
 すごいですね、他の宗旨のお寺が雨乞いをしても雨が降らず、本門寺の御住職が雨乞いをしたら雨が降ったということは有り難いことですね。大聖人様も祈雨(きう)の勝負を良観(りょうかん)房と鎌倉でなさって勝っていますから、本門寺も面目躍如たるものがありますね(笑い)。
横田師
 そうですよね。まあ、ここは本山格の大きな寺ですから、この前も九州やフランスなどからバスで信者さんがお参りにこられました。フランスの方は関西国際空港に着かれて、それから本門寺にお参りになって本山に行くと言っておりました。私はフランス語はできませんから通訳の方に話をしてもらって、色々と説明をしましたら感激していました。
 たとえば、ここの御影堂なんかは、総本山の御影堂をコンパクトにして、造りは一緒である、というようなことなど話してあげて……。
編集部
 そういえば、御住職が入られてから随分と本門寺の建物が奇麗になりましたよね、以前は客殿の瓦など傷(いた)んでいたのですが、今回取材にきたら全体的に奇麗に修復工事が施されていたのでびっくりしました。
横田師
 ええ、随分雨漏(あまも)りやらしていましたのでね。何と言ってもここは本山ですので、地方本山としての姿をキチッと残していかなければいけないと思っています。
編集部
 では次の質問に移らせて戴きます。御住職のお若い頃、学衆・大学・総本山在勤当時の思い出などありましたらお話し願います。
横田師
 大学時代の思い出としては、私は常泉寺に在勤して大学に通わせてもらったのです。立正大学に行っていまして、当時相模原正継寺(さがみはらしょうけいじ)の大橋さん、東京華王寺(けおうじ)の前川さんと一緒でした。前川さんはその時は大学を卒業して講師として大学に来ていましてね。
 一緒に在勤をしていた方は、上から言うと、今の総監(藤本日潤御尊能化)さん、高野法尊(熊本涌徳寺御住職)さん、私、鈴木譲信(東京妙因寺御住職)さん、青山聽瑩(ちょうえい)(広島興福寺御住職)さんが大学生で、あと石井栄純(横須賀法照寺御住職)さんがいました。
編集部
 当時の常泉寺の御住職はどなたですか?
横田師
 (総本山第六十五世)堀米日淳上人。信乗院と仰って、日淳上人は杉並の昭倫寺から下山(しもやま)(常泉寺第三十九代宣行院日健贈上人)さんのあと常泉寺に入られて、七年ぐらい住職として在籍していらしたと思います。
 私は大学が終わっても日淳上人から「もっと居れ」と言われて、常泉寺には五年間居たのです。それで、日淳上人が投下になられたので、私もお供してお山に行って、宗務院の書記をしていました。そこで一年間御奉公して、大阪と岡山にお寺ができるので、日淳上人に「どちらでもいいぞ」と言われて。僕は郷里が讃岐(さぬき)で近いから「では岡山に行かせて下さい」と申し上げまして、昭和三十一年に岡山の妙霑寺に入ったのです。四十五年居りました。
編集部
 常泉寺の修行時代はどのように過ごしておられたのですか?
横田師
 日淳上人はとても厳しくてね、しかし、その半面、やることだけやってしまえば、個人的なことは余り干渉されないで自由にさせてくれましたよ。
 私は手先が器用でね、昔は手動のバリカンで頭を刈ったろ?それで、私は専門に日淳上人の頭を刈らせて頂いた(笑い)。しかし、よう我慢して刈らせて下さって。もったいない話ですが(笑い)。
 でも、そんなお陰で日淳上人には可愛がってもらって、宗旨建立七百年の前の年、昭和二十六年に日淳上人と秋田慈舟師のお供でずっと北海道に巡教にいかせてもらったんだよ。函館・札幌・小樽・深川・旭川・愛別(あいべつ)と布教講演をして廻ったのですよ。秋田さんと日淳上人が講演をしてね。去年まで宗務院の方が全国を廻って指導会をなさったでしよ。あのようなものです。
 秋田さんは「わー!」と拍手をするような講演型の話をする人で、それに対して、日淳上人はお説法型の堅い真面目な御法門を噛(か)んで含めるようにお話をされる方でした。それで私はというと、大村さん(大村寿道御尊師・当時百貫坊御住職)が書いた絵で『富士に誓う』という紙芝居を前座でしたんですよ(笑い)。で、講演会が終わると座談会を開いて、宗旨建立七百年だから大石寺にお参りに来なさいということを話すのですね。
編集部
 大体一会場に何名ぐらいの御信徒がお見えになったのですか?
