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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『最前線で戦える果報に』

本行寺支部 Y. I. 

(H11.5.1)

 私の入信は、昭和44年です。今年で30年になります。当時、東北の宮城から上京して、アルバイトをしながら短大に通っていました。そしてアルバイト先で法華講本行寺支部の講員だった友人に折伏され、22歳のとき入信いたしました。

 その後、退転状態になって御本尊様をお返ししたいと悩んでいたときに、大家さんより「古くなったアパートを建て直すので、余所へ移って欲しい」という話がありました。私は御本尊様をお返しする方法が判らなかったため、軽率にも御本尊様を鴨居の中に入れたままで引っ越しをしました。

 そして結婚しましたが、その後の人生は生き地獄でした。主人は、かつて学会の青年部で活動していたこともあったそうですが、訳あって知り合う前に御本尊様をお返ししていたことが判りました。

 二人とも御本尊様を捨てたという因縁に驚きました。結婚と同時に銀行を辞めた主人は、巡り合わせが悪く、勤めても給料が支払ってもらえなかったり、何をやってもうまく行かず職を転々としました。

 それと同時に、住まいも転々としました。そのような状況のなかで長女を出産しました。主人は、いつしかサラ金に手を出しておりました。借金に追われ、食べる物もなくミルクも買えず、親子心中をはかるところまで追い詰められていました。気が付くと、線路を歩いておりました。子供の泣き声で我れに帰り、思い止まることができました。

 ふとこの時、私に御本尊様を持たせてくれた人が、結婚してこの町に住んでいることを思い出し、不思議にも、偶然に再会できました。その方も、私を折伏してすぐに退転して、御本尊様をお巻きしておりました。私のこれまでの経緯を話すと大変に驚きました。

 その方と二人、7年ぶりに御本尊様を置き去りにしたアパートを訪ねました。不思議なことに、アパートは取り壊されずに残っており、御本尊様が無事に戻って来ました。これを機会に、主人と長女が本行寺で御授戒を受けました。しかし地方に転勤となり、またお寺から遠くなりました。

 転勤先での主人は名聞名利に流され、蔵の財を求めた不知恩の生活を送っておりました。やっと本社に戻ったときには、あと半年の命と宣告されて肝硬変で入院しました。

 私は、4歳の長女を頭に2歳、1歳と娘3人をかかえ、昼も夜も働いて借金の返済、育児、看病と寝る間もなく、精神的にも肉体的にもボロボロになっておりました。

 4歳の長女の苦労も大変なもので、私が仕事をしている間は妹たちの面倒を見てくれ、特に1歳の妹のオムツの取り替えは、大変なことだったと思います。  

 主人は3年間の闘病生活を送り、感謝しながら、題目を唱えつつ亡くなりました。親兄弟の反対もありましたが、無事、日蓮正宗で葬儀を出すことができました。大聖人七百御遠忌の年で、私は33歳でした。

 葬儀のあと、子供のいない兄夫婦のたっての願いで、三女を手離すことになりました。残された2人の子供と共に、入信10年目にして初めて、戒壇の大御本尊様に御目通りすることができました。涙が止まりませんでした。

 下山してすぐに保土ヶ谷に3DKの団地が当たり、安心できる環境に変わってきました。初めて御報恩御講に参詣した折、柳沢総講頭が当時、講頭をしておられ、お会いすることができました。そのとき、「遠回りをしたね。子供も同じ宿業になるよ。がんばりなさい」と激励していただき、このときに発心できました。

 当時、本行寺は柳沢講頭と加藤セツ婦人部長のもとに強力な婦人部体制が敷かれ、活発な折伏活動と育成が展開されており、私はそのなかで厳しく躾けられました。

 同じ団地の中で法華講の同志をいただきたいと願っておりましたら、自治会の会長をやることになり、知り合いになったYさん御一家、Nさん親子、Hさん、Iさんと次々に折伏ができ、眷属が増えました。また方面別に婦人部長がおり、W板橋方面婦人部長に、折伏、育成に連れて行っていただき、仏道修行の実践を教えていただきました。

