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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

鬼子母神

その昔、竹林精舎の近くのある山に娑多(さた)という名の薬叉(経典によった。夜叉とも称する)が住んでいた。
夜叉というと日本では鬼を表すが、インドでは、もともと森林に住む神霊で人々に恩恵を与えるとされていた。
この薬叉の娑多は、摩掲陀(まがだ)国の頻婆舎羅王(びんばしゃらおう)の領土に住んでいたので、その恩に報いるために、摩掲陀国の国王から民に至るまで、できる限りの力をつくして救っていた。
そのため国の人々から、娑多は守護神として敬われていた。
この娑多の守護の力によって、この国には春夏秋冬の四季に応じて雨が降り、風が吹き、穀物もよく実り、人々は平和な生活を送っていた。
このように穏やかな風土だったので摩掲陀国には宗教的心情もたいへん厚く、他国の人々もこの国の繁栄に浴したいと、あちらこちらからやってきた。
娑多は、こうした他国からの人々に対しても、自国の人々と同じように慈悲を持ち、守り、愛したのであった。
さて、その娑多が成年に達して同族の中から妻をもらうことになった。
妻は同族の中の最も美しい娘から選ばれた。
そして結婚後も、この薬叉の夫婦は一致して力を合わせて、今までどおり摩掲陀国を守護することに努力したのだった。
ところで、当時摩掲陀国の北方に健陀羅(けんだら)という国があり、この国にも半遮羅(はんしゃら)という薬叉が住んでいた。
この薬叉も娑多と同じように、自身の国の人々の守護神として敬われていた。
そして半遮羅も、娑多が結婚したと同じころに、やはり同族から一人の美しい妻をめとって幸せで平和な家庭を営んでいた。
ある時、各国に住んでいる薬叉たちが一同に会して懇親会を開いた。
娑多と半遮羅は、この懇親会で意気投合して旧知のように深く親交を結ぶようになり、そして和気あいあいのうちに再会を約束して別れた。
その後、娑多は摩掲陀国のめずらしい果実などを贈り、半遮羅もまたお返しをするなどして、二人の仲は時がたつに連れてますます深くなっていった。
こうして、またたく間に一年が過ぎ、そして再び薬叉の懇親会が開かれることになり、二人は再び会うことになった。
娑多も半遮羅も懇親会では、互いの健在を喜び合い、次のような約束をした。
「どうだろうか。ぼくらの亡き後も、この親交を子々代々まで続けさせるために、ぼくらの子ども同士を結婚させ親戚関係を結んだらどうだろうか」
「それはよい考えだ。ぼくが女の子をもうけたら君のところに嫁にやるし、またぼくの子どもが男で、君のところが女なら、ぼくのところに嫁にくれたまえ」
こうして二人の薬叉は、固い約束を結び、喜んで別れて帰った。
そんなことがあってから数か月して、娑多の妻は懐妊し、やがて月満ちて玉のように美しい女の子を産んだ。
この誕生を聞いた同族の者は、誕生祝いに娑多の家を訪れたが、この女の子をひと目見るなり、心の中から歓喜の感情がわき出てくるほどに美しかったため、この子の名は『歓喜』と名付けられた。
ところで、娑多の家に女の子が生まれたと開いて、半遮羅も我がことのように喜んだ。
そして、なんとか男の子をもうけねばならないと思い、一心に神々に祈った。
その祈りが通じたのか、それからまもなくして半遮羅の妻も懐妊し、やがて男の子が産まれた。
半遮羅の喜びようはたとえようもなかった。
そしてその子には『半支迦(はんしか)』という名前がつけられた。
もちろん、半遮羅に男の子が誕生したことを娑多も大いに喜び、手紙を書くと次のようにしたためた。
「私たちは望みどおり子どもが生まれた。したがって、かねての約束どおり二人の子が成人したら結婚させようではないか」
むろん半遮羅にも異諭があるわけはなく、二人は互いに子どもの成長を楽しみにますます親交を深めていった。
さて、それから一年して、娑多の妻は再び懐妊して、今度は男の子を産んだ。
