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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『月々増える同信の友と力合わせ、次々折伏』

仏乗寺支部 T. Y. 

(H12.8.1)

 皆さんこんにちは。今日は、去年1年間での3人の友人と、かねてからの念願であった母親の折伏成就の体験と、その感動を中心に述べさせていただきます。

 私は平成元年12月17日に創価学会員として日蓮正宗に入信し、御本尊様を御安置させていただきました。当時17歳になったばかりの私は高校を中退し、いろいろな迷いを抱く中で、そのときお付き合いしていた女性と家出をし、1週間逃げ回り、ボロボロになって、最後に辿り着いたのが沼津の本広寺でした。

 その日は、12月12日で、御報恩御講に当たる日でした。夜、御住職・本間義乗御尊師の御講話を拝聴し、難しいお話の中で「信仰というのは木に例えたら根っこに当たる。根っこが腐ると全部が腐り、そこに花は咲かず、実もならない」というようなお言葉だけは今も強烈に覚えています。

 私を折伏してくれたYさんは学会員でしたが「信心というのはお寺で教わるものだ」と教えてくれて、自分でも実行していた方なので、私も自然とお寺や総本山大石寺に参詣することが多くなりました。

 そのかいあってYさんも私も、学会問題が起きたとき比較的すんなり抜けることができ、学会が破門になると同時に脱会し、法華講に入講させていただきました。

 学会員時代から池田や学会の幹部が唱える汚い御題目に疑問があり、総本山に参詣する度、耳にする法華講の方々のきれいな唱題に憧(あこが)れていた私とYさんは、入講を心の底から喜びました。

 それからすぐ上京し、仏乗寺でお世話になることになりました。若さゆえいろいろな誘惑や困難に負けそうになり、信心も怠けがちになり、一時期は住む所さえなくなりそうになったこともありました。

 その度に仏乗寺の御住職・高橋信興御尊師や執事さん、お所化さん方より御指導をいただき、講中の方々の励ましをいただき、少しづつですが信心修行して、それに伴い生活も落ち着いてきました。

 そんな中で一昨年の暮れに非常にお世話になった「画家のSさん」というおじいさんが亡くなり、最後に可愛がってもらったのが私だということで、大きな御仏壇を形見としていただけることになりました。

 六畳一間に私の背より大きな仏壇、初めは「えらい物をいただいてしまった」とちょっと弱気になったりもしました。しかし、新年ということもあり、新しい気持ちで御本尊様に手を合わせて、日々の勤行、唱題に励んでいく中で、怠けがちだった東京での信心の状態を反省し、日頃お世話になっている方々に恩返しできるような活躍をしようと決意しました。

「力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書668ページ) との御金言を拝し、あまり考え込まず一言でも多く友人に信心の話をしていこうと努力していく中で、5・6人の友人が毎月の御報恩御講に一緒に参詣するようになりました。

 その頃、講中での地区改正があり、その際、地区長という役をいただきました。これによって支部での自分の使命や役割が明確になって、それに伴い折伏もより具体的に話が進んでいきました。

 なかなか目に見えて結果が出ないのと、私生活での悩みで、少し中だるみしてしまいそうでした。でもそんなときも、自分が折伏した仲間であるTさんやK君のがんばりで、少しの間お寺から離れていたA君やKさんが毎日のようにお寺に参詣するようになり、私もそれを受けて、病気で悩んでいた自分のバンドのスタッフのMさんを折伏し、11月11日の夜に御授戒を受けさせることができ、続いて12月12日の御講の日、バンドメンバーのY君の御授戒が決まりました。

 またその日、母が上京してくることになりました。母の姉のEおばさんが急に亡くなったからです。伯母は創価学会の家に嫁いでおりましたが、本人は学会嫌いでした。伯母自身が学会で一生懸命やっていたわけではなかったので、私も気を抜いていましたが、よくよく考えてみると伯母の周りには創価学会員しかいなかったので、いざ亡くなってしまったら友人葬で葬られてしまうに違いありませんでした。

 母は伯母が急に亡くなったことと、学会員による葬儀を嘆き、私に相談してきました。ちょうどお通夜が、仏乗寺の御講の日と重なっていたため、私は母に御授戒を受けることを勧め、御住職に伯母の供養をしていただくことが最善の方法だと話しました。

 私は母に10年かけてずっと信心の話をしてきましたし、母は私が本当にお寺でお世話になっていることは判っていました。そのため、母は迷いなく入信を決意してくれました。

 母とY君の御授戒は無事終わり、その足で私と母は伯母のお通夜へと向かいました。思えば10年前、私が初めてお寺に行き、御本尊様に手を合わせたのも12月12日でした。

 船橋の葬儀場に着くと案の定、学会員が仕切っており、異様な雰囲気が漂(ただよ)っていました。伯母が亡くなった原因も聞かされず駆け付けた、私と母と母のもう1人の姉であるSおばさんは、伯父になぜこんなことになったのか聞きました。

 伯父は謝るばかりでしたが、よくよく問い質(ただ)すと、伯母は病気で寝込んでいたにもかかわらず、病院に連れて行ってもらえず、物も食べられなくなるほど調子が悪かったらしいのですが、それでも放って置かれ、見殺しにされたということが判りました。

