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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

難陀の出家

 難陀の出家 ある時、釈尊はご自身の異母弟である難陀(なんだ)を出家させようと、しばらく難陀に向かって出家の因縁とその功徳を賛嘆して、彼の心に菩提心を起こさせるよう努められた。
「難陀よ、どうだ家を捨てて出家しては」
「世尊のお言葉ではありますが、わたしはまだ出家は望んでおりません。その代わりに、わたしはこの生涯のあいだ必ず、世尊を初めお弟子方に、衣服・寝具・飲食・薬湯の四事を供養いたします」
 こう言って難陀は出家することを頑として断ったのだった。
 それから後釈尊は、何回も難陀に向かって出家を勧誘された。
 しかし難陀はそれでも応じなかった。そこで釈尊も、執拗に勧誘するのは策を得たものではないとお考えになり、そのまま中止しておいた。
 そしてある日、釈尊は一人の付き人を連れて難陀の家に行かれた。このとき彼はちょうど村で一番美しいといわれた妻の孫陀利(スンダリ)とともに楼閣上にいたが、はるかに釈尊が自分の家に来られるのを見て急いで楼閣から下りて、釈尊のところに行き、そのみ足を礼拝して言った。
「世尊、なにとぞわたしの家にお立ち寄りいただきとう存じます」
 釈尊は彼の依頼によって、その家に立ち寄ることにした。その時彼は釈尊に向かって、
「世尊、しばらくお待ちください。そしてわたしの心ばかりの食事の供養をお受けください」
と願った。
「せっかく志しだが、わたしはすでに食を終わって来たので、その心配は無用である」
「では、果物なりともお召しあがりください」
「それならばよいであろう」
 そこで彼は、鉢に果物を入れて釈尊に差し出した。けれども釈尊はこれを手に取ることはなかった。
 彼は仕方なくそれを釈尊の付き人の所へ持って行って与えようとした。 しかし、付き人も受け取らなかった。そのため彼の心は迷ってしまった。
 そのうちに釈尊は、付き人をうながして座から立って寺院に帰られた。これを見た彼は果物を持ったまま家を駆け出て釈尊のあとを追った。
 その時、彼の妻の孫陀利は、
「あなた、そのような姿で、どこへおいでになるの」 と大声で夫に向かって叫んだ。
「この鉢を持って世尊をお送りして、すぐ帰って来るよ」
「では、なるべく早くお帰りなさい。待っておりますから………」
 夫を慕う妻の声をうしろに聞きながら彼は走った。
 釈尊は難陀の家を出ると、故意に東に行ったり西に行ったり、または街のはずれを歩くなどして、城内の人々に難陀が鉢を持ったまま釈尊を追っているありさまを見せられた。
 このありさまを見た城下の人々は口々に、
「世尊はああして、必ず難陀を出家させるだろう」 とささやき合った。
 さて、人々のこのささやきを聞きながら、釈尊はおもむろに寺院に帰られた。そして一人の弟子を招かれて、難陀の持っている鉢を取れということを手で知らせると、弟子は釈尊の意のある所を察知してずかずかと彼の前に進んで、無言のまま彼の手にしていた鉢を取ってしまった。
 このとき彼は、釈尊のみ足を礼拝しながら、
「世尊、わたしはこれにて失礼いたします」 とあいさつした。
「帰宅せずに、ここにおってはどうかな」
「いえいえ、わたしは出家するよりは、むしろ生涯、世尊の教団に飲食・衣服を供養した方がよいと思っております」
「なるほど難陀よ、この地球は縦の広さが七千由旬、北の方が広く南方は狭小で、あたかも串の箱のようである。そして、この広い地球上には、あたかも芋・竹・アシ・笹・稲のように悟りに入った人々が充満しているのである。これら多数の聖者に、一生涯にわたり、飲食・衣服・寝具等の四事を供養し、そのうえこれら聖者の入滅の後は舎利塔を建立し、その塔に旗・傘・宝鈴などを施し、また香華・燈明などをもって種々に供養するというならば、その功徳は多いかもしれない」
「はい、わたくしもそのように思っております」
「しかし難陀よ、実はそうではないのだ。これらの功徳よりは一仏を供養する功徳の方が、はるかにすぐれているのである。また難陀よ、もし人が出家して、一日一夜でも清浄行を修するならば、その功徳・果報はもっとすぐれているのである。ゆえに難陀よ、出家するがよい。そして五欲の享楽を離れるがよい。もろもろの欲望は苦しみがともなっているものである。欲望は無常で投げ打つべきものである。欲望は大苦の根本であり、大きな傷のようなものであり、大悪・大厄・大苦悩の発生の源である。 貪欲は人々を破滅せしめ、破壊せしめる。難陀よ、ゆえにそなたは今、まさにこの五欲のあやまちをよく考えなければならないのである」
 このように釈尊から、世俗の欲望がはかないものであることを説き聞かされても、愛欲のきずなにしばられていた難陀は、まだ出家を希望しなかった。かといって彼は釈尊を尊敬するあまり、釈尊のお言葉を振りきって去ることもできかねてしばしためらっていた。
 しかし意を決して、
「世尊、わたしは出家いたします」 と、言いはなったのです。

