本文へスキップ

日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

住職指導と法話

御本尊に正直にお仕えして成仏しましょう       H21.10.16号

 諸天の御加護を賜り、未み曽ぞ有うの「七万五千名大結集総会」を慶賀し奉り、早くも二カ月半が過ぎました。全国各末寺において、御本仏日蓮大聖人への御報恩の御会式が厳粛に奉修される十月になりました。
 大総会の砌みぎりに御法主日如上人猊下より賜りました「平成二十七年、各支部法華講員五十パーセント増」の御命題に対し奉り御奉公申し上げるべく、企画立案し、発進を開始せんと各人各支部が体勢を調えていることでしょう。

信仰の目的は成仏にあり
 去る、「行動の年」の年頭に御法主日如上人猊下は、 「正しい御本尊に対して信を取る事が成仏の絶対条件であって、以信得入と云っても正しい御本尊に対して信を取らなければ成仏は叶わないのであります」(大白法 七〇八号) と御指南くださいました。「信を取る」と仰せの御意を、どのように拝し奉るべきでしょうか。『新池御書』に、
「此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ」(御書 一四六〇㌻) と仰せられています。「私なく」とは、自分の知識や経験、あるいは感情によって造り出した信仰ではないということです。
法華経『方便品第二』に、
「其の智慧の門は、難解難入なり。一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり」(法華経 八八㌻) と説かれています。即ち、二乗の人々のような権教の智慧では法華経を解ることも、その門に入ることも難しいことである、と説かれているのであります。
 一般的に信心とは御本尊の前に座り、数珠を持ち経文を誦す。このような敬虔な姿を想い起こします。あるいは題目を唱えているから、あるいはお給仕をしているから信心していると決めている人もいます。これは、自分勝手な思い込みではないでしょうか。これらの考えのもととなっているものは、一般の既成仏教の考え方であり、あるいは創価学会等が自分流に創作した信仰の概念から造り出した相(すがた)であります。

外道義について
 『開目抄』に、
「仏後の外道は仏教をきゝみて自宗の非をしり、巧みの心出現して仏教を盗み取り、自宗に入れて邪見もっともふかし。附仏教、学仏法成等これなり」(御書 五二七㌻) と仰せられています。
 外道には、仏教外の外道と、附仏教の外道、学仏法成の外道との三種があり、附仏教と学仏法成の外道については『摩訶止観』に注意しなければならない釈が示されています。それは、 「自ら聡明なるを以て、仏の経書を読んで一見を生ず。仏法に附して起る」(摩訶止観弘決会本下 六四七㌻) と附仏教の外道の相を釈し、次に学仏法成の外道については、 「仏の教門を執して煩悩を生じ、理に入ることを得ず」(同 六五〇㌻) と釈されています。世間から仏教と認められている宗派でも、釈尊の法門から大きく外れている仏教等の信仰観は、附仏教に似ています。また、日蓮大聖人様の法門義から外れている各派、題目を唱えている新興宗教は学仏法成に当たると観ることができます。そうであれば、釈尊の教えから外れ、日蓮大聖人様の法門義から外れた各団体の考え方では本門の仏法を正しく信仰することは難しいことになります。寧ろこの信仰の誤りを正直に捨て、大聖人様の教えに従う勇気を起こすことが必要なのです。自ら誤りに気づき、これを正す強い心が成仏に近づく信心なのであります。いずれにしても御本尊様に正直に仕える心で素直に行動を起こすことが大事なことであります。

「蒼蝿驥尾に附す」勇気
 「題目を唱えている」と叫んでいても、その題目が「本門の題目」であるとは言えないのであります。何故でしょう。  第二十六世日寛上人が『寿量演説抄』に、 「既に本門の戒壇の御本尊存ます上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり」 と御指南されています。
 本門戒壇の大御本尊様に対し奉り、唱え奉るから「本門の題目」なのであります。したがいまして、御法主上人猊下が「正しい御本尊に信を取る」との御指南は、御本尊様にお仕えする、大聖人様の教えに仕え奉る心を仰せられていると確信いたします。何故このように信ずるのか。
『立正安国論』に、
「予よ少量たりと雖も忝けなくも大乗を学す。蒼蝿驥尾に附して万里を渡り」(御書 二四三㌻) と仰せられています。大聖人様のこの御文を、凡夫の我々に当てはめて拝し奉りますに、小さな器の凡人が、成仏とは遥か遠い境界であると想像して我意我見の我が儘な信心をしていた者が、御本尊様を信じ、大聖人様の教えを信じ、御法主上人猊下の御指南を素直に実行しているうちに、小さな器の者が成仏の境地に到達することになると、このように拝読することができます。
 成仏のために謗法罪障の消滅を心で祈っても、謗法を折伏しなければ成仏は難しいのであります。何故でしょうか。自分は謗法を犯していなくとも、折伏しなければ謗法を認めていることになるからであります。大聖人様の教えではない信仰は外道の心の信仰になります。それでは成仏は難しいですね。
 いえ、難しくはないのです。難しくしているのは不正直な心の自分自身であります。凡夫の狭い心ですね。
 時々「成仏させてください」との言葉を聞きますが、成仏は誰かにさせてもらうのでしょうか。
 信心・勤行・唱題・折伏、さらに総本山大石寺に登山する、信心についてのあらゆることは、我が成仏のために実際に自分で行わなければなりません。誰かが成仏させてくれるのではないのです。
 成仏は、仏身を成就することで、自分が自身で御本尊様に正直にお仕えする。その正直な信力と素直に実行する行力に因よって成仏の境界を得るのであります。
 有り難くも御本尊様にお仕えし、御奉公し奉る身となって、今こそ勇気を起こして謗法を折伏し、御本尊様に正直にお仕えしましょう。

「謗法与同」を恐るべし               H19.12.16号

 「自分の信心が、曲がった信心である」とは、誰も思いたくありません。しかし、自分の考えや自分の思いのまま信心しては、それは正しいとは言えないのであります。
 御法主日如上人猊下は、 「正しい御本尊に対して信を取る事が成仏の絶対的条件であって、以信得入と云っても正しい御本尊に対して信を取らなければ成仏は叶わないのであります」(大白法 七〇八号) と御指南されています。

増上慢の作用
 法華経『勧持品第十三』に、 「白衣のため(与)に法を説いて 世に恭敬せらるること 六通の羅漢の如くならん 是の人悪心を懐き 常に世俗の事を念い」(法華経 三七六㌻) と説かれています。この経文は、三類の強敵の僣聖増上慢の一面を説かれているのであります。この文の「白衣」とは「俗人」の別称であり、次の「与」の字は「あたえる」と読みますが、この場合は「ため」と読みます。
 それは、「与」の字には「ともに」と「あわせる」と「くみする」等の意味があります。この意味から「世間の人の煩悩や惑の謗法の心に併せて仏法を説く」と読むことができます。仏教は仏の教えに信伏随従する法門を説くのが当然ですが、この増上慢は、「世の人に尊敬されたい」という「悪心」が心の底に潜んでいますから、世間法に「くみ」し「併せて」仏法を説くので、謗法の邪義に与同してしまい、そして最後に、謗法の邪義をあたかも正法正義であるかのように錯覚してしまうのであります。しかし、自分が低い境界に堕おちた、その原因が謗法にあることを識ったなら、厳しくともその謗法の罪障を消滅しなければなりません。その謗法を折伏をしなければならないのであります。
 『法華初心成仏抄』に、 「譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。(中略)とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(御書 一三一六㌻) と、大聖人様は仰せであります。即ち、謗法が原因で苦の境界に堕ちたのであるから、その謗法を折伏することによって、境界を高めることになるのであります。第二十六世日寛上人は『如説修行抄筆記』に、 「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(御書文段 六〇八㌻) と、御指南くださいました。つまり、謗法を折伏する勇猛心が境界を高める信心なのであります。ところが、その前に必ず心を揺さぶる作用の「三障四魔」が起こるのです。その障魔の一端が「白衣の与に法を説く」という増上慢の作用であります。すなわち「白衣の与に」とは、凡夫の心の煩悩や惑の弱い情念に併せる意味であります。謗法にまみれた心のままで魔の作用に同調して、折伏することを忘れては、謗法与同の罪を積み重ねることになるのであります。

「衣裏繋珠」の譬喩から
 法華経の『五百弟子受記品第八』に「衣裏繋珠」の譬喩が説かれています。すなわち、「酒に酔いつぶれた愚人に、官吏の親友が衣の裏に『無価の宝珠』を繋けてあげました。その愚人は酔っていたので宝珠のことを憶えていないのです。いつものように、所々方々に艱難辛苦の放浪生活を続けるのでありますが、苦しみ迷い歩くうちに、その宝珠を繋けてくれた親友に会い、宝珠のことを聞かされ、ようやく富を得ることができたのです」との譬喩であります。これは、久遠の過去世において、妙法を聞ながら長い間謗法にまみれて苦の中に沈んでいた二乗の人が、法華経『化城喩品第七』の「久遠以来の因縁説」を聴聞して、記別を受けた声聞を代表して、過去の修因行満の喜びを釈尊に述べたことがこの譬えなのであります。大聖人様は、この「無価宝珠」を、
「此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり。所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、一乗妙法の智宝を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云ふなり」(御書 一七四七㌻) と仰せになっております。すなわち、「無価の宝珠」とは「一乗妙法の智宝」三大秘法の御本尊であります。「酒に酔いつぶれた愚人」とは謗法にまみれて勤行・唱題・折伏をしない、御本尊様への御報恩の登山もしない、御講の参詣もしない愚かな衆生のことです。この衆生は仏法と世間法の区別がつかず、我見と偏見による謗法与同の生活を、「艱難の放浪」の姿に譬えられているのであります。

