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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

日蓮正宗について

一般的な教義

日蓮正宗については、公式サイトで情報が発信されていますので、リンク先を紹介します。
日蓮正宗公式サイト

日蓮正宗略解

日蓮正宗入門

 

序編 釈尊の仏教
本編 日蓮大聖人の仏法
実践編 日蓮正宗の信仰

諸宗破折ガイド(日蓮正宗入門の続編)

日興上人の承継

第一項 信条と事蹟      正宗要義から   
      第一目 師 弟 相 対
 大聖人の一代聖教大意に
「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(新編92)
 とあり、これは師弟相対の相伝によって初めて法華経の深義を伝えることができ、もしこれがなければまったく仏法を亡失することを示す金言である。けだし師弟相対とは、師匠の弟子に対する絶対の信頼と弟子の師に対する絶対の帰依による、能所不二の円融無礙の境地において、仏法の深義が譲り伝えられることをいう。
 大聖人の弟子の中で常随給仕の第一は日興上人であり、微塵も私見を挿むことなく、大聖人の仏法をひたすらに受け学び、かつ正しく後世に伝えようと精進されたのである。日興上人の信条・教学のすべては、その師に対する給仕の心、滅私奉公の念が基本となって形成せられている。その素直な行学のゆえによく大聖人の仏法の甚深の境地に到達せられ、大聖人を末法の仏と拝することができたのである。このような日興上人の日常の信仰の的が何であったかを示すものとして、後年数十通にあまる弟子・檀那よりの供物の御返事がある。これはすべて大聖人の宝前へ供えたことが書かれており、釈迦仏に供えたとの文書の一通も見当たらないことが、その明らかな証明である。大聖人こそ末法の仏であるとの本師に対する絶対の信である。その信があればこそ、前代未聞・耳目驚動の大仏法を正しく受けきって、師弟一体の境地に安住し、大法の血脈が伝持せられたのである。末法の本門の仏法は如来秘密の法であるから、歴劫修行や智解了悟にわたらず、ただ師弟相対の信受が根本であり、これによってこそ法水が正しく伝流されたことを知らなければならない。末法万年を利益する仏法の根源は、日蓮大聖人・日興上人の信心を根底とされる師弟相対の血脈伝持にあったのである。

      第二目 興門の化儀
 日興上人門下の化儀は、他の日昭・日朗・日向等の門流のそれと非常に大きな相違がある。それはもちろん途中からの相違でなく、日興上人と上記三師等との根本的な相違によるもので、そこに源流よりの違いが存するのである。
 主な相違点は
 一に日興上人が大漫荼羅を末法における唯一無二の大聖人正意の本尊とするのに対し、五老系(五老僧の中で日持は海外へ渡って消息を絶ち、日頂は後に日興上人に帰伏したが、今、五一の相対としての文献によるゆえに五老系という)は絵像・木像の釈尊の仏像を本尊として重視する半面、大漫荼羅を軽視するか、もしくは仏像と大聖人の大漫荼羅を同一視して概ね仏像を安置している。これは五老系が仏像に小乗・権大乗・迹門・本門、更に文底という各重の区別があるのに暗いことを意味している。
 二に日興上人は天台の迹門と大聖人の本門との弘通の規模・法体を明らかに立て分けられたのに対し、五老系は天台の余流としての考えから充分に脱却せず、また本化・迹化の名分及び本迹の戒の相違に無頓着であった。
 三に日興上人は立正安国論の趣意により、神天上の法門を基本とされて、神社参詣を停止されたが、五老系は神社参拝を許容している。
 四に日興上人は大聖人の行法をそのまま継承し、日常の勤行は助行に方便品・寿量品、正行に題目として、末法折伏の行に邁進されたが、五老系は如法経・一日経等を行じ、像法摂受の行を主とした。
 以上、簡略に述べたが、特に末法の仏法の化儀上ゆるがせにならないことは、開目抄の
「諸宗は本尊にまどえり」(新編554)
 との宗祖の金言のごとく、本尊に対する五老系の雑乱である。釈迦如来といっても、爾前・迹門・本門それぞれのけじめを分かたず、あるいは一体仏を置き、あるいは普賢・文殊等を脇士とする釈尊の仏像を安置し、その後面へ大聖人の大漫荼羅を掛けて、法義・法体の筋目を雑乱し、甚だしきは大聖人の自筆大漫荼羅を堂の廻廊等に打ち捨てておくような状況もあった。これら五老系の迷乱に対する日興上人の明示は、まことに千古に残る金言である。すなわち
「日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり」(富士一跡門徒存知事・新編1871)
 と、簡略ながら五老系の仏像における執着を摧破して余りない文である。また
「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当つて覚え候」(聖典560)
 との原殿御返事の文も、その根本はここに存する。更に日興上人と五老僧の大漫荼羅に対する信解の相違いかんについては「教学」の項に譲る。現在諸門流が分立・合同に明け暮れ、去就定まりなく浮動の相を呈しているのに対し、毅然として大聖人の正意の仏法を立てる我が正宗との相違は、日興上人の純粋な信条・化儀に対する五老僧の錯雑混迷の異解にあったのである。
 ちなみに当時のこれらの事柄を明示する富士一跡門徒存知事や、三位日順筆録の五人所破抄等の文献を、より後人の著で日興上人の真意でないとする他門の意見があるが、それについて明らかな理由と論証を示すものは皆無であり、自門の先師の失を糊塗しようとする謀略か、または無責任な放言にすぎない。富士一跡門徒存知事は重須初代学頭日澄が日興上人の意を受けて註したものともいわれるが、日興上人自身の書き入れでなければ辻褄の合わない内容が多々あることから、むしろ当抄の全体が日興上人の著述であることは疑いを容れない。また五人所破抄に至っては三位日順の著述ながら、すべて日興上人の立場で書いたものであり、完成の刻みに上人の高覧に備え允可されたことも明らかである。単にこの二書のみでなく、信条・化儀を示す幾多の資料の趣旨・綱格がすべて合致し、当時のどの文献資料にも日興上人の脈々たる正法護持の信念と法義が拝される以上、これらの文献の趣意を疑うべきでない。なお強いて疑う者は自らの邪義のためにする目的以外にないのである。

      第三目 御書の尊信
 日興上人が師弟相対のうえに大聖人を仏と仰ぎ、したがって大聖人の御書を末代の仏法の根幹とされた例も一・二に留まらない。遺誡置文に
「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞くべき事」(新編1884)
 と大聖人の御書を教学研鑽の第一義とすべく誡められた。自らも拝読を重ねられ、弟子に御書の講義をされたのである。そしてこの信条は、当然御書の文献的な保存・尊重となって表われている。日興上人の筆写された御書の写本は文庫に盈溢しており、いかに後代のためを思われ、御書を大事にされたかが判明する。また上野殿の賜書をはじめ大聖人真筆二十数巻が総本山に格護されている。これも日興上人の御書尊重の精神が七百年の歴史に脈々と生き続けている証である。富木日常の一門においては、大聖人より御書文献の保存を目途として送られた意味もあって、非常に御書の格護に意を用い、ために現在も重要な御書がほぼ完全に伝えられていることは喜ばしい。しかるに当時の五老僧やその系統では、天台教学を重視し、仮名書きの御書を軽視する風潮があったものと思われる。つまり、大聖人にまとまった御書著作というべきものはほとんどなく、たとえあっても仮名書きであったり、供養の返礼に在家愚癡の者のために書かれた程のもので、大事なものはないという考え方であった。そこで日興上人は、
「諸方に散在する処の御筆をば或はすきかえしに成し、或は火に焼き畢んぬ。此くの如く先師の跡を破滅する故に具に之を註して後代の亀鏡と為すなり」(富士一跡門徒存知事・新編1870)
 と記されている。まさか五老僧が先に立ってすきかえしや焼失を行なったのではあるまいと思いたいが、たとえそうとしても、五老僧の門弟にこのような者があり、師としてこれを破折し厳誡しないために、師弟同罪と見なされたのであろう。故にこの条の冒頭に五人一同の義とされているのである。
 日興上人は、また立正安国論・開目抄・報恩抄・撰時抄・下山御消息・観心本尊抄・法華取要抄・四信五品抄・本尊問答抄・唱法華題目抄の十部を、全体の中の重要御書として挙げられている。これも御書を心肝に染められたうえからの後代に対する指針と拝されるのである。

