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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『御本尊様のもとに夫婦で歩いた59年』

長妙寺支部 K. Y. 

(H15.6.16)

 本日は、私が入信してからの60有余年の信心の軌跡を申し上げさせていただきます。

 昭和10年頃、両親が、八幡の法霑寺信徒であったF先生に折伏されて入信いたしました。この方は学者でもあり、有名な絵描きでもあり、「絵のために家を5、6軒売ってしまった」と話されていました。

 F先生はその頃、奥さんと子供さんを亡くされ、それが因となって発心して「自分は、この仏法のために生涯身を捧げて一生を終えるのだ」と決意して、故郷の福山に帰ってこられました。そして不思議な縁で福山の一粒種として信心をすることができました。

 しかし、この頃は広島県には日蓮正宗の寺院がありませんでしたので、御授戒はなかなか受けられませんでした。私の家は小さなアバラ家でしたが、「日蓮正宗法華講座談会場」と書いた大きな提灯をぶら提げて、月2回の折伏座談会をしていました。

 「福山布教所」という名前も戴いて両親はたった2人から始めて、折伏をし、私も十代でしたが、友達をたくさん誘って、F先生の話を聞かせようとがんばりました。

 終戦前、20世帯以上の折伏もできて、御会式も奉修させていただき、歌や舞、琴など、賑やかにお祝い申し上げました。その頃、総本山第60世日開上人が「折伏をがんばったから、御褒美に生前戒名をあげましょう」と仰せくださり、両親は戴くことができました。

 昭和19年春頃までは座談会も続きましたが、戦時中のこととて強制疎開で家を壊され、座談会もやむなく中断して「福山布教所」は終わりました。

 私も24歳になり、結婚の話がありました。条件として「この信心をするならば結婚してあげましょう」と言って、何もない私ですが「諸経中王最位第一の宝物を持参金として持っていくのだから、私に随いなさい」という、高飛車な心でおりました。

 映画館の絵看板を書いていた主人にそのことを伝えましたら、「信心する」と言ってきたので、一度も顔を見ていないのに結婚を決めました。

 もう一つの条件は、「新婚旅行は富士大石寺で、それも2人だけでなく、私の両親と妹と計5人で登山すること」。これも承諾してくれました。昭和19年3月28が、私たちの初登山でした。

 その時は総本山で御授戒を受けて、御開扉は御宝蔵で、10人くらいでした。丑寅勤行に行く夜中、塔中は今のような電灯はなく、真っ暗闇を、ようやく歩いて参加いたしました。

 それから私たちの信心の人生行路が始まって、今日で59年、「現世安隠・後生善処」の御金言を信じて寝食を共に苦楽を分かち合ってまいりましたが、決して平坦な道程ではありませんでした。

 昭和20年に主人に召集令状が来て、主人は岩国に行きましたので、私は福山に帰りました。広島の原爆投下の2日後の8月8日、福山も大空襲に遭い、福山の街は一夜にして灰燼(かいじん)に帰しましたが、御本尊様に守られて無事であったことを喜び合いました。

 昭和26年8月6日、F先生が亡くなられました。その直前に四国より奥法道御尊師が来福されていて、「福山の信徒を頼みます」とF先生が遺言されていましたので、奥御尊師は小さな一室を借りて、私たちはそこへ集まって信心を続けさせていただきました。

 昭和29年の御会式が行われた席へ学会員が来て、学会に入ってくれと勧められて、私たちは入会いたしました。その頃は戸田城聖氏が会長の時代でしたので、信心の指導も正しくされていました。

 しかし、平成2年の大作の総講頭資格喪失以来始まった学会の正法誹謗、御法主上人猊下への悪口雑言の大謗法に、愛想をつかしていました。

 私の家は昭和26年4月3日、第64世日昇上人から、父が常住御本尊を戴いておりました。広島県府中市長妙寺の御住職・佐藤記道御尊師が再折伏に来られましたので、お話を聞いて、「すぐに学会をやめて法華講に入ります」と申しました。

 平成3年5月に入講用紙に記入して長妙寺につき、同年9月に支部結成以来、長妙寺支部所属となって、今日まで御住職や支部の皆様に親切にしていただくので、楽しくがんばっております。

 学会時代、主人は昭和38年より福山市議会議員として公明党より推薦を受け、5期21年務めてまいりました。そのために法華講に入ってからは、学会員が押しかけてきて「恩知らず」「お前が死んだら地獄の相を見てやる」などの大悪口を受けております。

 また、3人の娘までが未だに大謗法の大作を見破ることができず、「もう親とは思わない」と言っておりますが、一刻でも早く救い出したい一心で、宗門の機関紙などを利用しながら折伏し努力をしております。

 大謗法に随っている毒気深入の子供たちを救わんがためにも、奉安堂建立に際し、思い切って満足できる御供養ができたことを今は喜んでおります。

 大聖人様に護られて生涯を送れるということ以上の幸せはありません。私たち夫婦は、愚人どもに嫌われても、猊下様の御指南のもとで信心してきた故に、現在は「我此土安穏 天人常充満」の境界をひしひしと身に感じて暮らせるようになりました。

 そんな本年2月14日、主人が亡くなりました。私が側で手を握り、耳元で題目を唱えるのに合わせて、主人も酸素マスクをつけながら題目を唱え、臨終を迎えました。もちろん生前のときより色も白く、よい顔になっていました。生老病死・愛別離苦の苦しみはよく習って知っていたつもりでしたが、悲しみを押さえることができませんでした。

 春が来れば爛漫(らんまん)の桜を愛でることもできましょう、鶯の鳴き声に心を踊らせる日もあるでしょうが、亡くなった者の姿をそこに留めることはできません。59年間の二人三脚の道のりは終わりました。

  「皆、夢の中の幻だったのでしょうか」、そんな思いが胸を駆け巡る2月15日、釈迦涅槃の日が御通夜に当たり、明けて2月16日の御本仏日蓮大聖人様が世界の民衆を救うために御誕生になった一年でも一番おめでたい日に、日顕上人猊下より戴いた「眞如院法寛日慈居士」という生前戒名をもって葬儀は行われました。

 お通夜の席で佐藤御住職は、戒名についての有り難いお話をしてくださいました。それをお聞きして思い出したことがございます。それは大聖人様が『総勘文抄』に、 「須臾の間に九界生死の夢の中に還り来たって」(御書1425ページ) と、成仏すればアッという間にこの裟婆世界に生まれると仰せです。

 成仏も叶い「九識心王眞如の都」で大聖人様に御目通りもできて、今ではもう正法を持って生き続けているのではないかと、私には思えてなりません。

 満中陰(49日忌)を迎えるまでに折伏もできました。本年はこれまでに4世帯の折伏ができました。支部では12世帯できているそうです。よかったこと、嬉しかったこと、みな主人に報告しております。きっと成仏できて、私とともに喜んでくれていることでしょう。主人は一切の行事を終えて旅発って行きました。

 私は本年83歳です。たった一人になりましたが、これからは大聖人様にもっともっと御報恩申し上げて、元気で「広布大願の年」を折伏に折伏をしきって、次の平成21年めざして力一杯がんばってまいります。

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