横田師
 五・六十人というのが一般的でしたね、なんて言ったってそんなに大きな会場がないのだから。 当時阿部法胤(ほういん)(川崎持経寺初代御住職)さんが小樽の妙照寺に居っだの。その時のお寺は、小さな布教所のようなものだった。布団屋の山崎さんという信者さんの所に間借りしていてね。今考えれば、義雲(横浜法運寺御住職)さんなんかも小さい頃で、奥さんは家計を助けるために働いていらしたよ。本当に阿部法胤さんは御苦労をしていましたよ。
 とにかく日淳上人とはずーっと一緒でしたから思い出は沢山ありますよ。そしてそのようにして北海道の布教講演をして、旭川のパルプの会社の会場で大きな大会があって、次に石北線に乗り愛別に行って、愛別の駅には今の八木能化(大石寺主任理事・常要院日照御尊能化)さんが我々一行を案内するために迎えに来てくれていてね。その時期はもう寒くて雪が降っていて、ソリみたいな物にのって法宣寺まで行ったのですよ。それが巡教の最後でした。
 今度は帰る時に、函館から連絡船に乗るのに、何かの事情で一便後の船になってしまったのですよ。でも前の船に間に合って乗っ ていたら洞爺丸(とうやまる)ですからみんな死んでしまったかも知れません(※昭和二十六年洞爺丸が台風によって遭難して大勢の方が亡くなった海難事故)。本当に不思議なことでした。
 まあ本当に日淳上人のお供でしたから緊張の連続でしたよ。それで、その当時の北海道はどこに行ってもおかずがニシンばっかりでね、「魚はニシンしかいないのかなあ」なんて思いましたよ(笑い)。常泉寺時代は日淳上人とのいい思い出が沢山ありますよ。
編集部
 御住職が常泉寺に在勤されていた時に戸田会長の推戴式があったと伺っていますが、その時の模様などまだご記憶ですか?
横田師
 はい、常泉寺の本堂で創価学会二代会長戸田城聖氏の推戴式(すいたいしき)がありまして、式が終わって本堂で三百人分ぐらいの折り箱弁当と二合ビンー本づつを用意して、会長推戴式の御祝をやったのです。私か確か大学一年か二年の時のことで、その宴だけなわの時に、柏原ヤスさんがすごく怒って、壮年部の男性をイヤというほど叩いて大事(おおごと)になったのです。
 なぜそんなことをしたかというと、戸田さんが戦時中不敬罪で投獄されて、当時学会で活躍していた人が散りじりバラバラになってしまった。その時にその男性は我関(われかん)せずで学会を去って行った。これは日淳上人から後で聞いた話なのですが、なんでもその人は皇室に洗濯屋として入っていたということでしたが、最初は牧口・戸田さん達と盛んに学会の活動をしていたのですが、段々と不敬罪で幹部が捕まるようになると、その人は逃げてしまったのだそうです。
 その後なんの連絡もないところ、会長の推戴式に出て来たので、柏原さんが、酒に酔った勢いでその人を殴りつけたんです。その姿を私も目(ま)の当たりに見て、「ひどいことをするものだなあ」と思いました。まあ、それなりの理由がありましたから本人は何にも抵抗らしいことはしませんでしたが、なにしろ本堂ですからねえ…。

第3回

 今回は、妙霑寺の落慶式の折、戸田二代会長が「今後創価学会がどんなに大きくなっても、宗門の行政に逆らうようなことがあったら、即座に解散を命じて下さい」と日淳上人に申し出たいきさつや、日達上人が本門寺に下向された時のお話し、現在の本門寺の様子や、将来の構想についてのお話しを掲載した。

編集部
 常泉寺での戸田会長の推戴式にそのようなことがあったのですか…。では、また話は変わりますが、御住職が初任地として御赴任された、岡山妙霑寺の落慶式でのことなどお伺いできますか?