      第四目 随 力 弘 通

 随力弘通は大聖人の仏法の法軌である。日興上人は給仕第一として常に大聖人に仕えられたが、大聖人に随従して至るところ、折伏教化を怠らず、その教化力・指導力は門弟子中抜群であった。ために日興上人の縁によって大聖人の門に列する弟子・檀那は非常に多きにわたっている。大聖人の伊豆流罪の弘長元年より三年の間、日興上人の十六歳より十八歳に至る所化時代ともいうときに、給仕の傍ら付近を教化し、熱海の金剛阿闍梨行満を改衣せられた。また文永の初期より佐渡以前、十九歳より二十五歳までの間は鎌倉・富士等の往復の間にあって、多くの人士を結縁し教化されたのである。次いで大聖人の佐渡配流の御供としての彼の地においては、師への真心を込めた日々の給仕と熱烈な信行は、佐渡の本間一族、阿仏房一家を感動せしめ、これらの人々の入信とともに、信仰上の良き相談者・指導者として、大聖人の化導を扶助された。ために佐渡の法華衆は、すべて大聖人に、次いで日興上人に帰依し師表と仰いでいたから、当時の佐渡はすべて富士門徒であったのである。
 文永十一年、大聖人が赦免されて第三の国諫の後、身延へ入御せられたのも、日興上人の教化によって地頭波木井実長が入信していたからである。大聖人身の延在住中、日興上人は内にあって本門下種仏法の深遠な講義を筆録して御義口伝とし、また種々の相伝文献を筆受形成せられる反面、出でて甲州・豆州・駿州・遠州等に教化弘通し、多大の足跡を残された。すなわち文永十一年以降、伊豆走湯山に稚児虎王丸(日目上人)を化し、また甲州では大井家・秋山氏等の武家を導かれた。波木井の一族からは幡磨公・越前公が出家し、秋山家有縁の日華、小笠原家より日仙、大井家より日伝、更に日妙等、諸家諸人が続々と入信及び改衣している。駿河の南条七郎次郎は亡父の信仰を復活し、縁につながる松野・興津方面への弘教も日興上人の掌握されるところであった。また河合・西山の由比家は日興上人の母方の親戚である関係上、早くより入信し、その縁故によって加島の高橋家、実相寺の筑前房・豊前房等、四十九院の日源等、更に前に市庭寺に住し後滝泉寺内に住した日秀・日弁等も弟子となった。法化は更に遠州に延びて新池・相良等の武家が入信するに至った。特に加島・熱原方面の弘教には、日興上人が厳然として大聖人の正義を指導され、その慈悲訓導により不惜身命の俗信士が多く現われて、有名な熱原法難を惹起したのである。
 日興上人の教化力はこのように門下随一というべきで、甲駿東海をなびかせられた。故にこの地方の寺院の多くは日興上人の化縁による富士門家であったが、中世以後の権勢門における封建的・高圧的な命令等の特別な事情により、空しく清流を離れて今日に至るものが多いことはまことに遺憾といえよう。

      第五目 檀林と人材養成

 日興上人は人材の養成に深く意を用い、重須談所を開いて自ら講学に当たられたが、その目的は富士の正系教学の振興、及び諸宗との公場対決に備えた一代仏教の研鑽にあったと思われる。そしてこれらの諸義を通達解了せしめ、正法久住と広宣流布のため、厳格な門下への教育が始められたのである。かの日尊が日興上人の講説中、眼が梨の葉の散るのを追って放心していたとき、厳しく叱責され勘当を受けたことは余りにも有名である。このように日常より秋霜烈日の信念と気迫をもって講学研鑽に当たられたことが明らかである。永仁六年、重須に談所を造られ、日興上人自ら講学に当たられたのであるが、正安の頃、寂仙房日澄の帰伏により、初代学頭として、徒弟教育の任に当たらしめた。しかるに日澄は四十九歳にして延慶三年に早世したので、また自らこれに当たられたが、日澄の弟子三位日順が比叡山修学の功成って帰山したので、文保二年より二代学頭として門下の講学に当たらせた。この談所講学において、種脱本因妙の法門、本尊の化儀等、本宗独自の法義が厳格に教示され教育された証跡が明らかに見られる。
 また五老系との相違を明らかに立て、正法弘通のための人材養成が着々と進められた。
 いわゆる立正安国論の正意としての神社不参義、仏像造立の不可、本迹二門の戒の相違と天台迹門戒持破の無用論、仮名文字の御書の尊重と五老僧の不認識への批判等、富士門流の正義を明白に教育されたのである。次に大聖人よりの相伝文書としての本因妙抄・百六箇抄等の重大書は、日興上人が秘かに筆受された後、付加点検されて法器に授与されたものと見られ、三位日順の本因妙口決にその証跡を見る。御義口伝に関する最終的な整足整頓もこの頃に手掛けられた要務であったろう。このように、富士門家の淵源をなす重大文献の整備や著述が、談所の講学と並行して行なわれたのである。なかんずく五一の相対を後代の亀鏡とする目的をもって、日興上人の命により三位日順の筆録した五人所破抄は、大聖人の正義を明確ならしめ門流の異撤・異義を鮮明にした点、その原型書と見られる富士一跡門徒存知事と並んで五一教学の相違を明らかにする指南書である。
 このように重須談所は、日蓮大聖人の門下として談林講学の最初であるとともに、またそれが正系教学の宣揚と正法弘通の功を挙げたところに深大な意義が存したのである。