 そこで釈尊は一人の弟子を呼んで、さっそく理髪師に来るように命ぜられた。理髪師は難陀の前に現れると、手にカミソリをとってすぐに髪の毛を剃ろうとした。この様子に難陀はびっくりした。
 そして理髪師に向かって、
「お前は、どうしてわたしの頭を剃ろうとするのか」 と、荒々しく怒鳴り、これを拒んだ。
 この様子を見ておられた釈尊は、正念正意をもって、
「難陀よ。わたしの法のなかに入って、もろもろの苦悩を断つために必ず出家して清浄行を修めるがよい」 と仰せられると、不思議にも難陀の髪の毛は、自然に落ちて修道者の姿となった。
 かくして七日を経ると、自然に身に袈裟を着け手に鉢をとって、ある長老について出家し具足戒を受けるにいたった。
 こうなると難陀の相形は端正で、三十二相をそなえ金色の身光を放ち、釈尊と見あやまるほどの姿をそなえるようになった。
 しかし難陀は、まだ王位の権勢や快楽な生活を思い出したり、愛妻孫陀利の美貌を回想することから離れることができなかった。
 そのため色欲を念じて、ついに清浄行もせず仏の戒律を捨てて、王宮に帰りたいというようなことさえ思うようになった。 そして毎日毎日、妻の顔を描いたりしては、その日その日を過ごしていたのでした。
 この難陀の乱行を見た同行の人々は、
「難陀は僧房にいるにもかかわらず、カワラや木板を取っては、それに女性の像を描いて眺めているとはなんたることだろう」 と、難陀の行動に対して、いや気を生ずるようになった。
 そして後日、弟子たちはこのことを釈尊に訴えた。この訴えを聞かれた釈尊は、直ちに難陀をお呼びになって尋ねた。
「難陀よ、そなたは部屋でカワラや木板に女性の像を描いて、毎日それを見て楽しんでいるそうだが事実か」
「はずかしながら、さようでございます」
「そのようなことは不善の行為である。出家した者は女性の姿など描いて見ることはならぬ」
 釈尊はきびしく難陀をたしなめられた。と同時に、一般の弟子たちにも堅くいましめられた。
 さて、それから数日たったある時、長老難陀は僧坊を守護していた。すると釈尊が村に出て乞食(こつじき)するという話が伝わってきた。そこで自分も久しぶりに王宮に帰って、妻の孫陀利に会いたいとひそかに思った。
 すると早くも難陀の心を見通された釈尊は、
「難陀、そなたも村に行きたいならば、諸房の門を閉じて、それからにするがよい」 と仰せられた。こう命ぜられた難陀は、早く門を閉じて家に帰ろうとして、第一に仏の一房を見ると門が開いていた。これを閉めて帰ろうと門を閉じると、今度は舎利弗の門が開いた。 これを閉じると目連の門が開いた。これを閉めると次には大迦葉の門が開いた。こうして一門を閉めると第二門が開き、第二門を閉めれば別の門が開くように、一向に門を閉じることができなかった。
 これを見た彼は、
「これは同僚が何ごとかを計画しているに違いない。だがこんなことにかかわりあっていては王宮に帰れない。ほうっておいて帰ってしまおう」 と考えて、林の中から出ようとした。
 しかし、この様子を天眼をもって見通された釈尊は、ただちに難陀の前に姿を現わされた。この釈尊の姿を見た難陀は、急いで樹木のうえによじ登って自分の身を隠した。
 しかし釈尊は、神通力でその樹の上を向かわれて、
「難陀、そなたはどこへ行こうとするのだ」 と問われた。
「はい、実は王宮に行って世俗の楽しみに耽ろうと思っております。かの妻の孫陀利の姿を思い出しますと、木枯らしが吹くような精舎の生活がつくづくいやになりました」
「難陀よ、そのような邪念をおこすでない。清浄行を勤めてあらゆる苦を断つのだ」
 こう釈尊が言われたけれども、難陀の心は孫陀利の艶麗な姿が目前にちらついて我慢できず、なんとかして寺院を脱出しようと、以後もその時期の来るのを待っていた。この難陀の邪念を見破っておられた釈尊は、その後もしばしば懇切に説法をされた。しかし馬耳東風というのか、難陀の耳には釈尊の教えは通じなかった。こうして、難陀は、つい修行を怠るようになった。
 難陀の前途を案じられた釈尊は、ある日難陀に向かってこう仰せられた。
「難陀よ、今日わたしと一緒にカピラ城に行くか」
「ぜひとも、お伴をさせていただきます」 彼は願いが叶うと喜んでこう答えた。
 そこで釈等は彼を伴って城下にはいり、ある魚屋の店先に来て止まられた。かや草の上には、たくさんの死んだ魚がくさい匂いを放って並べられていた。
 これを見て釈尊は、
「難陀、店頭のかや草を一把取って見るがよい」 と命ぜられたのである。
 彼は命ぜられたとおりかや草を取った。そして、しばらくかや草を握っていると、
「そのかや草を地に捨てて、そなたの手を嗅いでみるがよい」 と、釈尊はまた仰せられた。
 彼は手のにおいを嗅いでみた。魚が死んだ臭い匂いがした。
「手がにおうか」
「はい、生臭そうございます」
「難陀よ、それと同様に悪人と交際するとしだいに悪業に染まり、はては悪声を天下に残すようになるのだ。それゆえ悪友との交際を断つがよい。それと反対に善友と交わる時は、名声を得ることができる。あたかも香物を持っていると、その妙なる香気が長く手にあるようなものである」 と、釈尊は難陀を教え導かれたのだった。
 しかし彼は、なお世俗にある楽しみを恋い幕い、また妻の孫陀利を慕って、相変わらず修行を怠けていた。 かくて難陀の迷いの邪心は容易に消すことができなかった。
 そこで釈尊は毒を治すには毒をもってするのたとえのごとく、彼の欲望の炎を断つには欲望の炎をもってせねばならぬと考えられた。 あるとき釈尊は、彼の手をとって、神通力である山の上に行った。風が吹いて来ると樹の枝が擦れ合って、急に火を出して山を焼き始めた。山に住んでいた五百匹の猿はおのおの消火に努めた。そのとき一頭のメスの猿が懸命に消火に努めていたが、誤って火にまかれ全身に大やけどをおってしまった。皮膚はボロボロになり、割れた肉から血がにじみ出ている。
 これを見られた釈尊は、
「難陀よ、あの猿とそなたの愛ずる孫陀利といずれが美しいと思うか」 と問われた。
 難陀はあまりの悲惨さに言葉を失い、なんとも答えることができなかった。
 次に釈尊は彼を伴って天上に登られた。天上では帝釈天王が天女とともに楽しそうに遊んでいた。
「難陀、あの天女と妻の孫陀利とは、いずれが美しいか」
「それは天女のほうが、はるかに美しゅうございます。天女と妻の孫陀利とでは、先ほどの醜い猿と妻の孫陀利と同じくらいの差があります」
「あの美しい天女と快楽を得てみたいと思うか」
「わたしの望むところでございます」
「あの天女と遊ぶには、わたしの教えを修行せねばダメである」
 難陀は天女と遊ぶことができると聞いて、その欲望のあまり一心に仏の道の修行に精進した。
  しかし、快楽の欲望を得る手段として修行を続けている彼の、心を知られた釈尊は、さらに彼の手をとって大地獄の底に入った。そして大火炎を放っている釜を彼に示しながら、
「難陀、この釜はだれのために燃えているのか、獄卒に尋ねてみるがよい」 と仰せられた。
  難陀は獄卒に向かって尋ねた。すると獄卒は、次のように答えた。
「この釜は、欲望を捨てることができない難陀のために燃えているのであります」 これを開いた時、難陀は顔がまっ青になり、恐怖を感じ身の毛のよだつ思いがした。 そして自分の今日までの生活と心が、いかに不浄なものであるかを思い知った。 今までのフワフワした心を捨て去り、森林に行って修行を重ね、道を得ることができたのだった。
 その修行の効あって、難陀はついに悟りを得ることができ、釈尊より、
「欲望を調伏せる点においては、難陀が第一人者である」 というおほめの言葉をいただいたのである。
(佛本行集経第五十七)

