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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『慶祝登山の功徳で心の病を克服、発心までの試練』

妙清寺支部 K. B. 

(H15.6.16)

 私は北海道の札幌で生まれ、そのときに御授戒を受けていました。幼稚園くらいまでは母と共に札幌の大慈院に参詣していましたが、その後は信心とかけ離れた生活で、「うちは母独りが信心しているだけ。私は関係ない」と思い、家庭訪問に来る方にも断り続けていました。兄2人も同じでした。

 そして私は、2年前から京都で学生生活を始めました。昨年の春、病気知らずだった私の体に異常が出てきたのです。

 動悸、めまい、手足の痺れ、息を吸っても肺に入っていないような息苦しさ、初めは単なる疲れだと思いましたが、治る気配がなく、いろいろな箇所に新たな症状がどんどん現れ、一つ治まると、また違う症状が出てきました。

 病院に行っても原因不明と言われるばかりで、不安が大きくなっていきました。症状はますます悪くなり、後頭部の痺れ、締めつけ、痛みが始まって枕を当てることもできず、寝ても激しい吐き気と大量の汗で夜中に目が覚めてしまう、そんな毎日が続き、夜一人になると、恐怖で早く帰省したいと思っていました。

 実家へ帰ってゆっくりすれば良くなるのではないかと思い、しばらく家で様子を見ましたが、症状は悪化する一方で、まっすぐ歩けなくなり、歩けば振動が頭に響き、脈打ち、指一本触れられるだけで、痛みと吐き気に襲われました。

 一日中、体のことが気になり、精神状態も限界に近づいていました。そんなある日、家に一人になったとき、気づいたら御本尊様の前に座っていました。今思えば、その日から、症状だけではなく、何かが大きく変わり始めていたのです。

 病院の問診の結果、熱もあり首が動かないことから髄膜炎の疑いがかかり、すぐに脳外科で骨髄液を抜いて検査しましたが「異常なし」でした。そして翌日の朝方、私は全身痙攣を起こし救急車で運ばれたのです。

 その日は母が30万総登山へ出発する日でした。母は家族の反対を押し切り、御念珠と御経本を私の枕元に置き、「大丈夫だから。苦しくなったら心の中で南無妙法蓮華経と唱えるんだよ」と言って出かけて行きました。

 私は不思議と「行ってらっしゃい」という気持ちで、御登山を止める気は全くありませんでした。しかし、家に一人でいると不安になり、じっとしていられない衝動にかられ、そんな自分が怖かったです。ここで動いたらおかしくなってしまうと思ったからです。

 母のいない2日間がとても長く感じられました。そして母が戻った翌日、入院しました。不安障害と自律神経失調症との診断でした。薬で意識は朦朧とし、寝たきりになりました。

 将来への絶望感と、両親への申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも症状は楽になっていきました。数日して、母に「今からお寺に行かない」と聞かれ、私は「行く」と返事をし、お寺に向かいました。

 そこで御住職・上地広暁御尊師に、「お母さんと一緒にお山に行ってきなさい」と言われました。なぜか涙が止まりませんでした。「そうか、行こうかな。行かなくては」と思い、30万総登山の最終日に2人で行くことにしました。

 家族や主治医は大反対でした。「状況を考えてみろ。お前は気違いか」と父に責められても、母は黙って手をついて頼んだのです。主治医もあきれていました。

 また登山日は、ちょうど母方の祖父の3回忌でもあったのです。しかし母が、かつて自分の実家は日蓮正宗を信仰していて、娘の症状が祖父の病気と同じだったと皆に話すと、祖父の姿と重なったのでしょう。「そういうことなら法事はいいから、行ってきなさい」と言ってくれました。

 母の強い一念のお陰で登山できたのです。総本山に着くまでは、薬のせいでいつも通りフワフワした感じで「ここはもう静岡なの、今札幌じゃないの」という気楽で穏やかな気持ちでした。

 しかし、三門をくぐった途端に豹変し、目は冴えだし、目にする人たちすべてが異常に見え、嫌悪感を抱いたのです。話しかけられれば、その人に対する怒りが込み上げました。一点を瞬きもせずに見つめ、端の方で独りじっと座り、私はうつ病にでもなってしまうのではないかと考えている自分もいました。