      第六目 国 主 諫 暁

 国主諫暁は大聖人の立正安国論以来、当時における本門の仏法流布の定石と拝して過言ではない。すなわち信仰上邪義を持つ国家の為政者に対する諫訴である。本門の仏法の信仰目的とするところは、一人二人の個人的な安心立命のみではない。その大慈悲は、十人・百人・千人と次第に伝わって、一国を挙げての全体的帰依を目標とするのである。その見地よりして、為政者に対する諫暁は、封建的君主制度下においては、種々の角度から絶対に必要のことであった。つまり当時の公家・武家は、当然大聖人が邪法として指弾せられた何らかの仏教宗派に帰依し、その宗義を信奉していたのである。その信仰する宗義が心の拠り所となり、それが有形無形のあらゆる面を通じて政治に反映したことは当然である。仏法は体であり、世法は影であって、体曲がれば影斜めとなる道理であるから、ここに一般民衆の教化とともに為政者の信仰の誤りを反省せしめるため、国主諫暁を行なう第一の原因があった。また当時は、政治の様態も現今とは異なって原始的・素朴的であり、もし為政者の意志がそこにあれば、政治と仏法とのけじめによる障害を特に見ることなく、その力による広範囲の改宗帰依が可能となる時代であった。
 要するに、正法広布は一切の民衆に対する本仏の大慈悲である。その手段方法の一つとして、封建社会にあってはその謗法を改易させ、正法を守護させるため為政者を諫暁することが、有力な布石であり、効果的な方法であったのである。日興上人も大聖人の意志を受け継がれて国主諫暁に邁進された。仮に民衆のみが数多く信仰したとしても、権力者の敵視があればやがて不当の弾圧を蒙ることは必至である。聞くと聞かないとにかかわらず、為政者に堂々と徹底して諫暁を行なっておく必要があったのである。すなわち先師の広布への活動の大目標は、天下万民諸乗一仏乗となって妙法独り繁昌することを願われたものであって、国主諫暁はその一手段である。したがって、時代の変化に対応するためには、手段と目的のけじめを明らかにすべきである。
 今日の為政者は、その思想的次元が当時の為政者とまったく異なっている。もちろん基本的な正法不信について両者とも謗法であることはいうまでもないが、その謗法の様相・様態が必ずしも同一ではない。現代の為政者は、国利民福の根本に、宗教がなければならないことを忘れ、仏法に鎮護国家とか、現世利益の信頼をおかず、民衆の幸福はあくまで人為の政策によって可能であると考えている。特定の宗教・宗派に対する執着よりも、宗教や仏法全体に関する不認識が挙げられる。
 形は多少異なるが、世界各国の歴史に共通する神権政治的な在り方は、既に世界史的視野において、今日では過去のものとなっている。このような中世国家の王のもっていた国家権力と、近代民主主義国家の国家権力の性格構造には明らかな相違がある。細論は省略するが、中世国家では国王は宗教に対し支配権を有していた。日本の鎌倉時代にも通念的にはこの傾向があったといえよう。しかし近代の進歩的国家では、国家権力は一切宗教に関与しない。信教の自由の原則により、もろもろの意義による宗教建築の建造や儀式行事の執行は、国と関係なく行なわれ、また国の特別な保護は不可能なこととなった。故に国法あるいは国主の権力によって他の宗教を禁断するということも、また同様に不可能となっている。このような憲法の政教分離の制度は、日本のみならず近代的先進国の制度において、既に常識化されたことといえる。更に国王とか国主という字句についても、当時と現在では意味がまったく変わっている。故に現代の仏法流布は、民衆の自覚による他の民衆への倦まず撓まざる宗教啓蒙運動のほかにはありえない。
 このような相違から国主諫暁ということも、その形式に執われず根本精神に立って拝さなければならないのである。
 しかし、当時の国諫がまことに重大な決意のもと一死を賭しての決行であり、この点、大聖人・日興上人をはじめ、先師の不惜身命の労苦を深く拝仰すべきである。
 日興上人の国諫の申状は、現在残るものは正応二年正月、元徳二年三月の武家諫状二通、嘉暦二年八月の公家上奏文一通の合計三通であるが、ことごとく大聖人の弟子と名乗って本門弘通を堂々と述べられている。またそれ以前の弘安八年にも行なわれた形跡を残している。しかるにこの年、五老系の諸師も奏状を捧げたが、天台沙門と名乗っている。大聖人の弟子として、まことに本末顛倒の邪見である。日興上人は甚だしくこれを慨嘆し、大聖人の仏法の地に落ちることを配慮され、富士一跡門徒存知事や五人所破抄にこれを書き残し、自他を誡箴されている。
 さて当時の富士門家の国主諫暁は、妙蓮寺日眼の五人所破抄見聞に、日目上人が四十二度の天奏をされたことを書いているが、これは大聖人・日興上人の諫暁に七度は日目上人が代奏され、三十五度は自身の天奏である。現存の日目上人自身の名による諫状は、日興上人遷化後の元弘三年十一月付のもののみである。日興上人は長年にわたる日目上人の上奏の功を賞されて、元亨四年十二月二十九日の本尊に
「最前上奏の仁卿阿闍梨日目」(富要八―二〇六)
 と示し、また正慶元年十一月三日の本尊に
「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す一が中の一弟子なり」(富要八―一八八)
 と書かれた。この最前とか最初とかは、広く門下の中での上奏の最も初めという意味の賞辞であり、日目上人の行功の卓越を示すものである。更に日仙・日代・日順等にも代奏を示す文献があり、日興上人の漲り迸る本門弘通の精神が、よく門下の奮起を促したものと見られる。
 なかんずく日目上人は七十四歳の老齢をもって天奏のため京を志され、元弘三年十一月、美濃の雪嶺より吹き降す寒風に途を隔てられ、ついに垂井の宿に遷化なされた。この不惜身命の垂範は、まことに不滅の亀鏡である。我等は先師の苦辛に満ちた弘通の足跡を一日もゆるがせに思うことなく、その国諫の根本の大目的たる一閻浮提広布に向かって、邁進することが肝要である。

      第七目 謗 法 厳 誡

 謗法厳誡は既に大聖人の明らかに指示せられるところであり、二而不二の境地に立って仏法を承継される日興上人がこれをゆるがせになさるはずはない。厳として大聖人の弘通の正義に反する信仰行動を誡められたが、遺憾ながら多くの弟子や一部の檀那は信解の不足と世間への迎合のため、種々の御都合主義から謗法を主張し、かつ行なったのである。
 五老僧の謗法の根元は、何といっても大聖人の弘通された下種の法体と、釈尊の熟脱の仏法を碩別し得られなかったことにある。但し、中でも日昭・日朗は天台教学の糟糠を脱せず、仏像正意の執着が拭いきれない憾みがあった。しかるに日向は、学解においてはむしろ日興上人にわずかながら近いものがあったように思われるが、波木井実長の一体像建立の執着に与同し、教唆した不明妄誕は覆うべくもない。
 このように根本を誤るところ、枝葉万端の化儀法門についてもすべて乱脈を来たすことは当然であり、それが遺誡置文の
「五人の立義一々に先師の御弘通に違する事」(新編一八八四)
 との大断として示されたのである。
 要するに、大聖人の仏法の化儀・化法を正しく立て行ずることに背くすべての思想・信仰・行為・行動が謗法に至るのであり、この謗法を厳に誡めて修行すべきことを垂範されたのが、日興上人の富士の仏法である。