 確かその時、戸田会長が、日淳上人に対して「今後創価学会が日蓮正宗にあい反する行ないがあったら、直ちに解散を命じて下さい」との発言があったと、吉田重役(本山妙蓮寺御住職・常健院日勇(じょうごんいんにちゆう)御尊能化)より伺っておりますが、御住職もその場に居合(いあ)わされたのですか?
横田師
 はいおりました。それはねえ、昭和三十一年八月十日の妙霑寺の落慶式の当日、法要が終わって皆さん解散して、まだ残っていたのは、当時は第八教区といって大阪の教区の方と宗務院の方だったのですが、今御健在なのは、吉田能化(前出・現重役)さんと高野能化(現・東京本行寺御住職、当時堺市本傅寺御住職)さんのお二方ぐらいだと思います。
 実はこの話には前置きがありまして、その時に私の母親がまだ猊下にも戸田さんにも挨拶をしていなかったのです。それで「君のお袋(ふくろ)さんは何をしている?」と戸田さんが私に聞いたので、私は「うちの母親は裏方でお勝手をしています」と答えたら「すぐにお袋さんを呼んで来い」と戸田さんが言う。それで、私は母親に「戸田さんが呼んでいるから挨拶に来て下さい」と年寄りの母親を呼んだわけです。そうしたら戸田さんがうちの母親に「今さら自分の子供が住職だからといって寺族のように寺にはいるのじゃない!」と言って罵倒(ばとう)するわけですよ。私の母親は讃岐の田舎(いなか)にいた のが、私か住職になるので、一人では困るから無理無理(むりむり)、連れて来たので、どなたが偉い人なのだが分らないわけなのですよ。
 それで、母親は戸田さんに大きな声で怒られたので困ってしまって、「すいませんでした、私は何も分らないので」と言ったら、その時日淳上人をはじめ、何人かで車座(くるまざ)になって懇談をしていたのですが、日淳上人も戸田さんが私の母親をつかまえて怒鳴(どな)っているものですから、その場にいたたまれないのですよ。
 それで、日淳上人は「戸田さん、もう年寄りで何も知らないのだからいいよ、いいよ」と間に入って言って下さった。まあ戸田さんの怒りを止(と)めて下さったのだけれどね。
 その時に戸田さんが母親を叱るのを止(や)めて、「日淳上人、今後、宗門が大きくなって発展した時に、宗門に楯突くようなものが出たり、創価学会が大きくなって宗門に楯突くようなことがあったら、その時は即座に(創価学会に)解散を命じて下さい」と言ったのですよ。
 日淳上人はその時「もう分ったからいいよ」と仰(おしゃ)ってなだめられたのですが、それでも戸田さんは興奮さめやらぬ風(ふう)で、なお「猊下、とにかく今後、創価学会がどんなに大きくなっても宗門の行政に楯突(たてつ)くような、逆らうようなことがあったら、即座に解散を命じてください」とこう言ったのです。
編集部
 戸田会長は、磊落(らいらく)な面もありましたが、やはり腹の中では信心があった方だったのですね。
横田師
 ありましたよ。それはもう・…ありましたよ。大変なものでした。戸田さんの当時の発言には「寺を威張(いば)らしてはいけない。住職を威張らしてはいけない。しかし、寺への御供養を惜しんではいけない。もし、住職がその御供養を湯水のごとく使えば、それは住職が罰を受けるのだからそんなのいいんだ。そんなことを信徒が一々干渉(いちいちかんしょう)することはないんだ。信徒は御本尊様に御供養をすることが修行であり功徳を積むことなんだ」とよく言っていました。
 確かに戸田さんは信心のある方でした。日淳上人はその辺の戸田さんの心が分っておられましたから、戸田さんをうんと可愛がっていらっしゃったんですよ。日淳上人は「戸田は偉い奴だよ。普通じゃないよなぁ…」なんてよく言っておられましたよ。
編集部
 戸田さんは、随分、日淳上人(相手が御法主上人猊下であるにもかかわらず)と侃々諤々(かんかんがくがく)の議論をやっていらしたと聞いていますが。
横田師
 それはもう・…お互いに酒を飲まれるからね。そのようなことはしょっちゅうで、日淳上人もよく飲まれたし、戸田さんもよく飲んだ。戸田さんは対等に日淳上人にモノを言っていたからね。今では猊下に対してそのような御信者はいないけれど、当時はそういう時代でしたからね。
