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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

富士一跡門徒存知事(現代語訳)

富士一跡門徒存知事
富士の清流を継ぐ門徒が知っていること

第一 五老僧が日蓮大聖人の法門を変えたことを責める
 まず日蓮大聖人の真意が法華文底独一本門にあることについては、かつては異義を唱える者は、なかったのであるが、大聖人入滅後は高弟とされた者たちが、たちまちに異義を主張して、師の法門を改変した。
ましてや末学らにおいては、それぞれさまざまな主張をするに至ったのである。ゆえに日興の末流においては大聖人の法門を守り、心を同じくして、仏法を行じるべきであり、そのための書状として、これを記録するのである。
一、聖人御在生の時に弟子六人を定めたこと。(弘安5年10月日にこれを定めた)
 一 日昭 弁阿闍梨
 二 日朗 大国阿闍梨
 三 日興 白蓮阿闍梨
 四 日向 佐渡阿闍梨
 五 日頂 伊予阿闍梨
 六 日持 蓮華阿闍梨
 この6人のうち5人と日興一人が和合できない理由を項目だてしてあげる。

第二 「五一相対」を明かにする
一、五人が一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。したがって幕府に提出した申状には、我々は天台宗の僧侶(天台沙門)であると記している。
 また、先師日蓮聖人は天台宗の流れを受け継いでいると言っている。また、桓武天皇の時代の姿を仰ぎ、伝教大師の流れを汲んで法華宗の宗旨を弘通するとの願いがあると主張している。
 日興が言う。かの天台大師や伝教大師が弘通した法華経は迹門である。今、日蓮大聖人が弘通される法華経は文底独一本門なのである。日興は、この相違をつぶさに書状に記載した。この相違によって五人と日興の関係は確実に断絶した。
一、五人が一同に言う。多くの神社は現世と来世を祈るためにある。したがって、伊勢太神宮と伊豆神社・箱根神社の二所と熊野神社にそれぞれ参詣して誠を尽くして現世と来世への二世への望みを祈るのである。
 日興一人が言う。正法に背く謗法の国を天の神や地の神、国を守るべき善神は国を捨て去ってしまい、そこに留まっていない。そのため悪鬼神がその国土に乱れ入ってきて、災難を起こしてしまっているのである、と主張している。この相違によって五人とは関係を義絶したのである。
一、五人が一同に言う。法華経をその教え通りに勤行し、これを書写し、供養するのである。したがってあちらこちらで法華経の三昧を修行し、または一日経を行ずるのである。
 日興が言う。そのような修行は、末法の修行ではない。また謗法の時代には行うものではない。このことから日興と五人の関係は堅く不和になったのである。
一、五人が一同に言う。日蓮聖人の法門は天台宗である。よって比叡山延暦寺において出家し、戒を受けたのである。
 日興が言う。かの比叡山延暦寺の戒は、法華経迹門の戒であり、像法時代に受持する戒である。日蓮大聖人の受戒は法華文底独一本門の戒であり、今、末法の時代に受持すべき正しい戒である。これによって日興は五人と義絶したのである。
 それ以前のそれぞれの事柄の根本となる骨組みはこのようなことである。このほか、 細かく詳しいことはつぶさに説明しがたい。

第三 波木井実長の四箇の謗法を明かす
一、甲斐の国の波木井郷身延山のふもとに大聖人の墓所がある。しかし、日興が参詣しない理由として、かの墓所の地頭である南部六郎入道・法名日円は日興の教化によって初めて帰依した弟子であり、この因と縁によって大聖人が身延におられた九年間、帰依できたのである。
大聖人御入滅後、しかるべき時に南部実長と義絶したのであり、その条目を記しておく。
第一は、釈迦如来の仏像を造立して本尊となした。
第二は、大聖人が身延に在山されていた九ヵ年の間は禁止されていた神社の参詣を近年になって始めた。伊豆神社・箱根神社の二所と三島神社の参詣である。
第三は、南部一門の勧進と称して、南部郷内福士に念仏の石塔を供養し、財物を寄進した。
第四は、南部一門の仏事の助成と称して、阿弥陀如来の極楽浄土に往生する者において九種の差異があることを根拠としてから九品念仏の道場、一堂を造立して荘厳した。甲斐の国がその所である。
 以上四ヵ条の謗法について教戒したが、南部実長は「日向から許可を得ている」と言って聞こうとしない。この義によって去る年月にかの波木井入道の子孫とは永久に師弟関係の義を断絶した。よって大聖人の墓所には、通っていないのである。