     第二項 著  書

      第一目 相 伝 書

 法体相承としての身延・池上の二箇相承書は中古に惜しくも紛失したが、当然文献が存したことが明らかである。その内容に対する史実・法門すべての脈絡が関連して事実であることを証明し、相承の疑うべきでないことを示している。すなわち、まず大聖人入滅後七箇年の間、日興上人が身延に住まわれたことが、身延山の別当として久遠寺を付嘱された事実を明らかに証明するものである。また日興上人の所立の法門と五老僧のそれとまったく異なっていることは前に述べたとおり明らかである。当時、五一の相対は法門上のかなり低い次元において既に碩別の観があったことが窺われる。その根本の種脱の深義と三大秘法の大旨においては、いまだ明白な論議の対象にすらなっておらず、初期においてはより高い次元での日興上人の教誡を見出すことが少ないのである。
 この為体では、大聖人がまさに
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す」(新編一六七五)
 と特に日興上人一人に付嘱せざるを得なかった事情がまことに明らかではないか。
 次に法門相承の文献として、本因妙抄と百六箇抄が挙げられる。これは聖境界を堅く外に秘して、密かに法器に対して相伝せられるから、大聖人の通途の御書や御消息等と異なり、法門の鍵として個人的に伝授される意味を持つ。当時は法義の伝承上、天台・恵心の口決等においてもこのような例証が存する。
 およそ大聖人の種本脱迹の法義は、御書に瞥見せられるところであるが、その本懐の法義を入室体信の弟子に口述伝授せられるのは当然である。故に日興上人がその原型的部分を筆受し、あるいは重ねて文書形体に作成されたと拝せられる。現在残る全文には、後人の加筆の部分が存している。それとても相伝を譲り受けた方が、そのときの門下の状態やその境界において、仏法伝持に必要な措置として示されたものである。付加の文もこのように拝するとき、むしろ非常に貴重な意義と資料を示している。それがあるからといって、みだりに偽書呼ばわりをすることは自らの短見を露呈するものであり、大聖人より日興上人への法門深義の相伝がなかったということにはならない。
 当時の師資相伝の学風・風潮、門下門弟の高低様々の領解の程度よりし、更には三大秘法抄の
「遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし」(新編一五九五)
 との危惧を拝すれば、唯我与我冥薫の弟子に対する法門相承は、正しい法義・法脈の伝持のために絶対に必要であった。これがもしなければ大聖人の勧持品二十行の偈の身読は虚仮の行となり、上行所伝の本意は空しく消えて、かの三大秘法抄を偽書として否定した最近の某学者のごとき者の土足にまみれ去ることになる。
 当宗の行学は相伝書を正しく拝することにあるといっても過言ではない。故にその意義を正しく拝し、末法万年の仏法の正義を伝持することが肝要である。すなわち本因妙抄は、天台の三大章疏七面七重口決を土台とし、大聖人弘通の本因妙の義において説かれたものであり、天台教学の思想的展開に対する本化弘通の規模における付嘱の法体の碩別を拝するものである。
 また百六箇抄は、脱種合して一百六箇の本迹を立てる。脱においては概ね経旨の本迹をもって一代の法相を判じ、種においては末法下種の宗旨上の本迹を示して、一切の法門を大聖人所弘の下種の法体に結帰されている。
 ともに種脱の法体を弁別し、末法弘通の下種の三大秘法を明確に選び出し、かつ弘通に用うべき重要法義であるとともに、大聖人の己心における本迹のけじめを表わす甚深の妙法境界の披瀝であると拝される。
 次に御義口伝は、一器より一器への純粋な相伝書ではないが、やはり大聖人が当器の弟子へ本因妙の講義として、釈尊の法華経を土台とされ、その要文を摘示して、末法の教観について講説せられたのを、日興上人が筆録なされた準相承文献である。したがって、在世・滅後の仏法のけじめと本因本果の裁きが明らかに示されており、まことに大聖人の正意の法門というべきである。近年、他門では、宝塔品の項に大聖人の滅後にできた科註四の文が引用されているから、少なくとも大聖人在世の成立でないという者がいる。しかし、この論はこの書の成立過程に暗い者の一を知って十を見ない迷見である。これは既に宗門において充分論じてあるから今は省略する。まさしく諸御書と脈絡が関連し、大聖人の真実本懐を開く鍵としての要書ということができる。
 また本尊七箇相承は、おそらく日興上人がかねて本尊に関する深義につき相伝された分を一帖にまとめて、大聖人の披見を賜わり、大聖人一覧の後、「弘安五午壬年十月十日 日蓮花押」とお書きになったものである。すなわち「師の曰わく」に続く文が、敬語の場合と、更に
「悉く聖人の化身と思う可きか」(聖典三七九)
 等と、大聖人を明確に三人称に当てているから、大聖人自身の語と見がたいとの疑問より、この「師」とは日興上人であると考え、そこから更にこの文の筆者を、日興上人を師と仰ぐ誰人かであると推定する疑念が起こるかも知れない。しかし、実は各所の「師」とは大聖人であり、一方、叙述の立場は日興上人であるが、日興上人が時々における聞き書きを収録されたものであるから、それぞれの文章の場合に応じ、二人称あるいは三人称的な敬語や呼称がなされてしかるべきである。
 このように拝すると、文中数箇所の「師の曰わく」の文における二・三人称の解釈について、首尾一貫に欠けるごとく見えるのに、いささかの痛痒もありえない。そして内容的にはまことに重大、かつ日興上人書写の現存本尊に照らして正確無比であり、まさしく日興上人こそ、大聖人より本尊の深義の相伝があらせられたことを証明する重大文献である。以上のほか、直接この文献に関することは差し控え、関連的には日興上人の本尊論において少々触れることとする。

      第二目 その他の重要文献

 以下、日興上人の数多い文献中、重要なものについて一言しよう。
 まず富士一跡門徒存知事は、既に述べたとおり、寂仙房日澄の作ともいわれるが、実は日興上人の著作である。この富士一跡門徒存知事と五人所破抄を比較するのに、五一相対を目的とする著作的叙述では内容・文体ともはるかに後者が整備されており、前者中の記録的要素を抜除し、文章字句を整頓したものが後者と目されるから、五人所破抄が富士一跡門徒存知事の後に書かれたものであることは疑いない。但し、富士一跡門徒存知事は、興門本六の記事をはじめ内容が広範にわたっており、日興上人の信仰思想を代表する書であることは当然である。
 この書に本尊論以下、五一の違いを明示され、興門化儀の根本的構格を提示していることは前述のとおりである。
 また五人所破抄は、三位日順が日興上人の策励を受け、奮起して書き綴ったもので、西山日代の直筆の清書本が存する。もちろん趣旨は日興上人の立場において、五人破折の文面を主とするため、富士一跡門徒存知事における興門本六の記事、所集証文の事、奏聞状並びに追加八箇条等の記録が五人所破抄では削除してある。五人の主張する天台沙門問題・台当違目の不明・随身一体仏の執着・神社参詣論・如法一日両経修行の迷解・爾前迹門の戒門について持破の迷論、身延正墓参詣論等を完膚なく破折している。けだし日興上人の正意を示し、富士の旗幟を闡明にする最重要の書である。
 また日興遺誡置文は、大聖人の仏法の正義を二十六箇条に括り、末代弘通の法軌を厳示されている。
 そのほか、五重円記・神天上勘文等、富士独自の教学的著述も残され、種々の重要な書も多いが、それは教学の項で触れるところがあるので省略し、ただ手紙に瞥見される日興上人の信条について一言する。これは既に日亨上人が日興上人詳伝に
「開山上人には釈迦仏造立の史実もまったくなく、門下の僧俗の供養の志をば、一も釈迦その他の仏菩薩に披露せず、細大となく一に日蓮大聖人に取次がれた事実を、日常不用意のとっさの御手紙の上に見んとするものである。」(日興上人詳伝四一六)
 と書かれている。
 現存の日興上人一代の供養の返事等において
「法華聖人」八通
「聖人御影」四通
「仏」四通
「御影」一通
「法主聖人」一通
「仏聖人」一通
「日蓮聖人」一通
「聖人」「聖人の御宝前」「聖人の御見参」等十二通
 が見られるが、釈迦仏等の字は一言半句も見当たらない。したがって釈迦仏像の奉安はまったくなく、かつ大漫荼羅を大聖人と拝されたことが明らかである。中に「仏」とあるのは「仏聖人」と熟字する例と同じく、大聖人を仏と拝される証明である。これらは日常の信仰的事実のうえに種脱相対を自然に了して、末法下種の仏として日蓮大聖人を尊崇されていたことを物語るものである。