編集部
 でもやはり戸田さんという方は、心の中では宗門に対して深く信心するところがあった人だったのですね。
横田師
 うんうん。それはもう絶対にありました。それでもね、「組織は戸田の命だ」と口癖(くちぐせ)のように言っていましたよ。「もう、組織は戸田の命なのだよ。血が通(かよ)っているのだ、それでなければ創価学会は発展せんよ」と言って。だから青年部なんかに無理なことを言おうものなら、直接戸田さんが我々僧侶に面と向かって文句をガンガン言って来ましたからね。「青年部を自由に使え」と言うから自由に使ったらガンガン言われるわけですよ(笑い)。
 まあ、妙霑寺に入った時の始めがそういうわけでしたからね、こちらは面食(めんく)らってしまいました。それに妙霑寺が最初建立された場所は土地が狭くて、隣が混んでいる狭い場所でしたが、予想以上に大勢の人が参詣されまして、岡山で始めてのお寺ができるということでね。当日は大変賑やかでした。
編集部
 妙霑寺が岡山県で始めての正宗寺院だったのですか。
横田師
 そうなんです。昭和三十一年八月十日だと思いましたが。五十畳もない本堂でしたが、信者さんがもういっぱい来ました。関西の白木儀一郎さん、岡山の中心者の山田徹一。そういう人達が幹部で来ていました。山田徹一は妙霑寺の総代まで務めた人でしたが、結局、最後は友人葬で葬式をしましたね。なんでも「死ぬ時は自分で戒名は付ける」なんて言っていましたから。この人はお寺を最大限利用して、そういう中で創価学会を宗門の上に位置づけようとの腹のあった人だったと思いますよ。
編集部
 池田と同じですね。学会主、宗門従という考え方ですね。
横田師
 うん、そうそう。なにしろあの人は「山田天皇」なんて言われていてね(笑い)。「中国地方は山田がいるから大丈夫」なんて池田が言っていたそうだよ。池田がバックにいるから中国地方では大変に羽振りをきかせていました。
 私かある時、「正月なのにお寺にお参りに来る人が少なくて困るではないか」と言ったらね、「それなら、お寺にどんどん人が来たら交通整理もお寺はしてくれるのか」なんて無茶(むちゃ)言うからね。その下の幹部の考えは、推して知るべしですよ。
編集部
 岡山の妙霑寺には四十年問いらしたのですね。
横田師
 昭和三十一年から平成十二年まで。四十四年間。まあ色々なことがありましたよ。
編集部
 では次に、本門寺に普山(しんざん)されてから丸二年経(た)たれたわけですが、将来的に本門寺をどのように発展させて行かれるお考えなのでしょうか、お伺いしたいと思います。
横田師
 本門寺は、地方本山としてあまり数のない本山の一つですから、それはもう本当に、さらに発展させて行くようにすることと、これは私か直接に聞いたわけではなくて、うちの総代が聞いたことなのですが、日達上人が本門寺の住職を兼務しておられて、本門寺に御下向(ごげこう)あそばされた時に、「西日本の人達は、総本山が遠くて参詣できない場合は本門寺に参詣して、本門寺に参詣した者は総本山に参詣する、というようにして行かなければならない。そういう構想を持っているんだ」と仰ったそうなんです。ですから、この後ろに高瀬川(たかせがわ)が流れているのですけれど、その川までの土地は本門寺が買い取って、そこに宿坊も建てて、もっと本門寺を発展させてということを仰せられたそうです。
 それで、総代は日達上人から「土地を買い取りなさい」と言われておったそうですよ。
 まあ、その日達上人の御構想は当時のものですけれど、実際に本山格として塔中(たっちゅう)があり、千三百軒の御信徒を持つ古くからのお寺は、日本中の正宗のお寺を見ても本門寺ぐらいではないかと思います。それはやはり大檀那として秋山泰忠公がおっだからでしょうね。
 秋山泰忠公も甲斐の国からこっちへ領地変えでこられて、まず何をやられたかというと、塩田業をやったのではないかと言われていて、それで多くの財力を残した。そのような経済的な力があったために、このような大きなお寺を、今日まで維持してくることができたのだと思います。
編集部
 本門寺は建立より何年経っているのですか?