第四 日興門流の本六と御影像の問題を挙げる
一、日蓮大聖人の例にちなみ日興が六人の弟子を定めた事。
   一 日目┐
   二 日華┤
   三 日秀┼ 大聖人に常に随い仕えた。
   四 日禅┤
   五 日仙┘
   六 日乗─大聖人にお会いしたことはない。
 以上の初めの五人は、所詮、大聖人に給仕した者たちである。この六人は和合して、異義があってはならないことを協義して決定した。この決定は、永仁6年であり、この六人を「本六」という。
 その後、「本六」の過半数が入寂したことから、元弘2年(1332)・正慶元年(1332、87歳)の時、重須談所において、滅後弘通の碩徳六人、日代・日澄・日道・日妙・日郷・日助を定めた。これを「新六」という。
一、大聖人の御影像のこと
 あるいは五人といい、あるいは在家の人といい、絵像や木像に描いており、それがあちこちに存在して、その数は計り知れず、それぞれお顔立ちが違っている。
 ここで日興が言う。御影を描くのは、所詮、大聖人の御姿を慕う後代の人々に大聖人の面影を残しておくためである。よきにつけ、あしきにつけ、ありのままに描くべきである。
これによって日興門徒の在家・出家の者、および大聖人を信奉する人たちは、一同に評議して、しかるべきときに描いたのである。全体としては大聖人のお顔と異なってはいないが、おおむね粗末に描かれており、そこで裏面に注を書き付けたのである。
 ただし、それぞれの描いた像は一つも似ていないものの、その中で過去の正和2年、日順が描いた御影が基本であり、似ていないけれども、ほかの像より少し面影があった。したがって、多くの御影のうち是非を後世の人々にわきまえさせるために、裏書に「似ていない」と付け置いたのである。

第五 御書に対する態度の相違を明かす
一、大聖人御書のことを11ヵ条を付け加えた。
 かの五人、一同の義に言う。
「大聖人の御作で、正式に経論を解釈した書はない。たとえ少しあるといっても、あるいは在家の人のために仮名文字で仏法の因縁を大まかに示したものであったり、または世間の男女がわずかな供養を捧げた手紙に対し、その返書に、檀那が供養した財物の種類等を書いて、愚癡の者を仏道へと誘引されたものにすぎない。
しかるに日興は、それを大聖人の御書と称して、これを人々に語り、読んでいる。これは先師の恥をあらわすものである」
 故にあちこちに散在している御真筆をあるいは漉(す)き返したり、あるいは火で焼却したのである。
 このように五人は、先師日蓮大聖人の残されたものを破滅しているので、詳しくこれを記して、後世の手本とするのである。
一、立正安国論一巻
 これに二本ある。一本は文応元年の御作で、これは北条時頼殿と北条時宗殿に提出された書である。もう一本は弘安年中に身延山において先本に言葉を書き添えられたものであるが、しかし別の内容ではなく、ただ「建治の広本」と称するものである。
一、開目抄一巻、今は上下二巻に分けている。
 佐渡の国の御作で、四条金吾頼基に与えられた書である。日興が所持している本は二度目の写しである。まだ御真筆の正本との照合はしていない。
一、報恩抄一巻、今は上下二巻に分けている。
 身延山において、師匠であった故道善房の追善供養のために書かれ、清澄寺に送られた。日向のもとにあると聞いている。日興が所持している本は二度目の写しである。まだ御真筆の正本との照合はしていない。
一、撰時抄一巻、今は上中下の三巻に分けている。
 駿河国西山の由井氏に与えられた書である。正本は日興のもとに上中二巻がある。(この中で大聖人の法門の趣意がにわかに開いている)下巻は日昭のもとにある。
一、下山御消息一巻
 甲斐国下山郷の兵庫五郎光基の氏寺である平泉寺の住僧であった因幡房日永が大聖人に帰依したことから追放される時に述作されたもので、直ちに御自筆のまま光基のもとに遣わされた。正本の在所は不明である。
一、如来滅後五五百歳始観心本尊抄一巻
一、法華取要抄一巻
一、四信五品抄一巻(富木常忍から法門についての数々の質問があったのに対する御返事である。したがって、富木氏の書状を念頭に置いて書かれているのである。)
 以上の三巻は因幡国富城荘の本主で、今は下総国若宮に常住している富木五郎入道日常に与えられた書である。正本は彼のところに所在する。
一、本尊問答抄一巻
一、唱法華題目抄一巻
 この書は、十大部のなかでは、最初に書かれた御書である。文応年中に通常の天台宗の教義にもとづいて、一往、爾前経と法華経の相違を書かれたものである。したがって、言葉と教義共に天台宗の範囲を出ていない。
一、大聖人の御直筆に「唱題目抄」の四字を加えた。御書にこの四字がなくても、日興は今、大聖人の仏法が法華本門の義にしたがって、あえてこの四字を置いたのである。このようなことは、先例がないわけではない。

