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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内 客忽然と入り来って云く
我れは此れ同じく日蓮聖人を信ずるものなり 。
聞くが如んば汝が宗、日蓮聖人を本物と仰ぐと此れ不審の極みなり。
抑も仏法といはゞ印度の釈迦如来が説き出せしところ、その教によって起りしものなれば釈迦如来をこそ仏と仰ぐべきなりと。
主人先づ襟を正して
汝がいふところ汝一人にあらず世皆然り。
然るに此れ未だ仏法を知らず唯外見皮相によって考ふるが故なり、汝釈迦如来を信ずるとなれば又その教説を信ずるなるべし、
客云く勿論なりと、
主人微笑して云く
然らば法華経寿量品に我れ実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由陀劫なりといふ、
此れによつて此れを見れば印度出現の釈尊によって初めて仏法ありとのみいふを得ず、
此釈尊既に久遠に成道して常に娑婆世界に住して法を説かる。
若し然らば仏法は印度の釈尊に初まるといふを得ず如何、
法華経には三種の教相あり
即ち根性の融不融と
化導の始終不始終と
師弟の遠近不遠近となり、
此等悉く久遠已来釈尊が衆生を化導せし姿なり。
ここをもって釈尊の教説を信ぜば此れを信ぜざるべからず、
客云く
我れも亦それを信ず、信ずるが故に釈尊を仏と仰ぐなり、寿量品にいふところの我れ実に成仏してより云云といふは印度応誕の釈尊がそのままこの我になるなり、よってこれを本仏と称す、
これ仏法の仏なり経によれば此仏六或示現といひ種々に法を説き種々の身事を現ずといふ、我れは此の仏を信じて他仏を信ぜず乃ちわが主とするところは久遠の釈迦如来なり。
主人云く
汝先に印度の釈尊といひ今は久遠の釈迦如来といふ。いづれを以て本となすや、
客云く
此れ二而不二なれば分つべからず、
主人云く
汝のいふところ一往理に似たれどもまことにもって不可なり、
印度の釈尊は四味三教の教主にして一代昇進の仏なり、後々に於て開近顕遠して久遠を示すとも帯権を免れず。若し此の仏を立つるとならば強ちに法華にのみ附くの要なし、
如何んとなれば開顕の上よりいはば何等賺ふべき仏はなきが故なり、
然るに法華経の真意は権門を破するにあり。
行布を存ずるが如き釈尊を去って久遠の仏につくべきを教ゆるなり、
客云く
然りといへども聖祖は此の仏八品の間に来還すといひて何等別(わか)たざるは如何、
主人云く
汝仏法を学ぶといへども猶未だ法門の裁きを知らず。
今此れについて体内躰外といふことあり。
此は躰内の辺にいはれしことにて躰外の辺にはあらず、乃ち久遠の仏の辺に居つて一代教主を簡びしに他ならず、
客驚いて云く
我れ初めて此れを聞く如何にも理なり、然れども久遠に到るも本仏といはば釈迦如来なるべし如何、
主人云く
久遠に本因本果ありいづれを立つるや、
客云く
意は本果にありといへども義は因果を摂ず、
主人云く
汝因果倶時を知るや、若し知れりといはばいづれを宗とするや、
客云く
果を宗とする勿論なり、
主人云く
此れ聖祖に背き従て仏法の至極に迷ふなり、抑も仏法を信ずるは何の為なるや、いふまでもなく我身亦成仏を期するが為なり。
本果に執するものは仏の救護を願ふことのみ知つて自ら仏に成るを忘るるなり、若し然らば阿弥陀を念ずると何んぞ択(えら)ばん寧ろそれに如かざるなり、
然るにかくの如きは一代仏法の綱格に反しかくては出離生死の期なけん、之れ方便なる所以なり、かかる者は仏は守護し慈念し給ふことあるべからず、唯因行に住して果徳を開かんとするもののみ導利し給ふなり。
よって聖祖は本果より木因を宗とすと曰(の)玉へり、
客色をなして
我等も本因を知らざるにあらず、しかし乍ら妙覚果満の仏のみ最も尊むべきが故に此れを仰ぐなり、
主人声を和げて云く
汝は仏に迷ふまた汝自身に迷ふ、汝がいふ妙覚果満の仏とは如何、察すところ苦もなく楽もなき阿羅漢果の如きか、若し然らばそれを称して夢中の権果といふべし、
