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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

目先の快楽

昔ある国に、罪人が逃げ出すと、その罰として狂った象に踏み殺させるという法律があった。
しかし、罪人はいよいよ刑の執行が決まると、いても立ってもいられなくなり、すきさえあれば逃げようとした。
そんなある日のことであった。一人の罪人が、番人のすきを見て牢を逃げ出した。
しかし逃げたことがすぐ分かり、番人は狂った象を放って、その男の後を追わせた。男は逃げ続けたが、後ろからは象が迫ってくる。
ドシンドシンと足音を立て、きばを突き出し、鼻を高く差し上げてどんどんと迫ってくる。
まさに象の大きな足に踏みつぶされそうになったとき、男の前に、井戸が見えた。
何も考えずに井戸に飛び込んだ。 男はちょうど井戸の中に垂れ下がっている一本の草の根をつかまえた。それは、いかにも頼りなげな根だった。
男は、ほっとして井戸の底の方を見た。そこには一匹の大きな毒龍が大きな口を開けて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないか。
さらに、井戸の周囲には四匹の毒蛇がウロウロしている。 象から逃げることはできたが、今度は毒龍だ。男は下を見ると恐ろしいので、しっかりと草の根につかまって目をつぶっていた。
すると、何か音が聞こえてくる。 男は、そのかすかな音が上の方から聞こえてくるのに気づいて目をやった。 それは、一匹の白いネズミだった。
どこからか出てくると、カリカリと草の根元をかじり、またどこかへ消えていく。しばらくするとまた出てきてカリカリとかじり、どこかへ消えていく。 こんなことが続けば、今にも細い根はちぎれてしまいそうだ。
男はどうしようもなく、体が震えた。 井戸の底には毒龍が口を開けて待っている。外へ出れば四匹の毒蛇に襲われ、待ち構えている象の足に踏み殺されてしまうだろう。 そうかといってこのままじっと草の根につかまっていても、ちょろちょろ出てくる白ネズミによって、必ずいつかは井戸の底へ真っ逆さまだ。
男はどうすることもできず、あきらめて、ぽっかりと広がる空をながめていた。
すると、その時だった。今まで気がつかなかったが、井戸のそばに生えていた大きな木の枝からぽとりと何かが落ちてくる。それがたまたま、空を見上げた男の口の中へぽとりと入り込んだ。
それは枝を伝って落ちてくる木の蜜であった。蜜は男の口の中に広がり、そのおいしさが体中にしみ込んでいくようだった。しかし、その蜜は一日に一滴だけしか落ちてこなかった。
男は、今すぐにも自分の命が失われようとしていることさえ忘れ、じっと口を開けて次に落ちてくる甘い蜜を待ち受けるのだった。

この話を通して、仏は次のように説いた。
牢とはこの世であり、罪人とは迷える人間のことだ。
狂った象というのは、常に変化しているすべてのことであり、ふと見つけた井戸とは、人間の住む家のことである。
井戸の底で待ち受けている毒龍は地獄そのものであり、四匹の毒蛇は地・水・火・風の四大のことであり、細い草の根は人間の寿命のことだ。
白いネズミとは、刻々と過ぎていく月日のことである。
人間がすべてをゆだねている寿命は、一日一日と細くなっていく。
それはどうしようもない事実だ。いつか必ずそれは切れてしまう。
ところがそれを知りながら、人間は上から落ちてくる甘い蜜を口に入れ、その甘さに、最も大切なことを忘れてしまっている。
甘い蜜というのは、世の中のすべての誘惑であり、楽しくおもしろいことだ。
人間はその蜜にうつつを抜かし、たちまち明日になれば、今日の自身の姿が存在しないということを少しも考えようとしない。
外には狂った象がいて井戸の底には毒龍、そして、人間のすべてをゆだねている草の根を白いネズミが少しずつかじっている。
それが人間である。
しかし、仏教を修行する者はまさに無常を観じ、衆苦を離れているのである。
       (衆経撰雑譬喩八話)

【解説】
★衆経撰雑譬喩は、大正新脩大藏經で本種部に属しており、上下巻44の話からなり、この物語は8番目にある。訳者は、妙法蓮華経を訳した鳩摩羅什である。また、同様の説話は、仏説譬喩経や賓頭盧突羅闍為優陀延王(びんずるとつらじゃいうでんおう)説法経にある。
★鳩摩羅什
西域の亀茲国(きじこく)で生まれ、父はインドの名門貴族出身である鳩摩羅炎(くまらえん)、母は亀茲国王の妹の耆婆(ぎば:釈尊在世中の医師と同名)である。
7歳で母とともに出家し、9歳でインドカシミールに渡り仏教を学び、原始経典や阿毘達磨(あびだるま)仏教を、さらに須利耶蘇摩(しゅりやそま)と出会って大乗仏教を修めた。
当時、中国は五胡十六国の争乱の中にあった。五胡の一つチベット系である氐(てい)を建国した前秦の苻堅(ふけん)は、将軍呂光(ろこう)を派遣して西域諸国を平定しようとし、亀茲国を占領したとき、鳩摩羅什の高名を聞き、長安に連行するよう命じた。
384年、呂光は鳩摩羅什を伴い敦煌(とんこう)まで戻ったが、そのときすでに苻堅は淝水(ひすい)の戦いで大敗し、前秦も崩壊寸前になっていた。
そこで呂光は涼州(りょうしゅう)にとどまり後涼国を建てた。
鳩摩羅什もそのまま17年間、涼州に幽閉される形で留まった。その間、呂光は出家していた鳩摩羅什に無理矢理酒を飲ませ、亀茲国の王女と一室に閉じ込め女犯を強要したとされている。
結果的に、鳩摩羅什は還俗したのだが、幅広い仏典を翻訳するための還俗だったともいわれている。
羌(ちゃん)族の建てた後秦の王の姚興(ようこう)は鳩摩羅什の高名を知っていたので、後涼を攻めて滅ぼし、401年に鳩摩羅什を長安に国師の礼をもって迎えた。
こうして鳩摩羅什は、ようやく長安で仏典の漢訳と説教に専念することができた。
鳩摩羅什の翻訳した経典は『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』など35部、294巻に及び以後の中国仏教に与えた影響は計り知れない。
また、死に際して「私が訳した経典に間違いが無ければ、火葬に付しても舌は焼けることはないだろう」と宣言し、そのとおりになったといわれる。(『高僧伝』巻二)


 
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