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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『脱会して寺院外護と一家和楽の信心』

法秀寺支部 M. K. 

(H15.5.16)

 皆さん、こんにちは。生まれて間もなく入信した私のこれまでの26年間は、すべて御本尊様に守られた人生です。限られた時間ではすべては語り尽くせませんので、本日はその中からほんの少しだけお話させていただきます。

 私は、福島市に生まれました。私が生まれたとき、母は創価学会員で、父は入信していませんでした。

 父は「もやもや病(ウィリス動脈輪閉塞症)」という難病で飯坂温泉近くの施設に入居し、ときどき腰浜町の住まいへ帰ってくるという生活でした。学会に籍を置いていた我が家でしたが、会館よりも広布寺のほうが近かったので、お寺にしばしば参詣していたように記憶しています。

 私には、幼い頃のある日の記憶が今でも鮮明にあります。それは、母と広布寺へ参詣したときに、お寺の受付で御僧侶からお菓子をいただいたことです。このときから「日蓮正宗のお坊さんは優しい人だ」と幼な心に思い、学会のような在家の人たち中心での活動ではなく、御僧侶の近くで親しく信心がしたいという気持ちが芽生えたのです。

 私が5歳のとき、我が家は母親の実家のある新潟県三島町(長岡市の隣町)という農村へ引っ越しました。現在の私の実家です。

 当時、その集落は旧習の深い土地で、村社会の典型でした。例えば「K」という姓は父方の苗字のため、集落に「K」姓は我が家だけです。そのことだけで、大人から子供までが私たち一家に奇異のまなざしを向けてきました。

 さらに、創価学会員であったこと、神社関係の祭に参加しないこと、身体障害者の父がいたことなどで、村の人たちからは、「先祖代々の仏をないがしろにしている」とか「村のしきたりを無視している」「福祉の世話になっているくせに」といったような、いわれのない中傷が、小学生だった私自身にも浴びせられました。

 また、実家には未入信の祖父と祖父の後妻がいて、私の父母といろいろな面で折り合いが悪かったようでした。私はその家庭環境によるストレスのためか、やせ始め、じんましんが出たりして体調が悪くなりました。

 昭和60年7月7日、父は、寺号公称される直前の長岡市の法秀院で御授戒を受けました。私はこのとき初めて、法秀寺御住職の山口実修御尊師にお目にかかりました。

 父は、まるで自らの死期を悟って日蓮正宗に入信したかのように、御授戒を受けた13日後の7月20日に死去しました。このとき私は小学校3年生でした。

 葬儀は自宅で、山口御主管の御導師で執り行われました。父の火葬後、初七日忌法要後のことです。母や親戚の大人たちが御尊師とお話しているとき、小学生の私と山口御尊師の視線が合い、そのとき、御尊師がニコッと微笑まれたのです。それ以来、私は、「法秀寺の御僧侶はいい方だ」と強く思い、そのことを周囲の学会員にも話していました。

 平成2年以降、学会問題が起こったとき、母は「宗門、学会側の双方に付かず離れずが一番だ」と言っていましたが、私はそれに猛反発し、「お寺と御僧侶あっての日蓮正宗でしょう。僕の小さい頃の記憶とお父さんの葬式のときの記憶では、学会の幹部が言うように正宗の御僧侶が堕落しているとは思えない」と毎日毎日、言い続けました。しかし母は、なかなか脱会を決意できませんでした。

 そうこうしているうちに転機が訪れました。平成7年、私が高校の卒業式に行くその朝、母はクモ膜下出血で倒れ、そのまま意識不明の状態で3カ月間、生死の境を彷徨(さまよ)いました。このとき伯母の家族が母の看病を交代で手伝ってくれたので、私はどうにか大学に進学することができました。

 法秀寺の御住職様に願い出て、御秘符を戴くことができました。伯母が御秘符を水に溶き、母の口に含ませました。すると、医師からは「回復しない。もし回復しても後遺症が残る」と診断されていた母の意識が戻り、みるみる回復し、無事に退院できました。その後、母は元気にパート勤めにも出られるまで回復し、ほとんど何の障害もなく生活できました。

 母の退院から1カ月後、母方の祖父が亡くなりました。当時、我が家はまだ学会員でしたが、祖父が生前「俺が死んだときは、お寺に弔いをお願いしてほしい」と言っていたこと、さらに母と私が、学会員でありながらも時々お寺に参詣していたこともあり、法秀寺に葬儀をお願いしました。

