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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『父の身を挺した折伏に、遂に脱会』

威徳寺支部 T. T. 

(H12.10.16)

 本日は、今年3月に亡くなった父の姿を通して脱会した経過を発表させていただきます。

 私は学会二世として育ち、父は支部幹部で教学部教授、母・姉共に地区幹部と、家族全員が第一線の学会員で、貧乏から脱出し家族が健康で幸せに暮らしたいという父の願いのもと、一生懸命に勤行・唱題し学会活動に励んでいました。

 一方で父は、池田中心の体質に疑問を持ち、身近な幹部に相談していました。いつしか反逆児と非難されるようになり、「最高の仏法を持ちながら、どうしてあんな言動ができるのか、何かが間違っている」と悩みました。

 そこで父は、800万遍の目標を立て唱題を始めました。来る日も来る日も真剣に祈りながら活動しても納得がいかないため、丑寅勤行にも挑戦を始めました。そして800万遍達成の日に父は脳梗塞を発病し、自然と学会活動から遠ざかることとなりました。

 私はといえば、圏の少年・中等・高等部の各部長を経験した後、学生部では長野県書記長と信越方面の幹部として活動し、父の疑問に耳を傾けてはいたものの、バリバリの幹部として忙しい毎日でした。

 男子部に入ると、いきなり支部副部長としてのスタートでした。この頃学会は、「宗門の動きがおかしい」などと、御宗門への誹謗が露骨に始まり、池田を美化し始めました。

 そして、平成2年の学会問題が起きました。このとき草創の副会長が、我々青年幹部を前にこう言い放ちました。「だいたい、日蓮正宗なんてものは、池田先生と創価学会が目をかけてやらなければ、それはそれは、ちっぽけな宗教だったんだよ」と。その傲慢な高笑いを目の当たりにして私は、学会活動から離れました。

 それからは、父と顔を合わせればこの話となり、ある日、父は恩師として一日も忘れたことのない威徳寺初代御住職・佐藤慈暢御尊師がおられる大阪の本教寺へ御指導をいただきに行く決意をしました。出発当日まで真剣に唱題しました。

 そして当日、往きの新幹線の中で父は、「こんな莫迦なことを学会は本気で続けていくのか。大御本尊様に申し訳ない。今の学会は絶対に間違っている」と、ろくに動かない体をおして夢中で私と話をしていました。

 到着すると佐藤御尊師はご夫婦でお迎えくださり、お忙しい中、一生懸命に父と私の話を聞いてくださいました。いつしか父も私も、そして御尊師までも、目にいっぱいの涙を浮かべていました。

 そして御尊師は「この御本尊様を正しく信じ行じて、大御本尊様を根本に、猊下様の御指南のもと、足並みを揃えて闘うことが本当の広布の活動です。そのことを忘れてしまった者は、増上慢となり、やがて敵対し退転してしまう。学会は日蓮正宗の下種の三宝に背いていることを全く判っていない。これは大罰の現証が必ず顕れます。一日も早く正宗に帰依しなさい」と、厳しくも心温まる御指導をしてくださいました。

 しかし家に帰った途端、学会の魔の手が来ました。学会の正義を主張し、脱会した人への悪口や、でたらめな話を繰り返し、私たちの決意を徐々にむしばんでいったのです。

 私は一体どちらを信じればよいのか判らなくなり、地元のお寺に足を運ぶこともできませんでした。そして創価学会の破門を聞いたとき、これが最後とばかり、もう一度、大阪の佐藤御尊師を訪ねることになりました。

 このとき父は脳梗塞を再発し、前にも増して動くことが苦しい中での訪問となりました。父は自分の体の限界を思ってか、一言も聞き漏らさないように、御指導を書き取りながら伺いました。

 佐藤御尊師は、正本堂建立における池田創価学会の増上慢、野望等についても事細かに話され、「御法主日顕上人猊下の御指南を無視するばかりでなく敵対している団体など、破門されて当然であり、邪宗の団体です。一日も早く正宗に帰依しなさい」と言われました。

