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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

佗の誤りを誡しむ(現代語)

(他者の間違いを注意し教えさとす)

 客が急に入ってきて言った。
「私は、あなたと同様に日蓮聖人を信じる者である。聞くところによると、あなたの宗派は、日蓮聖人を本仏と仰ぐようだが、これは不審の極みである。そもそも仏法というのは、インド生誕の釈迦如来が説き始めたところであって、その教えによって起ったものであるからには釈迦如来こそ仏と仰ぐべきである」
 主人は、まず姿勢を正して言った。
「あなたが言うことは、あなた一人ではない。世間の人々も同様に思っている。しかし、この考えは未だ仏法を知らずに、ただ外見やうわべによって考えているのである。あなたは、釈迦如来を信じているのであれば、その教説を信じているはずである」
 客は、「もちろんである」と言った。
 主人が微笑んで言った。
「そうであれば法華経寿量品に『我れ実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由陀劫なり』とあることを知っていよう。
この経文の意味は、インド出現の釈尊によって初めて仏法があったということでなく、この釈尊は既に久遠の昔に成道して常に娑婆世界に住して法を説かれている。そうであるならば、仏法がインド生誕の釈尊から始まったということにはならないが、どうか。
 法華経には三種の教相がある。即ち
 ①根性の融不融
 ②化導の始終不始終
 ③師弟の遠近不遠近
である。
 これらはすべて久遠の昔から釈尊が衆生を化導した姿である。ここをもって釈尊の教説を信じるならば、これを信じないことはないはずである」
 客が言った。
「私も同様にそれを信じる。信じるが故に釈尊を仏と仰ぐのである。
寿量品に説かれるところの「我れ実に成仏してより」云云というのは、インドに生誕した釈尊がそのままこの「我」になる。したがってこれを本仏と称するのである。
これ仏法の仏であり、経典によれば「此仏六或示現(しぶつろくわくじげん)
妙法蓮華経如来寿量品第十六に『如来所演経典皆為度脱衆生。或説己身、或説他身、或示己身、或示他身、或示己事、或示他事』
と六つの『或示』が説かれている」とあるように種々に法を説き種々の身体や事象を現ずるのである。
私はこの仏を信じて他の仏を信じない。すなわち私の信仰の対象とするところは久遠の釈迦如来である」
 主人が言った。
「あなたは先にインドの釈尊と言い、今度は久遠の釈迦如来と言っている。どちらをもって根本となすのか」
 客が言った。
「これは『二而不二(ににふに:二つにしてしかも二つにあらず)』であるので、分けるものではない」
 主人が言った。
「あなたの言うことは、一応理論的であるようだけれども、本当のところは全くわからない。
インドの釈尊は四味三教
(四味は、五味のうち、醍醐味を除いた乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の四味で、三教は四教のうちの円教を除いた蔵教・通教・別教の三教をいう)
の教主であって一代で昇進した仏である。
後々に開近顕遠(近きを開いて遠きを顕す)して久遠を示すとも帯権(たいごん:究極の真実の教えに対して、方便の教えをも兼ねそなえているもの)の教えである。
もしこの仏を立てるならば強(あなが)ちに法華経だけにつく必要はない。なぜならば、仏の真実の教えが顕された以上は、全く嫌うべき仏はないためである。
そうであるのに法華経の真意は権門を破することにあり、「行布(行列配布:爾前権経の修行に段階があること)」がある釈尊を捨てて久遠の仏につくべきことを教えているのである」
 客が言った。
「そうであっても日蓮聖人は、この仏は八品(従地涌出品第15から嘱累品第22の8品)の間に帰って来ると言って、特段に区別していないのはどうしてか」
 主人が言った。
「あなたは仏法を学んでいるというが、なお未だ法門の正しい解釈を知らない。今これについて「体内体外」ということがある。