第六 本尊に対する態度の相違を示す
一、本尊の事に関する四箇条
一、五人一同に言う。
 本尊については、大聖人は釈迦如来を崇めるべきであると言われ、大聖人御自身が釈迦仏を立てられたし、弟子檀那等にも釈迦如来の造立や供養について述べられた御書がある。
 そのような言い分のもと、五人は盛んに釈迦如来を安置する堂舎を造ったり、あるいは釈迦如来の一体仏を安置したり、あるいは普賢菩薩と文殊師利菩薩を脇士としたりし、大聖人御筆の曼荼羅本尊については、その釈迦如来の仏像の後ろにかけたり、また堂舎の廊下に捨て置いているのが実情である。
 日興が言う。大聖人が立てられた法門においては、全く絵像や木像の仏や菩薩を本尊とは立てない。御書の本意通りに妙法蓮華経の五字を本尊とすべきである。すなわち大聖人御自筆の御本尊がこれである。
一、五人が一同に、このように御本尊をおろそかにしているので、あるいは曼荼羅で死体を包み、葬るために使う輩もいる。あるいは御本尊を売却する者もいる。五人がこのように軽んじ賎しんで扱ったので、たくさんの御本尊が失われてしまった。
 日興が言う。この大聖人御自筆の御本尊は、全世界に未だ流布しておらず、正法・像法・末法の三時に未だ弘通していない本尊である。したがって日興の門流で御自筆の御本尊を所持している者は軽々しく子孫に譲ったり、弟子等にも付嘱してはならない。
御自筆の御本尊は一ヵ所に安置し、本六の弟子が心を合わせて守護するべきである。そしてひとえに広宣流布の時に本化国主のお尋ねがある時が来るまで、深く敬って重んじるべきである。
一、日興の弟子たちに授与された本尊については、その一つ一つに授与した者の名を書き付けた。このように凡人の筆で書き入れたことは、誠に大聖人の尊い筆をけがすものであり、最も恐れ多いことではあるが、あるいは親には強盛の信心によって御本尊を賜ったけれども、子孫たちが御本尊を捨てたり、あるいは師匠には、大聖人に常随給仕した功績に報いて御本尊を授与されたといっても、その弟子たちが御本尊を捨てたりしている。このような状態で、あるいは御本尊を人に売ったり、あるいは他人に盗まれたりした例が数多くあった。その故に大聖人から御本尊を授与された当事者の名を書きつけたのであり、これは後世に、授与された人の名を高くとどめるためである。
一、大聖人御自筆の本尊を形木に彫って、不信の者に授与し、御本尊を軽んじ賎しめていることが、方々から聞こえてくる。いわゆる日向・日頂・日春らがそれである。
 日興の弟子においては、在家や出家を問わず、あるいは命を捨てたり、あるいは傷を受けたり、もしくはいる場所を追放されたりした信心ある弟子門下に対して、恐れ多くも日興自身が御本尊を書写し奉りこれを授与するのである。
 日興が本尊を授与した人数等を記し、また追放された人や首を切られ殉死した人等も記した。