 この日より、学会員の話や「聖教新聞」には目もくれず、一層真剣な唱題に励むようになりましたが、すぐには脱会できませんでした。そして昨年、父は3度目の脳梗塞を患い、他人の支えなしに動けなくなりました。

 検査の結果、末期の胃ガンも判明し、医師より残り数カ月の命と宣告されました。父は常々、御本尊様の前で臨終を迎えたいと話していましたので、自宅で私たちと一緒に勤行・唱題しながら闘病生活を送りました。

 ろくに話せず、意識が遠い時もありましたが、御本尊様を拝するときの目は真剣で、自然と手が重なっていました。そして、もう一度元気になって、佐藤御尊師にお礼を申し上げたいと一生懸命に闘っていました。

 「あと一週間」の宣告を受けた頃、仏壇の奥より偶然、父の手紙が見つかりました。「葬儀は正宗で頼む」と書かれており、私が小学生の頃「もしお父さんが死んだら、お前はどうする」と質問した父に「大丈夫、お父さんの葬儀は、佐藤御住職のもと立派に日蓮正宗で出してあげる」と答えたことが書かれていて、懐かしく、また不思議な感じがしました。

 私は即、佐藤御尊師に電話をしました。「本当に時が来たんだよ。早く脱会しなさい。日蓮正宗で葬儀を出すには、まず勧誡を受けなければだめなんだよ」と言われました。しかし私の、学会につかず脱会もせずという中途半端なことをしてきた狡さが出て、かつて一緒に闘った東京・信濃町の本部幹部や、県幹部の顔が浮かんできては、何か恐ろしさを感じていました。

 佐藤御尊師は、私の曖昧な返事に、「どうしてもだめなら、私がお父さんの葬儀の指揮を執ります」とまで言われて電話を切りました。あっという間に2日間が過ぎた夕方、一本の電話が自宅にかかってきました。

 電話は佐藤御尊師ご夫婦でした。「お父さんをお見舞いに来ました。家の場所を教えてください」と。飛び上がるくらいびっくりしたのと同時に大反省しました。

 御尊師は唱題の後、父の手をしっかりと握りしめてくださいました。姉が大きな声で「お父さん、大阪の佐藤先生がお見舞いに来てくださったよ」と言うと、意識のほとんどなくなっていた父の顔が一変し、「先生」と呼んでいるではありませんか。

 「よくがんばったね、大聖人様はすべてお判りくださっている。心配しなくてもいい。大白牛車にいつ乗るかは、Tさんが決めればいいんだからな」と、涙を滝のように流しながら話しかけてくださる御尊師の手を一生懸命に握りしめ、「ありがとうございます」と必死に返事をしていた父の姿は、奇跡としか考えられない状態でした。

 父はいつまでも手を離そうとはしませんでした。御尊師と共に、全員で唱題しているとき、日蓮正宗は絶対に正しい宗教だと確信しました。

 尊敬申し上げる佐藤御尊師にお見舞いいただいたことは、父の生涯で最高の日となったのと同時にT家の最後の魔を打ち破ってくださるためだったと、感謝しています。

 翌日から私は出張が入り、威徳寺に行けずにいましたが、3月12日の夜、「明日は何がなんでも絶対お寺へ行く」と決意しました。明けて13日、朝の勤行を始めると、まるで父と一緒に勤行をしているような感覚でした。勤行が終わると、父は少し苦しそうになったので医者に電話しました。

 「来る時が来た」と思い父の手に数珠をかけ、家族全員で御題目を唱える中7時15分に息を引き取りました。本当に最後の一息で笑顔になり、薄目を開けて体は温かく、我が家の御本尊様と家族に見守られながらの臨終でした。