     第三項 教   学

      第一目 本  尊  論

 前に挙げた富士一跡門徒存知事に明らかなごとく、日興上人は、小乗・権大乗・実大乗迹門・本門等、いかなる意味の仏像をも否定され、大漫荼羅をもって御書並びに大聖人の法門の正意とされた。これは文証が明らかであるのみならず現証が明確である。日興上人一代において仏像造立の記録はまったくないし、また特別な事情もあってか晩年造像によって節を汚した日尊を濫觴とする京要法寺系、及びその影響を受けたごく一部の現象を除いて、富士門家各山の歴史はことごとく大漫荼羅中心であり、仏像造立の雑乱がない。これは源流における日興上人の化儀が、大聖人の正化に基づき造像の影もささぬ清浄無染の法規を示されたからにほかならない。
 他門の中には、富士一跡門徒存知事の末文に
「日興が義を盗み取って四脇士を造り副ふ」(新編一八七五)
 等とあるから、日興上人は仏像論者だという者がいる。これは、当時の前後の事情や意味を弁えない一知半解の浅見である。およそ法門は所対を明らめて異を弁じなければならない。
 日興上人が四菩薩添加を仰せられたのは、大聖人の随身仏の真の意味が判らず、ただその事跡になずんで一体像を執着する者に対し、造立を止めさせようとする一時的方便であった。本来、大聖人の随身された一体仏は頭陀の修行仏で小乗の説法仏にも及ばず、大聖人が末法における本因妙の修行の一時的対象としての崇敬であった。もちろん大聖人の境界からすれば、法華経の一念三千の仏と拝されるであろうが、末法の機根から見れば本尊としての利益もなく、すべきものではない。何故ならば、小乗の修行仏たる一体立像より本尊として勝る小乗の説法仏は、迦葉・阿難を脇士とし、更にこれより勝る権大乗・迹門の釈尊には、普賢・文殊等が脇士となる。これら正像時代に造立された仏像より劣る一体仏が末法の衆生全体の本尊であるはずがない。故に大聖人は、遺言として墓所の傍らへ立て置けと仰せられたのである。
 したがって入滅後、門弟一同は、御骨と一体像を一旦身延へ納めたのであるが、大国阿闍梨日朗が執着を捨てがたく、遺言に背いて一体像を奪い去った。そこで波木井実長が、あれほどの仏を造像したいと念願し、民部日向の教唆と相まって大変な執心となった。日興上人は実長の他の謗法をもかねてより諫められていたが、この件も口を酸くして思い止まらせようとされたことは原殿御返事に明らかである。無常の仏一体像は大聖人の法門でないと、いかに教訓しても、日向の背後からの策動に狂心した実長の耳には入らなかった。万策尽き果てて日興上人が大聖人の正義に背き土泥となった身延を離れる決心をされたとき、せめて仏は一体像でなく四菩薩を造り添えよといわれたのである。このわけは、正応の当時において、いまだ四菩薩を造立した者は一人もなく、もちろん大聖人在世、かの四菩薩造立抄の後においても富木常忍は結局、造立するに至らなかったのである。
 日興上人は、四菩薩の形相の決定も容易でない意味を含めて造像を停止させるために、一往法義上の本門の構格を挙げて四菩薩添加を仰せられたのである。
 しかるに、この仰せが次第に伝播して、あちこちで実際に造立し、かつこれを真似る者が現われた。これを日興上人が評して、半ば揶揄的に記録されたのが、富士一跡門徒存知事の追加八箇条である。故に伊予阿闍梨の四脇士は宝冠形、民部阿闍梨の四脇士は比丘形に納衣を著し、肥前房日伝の菩薩像は身皆金色にして剃髪の比丘形であることを記されて、大聖人の正意でないことはもちろん、我見をもって四菩薩を添加するために、様々な形相となる愚かさを、後代の鏡として記録せられたのである。
 日興上人の正意は、大聖人の御書の意によってあくまで大漫荼羅本尊にあるから、四菩薩像は当然本意でない。しかし、しばらく一体像を破折し停止するため、本門の義を示す意味より「日興が義を盗み取る」と言われたまでである。この事情も判らずに日興上人を仏像論者などということは、当時の事情に暗い短見である。
 次に大聖人の大漫荼羅を日興上人はいかに拝されたかといえば、日興上人は大漫荼羅を大聖人の心法であり、その妙法を顕わすものと拝されたのである。故に日蓮の御名が最も根本肝要であって、これを外した大漫荼羅は心の用きを失った人と同様、何の意味もない。本尊書写に当たり、六老僧のうちで首題の直下に日蓮在判と書かれたのは、日興上人ただ一人である。これこそ、大漫荼羅は日蓮大聖人の当体であり、またその中で大聖人が十界ないし無遍の法界、及び久遠の仏法を総合統一する主体者であるとの信解を顕わされるものである。他の直弟は日蓮の御名を除いて、その位置へ自己の名を大書している。これこそ既に不相伝であるゆえに、大漫荼羅の当体をまったく大聖人より遊離し、別個のものとして考えた証左である。
 また日昭・日朗の系統は霊山虚空会の儀相を顕わすものとし、中山日常の系統は逆に大聖人を除外し、大聖人と関係なく行者自己自身の妙法の当体を顕わすものとしている。これは各流の本尊相伝文書に明らかである。前者は教相ずりで末法における仏法の行位並びに要法付嘱の真意に暗昧であり、後者は観心ずりで妙法の中心者の正体に迷うものである。日興上人のみが妙法漫荼羅に即する大聖人、大聖人に即する妙法漫荼羅の真意に達し、かつ、それを人即法、法即人、人法一箇の事の一念三千の当体とし、末法の一切衆生即身成仏の大直道として拝されたのである。
 最近、他門の者が日蓮本仏も日蓮本尊義も種本脱迹も、富士門家中途から発生したような説を立てている。このように誣曲することは勝手であり、当方に何の痛痒もないが、まことに眼力のない者のたわ言にすぎないというべきである。
 日蓮正宗の教義のすべては、根源的に日興上人が大聖人の大漫荼羅に対し奉る信解・相伝の中にこそ、一切が含まれているのである。これを代々の法主上人が伝えて、その時々に応じ、種々の教学や解釈が表われているが、富士門家の化儀・信条は七百年、来微動もなく終始一貫しており、その淵源は日蓮日興の唯仏与仏・境智冥合の境界におわしますのである。
 前記相伝文書のほか、日興上人の著述中、明瞭に宗祖本仏や大漫荼羅即大聖人観を述べたものは見られないが、これは宗門草創の時期においてむしろ当然であり、種本脱迹、宗祖本仏、大漫荼羅正意論を化儀のうえに示されたことが明らかである。故に日興上人書写の本尊の体相や、七百年を一貫する富士門家の化儀・化法に日興上人の本尊観が明らかである。後に述べるごとく、日興上人の晩年の頃に重須学頭となった日順は、明らかに宗祖本仏、大漫荼羅本尊正意論を立て、特に表白文には大聖人が大漫荼羅所在の十界ないし一念三千の総体とする信解を示している。これも師弟不二に立つ信仰教学上の表現であり、翻って日興上人の本尊観が明白であるといわなければならない。