謗法与同の邪念を破す
 そこで、『顕謗法抄』を拝しますと、 「法に背くが謗法にてはあるか。天親の仏性論に云はく『若し憎くむは背くなり』等云云。この文の心は正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり」(同 二八〇㌻) と、御教示であります。この御文を拝し奉りますと、謗法とは、一に「法に背く」、二に「正法を捨てさせる」の二点に要約されます。
 はじめの「法に背く」とは大聖人・御歴代上人の教えに順う意志がなく、自意・我見のみの信仰者気取りでいたり、謗法の性根を改めようとする勇気が乏しい人のことです。
 次の「正法を捨てさせる」とは、先述の「白衣の与に法を説く」ような人。これは「未得謂得」の憍慢の者が悪心を起こして、世間の人を誑惑する魔の作用であります。  これらの謗法によって、三障四魔に屈服し、信心修行を怠たり、正法から離れるようになるのであります。その姿が謗法に与同していることになります。  大聖人様は『上野殿御返事』に、 「なかなかしき人の信ずるやうにてなめり乱言て候へば、人の信心をもやぶりて候なり」(同 一一二三㌻) と、御教示されております。私たちの信心修行がこのようであってはなりません。  『立正安国論』に、 「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(同 二五〇㌻) と仰せであります。「実乗の一善に帰す」とは、「実乗の一善」におまかせすることであります。仏法の信仰は本因妙の教主の法門義を信心し、我見を慎しみ正直に修行する以外にはないのであります。
 今年「行動の年」も半月を残すだけになりました。明年は「躍進の年」と発表され、全国四会場では決起大会が開催されます。「地涌倍増」の御命題は、謗法与同の邪念を破してこそ成就するのであります。

「行動の年」自行化他の行動を             H19.2.16号

御法主日如上人猊下は「行動の年」の『新年の辞』で、
「信とは正しい対境、すなわち正しい御本尊に対して信を取る事が成仏の絶対的条件であって、以信得入と云っても正しい御本尊に対して信を取らなければ成仏は叶わないのであります」(大白法 七〇八号)
と仰せあそばされ、さらにその要諦を、
「その信とは、すなわち自行化他の信心であります」(同)
と仰せられ、「勤行・唱題・折伏」の実践行動が「信心」の実証であると御指南あそばされました。
  今月十六日は、御本仏日蓮大聖人様の御生誕七百八十五年の佳き日、この御法主上人猊下の「信・行」の御指南を拝し奉り、御報恩のため、行動を起こし、御奉公を尽くすことを希うのであります。

「信」とは
 我々は、時には「信心」ということを考えたり、または「行」について語り合ったりします。その場合は、何によってその答えを得るでしょうか。最も気をつけなければならないことは、『妙法比丘尼御返事』に、
「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とがとも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(御書 一二五八㌻)
と日蓮大聖人様が仰せられているように、謗法に対し充分に注意することであります。
 さて、「信」の字の解説には、「人の心の中を表したもので、偽りのないことを表したのが信の字である」とあります。偽りのないことを表したことから「欺かない」「まこと(真実)」という意味があり、正直にそれに「したがう(従)」、また欺くことなく「つかい(使)」すると意義づけられています。また「欺かない」という信頼関係から「背かない」ことに通じ、当然のように「無疑曰信」と仰せのように、疑わないことが原則になるのであります。
 総本山第二十六世日寛上人は『当体義抄文段』に、
「九界の衆生之これを修行して、仏界の因果を同時に之を得う」(御書文段 六三二㌻)
と御指南あそばされておりますが、つまり御本尊様を「信心」するということは、自己流や自己満足の流儀ではなく、御本仏日蓮大聖人様の教えに従って修行することであります。仏の教えに従う、仏を欺かないということを心得ることが肝要なのであります。
 したがいまして、時には、大勢の意見である場合、その意見に流されることがありますが、このような場合においても『聖愚問答抄』に、
「汝只正理を以て前さきとすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ」(御書 四〇二㌻)
と厳しく誡められております。『唱法華題目抄』には、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(同 二三三㌻)
とも仰せられているのであります。
 外道の考え、邪義の道であるならば、それが何なる人の意見であっても、その誤りを折伏し、正道に導くべきことが「信」の本義なのであります。

自由思想と信仰
 我々は、自由であると主張することがあります。また、我々には「信教の自由」が与えられています。しかし、現在この社会においてその自由は、混沌とした社会の現出の結果となっているのであります。『立正安国論』に、
「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起り難起こる」(同 二三四㌻)
と仰せのように、この混迷の因は、本地自受用身の法門を欺き、三宝破壊の謗法を犯すことにその原因があります。
 「仏法は難しいから」と言って、自分の思想に合わせて、その教えを自由に変えて、それがあたかも信心であるかのように錯覚している場合がありますが、何事にもその法則・道理というものがあります。その法則・道理に我見を入れずに従うことが信仰であります。しかし、その道理に従わず、拡大解釈し、我意我見でその道理を覆くつがえすことになれば、それは従っていないことであります。
 日寛上人は『当流行事抄』に、
「大覚世尊設教の元意は、一切衆生をして修行せしめんが為なり」(六巻抄 一六一㌻)
と、すなわち釈尊が教えを説かれたのは、一切衆生がその教えを修行し、成仏せしめんとの慈悲の一念にある、との御指南を充分に玩味すべきであります。

仏の使命
 御本仏日蓮大聖人様が本地自受用身の垂迹、結要付嘱あそばされた上行菩薩の再誕として御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊を信心するということは、この御本仏様の御建立された、成仏の直道に従って行動することなのであります。その上、この混沌とした時に生まれ合わせた我々は、「願兼於業」の誓願を空しくせずに、御本仏様の眷属として、自身が願って五濁の世に生まれ、正理正法の信心である破邪の利剣をもって、魔の作用、鬼の想念を折伏するのであります。
 この自行化他の折伏こそが、『涌出品』において釈尊の御命を拝した地涌の菩薩の意義であり、また邪義邪説を折伏することは、末法の妙法弘通の大任を拝した地涌の菩薩の本分なのであります。
 故に、御法主日如上人猊下は、
「仏法に生きる者は折伏が自らの使命であるということを知って、その使命に生きなさいということであり、我々法華講衆は、特に今日、仏の使いとして仏の事を行じていく尊い使命を帯びているということを知って、そして、その使命に生きていくべきであるということであります」(大白法 七〇〇号)
とも御指南あそばされております。
 折伏しない信心は、信心ではありません。仏の使命に従って折伏を行じ、真の地涌の菩薩となって自行化他の行動を起こし、平成二十一年の『立正安国論』正義顕揚七百五十年、「地涌倍増」と「大結集」を完遂成就いたしましょう。

「決起の年」に遇う、これ華報とせん       H18.6.16号


 『立正安国論』の、
「唯だ我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡しめんのみ」(御書 二五〇㌻)
と仰せの御文を拝し、御法主日如上人猊下は、
「不幸の根源は謗法にあることを知らしめ、謗法を責め、謗法を破折し、その謗法から救っていくことが大事であり、これが我々の自行化他にわたる信心であります」(大白法 六九一号)
と、初転法輪において御指南あそばされました。

上求菩提
 「上求菩提」と「下化衆生」は、信心の上から一体でありまして、修行の上からも一体であり、「上求菩提」とは自行、「下化衆生」とは化他行のことであります。したがって、曲がった信心修行をしないためにも「上求菩提、下化衆生」の自行化他に発心することが肝要なのであります。「上求」の「上」とは、仏を意味します。したがって、仏の説に信伏随従して信と行に進むことなのであります。
 日蓮大聖人様は、
「唯人師の釈計りを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや」(御書 二九四㌻)
と仰せられています。すなわち経文を解釈するにしても、行者が修行するにしても、仏の説によらなければ、仏法を信心し、修行しているとは言えないのであります。
 例えば『薬王菩薩本事品第二十三』に、念仏信仰観の破折の文に、
「若し如来の滅後、後五百歳の中うちに、若し女人有って、是この経典を聞いて、説の如ごとく修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の囲遶せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」(法華経 五三七㌻)
とあり、末法において妙法蓮華経に説かれている通りに修行するところに、真の成仏があることを説かれているのであります。