 早速、威徳寺へ出向きました。約10年ぶりでした。このとき、初めて御住職・原光江御尊師とお会いしました。御住職は「佐藤御尊師からすべてお聞きしています。あとはあなたがしっかりとお父さんの意志を受け継ぎ、法華講員として闘っていかなければ」と御指導くださり、「学会員たちはしつこく自宅に来るでしょう。しかし毅然とした態度で正宗で葬儀を出すと言い切ればさっさと帰っていきます。勇気を出して、立派な正宗の葬儀を出しましょう」と力強く激励くださいました。

 また、我が家の家族構成を尋ねられ、「未入信の奥さんを折伏し、残りの家族も勧誡を受け、一家全員で法華講員としてがんばっていきましょう」とも御指導くださいました。私も、父の葬儀を第一歩として日蓮正宗法華講員としてがんばる決意ができました。

 その日の夜、御住職の御導師で通夜が行われました。父が本当に喜んでいるのが判るすばらしい相でした。そして御住職をお見送りした直後、なんと大阪より佐藤御尊師ご夫婦が急な報せを聞き、駆け付けてくださったのです。

 「よくがんばったね。息子さんも正宗で葬儀を出してくれる。安心してください」と亡き父に話しかけてくださいました。このとき、佐藤御尊師の今までの行動が、私たちに対する折伏であったことに気づき、涙が溢れてきました。

 一息ついたところへ、今まで一度も顔を見せたことのなかった地元の学会員が同志のような顔をして数人押しかけてきました。第一声は「明日は友人葬ですか」でした。私は「とんでもない。日蓮正宗で出します」ときっぱり言い放つと、お線香だけでもあげさせてほしいとしつこいので中に通しました。

 学会員たちは、一同びっくりした顔をしました。それもそのはず、部屋の中央には袈裟衣を着けた佐藤御尊師が堂々と座っていらしたからです。御尊師が「正しく信じていた人の成仏の相をごらんなさい。あなた方では、一人もこの相で死んでいく人はいませんよ」と破折されると、悔しそうに父の顔をのぞきこんで「学会活動を一生懸命したから、こんないい顔なんだ」などという口を利きました。私は許せなくなり、「いいえ、正宗の信仰を貫いたからです。お帰りください」と追い出しました。一同嫌な顔をして立ち去りました。

 佐藤御尊師は、翌日の葬儀にも御出席くださいました。深く感謝すると共に、御法務御繁多の中、この2日間だけ日程があいていたことは、亡き父の福運と感じざるを得ませんでした。

 葬儀当日、原御住職、佐藤御尊師の読経・唱題・御焼香を賜りました。親戚一同・友人・会社の同僚の前でのお二人のお振る舞いに、今まで私たちを学会員と莫迦にしていた親戚・友人・同僚が口を揃えて、「すばらしい御住職様方ですね。日蓮正宗はこんなにすばらしかったんですか」と言いました。

 御僧侶のお振る舞いは、自然と参列者に対する折伏となっていました。一番この信心を嫌っていた伯母も、「この信心をしていてよかったね」と言ってくれました。父が生前、「葬式は、故人の最後の折伏の場になる。だから一生懸命に信心をして、亡くなったときの相はとても大切なんだよ」と話していた通りになりました。妻はこうした一連の光景に深く感動し、目を輝かせていました。

 葬儀も無事終わり、一週間後、母と妹は勧誡式を、妻も無事に御授戒を受けさせていただきました。私は、4月28日の全国青年部大会に参加することができ、約10年ぶりに、本門戒壇の大御本尊様の御内拝を戴くことができました。  

 振り返ってみますと、父は身をもって家族に対し、正宗へ帰依するように示してくれました。佐藤御尊師も慈悲のお心をもって折伏してくださり、最後は御住職・原御尊師によって正しい道へ導いていただきました。これもひとえに、日蓮大聖人様の尊い教えと正しさの証明であります。

 私は本日を契機に、威徳寺支部の皆さんと団結し、社会においても、さすが法華講員は違うと言われるように努力し、御法主日顕上人猊下のもと、宗旨建立750年・30万総登山をめざし勇躍精進してまいる決意をいたします。

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