この男の子を産む時は、近くの山々があたかも大象がほえるように鳴り動いたといい、そのため、この子には『娑多山(さたせん)』と名がつけられた。
このように二人の子を持った娑多夫婦は非常に喜び、以前にもまして摩掲陀国の守護神という大任も無事に果たしていったのだった。
また歓喜と娑多山の姉弟も病気ひとつすることなく無事に成長し、姉の歓喜も婚期が近づき、弟の娑多山も青年に達した。
しかし、なんとしたことか父の娑多は、軽い病気をこじらせて、歓喜の婚礼を見とどけることもなく死去したのだった。
そこで娑多山が父の跡目を縦ぎ家長となって、父同様に摩掲陀国を守ったのだった。
摩掲陀国には、以前どおりの平和で豊かな日々が続いた。
ところで、ある日のことだった。姉の歓喜が突然こんなことをいいだしたのである。
「弟よ。私は町へ行って子どもたちを殺して食べようと思うのだがどうだろうか」
弟の娑多山は突然のことでビックリした。
「姉さん、何をいいだすのです。気でも狂ったの。姉さんも知っているように、私たち薬叉はこの国の平和を守り、人々に平安を与えることが役目ではありませんか。私もお父さんの跡を継いでこの国々の人々を守っているのに、どうして姉さんはそんな恐ろしい心を持たれたのですか。とんでもないことです」 と、姉の悪心を何度もいましめた。
しかし、歓喜は弟を忠告をなかなか受け入れず、その日はこのままで終わったのだったが、後日、再び同様なことをいいだす始末だった。
そのため娑多山は、到底自身の力では、姉を止めることはできないと思い、また幸いなことに父の生在中、姉がすでに婚約していることを知っていたので、かくなるうえは結婚させるより手がないと思い、半遮羅に手紙を送り姉の結婚を迫った。
そこで、手紙を受けとった半遮羅も、むろん娑多との約束もあることだし、特に異議もなく、息子のために盛大な結婚式を行なうと、歓喜を自分の国に連れて帰ったのだった。
その後、半支迦と歓喜の仲は、はた目にも非常にむつまじく、父の半遮羅も陰ながらこれを喜んでいた。
こうして、しばらくの間は何ごともなく経過したのだった。
ところで、この若い夫婦の薬叉は、ある日そろって散歩に出かけた。
その途中、歓喜は突然半支迦に、こう言いだした。
「私は自分の生まれた国にある王舎城へ一度帰って、城下の子どもを殺して食べようと思うのですが……」
むろん半支迦は驚きました。
そして自分の妻の顔をしみじみと見ると、とても信じられないという表情で、しかし語気を強よめて次のように言って叱った。
「いったい、お前は何を言いだすのだ。王舎城はお前の生まれ故郷ではないか。他の所から来て王舎城を侵す者があれば、それを防いで救助すべき身なのに、それを故郷の人々の子どもを食い殺すなどということは、考えるだけでも恐ろしいことだ。かりそめにも、そのようなことは口に出すべきではない。今後は厳につつしみなさい」
夫の激しい叱責にあった歓喜は、がっかりすると同時に、内心半支迦に対して憎悪すら抱いたのだった。
しかし、この日は、これ以上、半支迦に抗弁することもなく、おとなしく自分の家に帰った。
その後、二人のあいだには次から次へと子どもが生まれた。
その数、実に五百人にもなった。そして第五百人目の子どもには愛兒(雑宝蔵経では、『嬪伽羅(ぴんがら)』となっている)という名前がつけられた。
そして、これら五百人の子どもが成長するにつれ、歓喜は子どもたちを背景にした強い力をたのんで増長し、前に起こした悪心を実行しようと再び夫に相談したのだった。
もちろん半支迦は 「断じて許さぬ」 とたしなめた。
しかし、もはや歓喜は、夫のいさめなどは聞き入れようとしなかった。
半支迦も、いかにいさめても妻の悪心が断ち切れないのを知って、以後は何も言わなくなった。
こうして、歓喜はいよいよ宿願を達成するために王舎城へと出向いた。
そして歓喜は人通りのはげしい街頭にかくれ忍んでは、人間の子どもが遊んでいるのを見つけると次々に殺しては食べていった。
王舎城下では毎日毎夜、子どもたちがいなくなるため大騒ぎとなり、子を失った親たちは狂人のようになって子どもの行方を探した。