横田師
 六百五十年は経っていると思います。ご承知の通り本門寺は最初、丸亀の「田村」という所にあったとされています。
 そして、泰忠公が田村から高瀬に移られるまでの間に、本門寺の基礎を築かれたのですが、その間、随分と多くの物故者(ぶっこしゃ)が出られたと思うのです。しかし、泰忠公は、甲斐国にいた頃から日興上人の薫陶(くんとう)をよく受けていましたから、こっちに来ても念仏や真言の教えで亡くなった人を弔うようなことはしなかったと、古文書などにも記されています。
 泰忠公は、自分の配下の者が亡くなったならば、早急に手厚く葬らなくてはいけないということで、総本山の日興上人に申し出て、自分の一番近い僧侶に御下向願って、「信徒も地盤もしっかりしていますから」ということで、日仙上人(秋山氏と同じ甲斐源氏の御出身)を招聘(しょうへい)されたのです。
 最初はやはり、甲斐源氏(かいげんじ)の御出身の寂日坊日華(にっけ)上人がこちらに来られたのですが、日華上人は御高齢でお体の具合が思わしくなくて、これはいけないということで、日興上人は百貫坊日仙上人をこちらに向けられたということなのです。
編集部
 現在宗門の本山格の寺院は、妙蓮寺と日向(ひゅうが)・定善寺(じょうぜんじ)とこちら本門寺しかありませんから、この伝統と格式のある本門寺を、今後も維持経営して大いに発展興隆させて行くということは、宗門にとっても大変意義のあることと思います。
横田師
 現在の本門寺は、昔から比べると、あらゆる面で大変に充実していると思います。
 現在も四国の大教区の大きな会合などは、この本門寺を使うことが多いのです。ただこの本門寺の近くには、学会を止(や)めて本門寺につきたいという人達も結構いるのですけれど、そういう人達は近くの寺院に所属してもらって、本門寺の信徒にはしないことになっているのです。この本門寺は昔からの檀家の人達によって守って行くということになっています。これは、近在の各寺院と本門寺の総代さんたちが協定を結んでね、そのようになっているのです。
編集部
 こちらの総代さんも厳しいですね。
横田師
 ええ、厳しいですよ。でも立正寺(りっしょうじ)や丸亀の妙行寺、それと福成寺などは、どんどん学会の人を折伏して受け入れていますから問題はありません。何度もいいますが、本門寺はやはり、この近在でも歴史も古いし構えも立派なので、学会を辞めてこちらに所属したいという方は大分(だいぶ)おるのですが、以上のような理由で断っているのですよ。こちらの檀家の人は昔からのしきたりを大事にしていますのでね。
 逆に檀家の者が学会に入っているところも、あるにはあるのですよ。これは昔のことですがね。東京に出て行った子供が学会に入って、郷里の親にも「学会に入れ」というようなことがあって、親は年を取って子供の言いなりにならなければいけないので、しかたなく学会に入っている、なんていう例があったのです。
編集部
 そのような家は、今回の平成三年よりの学会の謗法問題によって本門寺さんに帰って来ているのですか?
