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原殿御返事(現代語)

 原殿御返事
                「冨士門家中見聞 上」富士宗学要集第5巻160頁
                           【章立ては編者が加筆した】

第一 波木井実長の心変わり
 御手紙を詳しく拝見させていただいた。そもそも身延を離山することの根源は、去る正応元年十一月のころ、南部弥三郎殿(波木井実長の3男)が、この法華経の教えを聴くために身延山久遠寺に参詣された折に、この弥三郎殿が、父の波木井実長入道殿の仰せであるとして「念仏が無間地獄の理由を聞いてくるよう」また「この国に守護の善神がいないということは言うべきではないと言われた」とうかがった。
 このことこそ、あまりにも意外なことに思われ、これは波木井入道殿のお心が替わってしまったのかと推察したのである。
 そこで強く「この日本の国は、念仏・真言・禅・律の大謗法のために、大小の守護の善神が捨て去り、その跡の祠には大鬼神が入り替って、国土に飢饉、疫病、蒙古国の襲来という三災が連続して起こり、国土が滅亡しようとしている理由を、わざわざ日蓮大聖人は立正安国論として顕し、鎌倉幕府の三代の執権に仰せられ、諫暁されたのである。

第二 立正安国論に答えはある
 この旨こそ、日蓮大聖人が知った法門であり、国のため、世のため、一切衆生のために、日蓮大聖人は仏の御使として、大慈悲をもって、身命を惜しまず言われたのである」と話したならば、すると弥三郎殿は「念仏無間のことについては、深く信じている。しかし、守護の善神がこの国を捨て去るということについては、まだ疑問が晴れない。
 その理由は、鎌倉におられる大聖人のお弟子は、諸天善神はこの国を守護されているのであるから、当然、神社に参詣すべきだという。一方、身延山の大聖人の御弟子は、堅く守護の善神はこの国にいないと言い立てられる。日蓮大聖人はすでに入滅されている。一体、だれに会って、どちらの考えが正しいか否かを決めたらよいのか」と疑問の理由を述べられた。そこで私と日向の二人のほかに、弟子の相違を判定できることがある。師匠は入滅されているとはいっても、その遺された御状がある。立正安国論がこれである。
 この書は私的な文書ではない。三代にわたる執権に対して公に示されたものである」と話したが、なお心の中が判然としないままに帰っていかれたのである。

第三 神社参拝は謗法である
 これというのも、この南部弥三郎殿が三島神社に参詣されるようであると聞いたので、夜中に、越後坊を遣わして、「この神天上法門は立正安国論の正意であり、日蓮聖人の大願であるのに、どうしてこれを破られるのか。このことをご存知ないのか」と言って永らく思い留めさせたのである。これを波木井入道殿が聞かれて、民部阿闍梨日向に質問された。そのご返答は「守護の善神がこの国を去るということは、立正安国論の一篇には説かれているけれども、白蓮阿闍梨日興は外典読みに、一面的に読んで、究極の法理を知らないのである。法華経を持つ者が神社に参詣すれば、もろもろの神もその神社に来るのであり、当然参詣すべきである」と言われた。それによって波木井入道殿は、深くこの旨を信じてしまわれたので、日興が入道殿の邸に参上して話し合ったところ、案の定、「その通り民部阿闍梨日向が教えたのである」と答えられた。
 日興は、このことは、もはや天魔の仕業であると考えて、少しも恐れることなく申したのである。「『ゆえに善神は国を捨てて相去り』と仰せになっている。この国の守護人である日蓮大聖人の弟子である民部阿闍梨日向が『法華の持者が神社に参詣するたびに諸天善神は来る』と言うのは、まさしく師に敵対する重罪であり、七逆罪に当たるではないか。このような誤りを言うのであれば、民部阿闍梨日向の考えに日興が従うならば、日興もその重罪を逃れることはできないと思う。今より以後は、このような謗法の学頭は、追放しなければならない」と申した。