 発心して5年、もとより器でありませんが班長、婦人部担当に任ぜられ、その後地区長代理、向島地区長と、支部の最前線で闘える果報になっておりました。

 班長時代、開創七百年の佳節に向けて、班の折伏誓願目標完遂と育成を祈って5時間の唱題のあと、自宅のある横浜から班員さんのいる墨田区まで定期券を買って、片道1時間半かけて通いました。そのかいあって班員の2家族が立ち上がり、小さい子供を負ぶって自転車で朝詣りを始めました。集まっては2時間、3時間と唱題したあと、折伏に動くようになり、折伏がどんどん成就しました。折伏された人がまた折伏するというようになり、今日の地区に発展しました。地区長になり早や7年です。

 支部の活動のなか、御本尊様からたくさんの功徳をいただきました。子供の腎臓病の回復、10時間におよぶ心臓の手術、家出をした娘のこと、自分自身の病気、再婚の際の問題など、様々な罪障と宿業を、その都度、7時間、10時間の唱題行で解決していただきました。

 今の私がある陰には、平成元年に再婚した主人の大きな存在があります。子供たちが父親を欲しがるようになり、お願いして試験的に同居するところから始まりました。

 同居の際、主人は小学生の子供たちに、3つの約束をさせられておりました。それは、給料はちゃんとお母さんに渡すこと。お酒はあまり飲まないこと。お母さんを大切にすること。この3つでした。私からの条件は信心をしていくことでした。

 今は、手離した娘も戻り、3人の娘は女子部員として活動しており、主人は娘たちを車に乗せてお寺まで来ます。また、地区の育成、折伏に、遠方であろうと、どこへでも行ってくれます。今、一家で信心第一の、知恩報恩の折伏の御奉公をさせていただく境涯になりました。

 住居も、横浜に一軒家を購入でき、青年部活動の会場としても使っていただいております。

 平成2年に学会問題が起こってから、支部の活動の1つに、学会に対する活動があります。それは、青年部中心のローラー作戦といいます。これは、お寺にある名簿をお借りして、学会員宅に資料配布後、各家庭を訪問します。各地区から壮年、婦人も参加し、合同して行うこともあります。

 有力な所へは個別に再訪問をします。私は地元の横浜で、子供たちと手分けし、聖教新聞や公明党のポスターが貼ってある家を地図に印すなどして、後日資料を配布し、訪問しました。またお寺に来たときは、墨田区、江東区などで同様にしました。

 そのような動きの中、一昨年、私は5世帯の折伏を成就させていただきました。また、本山任務をさせていただいている娘が、1世帯の折伏を成就しました。昨年は主人が1世帯、長女が1世帯、私が2世帯と、家族で4世帯の折伏を成就させていただきました。

 「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる」(御書 986ページ)の御金言のとおり、学会員から妨害、中傷誹謗、悪質な脱講運動、嫌がらせを受けました。

 家を見張られたり、玄関に葬儀用の花が置いてあったり、多勢に取り囲まれたり、入れ替わり立ち替わりの訪問等があります。後をつけられたときには家族の身の危険を感じ、命がけであると思いました。そこで子供たちを呼び、私たちはこのことに値わんがために生まれてきたこと、しっかりした信心をして欲しいことを話しました。

 「出陣の年」の本年は、支部折伏誓願目標250世帯です。うち婦人部は150世帯を5月までに達成すべく、昨年より準備して敷かれた91班の班体制で、5月までに各班3世帯の折伏をもって成就していくようにとの指示が、講頭より出されました。

 私は下種先が全部だめになり、年初の時点で有力な縁がありませんでしたが、3時間の唱題行の功徳で御本尊様の不思議なお計らいにより、2月21日に1世帯の折伏を成就させていただきました。

 2月16日、大聖人様の御誕生会の日のことです。お樒を持って、お寺の前の立て札を見て、帰ろうとしている御婦人にお会いしました。面識がありませんでしたが、話しかけてみました。すると学会の方でしたので、お寺に在勤の御僧侶に話をしていただきました。

 その方が21日に入講されたKさんです。Kさんは、学会のなかで5年間、苦しみ、悩んでいたこと、そして今日私に会えたことが功徳だと、喜んで帰られました。5日後に、娘さんとともに、無事、勧誡式を受けることができました。  

 御法主上人猊下は「眦(まなじり)を決して」と御指南されております。法華講30万総登山達成に向けて、高野日海御尊能化のもと、家族、眷属、班、地区が、一人が一人の折伏達成の実現に向けて、信力・行力・仏力・法力の4力を根本に、みんなで「一丈の堀」をこえるべく、精進していく決意でおります。

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