横田師
 現在はまだ帰って来ていないようですが、まあ、やがては帰ってくるでしょう(笑い)。
編集部
 古いお寺というのは、その辺の余裕というのがあるのですよね。檀家の人間が、途中、学会に入ってしまっても、また何代か後には、元のお寺に帰って来るということが実際にあるのですよね。その辺が六百五十年の歴史のあるお寺の余裕というものですね。我々のお寺なんかはそんなことは言っていられませんけれど(笑い)。
横田師
 まあ、本門寺の檀家の中には、遠方に住んでいる人もいるのですが、先(せん)だっても、岡山に住んでいる安藤さんという檀家の家でお葬式がありましてね、私か行って来ましたけれどね。それはたいしたものです。遠くに離れていても、やはり本門寺の檀家であるという意識は失わないのですから。「来てくれますかぁ?」なんて言われれば、それは家(うち)の檀家なのですから行かなければいけないですからね。まあ、岡山までは電車で行って一時間ぐらいだから、遠いと言っても比較的に近所ですからね。
編集部
 では、最後になりますが、今後の本門寺の僧俗のために何かお話を戴きたいのですが。
横田師
 そうですね。本門寺一門と言いますか、いくら大坊(だいぼう)があっても、塔中が協力をしてくれなければね、それはもう全てが廻(まわ)りませんからね。現在は本門寺に何かあれば、みんなパッと寄って手伝ってくれますからね、有り難いことだと思っております。また、信徒に対しても本門寺一門、いろいろ塔中の坊があり、それぞれ信徒かおりますが、その信徒全ての面倒を本門寺の住職たる自分が、目を配って行かなければならないのではないかと思っています。
 塔中の住職さんから要望があれば指導にも出かけて行きますし、葬式などは「本門寺の大坊の御前様(ごぜんさま)をお願いします」ということになったら、私か行って導師をしなければならない。たとえば、泉要坊(せんようぼう)の檀家であっても、中之坊(なかのぼう)の檀家であっても、「満山お願いします」ということになれば、法事は本門寺で、塔中の住職を呼んで、私か導師となって勤めなければならないしきたりになっています。
 ですから、大坊の檀家は勿論ですけれども、塔中の各檀家にも、常に目配りをして行くということが大切であると思っています。
編集部
 あの、福成寺や妙行寺さんのような昔の末寺(まつじ)の場合などは、現在どのようにされているのですか?
横田師
 それらのお寺は今は独立してやっています。もうお葬式や法事に本門寺さんをお願いします、などということはありません。
編集部
 では御住職が行って導師を勤められるのは、大坊の近所の、それも本門寺の近末(きんまつ)の寺院に限られるわけなのですか?
横田師
 そうですね。
編集部
 それでは、何々坊という所の御信徒が「大坊の御住職をお葬儀にお願いします」と願い出があれば、本門寺さんは行かれるということなのですね。
横田師
 そうです。願い出があれば私か行って導師を勤める。例外的に、丸亀に「富田」というお茶屋さんがあって、そこは法事やお葬式になると、本門寺も行くし、妙行寺の住職も行く。昔からのそういう格式になっているのですね。「法事をお願いします」と言われて行ってみると、もう妙行寺の住職さんも来ている(笑い)。「本門寺さんが見えたのですから、お導師をお願いします」と言われて、それで私か勤めるわけですけれどね(笑い)。でもこの家は例外的なことです。
編集部
 しかし、本門寺の末寺の場合は、本門寺の御住職が出仕して見えられた場合は、お供をして行くというのが昔からのしきたりとなっているのですね。権威があるのですね。
横田師
 そうですね。それでもね、本門寺の近くと言っても、立正寺さんの檀家の場合は行くわけにはいかないのですよ。立正寺は総本山大石寺の末寺で、本門寺の末寺ではないですから。だから、立正寺の檀家が、お葬式に御僧侶を二人お願いします」といった場合は、本門寺ではなく、よその寺院に頼んで行かなければいけないのですよ。私か行ったら私か導師をしなければいけなくなってしまう、やはり、総本山の末寺の場合はそこの住職を立てなければいけないですからね。しかし、立正寺の隣にある上之坊(かみのぼう)は本門寺の外塔中(そとたっちゅう)ですから、私か頼まれれば導師をするようになっている(笑い)。同じ字(あざ)のなかに本門寺の檀家と立正寺の檀家が半分半分いる場合もあって、なかなかややこしいですよ(笑い)。でも、そのように本門寺一門が皆で助けあって、長い歴史や伝統・権威・格式というものを大切にして、これからもやっていこうと思っています。
編集部
 長い時間取材に御協力を戴きまして大変に有り難うございました。本門寺様の益々の御発展をお祈りいたします。
                               (以上)

 
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