【解説】
 佛本行集経は、大正新脩大藏經で本縁部に属している。これは、隋の闍那崛多(じゃなくった)の訳したもので60巻からなる。漢訳仏伝のなかで最も詳しいものであり、釈尊だけでなく迦葉、舎利弗、目連、など多くの弟子たちの伝記や言行が記述されている。
 今回、取り上げた難陀は、他に同名の難陀という人物がいることから、孫陀利難陀(スンダリナンダ)といわれて区別されている。孫陀利とは、彼の愛妻の名である。 生没年不詳、釈尊の異母弟で、容姿端麗であったといわれる。
 物語にあるように、仏陀の生まれ故郷カピラバストゥで、美女孫陀利と新婚生活を送っていたところ、出家を勧められて修行に努めるが、妻との愛欲のきずなを断ちがたく、ために仏陀が種々の方便を用いて教化に努め、ついに彼にいっさいの煩悩(ぼんのう)を断じた阿羅漢果(あらかんか)の階位を得させたという。
 ここで注目されることは、男女の愛欲の捉え方である。当時、出家をして修行することが最も尊いこととされていた。しかし、大乗仏教が興ると、この捉え方は大きく変わっていく。理趣経(正式名称:般若波羅蜜多理趣百五十頌)に説かれる十七清浄句は、男女の愛欲を肯定的に説いている。


 
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