それと同時に、子どもを持つ親たちは、家の戸を固く閉め、子どもを外に出さないようにしたので、王舎城下は昼も夜も火が消えたように淋しくなってしまった。
そして人々は、国王のところに行き、次のように訴えた。
「王様。わたしどもの子どもたちが、次々と何者かにさらわれました。どうか王様の力で、こんなことをする悪人を捜し出して下さい」
むろん、自分の国民の家庭に起こった悲しい出来ごとに頻婆舎羅王(びんばしゃらおう)は同情し、ただちに命令を発して、四方の城門を兵士に厳重に守らせて悪鬼の侵入を防ぐことにした。
すると今度は、その兵士たちが行方不明になってしまうということが起こった。
そこで王は、昼夜とも子どもを絶対に外出させてはならないという命令を出した。
そのため、ようやく子どもはさらわれなくなったが、今度は妊婦が外出すると、その妊婦がさらわれるという恐ろしいことが起こり出したのだった。
このようにして、王舎城下の町では人通りが途絶え暗黒の町になってしまった。
頻婆舎羅王と大臣たちは協議した結果、占い師にこの災厄の原因について聞いてみることにした。
そして、ただちに占い師が呼ばれた。
「占い師よ。お前は王舎城下の近ごろの災厄を何とみるか」
「王様、これは薬叉のしわざでございます。それゆえおいしい飲み物や食べ物を整えて鬼神を厚く祭るならば、この災厄を除くことができましょう」
占い師のことばを聞いた頻婆舎羅王は、ただちに城下に向かって、こう命じた。
「城内に住居する者は、飲み物や食べ物、香華を整え街路を清掃し、もろもろの音楽を奏して薬叉神を祭るようにせよ」
しかし、このことによっても災厄は取り除かれなかった。
こうなると、人々の動揺はますます激しさを増すばかりだった。
こうして王をはじめ庶民が心を痛めている時、王舎城を守護する神が人々の夢の中に現われて次のように告げた。
「お前たちのかわいい子どもたちは、薬叉歓喜のために食い殺されたのである。お前たちがこの災厄を除こうと思うならば、釈尊のところへ行ってお願いするとよい。釈尊なら、かならずこの苦しみを取り除いてくださるであろう」
人々は「なるなど」と納得し、次のように思った。
「しかし、それにしても、なぜ歓喜がそのようなことをするのであろうか。とんでもないことである。可愛い子供を殺すような薬叉を『歓喜(かんき)』などと呼ぶのはとんでもないことだ。これからは、その名を『訶利底(かりてい)【梵語の名ハーリーティーを音写したもの】』と改めた方がよい」と言うようになった。
そして人々は、守護神のお告げどおり、みな仏の所に出向き礼拝して、
「世尊よ、訶利底は永い間、私どもの子どもを殺し、私たちを苦しめております。どうぞ世尊のお力をもって訶利底を説き伏せてください。そして私たちをお救いください」 と哀願したのだった。
仏は、むろん民の苦しみを知っておられたので、彼らの哀願を受けいれられた。
こんなことがあった翌朝のことである。
仏はいつものように身に袈裟をまとい、手に鉢を捧げて王舎城を乞食してから、精舎に帰って食事をされ、あらためて訶利底の住み家へ出向かれた。
訶利底はその時、王舎城の子どものうちの五百人目の子どもをさらうために外出していて、住み家には最愛の末子である愛兒と、その上の兄の二薬叉の兄弟三薬叉が楽し気に遊んでいるところだった。
そこで仏は手に持った鉄鉢で末子の愛兒を覆い、神通力で兄弟にわからないうように、自分の精舎に連れ帰っていった。
まもなく訶利底は外出から帰ってきた。
しかし、いつもは母親の帰宅を知ると一番先に飛んで来る末の愛兒の姿が見えない。
そこで驚いて、
「愛兒はどこに行った。お前たち知らないか」 と、兄弟にたずねた。
「ぼくらは、ここに遊んでいました。愛兒もその辺で土いじりをしていたようですが……」
兄弟たちも不安そうに答えた。
訶利底は愛兒が行方不明になったのを知り、自分の胸を打って泣き悲しみ、そして狂ったように慌てて王舎城に行って、家といわず小路といわず足を棒にして探した。