 私たちは現代にそんなことがあるのかと愕然(がくぜん)としました。なぜ連絡の一つもくれなかったのかと伯父を責めました。

 伯母には子供がなく、私と弟のことを実の子供のように可愛がってくれていたので、私はいつか恩返しをしたいとも思っていました。そうなる前にたいへんなことになってしまい、自分の力不足と間違った信仰の中に身を置くことの恐ろしさを改めて知らされました。

 とにかく顔を見せてくれと葬儀場の中へ入ると、呑気(のんき)な学会員が、「支部長の○○です。後で幹部が来てお経をあげますから」と言ってきました。私は、「お坊さんは来ないのですか」と聞くと、「友人葬ですから」と言われ、見殺しにしておいて何が友人だと思いましたが、ぐっと堪(こら)えました。  

 中に入り、伯母の顔を見たとき、私たちはまたびっくりしました。何と伯母は目をギョッと開いたまま亡くなっていたのです。明らかにこの世に未練があるというような凄(すさ)まじい臨終の相に、母は泣き崩れ、Sおばさんは、「目を閉じさせてあげて」と叫びました。

 支部長と名乗ったその人は、「これは成仏の相です」と言い張りました。私も初めは波風を立てないようにと思い、自分が法華講員だとは言わなかったのですが、狂った学会員たちの態度に我慢ができなくなり、「あの『ニセ本尊』をはずしてください。どこが成仏の相なんですか。こんなに苦しんでるじゃないですか。」と言い切り、心配して一緒に付いて来てくれたTさんとその場で読経、唱題を始め、泣き崩れる母にも御題目を唱えるようにと促しました。

 ひととおり終え、私たちがそこを出たのと入れ替わりで学会の幹部が入って来てお経を読み始めました。支部長という人に「もう帰ります」と言うと、その人はなぜか何度も私たちに謝っていました。迷いがあるのでしょう。

 考えてみれば、この人たちもこのままでは、同じように、死んだら戒名もなく、狂った幹部にお経をあげられてしまうかわいそうな人たちで、早く救ってあげなければいけない人たちなんだと思いました。

 帰り道、母が「Eちゃんがお母さんをお寺に導いてくれたんだから、本当にがんばるよ」と言ってくれました。西荻窪に戻ると、地区の仲間たちがみんなで待っていてくれ、5時半のお寺の勤行のときにお塔婆を立てて、御住職の回向と共にみんなでお焼香して、伯母の供養をしてくれたことと、私がずっと折伏してきた、もう一人のバンドのスタッフであるTさんが、入信を決意し、その勤行のときに無事御授戒を済ませたことを報告してくれました。

 私たちが葬儀場で読経、唱題していたのもちょうどその頃でした。後日、葬儀場に一緒に行った信心をしていないSおばさんから、「Tがお経をあげ終わったときにはEの目もだいぶ閉じていたから、あれで帰って来てよかったんだよ」と連絡があったと母から聞き、お寺で供養していただく大切さと、仲間の有り難さ、そして御本尊様の凄(すご)さを改めて強く感じました。

 次の日には沼津の実家に戻り、謗法払いをして御本尊様を御安置させていただくことができました。その後、私がいちいち言わなくても朝夕の勤行を勤め、お寺より出ている書物を読み漁(あさ)っている母の姿は非常に頼もしく、父も最近では「絶対に手を合わせない」と言っていたのに、毎日手だけは合わせるようになったと聞き、実家に御本尊様が御安置されているということはなんてすばらしいことなんだと幾度となく感じています。

 母と一緒に御授戒を受けたYくんも御本尊様を御下付戴き、12月31日に無事御安置を済ませ、お正月には仲間みんなで初登山会に参加することもでき、戒壇の大御本尊様に御報告申し上げました。

 4月からは仏乗寺の副青年部長という大役もいただき、最初の大仕事であった4月23日の総本山での全国青年部大会も支部の目標にはあと一歩届かなかったものの、これまでにない結集ができ、最後まで諦(あきら)めないことの大切さを学び、無事故ですばらしい登山会になりました。

 仕事のほうでも、ずっと音楽をやってきたことがきっかけとなり、ある映画監督に認められ、俳優として2本ほど映画に出演し、上映日も決まりました。なにぶん調子に乗りやすい性格なので、あくまでも信心根本に日々の生活のことも受け止めていかなければと思っています。

 また、今年いっぱいで取り壊されるはずだった家賃2万円のアパートが、3千遍の唱題行を始めた次の日に、平成14年までは壊されないことになりました。平成14年までは、今いる場所で死にもの狂いでがんばらなければいけないのだと思います。

 本年は「折伏実行の年」ということですが、まだ結果が出ていません。私の折伏した親友・沼津のM君が1人、東京での後輩のA君が2人、折伏成就しました。私も彼らに負けないよう、手続ぎの師である御住職の御指導を素直に拝し、さらに精進し、少しでも広宣流布のお役に立てるよう、支部の仲間と共に努力していきます。

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