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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『信心の目的は即身成仏と覚醒して学会に決別』

妙縁寺支部 M. M. 

(H15.3.16)

 昨年は、宗旨建立750年慶祝記念の法華講30万総登山大法要、続いての奉安堂落慶記念の大法要に、大歓喜をもって参加させていただき、その感激で胸がいっぱいでございました。本年1月3日には、再び奉安堂に参詣し、新年の決意も新たにさらなる信行の精進を大御本尊様にお誓い申し上げました。

 思い起こせば、昭和19年に日蓮正宗に入信しましてよりの58年間、私は、創価学会の歴史とともに、信心生活を過ごしてまいりました。戸田城聖先生の指導のもとに、宗旨建立700年の記念行事には、女子部として参加しました。当時、学会は、僧俗一致し、総本山を外護する立場を保ちながら、折伏行に邁進しました。

 東京においては、蒲田・小岩・杉並の3拠点において、毎月1度、戸田先生が『立正安国論』の講義をしてくださり、蒲田は私の実家が拠点でした。

 時は昭和22年の8月、私の姉が同伴してきたのは同窓生であった池田大作その人でありました。小説『人間革命』には、そのときの美化された戸田先生との出会いが描かれていますが、それは全く事実とは違います。そのとき19歳であった彼は、折伏をされて10日後に入信しました。

 その後、昭和24年の1月、池田が21歳のとき、蒲田工業会に勤務していた彼を、私の母が、日本正学館を経営されていた戸田先生に、「よい青年がいる」と、初めて紹介し、就職を依頼しました。池田の学会での仕事の出発点がここであり、私は、このときのことを今でも鮮明に覚えています。

 戸田先生から殊の外、目をかけられていた母に連れられて、私も戸田先生の白金のご自宅に何回か訪問しました。先生の奥様とお話し合いの機会を持てたことを、今でも懐かしく思い起こします。母は、蒲田の婦人部の草分けとして活躍し、昭和41年に亡くなりました。

 父は、大田区の区議会議員を3期務め、学会では大田の支部長を経て、静岡の本部長を務めて学会に貢献しました。昭和44年に他界しましたが、晩年、よく「最近の学会の流れは、どうも変な路線を歩んでいるようだ」と語っていたそうです。

 M家の長男のTは、学会からの強い要請で、創価学会本部に就職しました。しかも、池田に忠誠を誓っています。Tが学会の幹部である以上、父は本音を話すことができず、さぞや胸を痛めていたものと、今になって私は改めて痛感した次第です。

 父と母は、当常泉寺の墓地にて、静かに見ているものと思います。恩義のあるはずの母の葬儀にも、父の葬儀にも、池田が顔を見せることはありませんでした。

 戸田先生の奥様・幾様の御葬儀にも、池田自身が姿を見せることはありませんでした。奥様の御葬儀は、「学会葬は絶対にしないで欲しい」との強い御遺言の通り、常在寺御住職・細井珪道御尊師はじめ、多数の御僧侶様方により日蓮正宗にて、厳粛に執り行われました。それは奥様の、無言でも強い、学会への抵抗と諌(いまし)めであったと、私は思います。

 昭和40年代からの「池田本仏論」の台頭、またいわゆる「昭和52年路線」、さらに御本尊模刻問題等がありました。加えて、平成2年に創価学会が問題を起こして以来、学会員は総本山に登山しないように強要され、各寺院にも参詣できず、人が亡くなった場合は「友人葬」という、不可解で納得のいかぬことの連続が始まりました。

 それ以来の10余年間は、波瀾万丈ということを身をもって体験することとなりました。何をやっても悪い状況となり、信じられないくらいでした。私の名義のガレージ付き一戸建ての家までも処分することを余儀なくされました。

 平成11年には、私が長年勤務していた職場が、倒産しました。その上、息子は、10年も勤務していた会社からの解雇に見舞われるなど、次々と悪いことばかりが続き、はたと悩んでしまうことが、しばしば起こりました。