      第二目 戒 壇 論

 三大秘法抄の
「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(新編一五九五)
 の文中、この最勝の地とは富士を指すものである。他門では身延山最勝論もあるが、身延在山の御書において「尋ねて」とあるのは現在の身延の地でない証拠である。また一期弘法付嘱書の
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(新編一六七五)
 との文は、まことに明瞭に身延最勝論を破している。日興上人が、この聖意を受けて富士に住され、諸般にわたって戒壇建立の準備をなされたことは疑うべくもない。その日興上人の真意を窺うものとして本門弘通事がある。
「迹門 比叡山 本は日枝山 吾山 御社



 本門 富士山 蓮華山   大日山」(前文の各文を省略・歴全一―四四)
 「吾山」とは伝教大師の「吾立つ杣に冥加あらせたまへ」の歌による意で、御社とは坂本の山王七社である。このように簡潔な迹門と本門との対句に、像法の鎮護国家の道場に対し、末法は本門大戒壇を富士山に建立すべき意を拝する。また富士一跡門徒存知事の「本門寺を建つべき在所の事」の次下に、「五人一同に云はく」の文字が写本により脱却していることが、前文よりの文例によっても明らかである。次下の
「此の本門寺に於ては、先師何れの国何れの所とも之を定め置かれず」(新編一八七二)
 の文は五人の主張であり、次の「爰に日興云はく」より下が日興上人の意見である。
「爰に日興が云はく、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河富士山は是日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ。仍って広宣流布の時至り国王此の法門を用ひらるゝの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」(新編一八七三)
 この文は日興上人の独断でない。日蓮大聖人より
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書・新編一六七五)
との遺命を賜っているために、「必ず」との絶対的な二字を置かれたものと見るべきである。この遺状並びに日興上人の戒壇論は「富士山」と「本門寺」の二点が主軸であるが、要するに本門戒壇の在所は富士山で寺号は本門寺である。この二つが一期弘法付嘱書をはじめとして前記富士一跡門徒存知事のほか、百六箇抄の「下種の弘通戒壇実勝の本迹」(新編一六九九)の下にあり、また表白文・本因妙口決等、日順の一連の著に見られることは、二箇相承の自然の援証となるべきである。日興上人の門下に賜った大聖人の本尊八幅に
「本門寺重宝たるべきなり」(富要八―一七七)
「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」(富要八―一七八)
 等の脇書を拝し、また日興上人御遺跡事に
「日蓮聖人御影並びに御下し文 申園 城状寺
 上野六人老僧の方、巡に守護し奉るべし、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし(中略)
   正慶二年癸酉二月十三日       日 善花押  日 仙花押  日 目花押」(歴全一―二一三)
 とあり、いずれも未来に建立される大本門寺を指すことは当然である。しかしその建立は、当時が独裁的色彩の濃厚な武家政治形態であることと、前代の聖武と鑑真、桓武と伝教の例に準じ、当事者の決定がなければ実現不可能な時代であった。そのゆえに身命を惜しまない公家・武家への申状奏呈が、何回となく続けられたのである。その中から本門寺建立の強い願望が生じたのは当然である。
 前記のほか、三位日順の用心抄に、日興上人の言としての
「法華に皆な進む時来り・本門寺の立つの期至らば・澄公の跡を以つて大学頭に補せよ」(富要二―一六)
 の文や、本門心底抄の
「抑・日順幼稚の昔・富山に詣で(中略)長大の後・叡岳に上りて(中略)已来朝夕法華の学行を勤修し昼夜本門寺の立つことを相待つ」(富要二―三六)
 との日順述懐の文のごとく、当時はまさしく門下緇素の回天の業に対する願望が燃え上がり、本門寺建立を翹望していたのである。ここに、大聖人・日興上人の広布への意志の表われがあることを肝に銘じなければならない。特に日興上人の強烈な破邪顕正と理想実現への信念は、種々の準備や行動として発現せられたが、その中に本門寺の棟札を書かれ、未来の三堂建立を示された文献がある。
 表面は
「一 日蓮聖人御影堂
 一 本化垂迹天照大神宮
 一 法華本門寺根源
  永仁六年二月十五日造立なり」(歴全一―八八)
 とあり、裏面に
「国主此の法を建てらるの時、三堂一時に造営すべきなり。
  願主  白蓮阿闍梨日興 花 押
  大施主 地頭石河孫三郎源能忠    合力 小泉法華衆等
  大施主 南条七郎次郎平時光     仝  上野講衆中」(歴全一―八八)
 とある。現存のものは杉板、丈一尺五寸、厚さ四分のものである。この棟札については、筆跡も日興上人とは断定できず、おそらく後人の再記と思われる。但しこれは日順雑集中に見る垂迹宮棟札とあるものと、札の文字は表裏とも同一である。故にこれは垂迹宮と御影堂と二つの棟札であったとも推測され、いずれにせよその堂が雛形であることは、裏面の「国主此の法を建つるの時」の文で明らかである。御影堂については、日興上人筆開目抄要文上下の最奥に
「正和六年二月廿六日 御影堂に於て」
 とあるのを日亨上人が徴され、正和六年は重須にお住まいであり、この書が上下巻とも現に重須に存することをもって、当時重須に御影堂があったことの証左とされている。正和六年以前のいつ建立されたかの適証はないが、おそらく永仁六年の建立といえよう。したがって、これら棟札は、雛形としての永仁六年の御影堂建立、及び日順雑集の記録による同年月日の垂迹堂建立の表示というべきである。また日有上人の化儀抄に
「日興上人の時、八幡の社壇を重須に建立あり、内には本尊を懸けらる、是れは本門寺の朽木書と云云」(聖典九九一)
 とあるのとは、おそらく別個のものであったろう。また右棟札の「法華本門寺根源」に関する説明事跡が、日興上人当時にまったく存在しないことは何を意味するのであろうか。
 かの大石記の記事における物語は応永六年であることによって日時上人と推されるが、日興上人の重須へ移られるに当たり、南条時光が大石留座を願ったとき、上人の仰せとして
「身は病気の者なれば、今少し山近く居てたきゞ火にあたり候はん。但し身は石川が領に候へども已に本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し、随って身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す。毎月入堂申すべし、心本無くば思し召すべからず」(大石記)
 と懇ろに仰せられたことが、日辰によって書き残されている。
 更に、日興上人の在世中、重須に本堂がなかったことを大石記に
「今の重須の本堂は昔之無く御影堂計りなり」
 とあり、奏聞の無尽の費用をもって大石の僧俗に相談なく御堂を建てたのが、応永の頃既にあった重須本堂であるとしている。おそらくこの御堂のことを日順雑集に
「一 本門寺・貞和三年丁亥十月十三日造営なり
  願主 日妙 日順 日済等
  大施主石河式部太輔源実忠
  大施主南条太郎兵衛平高光
  大施主秋山式部太夫源宗信
   大工本門寺大工兵衛目末信」(富要二―一二七)
 と記すものと思われる。この辺から日興上人の本意に背いて仮の本堂を造り、これを本門寺と称するに至った濫觴があったのではなかろうか。したがって貞和三年までは、重須に本堂がなかったことが明白である。また大石記における
「身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」
 とは、大聖人御影を意味するのである。そこで日興上人の構想は、一時雛形としての御影堂・垂迹堂は重須に造られたが
「本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し」(前記)
