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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『霊友会よりめざめ築いた幸福』

東京地区連合会本行寺支部 K. I. 

(S38.5.20)

 私の入信は昭和25年6月で本年は14年目に入ります。当時は敗戦直後で食料の買出し、住居や衣類にも事欠く日本の苦難の時代で、おまけに朝鮮動乱等で実に荒んだ恐ろしい暗黒の時代でした。

 私共も文字通り悪税や経済苦や病苦で一日として朗らかな日もなく、妻とはよく争いもし、封建的な暗い家庭でした。それに私は20才頃よりの無茶食いがたたり毎日毎晩激しい胃痛で年中腹をかかえて苦しんでいました。

 それが一つのきっかけとなり、宗教に人間の道を求めようと思い立ち、妻が10年もやった霊友会に足を踏み入れてしまいました。夢中になってやりましたので、古い信者達は、いい人が入ってきたと思っていたらしいです。その中に長男が天ぷら油で右腕に大やけどしましたが、かまわず尚も霊友会を真剣に続けておりました。

 たまたま、お盆も近くなり大工の叔父の所へ行き、霊友会特有の死んだ先祖の戒名集めをやっておりましたところを、柳沢講頭さんの兄さんに、「霊友会は邪教だから一度座談会をやっているから来い」と云われ、父と共に出席したのです。

 昔から知っているお宅なので出席させて戴きましたところ、驚くことばかりだったのです。先ず第一に仏壇の御本尊様の中央の南無妙法蓮華経の文字ですが、どなたがお書きになったのか知りませんが、ゆらゆらと生きて動いて見えるのです。丁度かげろうが燃える様でした。随分毛筆の字は見たが、この御本尊様の文字は何と云っていいか分かりませんでした。実に不思議なことだと思えました。

 次に法話をなされた阿部信雄先生の「立正安国論」の一説の御言葉も正しさに溢れ、日蓮大聖人様は破邪顕正のお方であると何も知らぬ自分にもそう感じました。次に柳沢講頭さん始め皆さん方の折伏でしたが、法華経は生活の教えであると云われ、間違った私の考えは強く破折されて、講頭さんの村八分をうけ改宗した体験や利益と罰の体験もあり、「とうとう自分にも待ちに待った大福音が来た」と思いました。

 もっと早くさがしてでも正宗の信心をやるべきだった。それに早く死んだ母親のことや短命の親戚の者たちを考えた時、後悔しました。「よし自分はこの信心のために本当に命を捧げよう、大折伏をして不幸な人々を悉く救うのだ。死ぬまで信心をやり抜こう」と堅く心に誓い、父と私は即座に「やります」と云って入信の決意をしました。私の如き形の人は少なかったのですが、毎日それからは天に昇るような喜びの日でした。入信当初の想い出は何年経っても忘れられません。

 本行寺支部では、毎日柳沢講頭さんを中心として猛折伏が始まり、たちまちにして数十世帯の同志が集まりました。実に数々の体験があります。邪宗の坊さんと法論したり、墓地のことで大喧嘩したり、来る客に全部折伏しました。

 一度は折伏した人が夜中の1時頃家の硝子戸を叩き、「貴様は偉そうなことを云っておきながら、この仕事のざまは何だ」と、酒の勢いでドンドン戸を叩くので、近所の人々は皆起き出し何事ならんと表に飛び出てきたこともありますが、折伏の腹いせに来たわけです。

 折伏はそれこそ旺盛で、阿部先生も講頭さんも吾々の陣頭指揮をしてくださり、霊友会の座談会、神道、キリスト教、不動や成田の行者等、猛烈な折伏の連続でした。知人はもちろん、電車の中でも折伏したことがあり、一度は都電を降りるのを忘れて行者風の人を折伏した経験もありましたが、この時は電車中が敵になり、喧嘩騒ぎのようなことがありました。

 そんなわけで近所からは「狂い坊主」とか、「信心に凝って頭がおかしくなった」とか悪口があっちからもこっちからも聞くようになり、大分反感が高まりましたが、それと同時に味方も多数増えてきました。

 また大工の叔父の折伏の時、「この信心をしないと家が潰れる」と言ったことにより、叔父・叔母が烈火のように怒り絶交状態となり、救うべき一言がうらみと変り、折あらばと眼を皿のようにして私を伺い、「これ見よ」といわんばかりに自動車等を買い込み建築ブームに乗り、豪勢な家を建て、職人も置き、世間の人々から日の出の勢いと噂されていました。

