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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

女性、そして妻のあり方

その昔、釈尊が舎衛国の祇樹給孤獨園(きじゅきっこどくおん:祇園精舎のこと)におられた時のことである。
この国に須達長者という、釈尊に祇園精舎を供養した全インドに比べるものがないほどの大富豪がいた。
彼は祇園精舎を供養するため、その土地を持っていた王子から買い取るのに黄金をその土地に敷き詰めたほどであった。
さて、自分の愛する息子のために妻として貴族の令嬢を迎えることにした。
その令嬢の名は玉耶(ぎょくや)と言って、その容姿の端麗なことはまさに天女にも勝る美しさだった。
しかし、彼女は自分の美貌を鼻にかけたいへん高慢で、嫁という立場を忘れて、姑の言うことを聞かず、妻としての本分も守らず、また夫に仕えることせず、家事にも全く関心を示さなかった。
貴族の娘であるという名声と類い稀な美人という二つの条件があるために、玉耶を嫁に迎えた須達家の人々は、玉耶の高慢な態度に注意することもできず、嫁に迎えたことを今さらのごとく悔んでいた。
もちろんなんとかして玉耶の高慢な心を直したいと、家族はそろって話し合いを行った。
けれども姑の言葉さえ聞きいれない玉耶であるから、他の者の忠言などは全く聞こうともしなかった。
家族の者たちは、嫁の対策に思いあまっていたのだった。
やがて、一つの名案を思いついた。当時、釈尊が祇園精舎にあって説法をされていたのだが、
「釈尊なら、かならず玉耶を教え諭して、あの高慢な心を正しく導いてくださるにちがいない」と考えた。
家族は相談の結果、供養の品々を整えて、釈尊を自宅に招待することにした。
釈尊は須達の願いを快く聞き入れられ、多くの弟子を連れて、須達家に行った。
須達家では、上は主人から下は召使に至るまで、ことごとく門前に整列して、うやうやしく釈尊を迎えた。 けれども玉耶だけは、部屋から出てこようともせず、礼節をわきまえなかった。
すると釈尊は、身から金色の大光明を放って玉耶の部屋を照らし、三十二相、八十種好の妙なる相貌を現じた。
この仏の放たれた光明と相貌に驚いた玉耶は、あまりの尊さに我を忘れて急いで部屋を出て、釈尊の前にひざまずいて敬いの心をもって礼拝した。
玉耶の礼拝を見られた釈尊は、次のように語った。
「玉耶よ、よく迎えに来られた。女性は、自分の姿を美人であると誇ってはならぬ。容姿が美しいというだけでは、真の美人とはいえないのである。それを顔かたちの美しいことのみを誇りとして、ほしいままに行いをなすときは、後世には卑しい家に生まれて、人に従えられる身となってしまうであろう」
さらに言葉を続けた。
「玉耶よ、あなたは女性には『三障十悪』のあることを知っているか。
『三障』というのは、
一つには、女性は幼少の時には父母に従い、
二つには、嫁にいっては夫に従い、
三つには、老いては子に従うことを言う。
また『十悪」というのは、
一つには、娘が生まれると父母が喜ばないこと。
二つには、娘は父母が一生懸命に養育しても、その育て甲斐がないこと。
三つには、娘の嫁入りについて、父母は心配せねばならぬこと。
四つには、女性はその心が常に人をおそれるということ。
五つには、産みの父母と生別せねばならぬこと。
六つには、成長の後は、その身を他家に嫁に行かせねばならぬこと。
七つには、妊娠せねばならぬこと。
八つには、子を出産せねばならぬこと。
九つには、嫁いでは夫に気がねしなければならぬこと。
十には、女性は、自由を与えられぬこと。
この十のことは、どのような女性でも本来もっている特性である」
「また、『五善三悪』というものがあり、この「五善をとって、三悪を捨てる」ようにしなさい。
『五善』というのは、
一つには、妻は夜遅く眠りにつき、朝は早く起きて衣服や頭髪を整え、おいしいものは、まず、姑や夫にすすめるようにすること。
二には、夫に叱られても恨みを抱かないこと。
三つには、ただわが夫のみを守って、他の男にみだらな念を抱かぬこと。
四つには、常に夫の長生きを願い、身をもって奉公すること。
五には、夫が外出しているときは、懸命に家の中を整理すること。
これを妻の『五善』というのである。
これと反対に『三悪』というのは、
一つには、親や夫に礼を守らず、おいしいものを早く食べたがり、早く寝て遅く起き、夫が教え叱ると、夫をにらみつけ、これを詈ること。
二つには、夫のみを思わないで、他の男のことを思うこと。
三つには、早く夫を死なせて、さらに他に嫁そうと考えること。
以上が『三悪』である。
玉耶よ。『五善』を行う女性は、人に尊敬されて、世の誉れを受けるばかりでなく、九族みなその栄光を被ってもろもろの災禍をまぬがれる。
しかしこれと反対に、『三悪』を行う女性は、常に人に贈まれ、現世に安穏なることを得ずして、しばしば悪鬼やもろもろの毒のために悩まされたり、悪夢に襲われたり、願いがあっても一つも成就することなく、多くの災厄がその身にやって来るのである」