これは真の教えは体内(大綱)のことであって、体外(綱目)のことではない。すなわち久遠の仏をもって一代教主を選んだことに他ならない」
 客が驚いて言った。
「私は、初めてこれを聞いた。まことに理にかなっている。しかし、久遠に到るとしても本仏といえば釈迦如来であるが、どうか」
 主人が言った。
「久遠に本因本果があるが、どちらを立てるか」
 客が言った。
「意(言葉に含まれる内容)は本果にあるが、義(道理に叶っている内容)は本因を取る」
 主人が言った。
「あなたは因果倶時を知っているか。もし知っているというのであれば、どちらを根本とするのか」
 客が言った。
「果を根本とするのは当然である」
 主人が言った。
「それは日蓮聖人に背き、結局のところ仏法の根本の教えに迷うものである。そもそも仏法を信じることは、何のためであるのか。言うまでもなく我が身が成仏するためである。
 本当の目的に固執する人は、仏の救済を求めることしか知らず、自らが仏になることを忘れている。もし本当にそうならば、阿弥陀仏を念じることを選ぶべきで、それ以外の選択肢はない。
 しかし、とにかくそういうものは釈尊一代の仏法の根幹に反するため、生死から離れることはできない。これは、そのような手段が仏の方便であるためである。
このような人々に対しては、仏は保護し慈悲を示すことはない。ただ、因果の道に従って徳を積む人々のみを導き利益を与えるのである。
 したがって、日蓮聖人は本果よりも本因を重要とすると言われている」
 客は顔色を変えて、
「我等も本因を知らないのではない。しかしながら一切の煩悩・無明を断じ尽くし、円満・無上の悟りを得た仏のみ最も尊むべきであるがゆえに、これを仰ぐのである」
 主人は声を和げて言った。
「あなたは仏に迷い、また自分自身にも迷っている。あなたが言う「妙覚果満」の仏とはどのようなものだと思うか。考えてみると、苦しみも楽しみもない、阿羅漢果と同じようなものだろう。
もしそうなら、それは夢の中の仮の結果と呼ばれるべきだ。なぜなら、法華経の至極について考えると、一切の人が成仏すると言われているが、それは弘教下の段階に戻ることを意味する。
仏も衆生も同じである。あなたが言うようなものは、仮の仏である。妙楽大師の「法華文句記」にある「雖脱在現具謄本種(脱は現にありと雖も具(つぶ)さに本種を騰(あ)げる」の解釈を深く考えるべきである。
 あなたは、一代で成仏した釈迦を立てるために本質を見ていない。あなたのようであれば、いつ成仏する機会があるのか。
「妙法経力即身成仏(妙法の経力で即身成仏する)」とは名のみであって、最後まで成仏することは難しく到底成仏することはできない」
 ここにおいて客が、話を今までとはすっかり違った別の話題に変えて言った。
「寿量品の真意は、仏が三世には三身があるといえる。しかしこれは久遠釈迦如来に具すると言うべきであるがどうか」
 主人が言った。
「あなたの言うことは当然である。しかしながら、あなたの目標は成仏することにあって、いたずらに釈尊を讃嘆することではないはずである。
もしそうであれば三身の中には法身・報身に信を取るべきである。その中にも法身が肝要中の肝要である。したがって日蓮聖人は、諸仏が師とするところは法であるとおっしゃった。南無妙法蓮華経こそ法身である」
 客が言った。
「法身を立てるならば大日如来であり、報身を立てるならば毘廬遮那仏であり、このように似たようなものである。如来寿量品は釈尊が本地を顕わしたとあるが、これは疑問である」
 主人が言った。
「彼等は如来寿量品をさげすんでいるので、法身・報身・応身の三身が実はそのまま同体である三身即一を知らないのである。わたしが言っているのは三身即一円融の上に立てる法身である。混同してはいけない。
 なお、約教約部の判釈(約教とは「教に約す」ことで、一切の経々の内容となる蔵通別円の四教について、勝劣浅深を判ずること。約部は「部に約す」ことで、部とは華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五部で、五時と同義である)がある。
