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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『母との約束守り正しい信心を貫く』

深遠寺支部 M. T. 

(H13.7.16)

 私は長崎で生まれ、蝶よ花よと育てられ、お手伝いさんがいて自分で洋服も着たことがないような毎日でした。私が少し身体が弱いため、母は信仰にのめり込んで滝や断食の荒行をこなし、ついに祈祷師になってしまいました。

 父は大反対でしたが、母は「他人を救っているのだから」と言って聞かなかったそうです。その頃から戦争が激しくなり、小学校へ入学しても勉強もできず、毎日が空襲で恐ろしい日々でした。

 昭和20年8月9日、あの恐ろしい原爆が落とされ、長崎の町が火の海となり、地獄そのものを目の当たりにしました。身体全体が真っ黒にただれ落ち、稲佐川は死人の山でした。また、倒れた家の下敷きになり助けを求めながら炎の海に飲み込まれ、たくさんの人が亡くなっていきました。

 当時、私は9歳で、たまたま母と市外へ行っていたため命だけは助かりました。しかし、父と姉は、木炭のように変わり果てた姿になっていました、それを見た母は気が動転してしまい、何とか母方の親戚の手で、父と姉の遺骨を拾うことができたのでした。

 父の遺言により、母は遺骨を背負って私の手を引いて父の実家である伊万里市大川町へと引き上げました。その後、母と私は原爆の放射能を浴びていたため吐血や血便が始まりました。

 周りに病院はなく、相知町にあると聞き、母が何とか私だけでも助けたいと、近所の人々に頼み、戸板に布団を敷き担いでもらい、峠道を何時間もかけ、何度も吐血しながら運んでもらったそうです。

 母は、冷たく首を振る病院の先生に「家の跡取りの一人娘です。どうか助けてください。お金ならいくらかかってもかまいません」とお願いしました。それから7年間の入院生活でした。

 当時、ペニシリン注射は高かったのですが、毎日打ってくれました。母自身も悪いのに、自分は一本も打たず、私だけに打ってくれたのです。

 長い間の闘病生活で病院代が払えなくなり、父の実家へ帰ったときには「子供たちに病気が移る」と、冷たく追い出されました。それからは毎日、母と死に場所を求めて歩き回りましたが、どこへ行っても助けられて死ぬことができませんでした。

 母は「生きるより他に道はない。死んだつもりでがんばってみよう」と言いました。食べる米もなく、落ち穂を拾って食べていました。

 近所の人が、見かねて杉の皮を持ちより六畳一間の家を造ってくださいました。母が土を練って、自分で仕上げた隙間からお月様、お星様が見えました。でも、自分の家がある喜びでいっぱいでした。

 雨の強い日は、雨漏りで起こされ夜を明かすこともたびたびでした。その頃父の親戚は、一人も寄りつかず「親戚より近くの他人」と、母がよく言ったものです。その後、母は豚を飼って生計を立てていました。

 そんな、昭和32年ごろ、突然創価学会の福岡八女支部の方が折伏に見えました。母は、「この世は神も仏もない。他人様に悪いことをしたこともないのに、こんなに不幸になり、身内の惨い死に方に遭い、何も信じることはできない」と言って猛反発しました。

 しかし、邪宗の害毒によって不幸になったことを諭され、「凄い御本尊様です。信心していくならば、願って叶わないことはない。絶対幸福になる。もしあなた方が幸福にならなかったときは、八女の駅前にある、私の家と店をあなた方へあげます。ここで一筆書きます。絶対です」との折伏でした私たちは幸福になりたいとの一心で、入信を決意し、昭和32年8月12日、我が家へ御本尊様をお迎えすることができました。

 それからは毎日、唱題に、折伏にと闘わせていただきました。そのうちに私は熱が出なくなり、少しずつ元気になり、仕事もできるようになりました。

 早く母を楽にさせなくてはと、毎日毎日、朝は暗いうちから夜は星の出るまで働き、御本尊様の功徳を戴き、7年目にして大川野駅の付近に家を建てることができました。母は、御本尊様から戴いた家だからと言って、活動の拠点として、学会に提供していました。

 振り返ってみると、山あり谷ありの65年でした。ここまで乗り越えさせてくださった御本尊様に、感謝の気持ちでいっぱいです。

 母がガンに冒されたときは、3回の手術と、折伏と御題目で乗り切りました。母の88歳のお祝いのときには、私たちを見守り、応援してくださった方々をお迎えしました。お祝いに来てくれた親威や知人たちは、口々に、母のような生涯を送りたいと言っていました。

 そして平成元年6月20日、母は、「88歳の長生きをさせていただき幸福だったよ」と言って御本尊様へ御礼を申し上げ、眠るように安らかに旅立ちました。

 平成4年、私の主人が亡くなったときのことです。学会葬で葬儀を行うようにと要求されました。しかし、私は、深遠寺の御住職にお願いして、日蓮正宗で葬儀を行っていただきました。想像した通り、葬儀に学会員は一人も来ませんでした。

 それまで私は、自宅を拠点として続けることを、母と約束していましたし、まさかこういう問題が起こるなど思いもよらなかったため、「そのうち必ずお寺と学会は和合する」と思っていました。

 しかしその後、約2カ月くらい真剣に御題目を唱えていたある夜、昭和52年の頃、創価学会が独自の経本を作製・配布し、また宗門末寺の悪口を言っていた、いわゆる昭和52年路線の問題のときに、母が、「必ずお寺についていかなければだめね」と言っていたのを思い出しました。

 私は、「今こそ、自分が正しい道を選ばなければ。母がこれまで貫いた信心を守り続けなければいけない」と思いました。

 子供たちにも相談しました。子供たちも、「それが本当だ」と言ってくれましたので、自信と勇気が涌き、平成4年12月、晴れて法華講に入講させていただきました。そして、「何があっても折伏と御供養はしていくように」との母の遺志を継ぎ、折伏をしてきました。

 その都度、100万遍の御題目を唱えきり、法華講の同志の方々のご協力をいただき、長崎・日田の親戚を2人、唐津・伊万里の友人2人を折伏させていただきました。

 また、昨年、念願だった娘婿の折伏が、13年目にして叶いました。御本尊様に心からの御礼申し上げます。御供養も母と共に「精一杯していかなければ」と励み、その都度大きな功徳を戴いてきました。

 このたびの、奉安堂建設御供養にも、何とか「真心の御供養をさせてください」と唱題を続けていました。すると、思いがけず、願い通りの御供養ができるという大功徳を、体験させていただくことができました。

 これからも、勇気と真心で折伏をやりきり、御本尊様のすばらしさを一人でも多くの人々へ伝え、「奉安堂建立」「宗旨建立750年・法華講30万総登山達成」を御祈念する御題目を唱えきり、今年、折伏3世帯を目標に、自分自身、そして両親のためにも、不退転の信心を貫くことをお誓いして、体験発表を終わります。 

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