 平成13年10月17日、私の弟の嫁であるSさんに話がしたくて会いました。約3時間、いろいろと話し合いました。

 話のなかで、初めてSさんが法華講員であることを知り、その上、ご主人には内密でお子さんたちにも勧誡を受けさせ、総本山にも参詣させていると聞き、そのSさんの純粋なひたむきさに心をうたれました。ご主人が学会の幹部であるなかを、法華講員として信心を貫き通されている姿に、私は体中に電流が流れていくようなショックを感じました。

 私は、学会員として何をしてきたのでしょう。信心の究極の目的は成仏にあるということに思い至り、深く決意することができました。ただちに妙縁寺の光久御住職様のもとにお伺いし、様々な有り難い御指導を賜ることができました。

 そして1週間後の10月24日、学会と決別し、息子とともに勧誡を受け、法華講員となることができたのです。

 翌月の11月、10年ぶりで総本山大石寺に参詣できました。久しぶりに本門戒壇の大御本尊様にお目にかかれた感激で、涙がとめどもなく流れ、何も見えないほどでした。

 さらにその翌月の12月、Kさんを折伏しました。彼女は友人でも隣人でもなかった、街中で出会った一婦人でした。奥様風情の優雅な彼女に、「お茶でも飲みませんか」と喫茶店に誘いました。私は登山した歓喜のうちにあり、何かをこの婦人から感じたので、ともかく折伏したいとの一念心が涌いてきたのです。  

 そして、彼女はこの信心の話を素直に聞き、決心して御授戒を受け、御本尊様を御下付いただくことができたのです。その上、30万総登山の大法要にも、私の息子とともに総本山に参詣することができました。

 私と息子は、法華講員になってから真剣に唱題に励みました。仕事の面では、息子は、この就職難が続くなか、現在では通信関係の仕事に携われるようになり、懸命に取り組んでいます。

 私も、現在70歳を過ぎた「高齢者」ですが、幸いにも私を必要としてくれる職場が見つかり、明るく元気に健康で、現役で働いています。

 私は今、法華講員として強盛なる祈りが大切なことを実感しながら日夜、信行に励んでいます。御本尊様の力が顕れるかどうかは、私たちの信心の厚薄によるのであって、力強く御祈念するとき、いかなる祈りも必ず叶うものと確信します。

 今や独裁主義者により、巨大なマンモス組織と肥大化した創価学会は、ついに会の規約を改竄(かいざん)し、血脈相承を全く否定し、日蓮正宗の教義からは完全に逸脱しています。

 表面は華やかに世界に飛躍しているがごとく錯覚を起こさせ、会員にはアピールしていますが、その内実は洗脳された学会員が、誤った指導者に盲従しているだけです。

 一般の学会員は、目覚めない限り、荘厳なる奉安堂には永遠に参詣することができません。私たち法華講員は、奉安堂で御開扉をお受けすることができるのであり、本当に幸せものだと、心底からこみ上げてくるものがございます。

 この原稿を妙縁寺支部総会にて体験発表しました翌々日、学会の大幹部が私のもとに訪れ、学会に戻るよう勧めました。私は、誰人の悪口を申したわけでもなく、生きてきた、ありのままのことをお話しただけですから、何ものも恐れることはありません。

 たとえ、地位、名誉、役職、恩恵、それらを奪おうとしても、失うものは何一つありません。恐れることは何もないのです。ただ一つ恐ろしいことは、大御本尊様から見捨てられてしまうことが一番恐ろしいことですと、その大幹部に申しました。

 また、今日より4日前、2月19日には、私の友人、キャリアウーマンのNさんを折伏しました。妙縁寺の皆様の見守るなか、Nさんは、御授戒をお受けし、御本尊様を御下付いただくことができました。

 御法主日顕上人猊下より新たに賜った御命題である「『立正安国論』正義顕揚750年の佳節までに、地涌の友の倍増乃至それ以上の輩出と大結集」を遂げることができるよう、この意義ある6年間を、御住職・光久日康御尊能化の御指導を仰ぎながら、田中講頭を中心に団結し、ますます信・行・学に精進してまいります。

 今後ともささやかながら、信行に励むことをお誓い申し上げ、つたない体験発表とさせてい ただきます。

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