正直な信心
 大聖人様の仏法を受持する上においては、「自己流」「自己満足」の信心であってはなりません。
 そこで、この「自己」という言葉を、
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」
という諺に置き換えて考えてみます。この諺は、自分の身分、力量に見合った考え方や行動をするものだという譬えです。つまり、大聖人様の教えも御法主上人猊下の御言葉も自己流に考え、自分なりにかたちを作る、このようなことを「蟹の甲羅」と表現しているのであります。我々は、成仏を信心の目的としているのでありますが、自分の考えに随った信心は、成仏できない方便権教の信仰の姿であり、仏の境界に近づくことのできない信心修行になるのであります。
 予て、御隠尊日顕上人猊下は、
「思いきって創価学会を脱会して尊い仏道の修行に入られたとはいっても、その様々な残塊というものが、あるいは残っておるかもしれません」(大白法 三四六号)
と御指南されたことがあります。
 「残塊」は「習気(じっけ)」ということに通じますが、この残塊のままの狭い了見で仏法を判断し、世法の知識や名聞名利を土台にして仏法を解釈するのでありますから、歪んだ信仰観が出来上がってしまうのは当然であります。
 それでは、信心も修行も教学もすべてが曲がったかたちで、我田引水の自己中心の発想になり、大聖人様の教えに御奉公するとか、御法主上人猊下の御指南にお仕えするという、成仏するための絶対条件である信心の基礎が欠けてしまうのであります。
 それによって、凡夫の狭い「甲羅」でありながら、自分の振る舞いが仏のごとくであると思い込んで慢心を起こし、それがそのまま煩悩そのものの我意我見の言動になり、結果として大御本尊様から退転することになっていくのであります。残念なことです。
 『新池御書』に、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし」(御書 一四五七㌻)
と、初心の時の純粋に信行学に御奉公している姿を「信心有る」と仰せなのであります。

仕える信心
 法華経の『方便品第二』に、
「仏曽かって、百千万億無数の諸仏に親近し、尽ことごとく諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞きこえたまえり。甚深未曽有の法を成就して云云」(法華経 八八㌻)
と説かれています。すなわち釈尊は、多くの仏に仕えてその仏の道法を行じて勇猛精進し、甚深未曽有の法即南無妙法蓮華経を成就したのであると説かれているのであります。『法師品第十』に、
「若し法師に親近せば速すみやかに菩薩の道を得」(法華経 三三四㌻)
と説かれています。また大聖人様は『新池御書』に、
「此の経の信心と申すは、少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず、法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ」(御書 一四六〇㌻)
と仰せられております。我意我見を誡め、謗法厳誡の勇猛心を起こし、自行化他にお仕えし精進することが「信心」なのであります。
 御法主日如上人猊下は、
「所詮、仏法は実践と体験の世界であります。したがって唱題も折伏も、行動が伴わなければ意味がない(中略)地涌倍増も大結集も、まず我々が立ち上がり、行動を起こすところから一切が始まるのであります」(大白法 六九三号)
と御指南あそばされました。
 「不言実行」という語があります。言葉では如何様にも言うことができます。しかし、実行するという行動は、言葉の幾倍も勇気を起こさなければなりません。また、自分の真心を表すためには実行すること以外に方法はありません。したがって自行の勤行・唱題も、また化他行の折伏も、実行するから自行であり、化他行なのであります。
 三年後の「地涌倍増」と「大結集」の御報恩に供し奉ることは、自行化他の実行以外にありません。

世間の法に染まらざる自行化他       H17.6.16号


 末法の妙法弘通を委ねられた地涌の菩薩の「僧俗前進の年」も、いよいよ後半、仕上げの時期に入りますが、夏期講習会で御法主日顕上人猊下の甚深の御講義を拝聴し奉り、この御指南を心肝に染め、「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」の御命題達成に自行化他にわたり御報恩申し上げましょう。

『涌出品』の自行化他
 『従地涌出品第十五』に、釈尊は、迹化・他土の菩薩衆からの、末法濁悪の時の妙法を弘通する旨の請を「止し善男子」と制止したのであります。この制止と同時に上行等の四菩薩を上首とした六万恒河沙の地涌の菩薩が涌出し、これによって本門『寿量品』の久遠実成の開顕となるのです。
 その開顕の因となる弥勒菩薩の動執生疑について、
「久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如ごとし」(法華経 四二五㌻)
と経文に説かれています。すなわち地涌の菩薩の仏道修行の相も、菩薩道の習学の姿も、一切が実に妙法五字の法門の上に則り、全く世間の法に染まっていない、それは泥水の中に在って清浄な華を咲かせる蓮華のようである。釈尊が菩提樹下で開悟されてから四十余年という短い間であるのに、この尊い地涌の菩薩の姿を目前にして、このような大菩薩をどのように教化し、発心せしめたのか、との疑問であります。

 この『涌出品』の文にしたがって「自行化他」の菩薩行を考えてみます。

化他も自行なり
 去る春季総登山会の砌、御法主日顕上人猊下は、
「親が本当に子供の幸福を思うならば、大聖人様の仏法の信心を、命を懸けて教えていくということが一番に大切だと思うのであります」(大白法 六六六号)
と、法統相続を通して自行化他の菩薩行の上から重要な意義があることを御指南くださいました。
 殊更に強調するわけではありませんが、自行化他という修行は、一定の期間を設定して行うことではなく、常日頃、朝夕心に案じ、常の生活の中に時間を設けて自発的に行ずることでありまして、化他を行ずるということは「信心」していること、自行の上の真実の証でもあります。御本尊様の偉大な仏力・法力を信じているから、子供の将来の幸福を念じ、教化することができるのであります。
 御本尊様の仏力・法力を信ずることは『涌出品』の「神通智力に住す」との相であり、子供の幸福を念じ教化する唱題行は「善く菩薩の道を学する」ことであり、この幸福を念ずる心こそが信心の発露の姿であり、「世間の法」に染まらざる自行化他の真実の相であります。
 このように自行化他は、我々凡夫が成仏するための最も尊い菩薩行なのであります。また、この自行化他は、あらゆる機会に遭遇することでもあります。しかし菩薩行は、自らを利益する心と、他を教化し利益せしむる心がなければならないのであります。
 それは『摩訶止観』に、
「上は仏道を求め下は衆生を化する発菩提心と名づく」
とあり、仏道を行じようと求める自行と衆生を教化する化他行とが共に具わる発意が菩提心、成仏を願う心なのであります。したがって、自行も化他も菩薩行として一体であり、別々の行ではありません。すなわち菩薩行の化他も自行なのであります。
 例えば、六波羅蜜という菩薩行がありますが、末法において御本尊を信行受持し、苦悩の衆生を折伏教化しようと菩提心を発おこす、この善根の心を起こした人は、
「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し」(法華経 四三㌻)
と無量義経にあり、法華経の功徳力は六波羅蜜を自然に修行することになると説かれています。信行受持する自行と、化他の折伏教化の心を起こすことは、六波羅蜜を行じていなくとも、自然に自行化他の六波羅蜜を修行していることになるのであります。

不染世間法の信心

 御報恩御講へ毎月参詣する中で、自分だけで参詣している人、あるいは必ず誰かを連れて参詣している人とおります。なかでも、自分なりに御報恩の重要な意義を理解して他の人に話し、その人を教化して共に参詣をするということは実に難しいことであり、またこれは最も大切なことでもあります。この他人に話すということは、その人を思いやる慈悲の心であり、また尊い化他の菩薩行なのであります。
 大聖人様は、
「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよは(弱)く、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす」(御書 一四五七㌻)
と仰せられていますが、教化される人も、教化する人も「自慢」の心でいないか、「悪見」の心ではないか、恭敬もしない、供養もしない、自慢する心、悪見をなす生命、これらはすべての「心」が「世間の法」にしたがっていることであると認識しなければなりません。
 我々人間は「有情世間」にありまして、見たり聞いたりして、その経験から物事の是非を判断するものですが、この判断が世間の法に染まった考え方なのであります。御本尊様に仕える、御奉公する心に立っての考えが大切なのであります。
「法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし」(同 一四六一㌻)
と仰せの「法をこゝろえたる」との信仰の心が、『涌出品』の「善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざる」との御文意なのではないでしょうか。御報恩の篤い心で他人を教化し、広布大願のために唱題会に参加し、世間の法に染まらない破邪顕正の一念を発揮し、折伏を行じ、講中の人の一人でも教化して参加を呼びかけることも、化他の菩薩行なのであります。
 御法主日顕上人猊下は、四月の広布唱題会において、妙薬大師の「十不二門」の「内外不二門」を引かれ、
「日蓮正宗の信仰において正しく信心修行するところに、内の功徳がそのまま外にはっきりと顕れるのです」(大白法 六六七号)
と御指南されました。常に有為転変の世間ではありますが、世間の法に紛動することなく、「神通智力に住する」正しい信心修行を心がける自行の「内の功徳」が、そのまま外に「化他の積功累徳」と顕れることを確信し、この後半期の御奉公に精進し、もって御報恩申し上げ奉りましょう。