 この2つの気持ちが交互に現れ、とても苦しかったです。それは御開扉のときに一番強く現れ、攻撃的な私と内に篭もろうとする私がいました。

 そんな私の所へ、大法要で散華が飛んできたのです。それも頭、痺れていた左腕、痙攣していた右脚に“当たった”のです。「なんだこれは、痛いな」と思い、帰りまで怒りが治まらず、バスに乗ると「早くここから出たい」と泣きました。

 翌日、病院へ戻る朝、部屋のドアごしに、「このたびは私のわがままを聞いてくださいまして、ありがとうございました」と母が父に言っているのが聞こえました。姿を見なくても、何も返事をしない父に母が手をついて頭を下げているのが判ったので、母に辛い思いをさせたと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 病院に戻ると症状は消え、心境も大きく変わり、早く退院して京都に帰りたいと思い始めました。そして退院して、母に付き添ってもらい京都に戻りました。すぐにまた情緒不安定気味になりました。毎日泣いてばかりいましたが、ある日、私を妙清寺に連れていきたがっている母の気持ちに気づいて地図で探し、「お母さん行かなくていいの」と聞きました。私の命がこの信心を求めていたのでしょう。

 11月5日、2人で妙清寺に参詣しました。その時、御住職・菅原信了御尊師と奥様にお会いしました。ご住職は母に、「あなたが信心しているからといって子供さんに功徳があるわけではありません。いくら御祈念しても本人が信心しなくては、お子さんは幸せにはなりません」とのお言葉をかけてくださり、奥様は「あなた、しっかり信心しなさい。御本尊様をお受けして幸せになりましょう」とおっしゃいました。

 私は迷うことなく「はい、やります」と答えたそうです。私はそのことを全く覚えていません。横にいた母はたいへん驚いたそうで、その夜帰ってから、本当にいいのかと念を押したところ、「うん」と私は返事をしたそうです。これも全く記憶にありません。

 翌日、御本尊様を御下付いただきました。不思議と涙があふれました。その晩、遅い時間にも関わらず、青年部の方が4人も来てくださり、話すとなぜだか安心しました。

 母が札幌へ帰る日に、2人で妙清寺に参詣しました。私は泣いてばかりで、「御題目三唱だけでも本当によくなるんですか」と何度も奥様に尋ねていました。奥様は母に「どうぞ安心してお帰りください」とおっしゃってくださり、母は私と別れ、札幌へ帰っていきました。

 再び京都での独り暮らしに戻った私は、気分が悪いときはすぐ唱題し、夢中でお寺に向かうこともありました。

 今年に入って薬がどんどん減り、生きることがとても楽しくなりました。最近は自分の病気のために唱題することもなくなりました。あの苦しかった毎日のことを笑顔で話せるようになった今、あれはご本尊様が、自分で信心しなければいけないと試練を与えてくださったのだと思います。

 そのお陰で出会った仲間たちに、苦しいとき、いつも支えてもらいました。そのときにかけてくれた多くの言葉を、私はずっと忘れません。だから今、私ができることは何でもやろうという気持ちでいっぱいです。

 そしてさらに驚いたことに、昔、祖母と母が参詣していた北海道夕張市の興隆寺で、菅原御住職が御奉公されていたということです。祖母からの縁が受け継がれ、私はこの地にいるべくして、いるのだと思いました。

 今、母は北海道で、私は京都の妙清寺で、仲間と共に信心しております。御報恩の心と広宣流布を忘れず折伏を行じ、現状に甘んじることなく常に前進できる強い人間になろうと思います。

 最近では楽しそうな私の姿を見て、お寺を嫌っていた兄が、行ってみようかなと言い出しました。父も穏やかになり、母を責めることがなくなりました。友人たちが、この仏法の話を進んで聞いてくるようにもなりました。特にその中の2人の方に頻繁に折伏していて、明後日も会う約束をしています。

 『立正安国論』正義顕揚750年の大佳節に、家族5人と友人たちとで総本山に参詣できるように精進していくことを決意いたします。

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