第四 日向は誤った法を説く
 それから間もなく、続いて波木井殿が南部郷内に念仏福士の塔を供養し寄進した。これは、とても容認できない誤りである。
 総じて、この二十余年の間、持斎の法師などは波木井の領内には影すら見させなかったのに、波木井実長の御信心がいかに弱くなられたから、こんなことになったのであろう。
 これというのも、あの民部阿闍梨日向は、世間的欲望が深くて、世間にへつらい、正義を曲げた僧で、大聖人の御法門を世に立てることなど思いもよらず、大いに破る者であると、この二・三年の間、見つめてきたが、それでも折に触れては、日向の説く法門が誤っていること、根拠のない、いい加減な内容であることを指摘してきたが、それを日向は聞き入れようともしなかったのである。

第五 日向の祈願の誤りを指摘
 今年十一月の天台大師講の折も、そこで申し述べる祈願の中で日向は「天皇のもとで天地の末永き平穏無事と、天皇の願いが成就すること、左右の大臣・文官・武官等のそれぞれの願いが成就するように」という願いを述べた。それに対して日興は「この祈りは、今は行ってはならない」と、再三にわたって注意したのに、日向は「どうしてあなたは国の恩をお知りにならないのか」と言って、止めることを聞かなかったので、日興は、今年は問答講を行わなかったのである。

第六 仏像造立を企てる
 それだけではない。日蓮大聖人の御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成の如来の画像は、一人・二人は書き奉ったことはあるけれども、いまだ釈尊の木造は、誰も造ってはいないのに、波木井入道殿が「微力ながら釈尊の木像をその形の通りに造立したい」と思い立たれたのを、何の使いみちもないのに、民部日向が「大国阿闍梨日朗が奪い去った大聖人随身の一体仏の代わりに、それと同じような一体仏を造られたらよかろう」と教えたので、波木井実長は固くその考えにとらわれてしまった。
 それに対し日興は「せめて亡き大聖人が安置されていた仏であるならまだしもである。それにつけても 上行菩薩等の脇士も無く、始成正覚の仏にすぎなかった。その上、その立像仏はすでに大国阿闍梨日朗が持ち去ってしまっている。それなのに何のいわれがあって、それを写した始成正覚・無常の仏像が欲しいと思われるのか。本来あるべき仏像を造立することが、あなたの力ではかなわないのなら、御子孫の中で造立する人が出てこられるまでは大聖人が文字にしたためられた御本尊を御安置すべきである。どうして、大聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をいちばん先に破るのか」と強く申し上げたのを「自分が軽んじている」と思われたのであろう。
 日興は、このように申し上げたことこそ、大聖人の御弟子として、その跡を継がせていただいている立場の上から、波木井殿を甲斐国の重鎮として重んじて申し上げた、誉れある行為であったと自負していることは、大聖人が我が身に入り替わっておられるのであろうか。
 仮にもへつらい曲げることなく、ただ経文の通り、大聖人の仰せられた通りに、諌めることができたものだと、自らほめてこそいるのである。

第七 謗法の原因は日向を師匠にしたこと 
 総じてこのことには三つの難点がある。一には安国論の正意を破っている。二には久遠実成の如来の木像を真っ先に破っている。三には謗法の布施を初めて行った。
 日興が「これらの事柄は、波木井入道殿御自身に罪があるのではなく、ひとえに諂い曲がった法師の過ちであるから、よく改められ『今より以後は立正安国論に仰せのように、大聖人が承知しておられた在世二十年のように信じてまいります』との改心の誓状を書かれて、大聖人の御影の御宝前におささげしなさい」と申し上げたが、信用なされないばかりか、かえって日興が軽んじたと思われたのであろう「自分は民部阿闍梨日向を師匠にしたのである」と言われたと聞いた。

第八 日興上人は波木井一族の師匠である 
 まさに法華経の信心が逆さまになってしまったのである。日蓮大聖人の御法門は、「三界の一切衆生のためには、釈迦如来こそ初めて発心させた本師であるのに、それを捨てて阿弥陀仏を頼みとしたことによって、五逆罪を犯した人となって、無間地獄に堕ちるのである」という法門ではないのか。何をもって、大聖人の仏法を信仰してきたといえるであろうか。
 日興は波木井の上下の人々のためには、初発心の師匠であることは、二代・三代の末の世あるならばいざ知らず、いまだ波木井一族の上の人も下の人も、だれが忘れるであろうかと思っているのである。