成仏の直道を歩むは折伏行なり       H16.8.16号


 『立正安国論』の、
「唯だ我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書 二五〇㌻)
との旅客の正直な誓願に接し、また、「一年に一人が一人の折伏を」との御法主日顕上人猊下の御指南を拝するとき、日蓮大聖人の仏法を実生活の中において実践し、破邪顕正の実を上げ、正法流布の功徳の上に、一切衆生に立正安国の法悦を得せしめんとの御慈悲を感ずるのであります。

求める信仰とは折伏
「与えられることに慣れ、与えることを忘れている。これを貪むさぼるという」
と、ある本にありました。「入信以来、御本尊の功徳の勝れていることを強く感じ、御報恩御講への参詣、広布唱題会、支部総登山への参加、教学の研鑽等、必ず実行し欠かしたことはありません」という声を聞くことがあります。信心がなければこれらの仏道修行を長く続けることは難しいことであり、たいへんに立派な信心の姿であるように見えますが、これらは言わば自行にあたる修行なのであります。
 「信」ということについて涅槃経に、
「信に二種有り。一には信、二には求なり。是の如きの人復信有りと雖も、推求すること能はず。是の故に名けて信不具足と為す」
と説かれています。信心があると言っても、今の境界よりさらに上の境界を求めようとの一念を発起することをしないことは、「信不具足と為す」と説かれているのであります。
 御法主日顕上人猊下は、
「自分に縁のある人を一人でも折伏しようという気持ちであり、実る実らないは別として、この仏法の功徳を伝えていくという自行の大きな功徳とともに、また化他の非常に大きな功徳が顕れてくるのであります」(大白法 六三三号)
と御指南くだされています。すなわち御本尊様から与えられる自行の功徳と共に、邪義謗法の人を折伏教化する功徳の大なることを仰せられているのであります。
 また「功徳」とは、『御義口伝』に、
「又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり」(御書 一七七五㌻)
と、人を不幸に堕し国を亡ぼす元凶である、邪義謗法の悪法を滅する破邪の折伏を「功」といい、その悪法を折伏する、破邪顕正の一念によって生ずる善根を「徳」と仰せられているのであります。
 したがって「信教の自由」という世法により、他人は他人自分は自分という心で、邪義謗法の人がいても知らん顔をして無視し、自分一人が正しい信心をしていると思っても、それは仏法の上の真実の信心の姿ではないのであります。なぜならば、それは謗法に与(くみ)する「与同罪」となるからであることを強く認識すべきであります。

折伏は菩提心なり
 「四弘誓願」「六波羅蜜」という仏教用語がありますが、この二つは菩薩が成仏するために行ずる自行化他の修行を意味する語であります。
 「四弘誓願」の中では「衆生無辺誓願度」、すなわち一切衆生を折伏教化するところの誓願が第一に挙げられています。
 また「六波羅蜜」については、法華経の開経である無量義経に、
「菩提心を発し(中略)一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し云云」(法華経 四三㌻)
と説かれています。この「一切の苦悩の衆生を度す」とは、邪義謗法に苦悩している衆生を済度することであり、折伏教化することであります。そしてこの謗法の衆生を救うために折伏教化を行うことは、その功徳において自然のうちに、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を行じていることになるのであります。
 次に天台大師の、
「上は仏道を求め下は衆生を化する発菩提心と名なづく」
という「上求菩提、下化衆生」について考えてみます。「上求菩提」とは、仏道を求める信仰心であり、また修行であります。「下化衆生」とは、煩悩・悪業に苦しむ衆生を教化する折伏行をいうのであります。また「菩提心」とは、成仏を求める心をいうのでありますから、成仏を求めるためには「上求菩提、下化衆生」こそがその方途なのであります。
 すなわち成仏をめざす仏道修行においては、まず人々の成仏の障りとなる邪義謗法を破折することが大切です。他の人の邪義謗法を折伏することで、また我が身の謗法の習気を破すこともできるのでありまして、これが成仏への菩提心の発起なのであります。

折伏は信心の証
 日蓮大聖人は『諸法実相抄』に、
「行学の二道をはげみ候べし。行学絶へなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書 六六八㌻)
と仰せられています。この御文について御法主日顕上人猊下は、
「行学ということのなかにおいて、力あらば他の人に向かって一文一句でも説いていくということ、ここに行学の二道の結論としての、すなわち我々が日常において仏法を行ずる一番根本の心掛けが示されておると思うのであります」(大白法 六四八号)
と御指南されています。「他の人に向かって一文一句でも説く」ことが、「行学の二道の結論」であり、「仏法を行ずる一番根本の心掛け」と仰せなのであります。さらに、
「一生懸命に勉強しても、それをただ自分の肚(はら)のなかだけにしまっておくのではなく、尊い仏法の意義をたとえひとことなりとも他に向かって説いていくということこそ本当に大切であり、それが正しく法を行ずる姿である」(同)
と御指南されています。したがって、信心をしているという証は、自行はもちろんのこと、化他行である折伏を行ずることこそ、成仏を求める真の信心の姿なのであります。
 「平成二十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」までの四年四カ月、破邪顕正、立正安国に向かい、『折伏教本』を活かし、「地涌の友の倍増乃至、それ以上の輩出と大結集」との御命題を成仏の唯一の願行と定め、唱題と折伏に精進しようではありませんか。

「破邪顕正」とは「立正安国論」なり       H16.1.16号


 「平成二十一年・『立正安国論』正義顕揚七百五十年」の佳節に向かう第二年「破邪顕正の年」を迎えました。
 全国各支部においても、法華講員個々にあっても、昨年十一月に示された「年間実践テーマ」の七項目を実践の柱として計画され、一歩を踏み出したのであります。

破邪顕正と七項目
 御法主日顕上人猊下は『立正安国論』の、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是これ安全にして、心は是禅定ならん。此の詞比の言信ずべく崇むべし」(御書 二五〇㌻)
の御文を拝し、この御文の意義を、
「身と国土の上に変化災難がなければ、我々の身心は安らかにして幸福の境地が定まるのである。しかし、このためには邪を破して正を立てるということが大切であり(中略)要するに立正安国は、信仰の寸心を改め、速やかに実乗の一善に帰するというこの文に明らかに示されておるのであります」(大白法 六三五号)
と御指南されました。すなわち邪義謗法を破折する「破邪」は即「立正」なのであります。
 したがって、我々凡夫が正直に日蓮大聖人様の正法正義の信心を確立し、
「勤行・唱題の励行で信心の基礎確立」
「御報恩御講と広布唱題会へ参加の徹底」
「教学研鑽で邪義破折の徹底」
「支部総登山の徹底で組織の充実強化」
「常に家族ぐるみの寺院参詣で法統相続の徹底」
等は自行を面(おもて)とした化他行であり、
「下種先拡大で折伏誓願目標の完遂」
「家庭訪問で人材の育成」
は化他行を面とした自行であります。
 すなわち受持信行のための邪念を自ら破す自行と、災難の元凶である邪義謗法を破折する化他行の実践が、別しては自己の「破邪顕正」であり、総じては「立正安国」になるのであります。

己心の破邪
 日蓮大聖人様は『顕謗法抄』に、
「法に背くが謗法にてはあるか(中略)正法を人に捨てさするが謗法にてあるなり」(御書 二八〇㌻)
と、一つは正法に背くこと、二つには正法を憎むことと御教示されています。ですから憎み背く心で他の人を正法から離れさせたり、捨てさせるなどの言動も謗法になるのです。さらには自分は正法を信心しているから謗法を認めていませんと思っていても、親しい友人、知人、縁者等の謗法を破折しない場合は、
「心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候」(同 七四四㌻)
と、「謗法に与くみする同罪」と仰せられているのであります。
 それでは、謗法は何故に人を地獄に堕し、国家社会の災難を起こすのであるかと言えば、それは、
「若し般若波羅蜜を破れば則すなわち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為なんぬ。仏宝を破るが故に、法宝を破るが故に、僧宝を破るが故に。三宝を破るが故に則ち世間の正見を破す」(同 二七九㌻)
と般若経の文を引かれて、仏の智慧を破ることは十方諸仏の一切の智慧を破ることになり、これは仏法僧の三宝を破ることとなり、一切世間の正見をも破ることになるとの仰せなのであります。
 つまり人の思想も行為も含めて、すべての生活が邪悪なものになってしまうのです。これを正すためには、何が正法で何が邪法なのかを強く認識しなければなりません。
 大聖人様は、
「唯人師の釈計ばかりを憑みて、仏説によらずば何ぞ仏法と云ふ名を付すべきや。言語道断の次第なり」(同 二九四㌻)
と厳しく御教示あそばされています。まさに既成仏教の浄土・禅・真言・天台等の各宗、日蓮宗系の他門流、さらに池田創価学会等は、仏説に背いた邪義謗法の宗団であり、仏教に名を仮りた外道なのであります。特に池田創価学会はかつては日蓮正宗の信徒団体であったにもかかわらず、宗旨の三大秘法、血脈相承を誹謗する正法破壊の姿は、
「実にまされる経を劣とをも思うてこれをは破す、これは悪能破なり」(同 二九〇㌻)
と厳しく御教示されるように、悪能破の謗法であり、池田創価学会の仏法解釈は本末転倒の謗法なのであります。

