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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

『御本尊一途で克服した茨の道』

R. Y. (台湾) 

(H10.9.16)

 私は1963年、17歳の時、母について入信しました。

 今の台湾は、主権在民に基づく自由の保障をされた素晴らしい国です。しかし当時は、日蓮正宗の信仰は、政府の弾圧の対象となっていました。この理由としては、創価学会が純粋な宗教活動を離れて政治活動を行い、それも文革当時の中国の共産主義政権を擁護するなどしていたことが挙げられます。

 したがって、私たちは、政府の目を逃れて信仰活動を行わねばなりませんでした。常に警察の厳しい検査のもと、母と隠れて信心していました。もしも御本尊様が見つかれば、直ちに没収されてしまいます。さらに戒厳令が敷かれていて、集まることもできません。お互いに励まし合うことさえ隠れて行わねばならなかったのです。

 すなわち、当時、日蓮正宗の信仰に入ることは、茨の道に入ることでもありました。しかし、私たちに躊躇の心はありませんでした。台湾の日蓮正宗信徒が、戒壇の大御本尊を渇仰恋慕する心は、当時も今も変わりません。誰にも止めることはできないのです。

 そのような中、母は偶然手に入れた日本の信心の出版物を、日本語で話してくれていました。私は、それによって日蓮正宗の信心を少し知ることができ、自分なりに信心に励んでいきました。そして気付けば、いつの間にか以前から患っていた鼻の病気が治っておりました。このことにより、信心の凄さを深く確信するようになりました。

 1965年に、私は一人で大石寺に登山をし、その時に御授戒を受けさせていただきました。そして、帰国してすぐ結婚をしました。結婚後は、家に仏具を準備して、御本尊様のない空の仏壇に向かい、朝夕の勤行に努めました。

 ある日、先輩の奥さんが、私の内得信仰の様子を見て、「御本尊を受けてはどうか」と言われました。私も御本尊下付を望んでおりましたので、その方に手続きをお願いし、御本尊をお受けいたしました。やっと自分の家に御本尊様を御安置することができました。

 それからは、不思議と主人の熱心な働きも実を結びはじめ、たまには家計の困難もありましたが、すべて御本尊様のお陰で困難を乗り越えることができました。そして、私も強い信心、不退転の信心へと鍛えられました。

 1990年、私たちは都合で台北県の三峡という所に引っ越すことになりました。ここで再び経済的な困難に遭い、大変自信を失い絶望を感じかけました。

 しかし、「これも宿命転換の道である。この茨の道を乗り越えねばならない」との思いで、一日七時間の唱題行を決心しました。これに対して主人は、仕事の不調から来る焦りで気分は最低、性格も一変して凶暴になり、私の信心に反対しはじめました。

 私としては「何とかして主人を助け、困難を乗りきりたい」との一念のみでした。私には、題目の力を説明する能力もありませんし、その方法も全く知りません。ただ一途に一日も早く、題目の功徳が顕益として現れるよう、それを主人が納得できるようにと、毎日の食事準備以外のことをする気持ちにもなれず、ただ唱題行に励みました。

 この頃には、長く続いた戒厳令も解除され、信心への弾圧も全く無くなっていました。しかし私は過去の信心過程での恐怖心からでしょうか、御本尊様に御不敬があってはならないと思い、御本尊様をお巻きして隠し、夜中に隠れて唱題したのです。

 その頃、弟から創価学会が宗門から破門されたことを知り、宗門に帰依する手続きをお願いしました。

 そんな矢先、ある信徒の方から、私の近況について心配しているという温かい電話がかかってきて、私に板橋市での唱題会に出席するよう、お話がありました。ひどく落ち込んでいる時だったので、その温かい強い言葉が天の助けのように、私の不安を一掃してくださり感激で胸が一杯になりました。

 早速、主人の車に便乗して出かけました。しかし、よく場所も判らず、おまけに大雨の中、わずか数分の距離をぐるぐる回って、二時間かけても探せません。ひょっとしたら唱題会に来てはいけないのかと、迷いの心まで生じてきました。引き返そうかと思いながら、心の中で御本尊様に道を教えていただきたいと祈念しましたところ、やっと路地の奥にあるOさんのお宅にたどり着くことができました。

 後で考えると、途中で引き返そうと思ったことは、邪魔をして功徳を積ませまいとの魔の用きだったのです。なぜなら、その日の唱題会は私の信心の最も重要な起点となったのです。Wさんご夫妻は、正しい日蓮正宗への道を案内してくださったのです。Wさんたちは、私の信心状態について聞かれた後、家庭訪問をしてくださると言いました。