 と仰せのごとく、根本は大石寺が本門寺根源の堂であり、遺言(日興上人遺跡の事の文による)では御影も大石寺本六人の守護に任され、したがって三堂の場所も時至らば大石寺を根源とされたのである。
 本門寺根源とは日寛上人が初めて
「根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(文底秘沈抄・六巻抄六八)
 と喝破せられた所以であり、三堂の棟札の理由もここに中心のあることが明らかである。日興上人の主意は、大石寺を根源とし、三大秘法具足の大本尊、すなわち弘安二年に身に宛て賜るところの大漫荼羅を安置する大本門寺建立を待ちたもうことにあったのである。
 次に本門の戒については、富士一跡門徒存知事に
「日興が云はく、彼の比叡山の戒は是迹門なり、像法所持の戒なり。日蓮聖人の受戒は法華本門の戒なり、今末法所持の正戒なり」(新編一八六八)
 と像法天台の戒と末法本門の戒のけじめをはっきりつけられている。しかしその細部についての具体的な戒相には言及せられていない。五人所破抄も
「爾前迹門の尸羅を論ずれば一向に制禁すべし。法華本門の大戒に於ては何ぞ又依用せざらんや。但し本門の戒体の委細の経釈面を以て決すべし」(新編一八八〇)
 と本門の戒体に触れつつも、その委細は面授口決にありとして紙面に露わにしていない。それが現今伝わる本門戒体抄だとも考えられる。この本門戒体抄は、民部日向の立案で実行に移すことはなかったという先哲の批評がある。なるほど日向の著である金綱集の「律宗事」の下に「五部律事七衆事」を挙げる次に本門戒体抄全文を引いてある。特に本門戒体抄の二箇処の「日蓮」の字が金綱集ではまったく別字になっており、かつ断わりもないので、この分は日向の原本より抄出し、大聖人の名を盗用して御書に入れたものとの推定も一往できる。しかし金綱集には、そのほかにも各処に御書として伝えられている部分の挿入と見られる文があり、その中には本門戒体抄と同様、御書の文として断わりを入れていないところが多く、また同書内の真言見聞集中に御書の法華真言勝劣事を引いて「聖人御書也」と明らかに断わっているところもある。これから考えると金綱集編集の態度として、御書を必要に応じて引用ないし抄出をしていることが判明する。とすれば本門戒体抄という御書を日向が集中に取り入れたものとも推測ができ、金綱集中に入っているからといって、必ずしも日向の著だと断定することはできない。
 三位日順の従開山伝日順法門に
「戒体抄に始は諸経と迹門と惣の義をあそばされ・結の時寿量品の久遠実成の義をあそばされたるなり、是偏に結要付嘱の導師たるに依るなり」(富要二―一〇三)
 としており、日順はもとより日興上人も大聖人の御書として依用されたとの想定もできるので、やはり御書と拝すべきである。もちろん、本門戒体抄における梵網経の十重禁戒を本門のうえに約して随義転用する戒相・戒文は、現実にはやや煩雑であり、かつ宗旨上の本門の戒体・戒相がはっきり表われていない憾みがある。大聖人の御書として拝する場合は一往付文の重で、本門の戒体を指南されたと見ることができる。日興上人や三位日順の教学文献中に本門戒体抄の受戒作法の文が多く引用されていないのは、宝塔品の「是名持戒行頭陀者」の法華一乗戒が、そのまま迹本に通ずることをもってこれを依用し受持を根本とするほか、実行に当たっては本門の戒文も余り煩瑣なものを考えておられなかったものであろう。教行証御書にも、本門の肝心妙法蓮華経は三世諸仏のすべての行と善を集めたもので、あらゆる戒の功徳が納まっていると説いてある。故に本門の肝心妙法蓮華経を受持することがすなわち本門戒であり、これが末法の持戒の基本である。また従開山伝日順法門に
「凡本門至極の戒とは是好良薬の文是なり、是則妙法五字是なり、此五字を持てば五戒・十重禁戒を持つに成るなり、五字を一口唱れば万行万善を修るに成るなり(中略)爾前の諸経を持てば十悪を具に作るに成るなり、又法花経を持てば十悪を打ち返して十善と作すなり本迹の相違加様に得意べきなり、本門戒体とは於我滅度後応受持斯経・是人於仏道決定無有疑と説く是なり」(富要二―一〇三)
 というものは、前掲、教行証御書の趣旨と同様であり、受持を基本とした本門戒に関する経釈指南である。もって日興上人の本門戒に関する論議が明らかであろう。
 次に本門の戒壇に関して、大漫荼羅ないし御影か、一尊四士造像かの論議について一言する。たびたび述べるが、かの富木常忍の大聖人への質問に対する返事としての四菩薩造立抄のポイントは
「地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし。尤も今は然るべき時なり」(新編一三六九)
 の文をいかにとるべきかにある。富木常忍がともかく今直ぐの造立は時機が早いのだと思ったことは間違いなく、それが仏像造立可否の問題について、門下で次第に論じ合うようになる因をなしたことは想像にかたくない。もっとも明らかなことは右文がその時点においての仏像造立を禁止する意味であるということであるが、その先が二つの解釈に分かれる。つまり当面の制止の真意は全面禁止にあると達解することと、将来のある時期、すなわち四菩薩造立抄の文における地涌の菩薩の出現を広布の達成と見て、その時に造立を許すとの解釈である。この二面は相反するようであるが、日興上人は前者を真意とし後者を一往の対機の表現とされ、いわゆる権実の意味をもって裁かれたのである。日興跡条々事の条目の条項に弘安二年の大本尊の授与を示され、また富士一跡門徒存知事に
「聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず」(新編一八七一)
 といわれる文から、正意においては、いかなる時も仏像造立の意志などあるはずがない。しかしまた一体仏造立執者のために四菩薩の添加を一往示されたのも日興上人で、追加八箇条の
「日興が義を盗み取って四脇士を造り副ふ」(新編一八七五)
 等の文や、五人所破抄の
「執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ふること勿れ」(新編一八七九)
 と示される立場が、一往存したことに注意しなければならない。もちろん日興上人の真意は当時の造像制止にあった。その真意が判らず、あちらこちらで四菩薩の造像が始まったが、興師門下だけは厳として宗祖の正意が守られた。しかるに日尊が、京都開教の晩年において、釈迦像と十大弟子を刻んだ。これに対する後嗣日尹の疑問は西山日代への質問となり、その回答が日代の返状となって現われている。
「仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し、国主御帰依の時、三ケの大事一度に成就せしめ給ふべきの由御本意なり、御本尊図は其れが為なり」(日宗全二―二三四)
 本門寺建立時の造像論であるが、これはもちろん日代の真意ではない。日興上人の前述の対機表現の意味を用い、当時の造像を制止したのである。仏像の言は使いながらも、いよいよ現実問題となれば仏像とは大聖人の御影なりと、文底下種の法義を示す意味と用意があったことは、御影を「仏」ないし「仏聖人」といわれた日興上人の高弟として、充分な薫陶を受けた日代において、思い半ばに過ぎるのである。日順の本門心底抄に
「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし」(富要二―三四)
 とある文もまた同様である。日順の各文に明らかな大漫荼羅即日蓮大聖人の信仰観と、
「聖人は造仏の為の出世には無し本尊を顕んが為なり」(富要二―九二)
 と観心本尊抄見聞にいう信解からすれば、広布の時こそ大聖人の正意の大漫荼羅本尊でなければならないし、また仏像の言もその意味を持っている。すなわち仏像とは御影のことである。この意味から日寛上人が右二書の文献について
「是れ当時の造立を制せんが為に且く事を広布の時に寄するか」(末法相応抄・六巻抄一五八)
 といわれたのは権巧の言として、簡にしてまさに要を得たものというべきである。故に日興上人の思想は本門の戒壇すなわち本門寺建立の時においても、釈尊の仏像安置を志すものでなく、大漫荼羅本尊であったことは明白である。