須弥山に近づこう
 正しい信心をするということは、自分勝手な解釈で、自分の都合に合わせて信仰をするということではなく、日蓮大聖人様の御教示に基づく信心でなければなりません。その在り方について、
「須弥山に近づく鳥は金色となる」(同 一〇五四㌻)
と仰せられ、さらに、
「須弥山に近づく衆色は皆金色なり」(同 一四八三㌻)
と、同様の御教示があります。この両御文を拝しますに「須弥山」とは御本尊であり、「近づく」とは御本尊を「正直に信行受持すること」でありまして、本門戒壇の大御本尊様の御開扉を受ける信心、勤行・唱題に励み、加えて大きな意義ある邪義謗法の破折、折伏の実践、この自行化他の行体の根底に日蓮大聖人様の御教示、御法主上人猊下の御指南を規範とする実践が「近づく」の意義なのでありまして、御本尊様の御意に近づく信心をするところに、あらゆる「鳥・衆色」である凡夫の境界が「金色」となるという成仏の功徳を得るのであります。
「池田大作の大謗法の残塊に対してきちんと処置をしていくところに初めて、本当に僧俗が和合一致した真の広宣流布の態勢の整備と、その出発が存するのである」(大日蓮 六三一号)
との御法主日顕上人猊下の御指南を心肝に染め、来たる「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」に向かい、「破邪顕正」「立正安国」の実を結ぶためにも、唱題・折伏を実行し、大輪の花を咲かせる一年にしようではありませんか。

「祖道の恢復」と御報恩            H15.2.16号


 宗旨建立七百五十年の慶祝御報恩の感激覚めやらぬ「広布大願の年」も孟春二月を迎えました。今月は興師会、御誕生会を奉修し、宗開両祖に深く御報恩謝徳し奉るとともに、六年後の御命題達成のため、広布推進会第一期の中盤の月として、折伏・育成に全力で取り組むべきであります。また青年部対象の広布推進会が全国一斉に開催されております。
 御法主日顕上人猊下は、御登座の砌「祖道の恢復」「異休同心の確立」「広布への前進」を掲げられ、以来、常に大聖人様の仏子、地涌の菩薩として、邪見を誡め正道に則り、本因下種仏法の弘宣に励むよう一貫して御指南あそばされました。したがって、平成三年一月六日の、
「あくまで正しく、私一人になっても法を護ってまいります」(大白法 三四〇号)
との御指南は、御法主として、仏祖三宝尊を深く尊崇あそばされる御立場から、世間を誑かし惑わす池田創価学会の外道義を断固破折される覚悟の御言葉であり、さらには日興上人の、
「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を揣くじくべき事」(御書 一八八五㌻)
との御遺誡に則られ、もって「祖道の恢復」を、率先垂範される破邪折伏の御一念の御振る舞いと拝するのであります。
 したがって、我々日蓮正宗門下の僧俗は、御法主日顕上人猊下の御指南を心肝に刻み、日蓮大聖人の仏法に違背することなく、御歴代上人の御教訓を体し、その精神をもって信心に、行体に、教学に精進することこそ、一人ひとりの成仏のための「祖道の恢復」の実践であり、成仏の直道を歩む姿なのであります。それはまた自らの信仰の心が、文底下種仏法に立った思いなのか、と常に我が心に問うことも大切なことであります。
 『上野殿御返事』には、
「聴聞する時はも燃へた立つばかりをも思へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心あり」(同 一二〇六㌻)
と仰せられています。この御文を拝し奉りますに、誰もが少なからず経験することです。すなわち御講などに参詣し、御法門を聴聞したとき、それまでの間違った考えに気づき、折伏しよう、唱題しようと勇み心が湧き、発心するのでありますが、時間が過ぎ、家に帰りますと、すぐにその勇み心も忘れてしまい、終いには折伏や唱題を人に押しつけられたと思う邪念に埋没してしまうのであります。
 この「とをざかりぬれば」とは、時間や距離のことのように思えるのでありますが、根本は心が「とをざかる」のであります。我が心が、御本尊様から「とをざかりぬれば」ではないでしょうか。大聖人様の教えから心が「とをざかり」、成仏の直道から心が「とをざかり」、ついには仏法から大きく外れた不信心の姿となるのであります。この「とをざかり」の心は何故に生じるのでしょう。
 『寿量品』に、
「而も憍恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕なん」(法華経 四四二㌻)
と釈尊は説かれています。「憍」とは「おごりほしいままにする」との意味であり、「放逸」とは「ほしいままに」「きままに」という心の動きであります。長い間信心しているという心から、仏法のことは少し理解していると得意になって気ままな心になり、五欲すなわち五塵という、成仏とは反対の煩悩に埋没し、結果として悪道に堕ちる原因を作ることになると説かれているのであります。
 言い換えるならば、悪道に堕ちる因である五欲から「とをざかりぬる」自分になるように発心することが肝要なのであります。それには何をどのようにするのか、それは『蓮盛抄』に、
「是を以て法華に云はく『悪知識を捨てゝ善友に親近せよ』」(御書 二九㌻)
と仰せられています。「悪知識」とは、悪道に堕す作用はたらきであり、生活している周囲の友人・知人等の、仏法の道理から離れさせるような言葉、信心を破る言葉であります。「善友」とは、成仏に導く知人・友人の激励の言葉でありますから、時には厳しい助言もあります。感情が波立つ言葉もあります。「善友」は「善知識」のことであります。
 しかし、善友にしても悪知識にしても、自分の感情や都合に合わせて選ぶのではありません。『方便品』に、
「仏曽て、百千万億無数の諸仏に親近し」(法華経 八八㌻)
とあるように、仏の教法に、我意我見に負けることなく信伏随従することが「親近」するということであり、正直な信心の上から判断することなのであります。
 我々は、自分の境遇で物事を識別判断するものであります。しかし、身近な問題で判断できないことは、知人・友人にその解決を委ねることがあります。ところが仏法のこと、信心のことは注意しなければなりません。同『蓮盛抄』に、
「止観に云はく『師に値あはざれは、邪慧日に増し生死月に甚だしく、稠林に曲木を曳くが如く、出づる期有ること無し』云云」(御書 二九㌻)
と仰せのように、仏法の深い道理は「師」に親近し、その教えに信伏し随従しなければ得ることができないのです。師に随従しない場合は、人それぞれの境遇での邪念の智慧に惑わされることになるからであります。この意味から、御講に参詣し、それまでの浅い見識を見直し、認識を深め、視野を広くし、信心を確かなものにする心がけが大切なのであります。
 しかし、忘れてならないことは「習気」という惑です。この習気は、生活する中での長年の習慣で身についたことが、意識するしないにかかわらず考え方に出るもので、その中には創価学会の教えの残塊も含まれます。この習気を転ずるためには、唱題と折伏が大切なのであります。
 『十章抄』に、
「真実に円の行に順じて常に口ずさ吟みにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととな(唱)えさすべし。名は必ず体にいたる徳あり」(同 四六六㌻)
と仰せであります。人は過去世からの因縁果報によって、その人の人生の境遇があります。この現実は、その人が求めたものではありませんが、『蓮盛抄』の「邪慧日に増し」との仰せのごとく、邪悪な智慧が原因となっての境遇であり、境界なのでありますから、その境遇から脱却すること、改善することを考えなければならないのであります。
 我々は、幸いにも御本尊様を信心する境遇にあり、すでに成仏の種子を植えられているのです。その尊い成仏の種子を育てることに心を尽くすことが、今の境界を高めることになるのであります。
 御法主日顕上人猊下は、
「妙法蓮華経の体はそのまま、妙法蓮華経を行ずるところに顕れる」(大白法 六一三号)
と御指南あそばされました。折伏をしたいとの一念を叶えてくださることも唱題にあります。折伏したいがその相手がいないと思っても、唱題することで必ずその人は現れます。それは過去からの因縁で現れます。話が相手に通じないとの悩みも、唱題することで幾つもの道は開けます。また、御講に連れて行くことも一つの道です。特に折伏して御本尊様の御前に連れて行くことは、地涌の菩薩が地涌の友を御本尊様に御紹介申し上げる崇高な行為であることと認識すべきです。
 心に御本尊様を忘れ、自分が地涌の菩薩の一人であることを忘れて、世間の低い思想をもって仏法を観たり、謗法の残塊を残したままで信心したり、あるいは自己流の考え方で仏法を解釈して、どうして境界を高めることができましょう。一心不乱の唱題でよくならない境界はありません。真剣な折伏で消えない罪障はありません。
 「祖道の恢復」は、日蓮大聖人の仏法を広宣流布する上において忘れてはならない心得であり、御報恩の一念に存することであります。唱題行と折伏の実践、御講への参詣によって成仏の種子は培われ、育まれるのであります。
 六年後の『立正安国論』正義顕揚七百五十年に向かい、地涌の菩薩として、真の法華講員として境界を高め、一人でも多くの地涌の友を、御本尊様、日蓮大聖人様の御前に御紹介申し上げ奉り、御報恩申し上げようではありませんか。