 私は主人の心情を考慮して、せっかくのご親切を台無しにしてはと心配しました。しかし、Wさんご夫妻の自信に満ちたご様子に私は断る言葉が出ません。ところが意外にもWさんのその真心のこもった優しい様子に感動し、また浅いところから深きに至る強い一念のこもった仏法の話を、主人は態度を変えてしっかり聞いていました。

 二日後、信心の確信を得た主人の了解のもと、現副講頭のKさんの協力で、お巻きしてあった御本尊様を、きちんと仏壇に御安置することができました。私は気持ちよく学会を離れ、主人の反対もなく正しい信仰を持つことができましたことを深く感謝しています。

 そして、しばらくして三峡という地の家を処分し、龍潭という所に理想的な家を買い、経済的にも徐々に余裕が出てきました。

 それから月田諭道御尊師の御指導のもと、報恩謝徳のため、W婦人、K婦人と二度目の登山をしました。初登山から30年の月日が流れていました。感慨無量でした。こうしてまた、茨の道を乗り越えたのです。

 そんな状態の中、三年前から私は生理不順、原因不明の分泌物と断続的な出血を自覚しはじめました。検査結果は「子宮癌」と診断。お医者さんは手術を勧めてくださいましたが、私は主人の衝撃を心配して、「良性の腫瘍」であると軽く話しました。一方で、唱題に挑戦して癌に打ち勝ち、その現証で主人を入信させようと決心しました。またもや茨の道を克服しなければならない時が訪れたのです。

 そして、昨年の元旦から状態が急激に悪化し、激痛と大量出血が始まりました。私は、「この出血で業を消すんだ」との一念で、唱題時間を増やしていきました。時には痛みのあまり仏壇の前に昏睡して、醒めてはまた唱題を続けたこともあります。もっと題目を唱え、病魔を克服しようという心掛けを持ち続けました。

 二月初旬、K婦人からの電話で、楽しく話しをしているときに突然またも激痛が起こり、声も変わってしまったのです。Kさんは電話の向こうで私の異常に気付いたのでしょう。「事情を話してごらん」と言ってくださいました。意識が朦朧とする中で、癌について今までの一部始終を話しました。Kさんは、私の苦しみを理解してくださり、御主管さんに個人指導を受けてはと勧めてくださったのです。

 私は躊躇と不安がありましたが、Kさんたちの指示と激励に押されて、恥ずかしさと葛藤の中で御主管・黒沢糾道御尊師に御指導を受けました。御主管さんは、厳粛ながらも大変優しく、私の病状と信心について、病気は信心の力、人の力、そして医療の力の三つが揃って治るものであり、決して我を通してはいけないと御指導くださいました。

 私は、その足で病院に行き、詳細な全身検査をしました。そして、八ヶ月前の検査結果と照合したところ、癌細胞は小さくなって、わずかに子宮壁にしこりが残っている状態でした。お医者さんは大変不思議がって、あまり見ない症例であり、ちょっとした手術でしこりの周りを取り除いて、後は定期的に看病をすればよいとのことでした。私は、死の影から逃れられたのです。

 すぐに手術の準備を済ませ、局部麻酔をして手術に入りました。しかし、手術の途中で麻酔が切れてしまいました。心臓への負担も考えて、麻酔を増やさないまま手術を続け、私は麻酔なしで23針の縫合を受けたのです。私は、一針ずつ数えながら、生命の宿業が一針一針ずつ抜き出されるようにと、一心に祈りました。

 手術後は、体力の回復も順調で顔色も良く、癌を患い、手術を受けた人とは思えないと言われました。病魔に打ち勝てたのは、黒沢御主管の正確な御指導のお陰と感謝申し上げています。手術の後、元来病気がちであった主人も元気になり、今年は一緒に登山することにしています。

 私が「一緒に唱題しよう」と呼びかけてから、主人が発心するまで、丸26年かかったのです。長女も婿も前後して、御授戒を受けることができ、たった一人の信心から、今は、家族全員でこの信仰を持っています。これは、私が入信して以来、最も嬉しいことの一つです。

 私の歩んできた信心の道程は、まさに、茨の道そのものでしたが、すべて御本尊様を命の中心、一家の主と仰いでまいりました。私は、常に静かに仏壇の前に座り、御本尊様に生活上のあらゆる方面について、御報告し、心は常に満たされています。御本尊様のお導きで多くの心を打ち明けられる信心の友を得ました。そして、この山あり谷ありの道程で、常に私を支え、激励くださり、生命を豊かに、私の視野を広げてくださっております。

 私の他にも御本尊様の御加護によって、偉大な功徳を得た方はたくさんいらっしゃいます。拙い文ですが、私の体験発表によって、少しでも皆様方の信心の励みになり、また新たな体験を積んでいかれることを願っております。

 本日は、大変ありがとうございました。

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