しかし愛兒の姿は、どこにも見あたらなかった。
訶利底は、しだいに探し疲れ、泣き疲れ、休んではまた立って南閻浮提の七大黒山、七大金山、七大雪山、無熱池、香砕山などをくまなく探しました。しかし、愛兒はいません。
訶利底はさらに、東の弗婆提(ほつぼだい)、西の窪陀尼(くやに)、北の鬱単越(うたんのつ)さらには、十六大地獄をも捜し、ついには天上界の帝釈天王の喜見城にも足をのばした。
しかし、その城門までくると、そこを守衛していた薬叉神は訶利底の来るのを見て、
「この城へ来ることはならぬ」 と入城を拒絶してしまった。
やむをえず訶利底は、今度は多聞天に行って探そうと、疲れた足をひきずりながら歩きはじめたが、しばらくすると疲労のため、近くの大石に足をとられどっと倒れてしまった。
そして彼女は悲しく泣き叫んだ。
「多聞天様。わたしの子どもは何者かにさらわれてしまいました。どうぞ、あなたのお力で居所を教えてください」
多聞天は言った。
「泣き悲しまず、あなたの家をよく探してみなさい。昼間あなたの家にだれか来なかったか」
「釈尊が見えられたそうです」
「それなら速やかに仏の所に行って帰依しなさい。そうすれば再び子どもを手元に戻すことができるだろう」
失望の悲嘆に暮れていた訶利底は、この多聞天の教えによって死地から再生したかのように喜んで、多聞天に厚く感謝し、急いで釈尊のところに行った。
釈尊は三十二相と八十種好を持ち、身から太陽の光にもまきる光を輝かせて坐っておられた。
その姿を遠くから見た薬叉は知らず知らずハッとなり、そして今までの悪行や迷いの雲が晴れて喜びあふれ、たえて久しい慈悲の心が突然として沸き起こった。
彼女は仏にうやうやしく礼拝し、
「世尊、わたしの愛兒が何者かに盗まれまして、今もその行方がわかりません。どうか世尊の大慈大悲のお力で、再び愛兒がわが手にもどるようにしていただきますようお願いします」
釈尊は薬叉の姿を静かにみつめ、そして何くわぬ顔でこう問われた。
「お前の末の子どもがいなくなっただと………。それは気の毒なことだ。ところで、お前には何人の子どもがいるのかね」
「五百人の子どもがございます」
「五百人という大勢の子どもの中で、わずかにその一子を失ったとて、そう苦悩して探し求めるには及ぶまい」
「いえ、いくら大勢の子どもがありましても、子どもは皆、平等にかわいいものでございます。もし今日、愛兒をわが手に取りもどすことができなければ、わたしは苦しみのために死んでしまうかもわかりません」
その訶利底の言葉を聞いて、釈尊は急に態度を改められ、そして厳しい口調でこう言われた。
「大勢の中の一子を見失ってすら、それほどお前は泣き悲しむのに、一人か二人しか持たない他人の子どもを、なぜ盗みとって食べたのか。その一人の子どもをなくした親たちの嘆きはお前の嘆きの比ではあるまい。子を持った親の嘆きというものは、だれでも同じものなのだ。それなのに、なぜお前は他人の子を盗み食べたのか」
釈尊にこう叱責され、訶利底はハラハラと涙を流した。
「なんとも悪いことをいたしました。二度とそのようなことはいたしません」
「そうか。愛するものと難別することがいかに苦痛であるかを体験して、前非を悔い改めるなら、そして王舎城の人々に徳を施すという誓いをたてるなら、お前が探している愛兒を返してやろう」
「はい、おっしやるように、かならず今後は城中の人々に徳を施しますから、どうか子どもに会わせてください」
釈尊は、訶利底が前非を悔い改め、その心が善に向かったのを見てとられ、鉄の鉢の中に隠しおいた子どもを出して薬叉に見せた。
薬叉は求めていたわが子のかわいらしい姿を再び見て、大いに喜び、そして釈尊の教えのごとく、ここに不殺生、不倫盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五つの戒律を守り、城中の人々に安楽を与えることを誓ったのだった。
釈尊はさらに訶利底に対し、昼夜、ご自分の精舎を守護することを命じた。
むろん、訶利底は喜んで承諾し、喜び勇んで自分の家に帰って行った。