第九 身延離山の決意を固める
 この身延の沢を立ち退くことは、面目なく、残念さは言葉で言い表されないが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切なことである。
 そうとはいっても、と思いわずらっていたが、大聖人の御弟子はことごとく師敵対してしまった。日興一人が本師・大聖人の正義を守って、広宣流布の本懐を遂げたつるべきその人であると自覚するので、その本意を忘れないのである。あなたがたはいずれも、大聖人の正義をわきまえておられるので、心から喜んでいる。あなた方がわざわざ身延へ行かれるならば、波木井入道殿が、不条理に落ちきってしまわれることはないであろうと思っている。

第十 外典も重要である
 なお民部阿闍梨日向の邪見は、奇異に覚える。安房に向かった時にも、波木井入道殿のところに行って、外典を読むことは誤りであると、再三にわたり語っていたと聞いている。しかし、大聖人の立正安国論も外典を用いて著されている。また、文永八年に著された一昨日御書も、外典を用いて書かれているのである。
 その上、法華経という御経は中国第一の外典に優れた者によって翻訳されたので、一切経の中でも文章、言葉が最高に優れていると言われているのである。
 今、この大聖人の法門を立てて流布するにも、ぜひとも外典の達人を、一人は出すことが必要だと考えているのである。仏法の経典にも、仏典以外の典籍にも通じた学識がなければ、国も平和に治まらず、正法を立てることが難しいのが道理である。慨して民部阿闍梨の考え方を、ありのままにご覧になり、明らかにされるべきである。

第十一 乱行を重ねる日向
 特に去る四月一日から、日向は諸岡入道の邸内にある小家に閉じこもり、画師を招き寄せて曼荼羅を書かせ、四月八日には仏の誕生日と称して諸岡入道の室内において一日一夜の説法をして布施を出させて抱き取ったばかりか、酒を出させて興じたのである。この時、諸岡入道がその心を案じて妻子を呼び出して酌をさせたところ、酒に酔ったあまり大声を挙げるなど、諸岡入道の一族から嘲り笑われたことなど、実に情けないことこの上ない。師匠の日蓮大聖人の御恥として、これ以上のものはないではないか。
 このことは世間では隠れもなく、人々が皆、知っていることである。このことは、ただ波木井入道殿には隠し言わなかったけれども、このような事態が起こったからには、もはや、あの民部阿闍梨が大聖人の御法門を後継することなどできない事実は明らかであるから、日興が、あの民部阿闍梨日向を切り捨てたことを、原殿に知らせるために申したのである。

第十二 日蓮大聖人の正義を守ることが重要
 共に同じ修行をしてきた者だからといって遠慮して、どうして大聖人の御義を隠してよいであろうか。日向阿闍梨の説法は、きっとほんの少しだけ日向から説法を聞いた子たちですら、日向を破るであろうと必ずおしゃるであろう。
 もとより、日蓮大聖人の正義に違背する師匠たちを捨てないのが、還って科になるというのがこの法門であることを御存知であろう。
 何よりも大聖人の御影は、このほどのことを、どのように照覧なされているであろうか。対面して話すのでなければ、心のうちを言い尽くすことはできない。恐恐勤言。
    正応元年戊子(つちのえね)一二月一六日
                          日興  判     
    進上 原殿御返報

第十三 追伸文
 追申。涅槃経の第三巻・第九巻の二巻を、あなたの家で講義した際に、わたしの書物と一緒に持ってきました。これは大聖人の御経であるから、確かにお送りしました。
 またもう一つ、持仏堂の北の棚に「四十九院申状」があったが、ご覧の上、便りがあった時にお送りいただけまいか。見ておきたいことがある。その他のことは、またの便りにしたい。恐恐。


 
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