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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

毒蛇

毒蛇 釈尊が舎衛国に住まわれていた時のことである。
きれいに耕された畑が続いている。畑には、緑一面の麦が茂っていた。
昼過ぎの日差しの中の細い道を、釈尊は弟子の阿難を連れて歩いて行いた。
そして急に立ち止まり、畑のすみを指さして、
「阿難よ。あれを見てみるがよい」
そこには草におおわれた、小さな塚があった。
阿難は静かにうなずいて答えた。
「なるほど、恐ろしい毒蛇ですね。かみつかれたらひどい目に合うことでしょう」
釈尊と阿難は、顔を見合わせた微笑んだ。
それから二人は、ゆっくりとそこを立ち去った。
その近くの畑に一人の男が、釈尊と知りながら、わざと知らぬふりをして働いていた。
仕事におわれて、いままでに釈尊の教えなど、本気で聞いたことなどなかった。
釈尊を別に偉いとも、ありがたいとも、思わなかった。
その男が、今の話しをこっそり盗み聞きして首をかしげた。
「おかしなことをいう奴らだ、何があるのか掘り返して調べてやろう」
男は鍬をふるって塚を掘ってみた。
すると、どうしたことだろう。毒の蛇などではなく、お金がざくざくと出てきたのだった。
「うわっ、ありがたい」
男は目の色を変えて喜んだ。
「あいつらの話しは、いいかげんなものだ。だが、おかげで俺は大金持ちになれたわい」
掘り出したお金を持ち帰ると、男は威張って言った。
「おれたちは、もう貧乏ではないぞ、どんなに高い着物でも買ってやる。上等なごちそうが食べたければ、食べさせてやるぞ」
みんなが、わいわい言って喜んだことは、いうまでもない。
まるで、お祭りみたいな毎日が続いた。
あまりにも、大きな変わりようなので、近所の人は怪しんだ。
やがて、あやしいうわさが役所にも届き、そして、ある日のこと、男は捕らえられた。
きびしい取り調べが始まった。
「あんなに、たくさんなお金をなぜ持っているのか」
「塚の中に埋められていたんです」
「嘘をつけ、あんなところに埋まっているはずはない。どこかで盗んだのだろう。正直に白状しろ」
「盗みなどしていません。本当に埋まっていたのです」
「誤魔化そうとしても駄目だ。しぶとく嘘をついていると、ますます罪は重くなるばかりだぞ」
「どのようにいわれても身に覚えのないことは、言えません。」
「だまれ、この大泥棒めが、お前のようなやつは死刑だ」
男はなんとかして、助かりたいと思って、役人や有力者のところへ、お金や品物をこっそりと届けさせた。
そのために、掘り出したお金を、みんな使い果たしてしまったのだが、何の効き目もなかった。
いよいよ死刑が行われる日がやって来た。
その時、男は、ふと、釈尊と阿難の話を思いだして、はっとして言った。
「はじめてわかりました。釈尊たちのおっしゃるとおり、あれは恐ろしい毒蛇でした。『毒蛇阿難。悪毒蛇世尊』『毒蛇阿難。悪毒蛇世尊』『毒蛇阿難。悪毒蛇世尊』」
男は、何度も何度も、その言葉を繰り返した。
役人には、それが何のことだかわからなかった。
死刑になるというので、頭がおかしくなったのかも知れないと思って、その事を王様に申し上げた。
王様は、男を呼び出して聞いた。
「お前は、『毒蛇阿難。悪毒蛇世尊』の言葉を繰り返しているそうだが、なぜだ」
男は、麦畑での釈尊たちの話を詳しく申し上げると、うれしそうに言葉を続けた。
「今になって釈尊の教えが、真実であることを知らされました。お金は本当に恐ろしい毒蛇です。そんなものに惑わされていた愚かさに、気づかされてもらいました。そして何だか胸が晴れたような気がしたします。偶然に聞いた釈尊の教えを、今こそしっかりと信じ、それを心に抱いて死んでいきましょう」
王様は、その男の歓びあふれた言葉に、胸をうたれた。
釈尊を信ずる者の言葉に、嘘いつわりはないことを知っていたからである。
王様は、静かに言った。
「釈尊の教えにいだかれる者に、死刑はいらない。取消しにするから、すぐ帰るがよい。これからは、怠ることなく、教えを守って幸せに暮らせよ」
         (大荘厳論経巻六)

【解説】
大荘厳論経は、大正新脩大藏經で本縁部に属している。 これは、2世紀頃に活躍した馬鳴菩薩が著し、鳩摩羅什が訳したもので15巻からなる。この物語は、89話ある中の巻六の34番目にある話である。

★馬鳴菩薩について
馬鳴(めみょう)と読み、梵語では、アシュヴァゴーシャという。 紀元後80年頃~150年頃)に活躍した古代インドの仏教僧侶である。 バラモンの家系に生まれ、学僧として活躍し議論を好んだ。 当初は仏教を非難していたが、付法蔵第11人目の富那奢(ふなしゃ)に論破され、舌を切って謝罪しようとしたが、諭されて仏教に帰依し布教するようになった。 聡明で智慧があり、中インド華氏城(パータリプトラ)において、天賦の詩才をもって民衆を教化した。 ある時、釈迦の弟子であるラッタパーラをモデルとして戯曲を作り演じたところ、多くの市民が教化され、皆それを聞いて無常を悟り、500人もの王子や人々が出家したことから、王はついにこの戯曲を演じることを禁止した。 後に大月氏国(クシャーン朝)のカニシカ王が中インドを征服したとき、この王に伴われ、北インドへ赴いた。 カニシカ王の保護のもとで、仏法を弘教して民衆から尊敬され、太陽のように徳のある人という意味で「功徳日」と敬称された。


 
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