釈尊は、続いて『七輩の婦』について説いた。
「世間には、七種類の婦(おんな)がいる。
一には母婦(ぼふ)、二には妹婦(まいふ)、三には善知識婦、四には婦婦(ふふ)、五には卑婦(ひふ)、六には怨家婦(おんけふ)、七には奪命婦(だつみょうふ)である。
一の母婦とは、 夫を愛念すること慈母のごとく、昼夜そのそばに侍って離れず、食物や衣服にも心をこめて供養し、外で夫があなどられることのないように、うまず厭わず、夫をあわれむこと母のごとくする女のことである。
二の妹婦とは、 夫に仕えること、妹の兄におけるがごとく、誠をつくし、敬い尊び、異体にして同心であり、微塵の隔てがない女のことである。
三の善知識婦(師婦)とは、 愛念が強くて心がこもって、恋しくて離れたくない気持ちが強く、何事も打ち明けて夫婦の間に秘密などなく、もし夫に過失があれば諫めて繰返すことがないようにし、善いことがあれば褒め敬ってさらに善事にむかわせること、善知識が人を導くような態度をもって夫に侍する女のことである。
四の婦婦とは、 親には誠をもって接し、夫にはへりくだってその命に従い、早く起きて遅く寝て、身・口・意の三業を慎み、善いことは褒め、過ちは自分の責任であると思い、人としての道を歩み、心正しく節操と礼節を守り、和を尊ぶ女のことである。
五の卑婦とは、 常に自ら慎んでたかぶらず、真心があり、言葉柔らかに、粗末でなく、性格は柔らかく、行動は横着でなく、心を正しく、礼節をもって夫に仕え、それを受け入れられても、たかぶることなく、たとえ受け入れられなくても恨みもせず、むち打たれても詈られても甘んじて受けて恨まず、夫の好むところは勧めてやらせ、嫉妬せず、冷たくされてもその非を口にせず、貞操を守り、ただ自分の足らないことを恐れて夫につくすこと、下僕(げぼく)が主人にするようなの女のことである。
六の怨家婦とは、 夫が喜ばなければ、これを恨み瞋(いか)り、昼夜に夫と別れようと考え、夫婦の心のつながりがないことは一時の客のようであり、犬が吠えるように喧嘩をして畏れず、頭を乱して臥(ね)て、家を治めて子を養育しようという心もなく、他に対して淫らな心を発して恥とせず、自分の家族すら謗って犬畜生のように言い、まるで敵の家にいるような生活態度をなす女のことである。
七の奪命婦とは、 昼も夜も夫に対して瞋りの心をもって、なんらかの手段で夫から離れようとし、毒薬を与えたならば人に知られはしないかと恐れ、実家に行けばあちこちに立ち寄り、夫を賊することをなし、夫が財宝をもっていれば人を雇ってこれを奪い取り、あるいは情夫を頼んで殺そうとし、いつも夫の命を奪おうとする女のことである。
玉耶よ。お前は七婦のうちのどれに当たるのだ」
すると、玉耶は涙を流しながら言った。
「私は、愚かで夫を尊ばず従順でありませんでした。これからは『婢婦』のように生きて参ります。十善戒(不殺生、不偸盜、不婬佚、不妄語、不飲酒、不悪口、不綺語、不嫉妬、不瞋恚、善を行う)を守り、三宝に帰依します」
こうして、仏によって迷いの雲が晴れた玉耶は、清浄な仏教の信者となって平和な家庭な作るようになったということである。
              (玉耶女経、玉耶経)

【解説】
玉耶女経、玉耶経ともに、大正新脩大藏經で阿含部に属していて、「西晋録」に編纂されており、訳者は不明ともインドの曇無蘭(どんむらん)であるともいわれる。
江戸時代までは、良き妻となるようにと、上流階級では嫁入り道具の一つとしてこの経典を持たせる風習があったようである。
この経典の内容が、現代人からすれば、あまりにも封建的で古くさいと一蹴されるかも知れない。また、女性に対する考え方に時代的な隔たりがあることから、後世の作品ではないかとの疑問もある。 しかし、当時のインドでは、カースト制度が行き渡り身分差別が横行していた。 また、釈尊の父である浄飯王は、釈尊出産後七日目にして死亡した母摩耶夫人の後に、その妹をめとり釈尊を育てたとされているが、一説には姉妹を同時に妻としていたとされている。
そうした事実から、釈尊当時のインドでの女性の身分は低く、現代社会の価値観と合い入れない内容もあるだろうが、女性が結婚後も夜に遊び回り他の男性に心を奪われたり、パチンコ等のギャンブルにのめり込んで目の色を変えているようであれば、その家庭は決して穏やかではないだろう。
最近では女性の社会進出が進み、女性が強くなり男性がだらしなくなったとよく言われる。
それが直接の原因ではないだろうが、離婚件数が確実に増えているようである。結婚していれば子どももいるだろうが、両親の離婚の影で小さな胸を痛めている子ども達がいることを忘れてはならない。
そのことを考えると『三悪・十悪』を目先の欲望のために犯し、自分勝手な自由を得るための代償はあまりにも大きいのではないだろうか。


 
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