      第三目 教 判 論

 日興上人の教判については開目抄の五重相対、観心本尊抄の五重三段が基本となって、更に師資伝受の法門相承に窺われるところである。
 まず大聖人よりの相伝指示による七面決の点睛たる本因妙抄では、名体宗用教の五重玄に約する四重浅深の法相が示されている。すなわち、爾前・迹門・本門と至極しつつ、更に一重立ち入って結要の法体を所顕とする勝劣を立て、教相の至極するところに末法の法体を判ずるのである。また観心門は、右法体の境智と一如する行門の指南で、七面決の十重顕観の法相に依托して末法の行相を示されている。百六箇抄は種本脱迹の立場から、釈尊・天台・伝教・日蓮大聖人までの弘通の領域における種々の法相法理について、本迹の勝劣を立てるもので、その教判的基調は本因妙抄とまったく同じである。
 次に五重円記には、円について権と迹と本と観心と元意の五重を示される中で、中古天台を批判し、本門の教相より一重立ち入る観心とは、恵心の四重興廃の観心であるが、これは像法迹門の流通であると適確に決判されている。当宗の種本脱迹義が中古天台の亜流などという者は、単なる偏見・悪口にすぎない。また元意の円とは五大院安然が機法を分かたざる法位の重として、権実本迹未分のところに根本法華の法体を立てることを示し、当宗ではこれらを破して、その上に真の元意とは上行別付の本門自行の要法であることを示されている。そしてその要法は、本因妙所修の体であり、これをもって事行の妙法となすと結論されるところ、まったく教判における台当の異を明弁されており、天台末流の本覚法門観心特勝の義と似て非なる本化独歩の正義が明らかである。
 更にいえば、日代の書状に
「師匠興上人は八品所見之勝劣よりも、一品二半之勝劣はいか計りも勝れ、一品二半より一重立入たる勝劣を立させられ候」(日宗全二―二三六)
 とあることは、むしろ弟子の客観的書状だけに傍証歴然たるものがある。「一品二半より一重立入たる勝劣」とは、法体のうえの種脱の勝劣以外の何ものでもない。まさしく日興上人が秘かながら法器の弟子に種脱の深義をもって、一代経を括るべき教判を説かれていたことが明らかである。
 台当の違目については、原始天台と末流日本天台に分かれる。通常、違目といえば、対原始天台を意味するが、これについては本因妙抄に二十四番の勝劣があり、また百六箇抄の前半分の脱の本迹は釈尊一代の化導を括る意における天台の本迹であり、後半の種の本迹は当家の本迹であるから、この脱種の対見はそのまま台当の違目に当たるのである。その要点は天台弘通の釈尊の本迹は、本迹ともに久本に望めば迹となり、末法の宗祖弘通の規範は、久遠の本を本因名字に入れて、事行最要を顕わし、本果以来の釈尊一代の法を文上脱迹とするところにあることはいうまでもない。また、末流中古天台に対しては、前記五重円記中に破されるところであり、日興上人の種脱の決判はまことに明らかである。

      第四目 行 法 論

 正行題目は論のないところであるから省略し、助行について述べる。方便品・寿量品の二品読誦は日蓮大聖人の毎日の勤行であり、日興上人が当然これを受け継がれたことは、種々の文献に紛れもない事実である。しかるに五老僧並びにその系統の日常の所作はどうであったろうか。富士一跡門徒存知事・五人所破抄に破折される如法経・一日経等、一部の読誦・書写を行なっていたことはまず疑いない。但し天目日向問答記に、日向は大聖人の行法として方便品・寿量品の二品読誦の正当性を論証している。これは天目との法論において引証するもので、日向の行法論全体の主意がここにあるとは必ずしもいえない。大聖人在世はともかく五老系においては摂受的な修行と目的のため、いつとはなしにその規則が乱れたものであろう。本宗において、七百年来、この行儀にいささかの変わりもないことは、偏えに日興上人の厳格な垂範の賜である。
 但し二品読誦中の方便品読誦の理論としては、三位日順が師名に託して書いた五人所破抄や従開山伝日順法門にその一分が窺われるのである。五人所破抄に、天目が富士へ来たって方便品読誦を難詰したが、日興上人に説破されて承伏したことを示し、これに関連して方便品読誦の理由を述べ、一には所破のため、二には文証を借りるとされている。また、方便品を読誦する元意は「只是牒破の一段」(新編一八八二)であるとして、所破の義に重点を置いている。所破とは方便品を読むことによって、その迹の義を破するのであり、借文とはその文を借りて本地の実相を顕わすのである。従開山伝日順法門では
「日順云く、方便品を読む事は第一は所破なり、第二は下文顕已通得引用の筋と云云。但し日興上人は但所破と云うべし、迹を借りて本の助に置くとは云うべからずと仰せ有るなり」(富要二―九八)
 と述べている。これで見ると、所破・借文の二義は日順の説であり、日興上人は単に所破の一義であったように見える。この記述がいつ頃のものか不明であるが、内容と日順の病眼の伝記を併考するに、おそらく五人所破抄の述作以前であろう。一方、五人所破抄は日興上人の高覧検閲を経たものであるから、日興上人の借文の義の制止も単に所破を強められる意味であり、その全体観からは五人所破抄を正意と見るべきである。すなわち、その大旨は二義を依用されたものといえる。これを要するに、当時天台流を脱しない本迹一致門流の大半は、一部読誦に執われ、少分は本迹の相違勝劣や読誦の意味が判らずに方便品・寿量品を読誦したのに対し、天目等は本門特勝の立場から方便品不読説を主張した。この両端の迷妄を打ち破って、本門の立場でなお所破及び借文の意から方便品を読むことを教示されたのが日興上人である。五人所破抄にこの二義を挙げて
「此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃ぶ所に非ず」(新編一八八二)
 といわれていることから見て、大聖人よりの相伝によるものであり、日興上人の勝手な独り立ての法門ではない。また、寿量品読誦の理論も、当然日興上人の胸中に存したものと推測されるが、当時の文献に明らかに顕われなかったのである。



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