「信伏随従」            H14.4.16号


 宗旨建立七百五十年、謹みて慶賀申し上げ奉ります。
 待望久しい宗旨建立七百五十年。その日が旬日に迫り、身の引き締まる思いを強くいたします。五十年に一度の御報恩慶祝の日であるとは言え、宗旨を御建立あそばされまして以来、七百五十年は今年だけであります。実に感銘を深くするのであります。と同時に、何が何でも法華講三十万総登山を完遂成就しなければ、生涯に一度だけの宗旨建立七百五十年を慶祝申し上げたことにはなりません。
 御法主日顕上人猊下は、
「平成十四年の四月に宗旨建立七百五十年の佳節を迎えます。その時、今日の集会の六万人の五倍、ないしそれ以上の信心篤あつき地涌の友が輩出すれば」(大白法 四一四号)
と、地涌六万大総会の御、御指南あそばされました。「三十万総登山」の御命でありました。爾来、その数に意義を模索したり、詮索をしたり、または「何の意味もない」と軽視誹謗する族があります。軽視誹謗する族は門外漢、不相伝家の嫉視の妄言もうげんでありますが、我が日蓮正宗の門家と誇るのであるならば、模索したり詮索する意味は無用なことなのであります。むしろ『御義口伝』に、
「総じて随とは信の異名なり云云。唯信心の事ことを随と云ふなり」(御書 一七七五㌻)
とあるように、御指南を信じて随う、御指南に従う、信伏随従することが信心なのであり、日蓮正宗の真の門人なのであります。
 もし、この御法主上人猊下の御意に正直な心になれないならば、それは惑障に妨げられた人であり、真の信仰者ではありません。
「今日蓮が弟子等も亦是くの如し。或は信じ或は伏し、或は随ひ或は従ふ。但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者云云」(同 七五一㌻)
と『顕立正意抄』に仰せのように、御本尊を信心してはいても、御本仏大聖人様の法門を自分の見識だけで判断していたりしてはいないでしょうか。また創価学会で習った誤った教学の感覚で解釈したり、世間法に偏重した観念に囚われていないでしょうか。習気に気づかず白己流の信仰をしていないでしょうか。このようなことでは信伏随従していると思っていても、それは形式的な振る舞いであって、真心からの信伏でもなければ、随従の姿ではない「信心薄き者」の姿になるのであります。
 天台大師も『摩訶止観』に、
「師に承事すること、僕の大家に奉ずるが如くせよ。若し師に於て悪を生ぜば、是の三昧を求むるに終に得難からん」
と、仏法を行ずる心得を説かれていますように、御法主上人猊下の御指南を素直に奉じ行ずることが重要なことなのであり、御法主上人猊下の御指南について好悪の念が生ずることは信心が動ずることになり、終に徳果を得ることはできないことになるのであります。
 たしかに、人の心は種々の煩悩が多く、時には我が心の思いや考え方に同調する人を求めて、世間法に偏重した考えで講中の批判に終始したり、その振る舞いを厳しく誡められたとき、その人に瞋りの念を生じて悪感情を懐いだいたり、自分の考えが仏法の道理から外れていることに気づかずに、平気で外道の思想を仏法と錯覚したり、他人を軽視して非道である自分の考えを自慢したり、そのために御法主上人猊下の御言葉を疑ったり、迷ったりするものであります。これでは信伏随従を果たすことができるはずはないのであります。まさに、「但名のみ之を仮りて心中に染まらざる信心薄き者」の責めを我が身に受けることになるのであります。
 したがいまして、宗旨を御建立あそばされました日蓮大聖人様へ、唱題と折伏をもって三十万総登山を成就し、御報恩申し上げ奉らんとの御指南には、一もなく二もなく随従してこそ、信伏随従の実証であると信ずるのであります。
 それは地涌六万大総会の砌、
一、この教法の勝劣・浅深のけじめを明確に教えていくこと
二、妙法の尊厳を知らしめること
三、時に適った修行・振る舞いをなすこと
四、御聖訓のもと日本ないし世界広布に邁進すること
五、力強く正法流布の正当性を示していくこと(以上趣意)
と、地涌の菩薩の使命についての御言葉にありますように、日蓮大聖人、日興上人の御精神に帰る、その意義に宗旨建立七百五十年を慶祝し奉る真の原点があるのであります。
 それは正直な唱題と折伏にあり、その我一人の波紋が正法流布への波動になるのであります。他に人を求めることでもなく、他の人に頼ることでもなく、我一人が奮然と信伏随従することに尽きるのであります。
 もし、我が信伏随従の一念に欠け「信心薄き者」との御文に慚愧の心が生ずるならば、今こそ奮起し、発心すべき時であります。
 日蓮大聖人は『顕立正意抄』に、
「是を免かれんと欲せば各薬王・楽法の如く臂を焼き皮を剥ぎ、雪山・国王等の如く身を投げ心を仕へよ。若し爾らずんば五体を地に投げ遍身に汗を流せ。若し爾らずんば珍宝を以て仏前に積め。若し爾らずんば奴婢となって持者に奉へよ(中略)四悉檀を以て時に適ふのみ」(御書 七五一㌻)
と仰せであります。この御文を拝読して厳しいと思うか、あるいはこの御文の中の一つでも実行できることはないかと真剣に考えるか、自分に行うことがあるならば、早速、実行に移してみるべきであります。
 信伏随従することは『御義口伝』に、
「信とは無疑曰信明了なるなり、伏とは法華に帰伏するなり、随とは心を法華経に移すなり、従とは身を此の経に移すなり」(同 一七七八㌻)
と仰せでありますように、法華講三十万総登山をもって宗旨建立七百五十年を慶祝し奉ることの御指南を「御仏意」と拝し奉るところに信の意義が存するのであります。この意義を心に刻み、唱題を重ね、我が惑障を払い、憶する心を勇気をもって破り、折伏に家庭訪問にと一歩前進することが信伏随従の真の姿であり、正直な信心なのであります。
 地涌六万大総会の時を思い起こしてみますに、外には池田創価学会の限りない魔の蠢動があり、またその上に台風七号が総本山を直撃する勢いで進んで来たのであります。しかし、台風は西に大きく進路を変え、晴天のもとで大会が見事に開催されたのであります。この現証は、大石寺開創七百年の砌に開催された総会における地涌六万の御指南は、御仏意であるが故の諸天の御加護であります。さらに法華講が御指南に信伏随従して、法華講支部結成の波動を全国に起こした勇猛心が諸天の御加護となって現れたのであります。池田創価学会が三類の強敵となって現れたのも、これも御法主上人猊下の四悉檀に適った御指南であることに起因している現証であります。この三類の強敵の現証は『教機時国抄』に、
「三類の敵人を顕はさずんば法華経の行者に非ず。之を顕はすは法華経の行者なり」(同 二七三㌻)
と仰せの御文そのままなのであります。
 宗旨建立七百五十年を、法華講三十万総登山をもって慶祝し奉る御法主上人猊下の御指南を御仏意と拝し奉り、唱題と折伏を実践し、
「但偏に思ひ切るべし。今年の世間を鏡とせよ(中略)今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」(同 一一六五㌻)
と仰せのように、今年この時に生まれ、本門の大白法を信じ奉る実証を、自身の身にも心にも刻み、御報恩申し上げ奉りましょう。今この時に実行した我が身の福徳を安明に積む意義の深いことを信じ、三十万総登山を完遂しようではありませんか。