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、この釈尊と訶利底薬叉こと歓喜母の話を見聞していた多くの弟子たちは、次のように釈尊にたずねた。
「世尊、あの歓喜母は、五百の子を産みながら、どうして人の精気を吸い、また王舎城の人々の子どもを食い殺すようなことをしたのでしょうか」
釈尊は次のように答えられた。
「王舎城の人々と歓喜母との間には、実は前世につくられた罪業の因縁があり、ああしたことが行なわれたのである。けっして偶然の悪行ではない。いま、その過去の因縁について話すから聞くがよい」
こうして釈尊が話された話は、次のようなものだった。
「それは、昔々のことである。この王舎城に一人の牛飼いがいた。その妻は結婚後まもなく懐妊した。その当時、山間の地に静かに世を送っている一人の修行僧がいた。ある時、この修行僧は王舎城で大法要を催した。 この催しを聞いた城下の人々は、互いに美しい服装をし飲み物を持参し、行列を作ってこの会に出かけた。 すると、その途上でかの懐妊した牛飼いの妻が牛乳のビンを持ってくるのに出会った。
「奥さん、私たちと一緒にここで踊りませんか」
情欲のとりこになった牛飼いの妻は、自分が懐妊していることも忘れて承知し、踊りに夢中になり、ついには胎児を失ってしまったのである。
まわりの人々は驚き、そして無責任にも、路上で倒れて苦しんでいるこの妻を見捨てて、そのまま会場を目ざして行ってしまった。
牛飼いの妻は、自分の不心得から起きた事故とはいえ、この人々の無常な仕打ちを恨んだのである。 すると、その倒れているそばを一人の果実売りが通った。
「果物屋さん、あなたの持っている菴没羅果(あんもらか:マンゴ)の実を、この牛乳で五百個買いますから売ってくれませんか」
牛飼いの妻はそう呼びとめ、果物売りから菴没羅果の実五百個を買い取った。
ちょうどそこへ、修行僧が威風堂々とやってきた。牛飼いの妻は、その威風に打たれ、修行僧の足もとにひれ伏すと菴没羅果の実を供養したのである。
そして、次のような恐ろしい願をかけたのであった。
「私はこの修行僧に菴没羅果の実を供養した功徳によって、来世にはこの王舎城に生まれ城下に住み、私に冷たい仕打ちをした住民が産んだ子女を取り殺して食べてやろう」
この牛飼いの妻というのが、訶利底の前身である。 そして、その願のために彼女は、いま城下の子どもたちを殺したのである」

          ・・・・・・・・・・・・・

さて、こののち、歓喜母は仏のいましめにもとづいて心を入れかえ、仏に誓ったごとく住民を守護したので、一時は火の消えたような王舎城も再び光明に満ちた城下となったということである。
(根本説一切有部毘奈耶雑事第三十一)

【解説】
★根本説一切有部毘奈耶とは「毘奈耶(びなや)」とは律のこと。根本説一切有部毘奈耶雑事第三十一は、大正新脩大藏經で律部に属している。訳者は唐の僧侶義浄である。この経典は全50巻で、比丘戒249条や教訓物語を説いた大部なものである。

★義浄とは山東省歴城県の出身、俗姓は張氏で、幼時に出家し、中国唐の時代の僧侶となる。36歳の時に海路を経てインドに入り20年以上滞在し、特に戒律に関するサンスクリット仏典をたずさえて帰国して翻訳を行なった。

★鬼子母神に関しては、大正新脩大藏經で密教部に「佛説鬼子母經」として説かれているが、この経典では鬼子母神がいきなり「多子性極惡(多子で極悪な性格)」として登場する。また、訳者が不詳となっていて、因縁譚も説かれていないものである。


 
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