第七 本門寺および王城等について記す
一、本門寺を建立すべき所のこと
 五人が一同に言う。
 かの天台大師・伝教大師は存命中に法門が用いられたので、直ちに寺院を建立された。いわゆる中国の天台山・日本の比叡山がこれである。しかし、かの本門寺については日蓮大聖人は、どの国、いずれの所であるとも定めおかれていない。
 ここに日興が言う。およそ勝れた地を選んで寺院を建立するのが仏教の通例である。したがって駿河国の富士山こそ、日本第一の名山であるから、この所に本門寺を建立すべきであることを奏上したのである。
よって広宣流布の時が到来し、国主がこの大聖人の法門を用いられるようになった時は必ず富士山に建立されるべきである。
一、王城のこと
 右、帝王の住む城は、とりわけ勝れた地を選ぶべきである。特に仏法と王法は、その根源は一体であるから、その所も離れているべきではない。奈良七大寺や京都の比叡山はその先例であり、後世もこの原理が改まることはない。
さて駿河の国の富士山は広々とした地域である。一には日本国が扶桑国だからである。二には四神である東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武がそろっている勝れた地であるからである。本門寺と王城とが一所であるべきことは、かつは昔のよき例があり、かつは日蓮大聖人の誓願の所である。
一、日興が収集したところの証文のこと
 大聖人が御書の中に引用されている経文・論書・解釈の文、あるいは内道・外道の書物や伝承の文などは、大聖人は根本的な事柄をとって義の宜しきに随って転用され、あるいはほぼ意味を取って述べ用いられている。
このところから日興は種々引用された文、書物を集めて、順次証拠を照合しているのである。しかしその作業は未だ終わっておらず、収録の途中の段階である。
一、内道・外道の要文。上下二巻、これは大聖人の開目抄の意図に従って選んだ。
一、本門と迹門の弘経についての要文。上中下三巻、これは撰時抄の意図に従って選んだ。
一、中国の天台大師や妙楽大師が南三北七の邪法を破折して正法を弘通したことを示す証文一巻
一、日本の伝教大師が南都六宗の邪宗を破折して法華経の正法を弘通したことを示す証文一巻
 以上の七巻を集めたが、未だ内容を調べ直すには至っていない。
一、幕府に奏上した書状のこと
一、先師・大聖人の文永5年の諌暁の書状が一通
一、大聖人の文永8年の諌暁の書状が一通
一、日興が大聖人の申状を添付して提出した申状が一通
一、中国における仏法について、その順序を示した図一通
一、日本における仏法について、その順序を示した図一通
一、正法・像法・末法の三時における弘経の順序、ならびに本門寺を建立すべきことについて述べたもの
一、先師大聖人の書と釈の要文一通
一、追加の八箇条
 数年以来、日興が立てる教義を盗み取り、自分の教義だと主張する者共が出てきている理由を項目的にあげる。
一、寂仙房日澄。最初に教義を盗み取って自分の教義とする。この日澄は民部阿闍梨日向の弟子である。したがって甲斐国下山郷の地頭である兵庫左衛門四郎光長は、日蓮聖人の御弟子である。聖人御遷化の後、民部阿闍梨日向を師とした。(帰依僧としたのである)
  一、過去の永仁年中に新堂を造立し、さらに一体仏を安置する時に、日興のところにやって来て、所立の教義を非難した。聞き終わって自分の教義であるとしたところに、正安二年民部阿闍梨日向が、かの新堂並びに一体仏の開眼供養をした。
ここにおいて日澄と本師民部阿闍梨日向とが、長い間義絶してしまったが、やがて日興に帰伏して弟子になった。この者は、教義を盗み取って自分の教義となしたが、後に改悔して帰伏した者である。
一、過去の正安年中以来に浄法房天目という者がいた。(聖人にお会いしている)
 日興の教義を盗み取り、鎌倉においてこれを弘通する。また、日蓮大聖人の御本尊の「蓮」の文字について蔑んだ。
一、弁阿闍梨日昭の弟子である少輔房日高は、過去の嘉元年中以来、日興の教義を盗み取って下総の国において盛んに弘通する。
一、伊予阿闍梨日頂の下総国真間にある堂の仏は一体仏である。それなのに過去のある時から、日興の教義を盗み取って四脇士を置いている。この菩薩の像は宝冠を付けている。
一、民部阿闍梨日向も同じく四脇士を造り置いている。かの菩薩像は比丘の形であり納衣を着ている。また、最近では諸神の住処である神社に参詣する事を引き留めていると聞いている。
一、甲斐国に寂日房向背(こうはい)の弟子である肥前房日伝という者がいる。日興の教義を盗み取って甲斐国において盛んにこの教義を弘通する。これ、また四脇士を造り置いている。かの菩薩の像は身はすべて金色であり、剃髪した比丘の形となっている。また、神社参詣を引き留めていると聞いた。
一、いろいろなところで聖人の御書を読むべき理由をあげる。
 この書に抜粋や別に伝わった書がある。これを見るべきである。

 本編を書写した経緯
 本年、応永29年極月(ごくげつ:12月)27日に書写し終えた。筆者は、日算で年齢は68歳であった。
 永正18年(大永元年:1521年)6月4日に、これを書き終えた。この抄は九州日向の国(宮崎県)日知屋(ひちや)の定善寺より相伝した。
 同じく細島妙谷寺において、必死に努力したちょうどその時に、北向の御堂の部屋にてこれを書写し終えた。
       駿河国 重須本門寺の衆徒の大夫公(たいふこう)日誉 在判


 
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