「宮仕え 御奉公」         H13.7.16号


 「誓願貫徹の年」も五カ月余りとなりました。御法主日顕上人猊下の御慈悲のもと開催された第七回夏期講習会も二期を残すだけとなり、来年の宗旨建立七百五十年・法華講三十万総登 山も仕上げの段階に入り、僧俗が一丸となって目標完遂のため、唱題し、折伏し、家庭訪問へと日毎に御奉公申し上げるのみであります。
 十年前のある日、法華講員となった壮年の一人から「御奉公とは何ですか」と問いかけられたのであります。
 日蓮大聖人は『乙御前母御書』に、
「法華経にみやづか(宮仕)わせ給ふほうこう(奉公)をば、をとごぜんの御いのちさい(幸)わいになり候はん」(御書 六八九㌻)
と仰せでありますように、「法華経に宮仕う」ことが「奉公」なのであります。
 「法華経に宮仕う」とは、いうまでもなく大御本尊様に宮仕えする意味であります。しかし、大御本尊様に宮仕えする、とはいっても、自己流に仕えることではありません。あくまでも大聖人様の御聖意に随順する姿でなくてはならないのでありますから、血脈相承あそばされる御法主上人猊下の御指南に信伏し、随従申し上げることなのであります。
 何故ならば、
「若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣で、尤も習学の為宮仕へを致すべきなり」(同 一八八二㌻)
と『五人所破抄』にあります。信心する上においても、法門上の教学にしても、大御本尊様在まします大石寺に参詣し、宮仕えすることを示されているのであります。
 これは、御本仏大聖人様の本懐たる大御本尊様を根本とし、血脈付法の御法主上人猊下の御指南に信伏随従し、その御指南に随って信行学に御奉公することが、正統門家の信心の根本姿勢であることを示されているのであります。
 常に大御本尊様を根本に、御法主上人猊下の御指南に宮仕えする。この身も心も御本尊様に委ね、淳朴にひたすら仕える姿が宮仕えであり、御奉公なのであります。純粋な信心、尊い菩薩としての修行の心なのであります。
 宗旨建立七百五十年の御報恩のため、具体的に宮仕えし御奉公するために、何を行うべきでありましょう。
 それは勿体なくも奉安堂建立と法華講三十万総登山という、御法主上人猊下からの指標が示されたことであります。
 池田創価学会が三類の強敵と姿を変え、平成の法難ともいうべき仏法破壊の嵐の中、御本仏大聖人様への御報恩の誠を尽くすべく、この御指南は、まさに暗夜に光を与えくださったのであります。この御指南に対し奉る姿こそが「みやづかわせ給ふほうこう」なのであります。
 平成二年の法華講連合会第二十七回総会を契機として、池田創価学会が宗門に反旗を翻ひるがえして以来、日本は政治に混迷を深め、社会生活に狂乱の度を増し、天地に災害を齎もたらす中、本門戒壇の大御本尊が厳然と総本山に在まし、血脈付法の御法主上人猊下が広宣流布の指揮を執られ、世間に法華講がある事実は、何を意味しているのでしょう。もちろん、我が身には、自分自身の修行のための唱題と、他の人を教化し、国家社会を汚濁している謗法を折伏するという大きな使命があることを意味しているのであります。
 御法主上人猊下の「出陣式」における、
「自行化他の題目を唱えて自らも成仏を確信するとともに、他をも導きつつ、三毒強盛にして心の貧困極まる今日の濁悪の世をおのずから救済する功徳を顕すこと(中略)妙法を受持して、たとえ一人なりともこの正法を説き勧めんと志すその身に、宛然として地涌の菩薩の深く尊い境界と功徳が具わる」(大白法 五一七号)
との御指南は、まさに日蓮正宗の存在の意義と、本宗僧俗が尽力すべき「宮仕え」の心得と、「御奉公」の本義を御指南くだされたと拝し奉るのであります。
 すなわち「妙法を受持して」「自行化他の題目を唱え」「自らも成仏を確信する」との唱題と、「妙法を受持して」「自行化他の題目を唱え」「他をも導きつつ」「一人なりともこの正法を説き勧めんと志す」との折伏こそが「宮仕う御奉公」であると拝することができるのであります。
 この「妙法を受持する」とは、『御義口伝』に、
「されば此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり」(御書 一七九六㌻)
と仰せのように、大聖人様の御妙判をそのままに純粋に信心し、行ずることであります。自分の都合によったり、我見偏見を入れて法門を解釈するのであれば、これは「如」ではないのであります。私心を無くし、仰せのままに実行することが「如」なのであります。この「如」の心が肝要なのであります。
 次下の御文に、
「此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り、南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、忽ちに無明煩悩の病を悉く去って、妙覚極果の膚を瑩く事を顕はす」(同)
と仰せられているのであります。この「如」の字義は多くの意味がありますが、その中に「ゆく」の字義があり、「いたる」「おもむく」との意味もあります。よって、大聖人様の御意にいたる、御本仏の教えに自分自身がおもむく、という心で御文を拝読することができるのであります。
 したがって、御本尊様を信じて唱題することは、我が煩悩のための苦しみ、宿業の因縁の上からの罪障消滅の唱題もあります。しかし、御本尊様への宮仕えをする、御奉公する、そのための唱題であるならば、「忽ちに無明煩悩の病を悉く去って」との「自らの成仏を確信する」唱題になるのであります。
 我々が唱題する題目とは、
「問う、我等が唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。謂く、本門の大本尊是れなり」(六巻抄 二〇〇㌻)
と、『当流行事抄』に御指南されている題目なのであります。煩悩の強い我々凡夫でありますが、この日寛上人の御指南を確信し、唱題する心こそが「如」の「妙法を受持」する自行の姿なのであります。
 次に、御法主上人猊下の「妙法を受持し」「題目を唱えて」「他をも導きつつ」「一人なりともこの正法を説き勧めんと志す」とは、教化であり折伏である「化他行」であります。
 「他をも導く」とは家庭訪問の姿であり、「正法を説き勧めんと志す」とは、邪義謗法を破折する志でありますから「折伏」を行ずる心であります。
 『四条金吾殿御返事』に、
「受くるはやす(易)く、持つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり」(御書 七七五㌻)
と仰せのように、「持つ」とは三障四魔が起こるその中で「持つ」のであります。唱題を行ずるにも障魔が起こります。ましてや化他行である「折伏」や「家庭訪問」のときに、障魔が起こらないはずはないのであります。
 それは、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(同 九八六㌻)
と『兄弟抄』に仰せであります。
 折伏を行じて障魔が起こるということは、拙い凡夫の我々が、世間の汚濁に染まることなく、正直に御本仏大聖人の正法を「如」の心を持って行じている証しなのであります。言い換えるならば、障魔が来ないという信心の姿は、真正の信心をしていないと慙ずべき姿なのであります。
 『従地涌出品』に、
「久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して 世間の法に染まざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)
と、地涌の菩薩の姿を説かれています。
 御法主上人猊下の「宛然として地涌の菩薩の深く尊い境界と功徳が具わる」との御指南を潔く胸に刻み、『涌出品』の「信行学」を具えられた地涌の菩薩の一人としての自覚に立って、我々地涌の菩薩のみが行ずることのできる唱題に励み、地涌の菩薩のみが使命を受けた折伏を行じ、宗旨建立七百五十年の法華講三十万総登山、奉安堂建立を見事完遂成就し、広宣流布へ 向けて前進しようではありませんか。

「依法」こそ信心         H12.9.16号


 日蓮大聖人様が、名字凡夫の御立場から、久遠元初自受用身と発迹顕本あそばされ た「竜の口法難」を記念し、九月十二日、御難会法要が奉修され御報恩申し上げ、折伏誓願目標貫徹のため、決意を新たにしたのであります。
 御法主日顕上人猊下は、宗旨建立七百五十年を迎え奉る意義を、
「平成十四年の佳節に向かって前進する我らは、ただ単に三十万という数をもって達成とするのではなく、真に社会の清浄を図る上に創価学会等のあらゆる謗法をあくまで打ち破り、折伏を行じて、真の正法の護持興隆に向かって進み、その結果として三十万登山という立派な功徳をもって、御本仏大聖人様の大慈大悲にお応えし奉ることが肝要と存ずるものであります」(大日蓮 六四四号)
と御指南くださいました。
 現在、日蓮門下と自称する創価学会や日蓮宗各派において、折伏をもって宗旨建立七百五十年を慶祝御報恩申し上げる宗派・団体は、どこに存在しているでしょう。まさに「謗法を打ち破り、折伏を行じ」との御指南は、『百六箇抄』の
「日蓮は折伏を本とし摂受を迹と定む。法華折伏破は権門理とは是なり」(御書 一七〇〇㌻)
と仰せの御文意に随順する依法の御指南と拝し奉ることができるのであります。