我等は成仏を目指すためには必ず南無妙法蓮華経に無作三身を立てなければならない。釈尊の三身を受けて、深く仏の一仏乗の法のみが真実であるとすることは究極の真理である。
 我等の現身に着目し、現身とはもともと成仏が備わっていると理解しなければ即身成仏はない」
 客が言った。
「日蓮聖人は、天台の観法を尊び経文に説かれている教えをないがしろにしてはならないとされた。今、あなたが言っていることは、経文の教えをないがしろにしているのではないか」
 主人が言った。
「あなたは、根本に迷っているが故に一切に迷っているのである。日蓮聖人は『この南無妙法蓮華経は名体宗用教の五重玄である』と言われている」
 客は言葉に窮ししばらくだまり、そして言った。
「一応そのとうりである。しかしながら、三大秘法抄に『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来この土に縁が深くて厚い本有無作の三身である教主釈尊これである』とあるがどうか」
 主人が言った。
「あなたは、名同義異(名は同じであるが義がことなっていること)ということを知っているか。
ここに教主釈尊とあるのは、あなたがいう釈尊ではない。本尊問答抄に『法華経の教主を本尊とするは法華経の行者の正意にあらず』と仰せである。
これをもって考察するに、教主釈尊とは本有無作三身すなわち事行の一念三千の南無妙法蓮華経であることは明らかである。
 故にまた三大秘法抄(七の上)に『説くところの要言の法とは何物であるか。答えていう。
釈尊が初めて成道して以来、四味三教から法華経の広開三顕一の説法の席を立って、略開近顕遠を説かれた従地涌出品第十五まで秘せられた、
諸法の実相を証得したその昔に修行されたところの寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である。教主釈尊はこの三大秘法を過去・現在・未来の三世に隠れることのない普賢菩薩・文殊菩薩などの大菩薩にも譲られなかった。
ましてそれ以下の菩薩においてはなおさらである』と仰せである。如来寿量品の本尊は釈迦如来でないことは明らかである。
 客が承諾して言った。
「釈尊を本尊と崇むべきでないことを領解することができた。
しかしながら、そうであれば人本尊を立てないことが正しいのであるか」
 主人は喜んで言った。
「あなたは、ようやくこの段階に到達された。この上は日蓮聖人が御本仏であることを領解されることであろう。
先に示すところの本因妙の事行の一念三千が仏の中の仏である。そうであればこれを日蓮聖人としないでどこに求めるのか。これは決して教相を無視し逸脱するものではない。
 文証を紹介する。
 法華経神力品に能持の人を称歎して『この人は世間に行じて、よく衆生の闇を滅す』とある。これは如来甚深の事に呼応するの経文である。これについては種脱相対の法門を知るべきである。末法の悪機謗法の衆生を、大慈悲を起して導き利益されるのは誰であるのか。
 諫暁八幡抄に『仏は、法華経への謗法を犯した者を救済されなかった。それは仏の御在世には、謗法の者がいなかったからである。しかし、末法には、一仏乗の教えである法華経の強敵が充満するだろう。この時にこそ、不軽菩薩のような逆縁の利益とはこれなのである』とある。
 観心本尊抄に次のようにある。
「我等はただ題目を唱えれば順縁であると思うけれども、末法のすべての凡夫は逆縁なのである。『一心欲見仏不自惜身命(一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず)』の修行を退転するかしないかについては、疑わしいものである」
 開目抄の御指南はこのためである。『もし進んで退かなければ、初めて地涌の菩薩と言われるのである』と」
 客は膝を叩いて大きくうなずいた。
 主人が目覚めて見れば、客はいなかった。
 窓の外は小雨が降っていて、目を楽しませるものもなく物寂しく芭蕉を濡らしていた。
 主人が、自分であったことを知って苦笑した。 
                昭和11年11月  (大日蓮)


 
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