 一方私の方も折伏は益々実り家庭も向上し、その年の御大会に、柳沢講頭さん一家の熱烈な御指導によって待望久して大御本尊様まします大石寺へ初登山が許され、水谷日昇上人猊下の御導師で大御本尊の扉の開かれた瞬間、満々たる水が堰を切られた如く涙がこみ上げて全くお恥ずかしい次第でしたが、泣けて泣けてどうにも仕方がなかったのです。感激そのものでした。

 このありがたい大御本尊様を守り通された先師先輩の方々の御恩に報い奉るべく、しっかりとご本尊様に御誓いし、下山してからの折伏は面白いように成果が上りました。恐ろしいものなしの有様でした。手の舞い足の踏む所も知らない状態で、喜びの毎日でした。

 ところが、昭和32年9月19日、永らく痛んだ胃がその晩には猛烈な痛みと変り、医者が来て注射を何本打っても効めがなく、直視的にとうとう胃が破れたと思いました。時間が経つ程痛みが加わり呼吸も困難になり、全身しぼり出す様な脂汗としかも腹が組板の様な堅さに変り、寝ることも起きることもどうすることもできない有様となりました。

 医師には、「胃穿孔です。すぐ入院して手術しないと危険です。一時を争うから早く」と云われました。私は困ったなと思いました。節制を保たず、医師にも重きをおかず、痛んだ時は薬を飲む程度で痛さをこらえては来たのですが、無暴だったことにつくづく悔いを懐きましたが、「自業自得だ。仕方がない」と仏壇へ這うようにして行き、妻と唱題しました。涙が出て来るし、子供等4人のことも考えられるし、どうにもこの苦しさは致し方ありません。

 午後8時頃から痛んで数時間も経ったので意識もボゥーとなって来た時、柳沢講頭さんと加藤副講頭さんがかけつけて御祈念の勤行をして戴きましたが、自分では最後の勤行の覚悟でした。勤行も済み子供2人を呼び「しっかり信心をするのだ」と云い遺して、順天堂へ入院しました。

 翌日午前10時頃切開手術をしましたが、飯粒を全部取り出すので、手術は恐ろしく手間取り、薬も新薬をどんどん惜し気もなく使って万全を期して戴きました。切開後胃を取り出すと十二指腸潰瘍で胃の中央にも親指大の孔がありました。手術後発熱と腹膜炎とを起す危険が九分九厘あったので、切開部両端は縫わずにおき、そこから化膿したものを出す予定でした。

 ところが何日経っても腹膜の気配は全然なく、どの先生も不思議がっていました。「君は異常体質だ」、「信心のお蔭ですね」と口を揃えていわれた程でした。さすがの大手術も経過は良好で、手術後は盲腸の手術の経過のようにぐんぐんよくなって命を取り止めたのです。全く大利益を戴きました。

 ところがこれを聴いて見舞いに来た叔父は、この時とばかり「信心していても病気にかかり、死にかかったそうじゃないか」と、恰(あたか)も再起不能と思っていたらしく、云う言葉にどうだといわんばかりでした。

 「叔父さんには今何んの話をしても聞く耳はないでしょう。今の叔父さんの気持ちも分かっていますが、以前家が潰れるといったことは今この病気によって、強い確信を得、さらに言っておきます」と言うと、叔父はいやな顔をしてすぐに帰ってしまいました。

 近所の人々も決していい話はしませんでした。「信心しているのなら、何故もっと早く治療もしないのか」等といって批判ばかりでした。しかし、いまふりかえってみるとこの病魔に打ち勝てた事は、即、謗法罪障消滅の一であり、一大飛躍の第一歩であったということを確信しています。

 手術以後から今日迄、全く健康人と変りありません。入信当初と今では総てにわたって遥かに向上し、功徳に護られた生活は御本尊様の偉大な御力であり、今後も折伏を力のある限りやって参ります。

 5月19日の第1回東京地区大会も盛大に終了し、もったいなくも日達上人猊下の御来臨を賜り、信徒一同に親しく御言葉を賜はり法華講衆は、大会と同時に更に決意を新たに致しました。そして後続の若き人々のために、更に鞭打って頑張り、折伏に全力を挙げて参ります。

 以上13年の信行から極く一部ですが、体験の一端と致します。

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