 それが縁となり、母と私、そして祖父の後妻である祖母の3人が、脱会して法華講に入ることができたのです。私が19歳のときでした。法華講員になってからというもの、ぎくしゃくしていた母と祖父の後妻との仲は良好になり、一家和楽そのものになりました。

 また当時、大学に通うために埼玉県大宮市で独り暮らしをしていた私のアパートに、法秀寺の御住職様はわざわざお越しくださり、直々に御入仏を行ってくださいました。

 その際、御住職様は「御本尊様を御入仏したのですから、五座三座の勤行は欠かさず行ってください」と笑顔でおっしゃられ、「これは言うとおりにしないといけない」と思い、毎日欠かさず行うようになりました。

 2年生より大学の校舎が東京へ変わるのに伴い板橋区に引っ越しました。それを機会に、御住職様のお計らいで板橋区の妙国寺の預かり信徒として、支部の活動に参加するようになりました。

 妙国寺では御僧侶、そして田中講頭さんはじめ支部の皆さんにかわいがっていただきました。妙国寺支部での信心活動は、厳しくも慈悲に溢れたもので、貴重な経験を積ませていただきました。

 私は大学卒業後、新潟市にある会社に就職し、入社2年目には新発田市に転勤となり、それとともに引っ越しました。また、社会人になると同時に法秀寺支部の青年部長を拝命し、新潟・新発田と、長岡という2つの拠点を持った生活がスタートしました。

 青年部長になってからの活動は、平成14年の法華講30万総登山大法要の参加目標の達成に全力を傾けました。支部では御報恩御講参詣者数の増加に力が注がれていました。我が家においても御講参詣の習慣のなかった母と祖母に、その習慣を身に付けさせたことは、今となってはよい思い出です。

 平成14年・宗旨建立750年は、私にとって生涯忘れることのできない激動の年でした。3月12日、母が急死しました。その2日前、母は祖母を車に乗せて法秀寺の御報恩御講に参詣しました。母にとってその参詣は、寿命を賜った大聖人様へ、最後のお礼のご挨拶かのような寺院参詣となりました。

 母の通夜・葬儀とも、自宅のふすまを取り外して会場を作って執り行いました。大勢の参列をいただき、特に通夜は信心での有縁の方々や会社関係の方々で満杯となり、入りきれずに外に溢れるまでになりました。

 また、私が広告代理店に勤務している関係からか県内テレビ各局から弔電をいただき、さらにはテレビ局の方より直々に弔問いただいたのには驚き、恐縮しました。

 さらに県内の青年部有志の皆さんには、式場の誘導等でたいへんお世話になりました。皆さんのおかげで母の葬式を、正宗の化儀に則り、盛大にそして立派に出すことができました。

 後日、集落の中では、正宗の厳粛な葬儀、大勢の弔問客、マスコミからの多くの弔電、そしてきびきびとした青年部有志による会場誘導のことが、いい意味で評判になったようです。

 会社関係の方々からは、「日蓮正宗の葬儀に感動した」との感想が聞かれました。さらには、葬儀の折に御住職様が、私が青年部長として御奉公していることを会社の社長や上司に紹介してくださったので、会社では、お彼岸と休日出勤が重なるときなど「あなたは、お寺の御奉公があるから出勤しなくていいよ」と言われ、参詣しやすくなりました。

 御住職より「お母さんは君の高校卒業の日にクモ膜下で倒れ、御戒壇様から『更賜寿命(更に寿命を賜う)』の寿量品の経文のように寿命を戴けたんだね。そして一人息子が無事大学を卒業して、社会人としても信仰の面でも立派に成長した姿を見届けて、安心して亡くなっていったね」とのお言葉をかけていただきました。

 私にとって真の親孝行はこれからです。法秀寺での御奉公に勤め、菩提寺である法秀寺を外護できる人材に名実共に成長することが、真の親孝行であると考えています。

 父、母、祖父と自宅で3回も正宗での葬儀を出しましたが、3人とも安祥とした半眼半口の相を間近に見ることができ、日蓮正宗の正しさに確信を抱きました。

 御法主上人猊下の御指南、御住職様の御指導に従い、平成21年・『立正安国論』正義顕揚750年の御命題の達成に向かって日々精進していきます。まず未入信の親戚への折伏に精進し、先祖供養のため、一族和楽の関係を築くことをここに決意し、体験発表とさせていただきます。

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