蓋(けだ)し法華の至極は如何となれば一切皆成仏といひて会上悉く授記を蒙るといふもそは弘教下種に戻るが故なり、
仏も衆生も共に然り、汝がいふ如きは迹の上の仏なり、雖脱在現具謄本種の釈深く考ふべきなり、汝は一代昇進の釈迦にするが故に本を見ず。汝が如んばいづれの時か成仏の期ありや、妙法経力即身成仏すといふも名のみにて遂に実を得ることは能はざるべし。
茲に於て客話頭を転じて云く
寿量品の意は仏三世に三身あるといふ。而して此れ久遠釈迦如来に具すといふべし如何。
主人云く
汝がいふところ当然なり、しかし乍ら汝の目標は成仏を期するにあつて徒らに釈尊を讃嘆するにあらざるべし、若し然らば三身の中には法身報身に信をとるべきなり、中にも法身か肝要の中の肝要なり、よって聖祖は諸仏の師とするところは法なりと曰(の)玉ひ南無妙法蓮華経こそ法身なりと仰せらる。
客云く
法身を立つとならば大日如来あり、報身を立つれば毘廬遮那仏あり之れに類す、寿量品は釈尊の顕本なりこのところ不審なり、
主人云く
彼等は寿量品を蔑如すれば三身即一を知らず、我云ふところは三身即一円融の上に立つる法身なり混同すべからず。
尚約教約部の判釈あり、我等成仏を期するには必らず南無妙法蓮華経に無作三身を立てざるべからず、釈尊の三身に帰入し平等大慧に住するは究竟して理なり、我等現身を照して現身即本有と談ぜざれば即身成仏あるべからず、
客云く
聖祖は天台の観法を尊び経教を下すをもって不可とし給ふ、
今汝がいふが如んば法を尊びて経教を下すにあらずや、主人云く汝は根本に迷ふが故に一切に迷ふなり、聖祖云く此の南無妙法蓮華経は名体宗用教の五重玄なりと。
客言に窮し暫く黙す、稍々ありて云く
一応然り、しかし乍ら三祕抄に寿量品に建立するところの本尊は五百塵点劫当初巳来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是也といへり如何、
主人云く
汝名同義異といふことを知るや、ここに教主釈尊といふは汝がいふ釈尊にあらず、
本尊問答抄に法華経の教主を本尊とするは法華経の行者の正意にあらずと曰(の)玉へり、
此れをもつて察するに教主釈尊とは本有無作三身即事行の一念三千の南無妙法蓮華経なること明かなり、
故にまた三秘抄七の上に所説の要言の法とは何物ぞ耶、
答へて云く
夫釈尊初成道の初より、中略秘せさせ給ひし実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也、
教主釈尊此の秘法をば三世に隠れなく普賢文珠等にも譲り給はず況んやその以下をやと曰(の)玉ふ、寿量品の本尊は釈迦如来にあらざるは明らかなり、
客肯じて云く
釈尊を本尊と崇むべからざるを領解せり、併し乍ら然らば人本尊を立てざるが正しとするや、
主人喜んで云く
汝漸く此処に到る、この上は聖祖御本仏なるを領解し奉るを得べけん、先に示すところの本因妙事行の一念三千が仏の中の仏なり、然らば之れを聖祖に見奉らずして何処にか求めん、此れ決して教相を無視し逸脱するものにあらず、
一つを引かん
法華経神力品に
能持の人を称歎して斯人行世間能滅衆生闇と、此れ如来甚深の事に呼応するの言なり、此れについては種脱相対の法門を知るべきなり、末法悪機謗法の衆生を、大慈悲を起して導利し給ふは唯人(だれびと)となすや、
諫暁八幡抄に
仏は法華経謗法の者を治し給はず在世になきゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなりと、
観心本尊抄に云く云云、
我等唯題目を唱ふれば順縁なりと思へども末法の凡夫一同に逆縁なり、一心欲見仏不自惜身命の行を退転するやせざるやのことにいたつては覚束なきなり。
開目鈔の御誡めあるは此のためなり。
若し進んで退かざれば初めて地涌のうちに入らん。
客膝を叩いて頓首す。
主人覚めて見れば客なし、窓外細雨蕭条芭蕉に注ぐのみ、
主人我と我となりしを知って苦笑せり。
昭和十一年十一月 (大日蓮)