「依法」とは
 涅槃経『四依品』に、
「法に依りて人に依らざれ」
と説かれています。この「依法不依人」の文は、日蓮大聖人様の御法門の基幹となる文証でもあります。すなわち、一切の仏法の勝劣浅探を分別し、本門の題目を唱え、もって宗旨を建立あそばされ、 本門戒壇の大御本尊を御図顕し奉られたのであります。この日蓮大聖人様の御法門を拝し奉りますに、涅槃経の中に、「是の人は、善く如来の微密深奥の蔵を解するが故に。能く如来の常住不変を知ればなり」と、依法の人について説かれているのでありまして、日蓮大聖人様が、末法の御本仏として常住不変の大仏法を御建立あそばされる予証と識しることができるのであります。竜樹は「依法」を「依修多羅」と解釈し、経典に依ると釈されています。
 次に、「不依人」については「若人破戒しつつ、利養の為の故に、説きて『如来は無常変易なり』と言わん。是の如きの人は依るべからざる所」と説かれています。すなわち、成仏の直道と説かれた戒法に背き、名聞名利のためにだけ仏法の語句を使い、常住不変の法性真如の妙理を、移り変わり変化するものであると言う者は、衆生の成仏を妨げる人であるから、いかに勝れた人であっても、またいかに理解しやすい主張であっても、このような人に依ってはならない、と説かれているのであります。「不依人」とは、仏法は道理でありますから、信仰の心も常にこの道理に随っているか、違背しないかを心にかけて行ずることが肝要であることはもちろんであります。
 例えば、浄土真宗本願寺派の僧が著わした本に、「仏教経典の中で各宗派の宗義に対する関係が広い経典は、法華経が第一である。仏教の原理は悉く法華経から割り出されて居る(取意)」(台学指針)との一説がありました。これは明らかに法華経が最も勝れた経典であることを認めているのであります。しかし、法華経の『化城喩品』に説かれている、
「西方二仏、一を阿弥陀と名づけ(中略)第十六は、我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於て」(法華経 二七五㌻)
の文と、『薬王菩薩本事品』の
「若し如来の滅後、後五百歳の中に、若し女人有って、是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、大菩薩衆の圍遶せる住処に往いて、蓮華の中の宝座の上に生ぜん」(同 五三七㌻)
と、明らかに娑婆国土は釈尊が主であり、末法においては法華経に説かれているごとく修行すべきであることが明らかに説き示されているのであります。この法華経の両文を彼らは、「固より真宗義ではない」(台学指針)と述べ、法然の『撰択集』思想に依り、法華経の文を斥けるという、まさに人に依って仏法に背く教義を立てているのであります。
 まず仏教徒であるならば、法然がどのような説を立てようが、釈尊が『方便品』に、
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(法華経 一二四㌻)
と説き示された経文に随うべきなのでありまして、仏説に随わないということは、顛倒の法門であり外道の教義であることは言うまでもありません。
 本尊であれ教義であれ、信心修行は仏の教説に依ることが仏法の道理であります。これと全く同じ過ちを犯しているのが創価学会や日蓮宗各派であります。

「依法」の信心

 自分の都合や利養のための説に大聖人の法門を合わせようとすることは、正しい信仰の心ではありません。いかに自分に都合のよいことであっても、大聖人の法門に背くことであると教えられたならば、正直に曲がった考えを直すように努力することが信仰であります。また、どうしても自分の考えに執着し迷うのであれば、唱題し素直に誤りに気づくよう、御本尊様に御祈念すべきなのであります。
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書 七九四㌻)
と『曾谷入道殿御返事』に仰せられ、水を見ても、その境遇によって水に対する見解が異なり、経典の文字を見ても、その観念はそれぞれの境界によって異なるのです。
 したがって、自分の考え方が、貪・瞋・癡・慢・疑の煩悩に紛動されるのではなく、その煩悩を菩提に転ずるよう直すことを心がけることが、自分の境界を高める因となり、功徳を積むことなのであります。

「依法」とは道理に順う「信心」
 我々凡夫は、個人、一人だけであるならば、どうしても自己中心の偏った考えにとらわれ、他人の意見を聞かない偏執な人になりかねません。そのような境遇にならないためにも、報恩の一念を忘れてはならないのです。この報恩の一念こそ「依法」に通ずるのであり、「心の師」となる意味なのであります。『日女御前御返事』に、
「何に況んや父母にまされる賢王に背かんをや。何に況んや父母・国王に百千万億倍まされる世間の師をや。何に況んや出世間の師をや。何に況んや法華経の御師をや」(同 一二三二㌻)
と仰せの御教誡は、まさに信仰の心の在り方を厳誡あそばされていると拝せます。
 池上宗仲が父に勘当されても、それに動揺することなく、ついに父・康光を入信させ、四条金吾が讒言により苦境に陥れられても、所領を捨てる覚悟で主君の江間氏を諌めた心は、共に「心の師」となり、大聖人の御法を大事とした心こそ「依法」なのであります。また「世間の師」とは、世俗の事象を教導する人であり、世間法の一部分に通達している立場の人なのであります。したがって、仏法の道理の上に立って世間法を指導教化する人とは、おのずと相異があることは言うまでもありません。また、仏法上の教化にしても、法華経即御本仏日蓮大聖人の法門の上に立っての教化でないのであれば、釈尊の法華経にも違背することになるのでありますから、道理に順った正しい信仰ができるはずがありません。
 御法主日顕上人猊下が、宗旨建立七百五十年を慶祝し奉る心得を「創価学会等のあらゆる謗法をあくまで打ち破り、折伏を行じて」と御指南あそばされたことは、まさしく『立正安国論』の
「如ず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(同 二四一㌻)
の御本仏大聖人の御聖意に依っての御指南であり、「法華経の御師」に信伏し随従されている御言葉と拝し奉るのであります。
 我々は無二無三の精神に立って、過去世に願って、平成の今、護持興隆のために生まれたことを自覚し、「名実共に成就」するためにも、御指南に順ってこそ「依法」の実践であることを心に刻み、前進しようではありませんか。

仏法と世間法―仏法を体とした如説の修行の人であれ   H11.10.16号


 木犀の花が開き、秋闌たけなわのこの月、全国各寺院において御本仏日蓮大聖人の御出現と三世常住を寿ぐ御会式が奉修され、僧俗が心を一つにして破邪顕正の実をあげ、令法久住・広宣流布に邁進することを決意し誓われたのであります。
 日蓮大聖人は、
「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書 一四六九㌻)
と仰せられ、仏法を体に、世間を体の影に譬えられました。すなわち仏法と世間とは一体であるとの御意であります。この影とは衆生のことでもあり、その周囲のあらゆる事象・環境・社会を総合して仰せられたのであります。
 したがって、体である仏法が邪義謗法に犯されるならば、影である人間個々の生活も社会も混迷の度を深め、苦悩の生活を強いられることになるのであります。勿論、この御文の「仏法」とは、正しい御本尊と、その教義であることは言うまでもありません。
 それでは世間とは何か、すなわち人間を含めたあらゆる事物が、過去・現在・未来と因縁によって移り変わり生滅し、それによって差別の間隔があることをいうのであります。すなわち五陰世間・衆生世間・国土世間の三世間でありまして、個々の人間、人間の社会、その人間の住する環境のことであります。
 したがって「体」と「影」とは、仏法が「本体」であり、それに随う影を世間というのであります。影である世間は仏法に「随従・随順」する関係であり、不離一体でありますから、仏法に世間が随うことであると心得なければなりません。仏法の道理を無視し、または仏法に反して己義や我見を構かまえることは顛倒の思想であり、外道義と言うべきであります。
 ですから池田創価学会の人間主義という考えも、その説明の中には仏教用語が使われていますが、迷いの人間を本体とし、仏法を影として、その人間に随わせる形をとることは顛倒の邪義・外道義であると言えるのであります。
 日蓮大聖人は『立正安国論』に、世間の災禍の相を衰れみ、その原因が仏法違背の謗法にあることを看破され、経文によって証明し、邪義謗法を破し、正法正義を顕されんことを願われたことは、誰人も認識するところであります。

宗開両祖の誡
 日興上人は『日興遺誡置文』に、
「富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事」(同 一八八四㌻)
と御遺誡されました。この一条は、末法の化儀・化法は日蓮大聖人の法門にしたがって立てるべきであり、それに違背することを厳しく誡められたものであります。特に同文に、
「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(同 一八八五㌻)
との文は留意すべきでありましょう。すなわち多くの人の意見であっても、仏法に違背する謗法の考えであり、さらに世間法に基づいた誤った考えであるならば破折し、仏法をもって時の貫主上人がこれを糺ただし顕正すべき旨を訓誡されているのであります。
 これに対して慢心により世間法を第一と立てた輩たちは『白米一俵御書』にある、
「まことのみち道は世間の事法にて候」(同 一五四五㌻)
との御文を持ってきて、世間法はそのまま仏法であると大聖人は仰せではないかと反駁するかもしれません。しかしこの御文は、その次下に妙楽の釈も引用されていますように『法華経法師功徳品第十九』の、
「諸の所説の法、其の義趣に随って皆実相と相違背せじ、若し俗間の経書、治世の語言、資生の業等を説とかんも、皆正法に順ぜん」(法華経 四九四㌻)
と説かれた文を基として大聖人は仰せられているのでありまして、この経文の「其の義趣に随う」「正法に順ぜん」とは、その前文に、
「如来の滅後に、是の経を受持し(乃至)千二百の意の功徳を得えん。是の清浄の意根を以もって、乃至一偈一句を聞くに、無量無辺の義を通達せん」(同 四九四㌻)
と説かれ、随義趣、順正法とは本門の仏法に開帰会入した上での随順の意味と認識すべきであります。凡人の智慧才覚を「世間の事法」と仰せではないのであります。

十号の世間解とは
 世間出世間の一切を通達解了した仏の十種の徳(十号)の一つに「世間解」という尊称があります。この世間解を涅槃経巻第十六(南本)には、三世間に約し説かれています。まず五陰世間を、
「世間とは名なづけて五陰と為なし、解とは知と名く。諸仏世尊善よく五陰を知る、故に世間解と名く」
次に衆生世間については、
「又世間とは一切の凡夫、解とは諸の凡夫の善悪因果を知る是れ声聞、縁覚の知る所に非ず、唯ただ仏のみ能よく知る」
と説き、国土世間を、
「世間とは東方無量阿僧祇世界の一切の声聞縁覚、知らず、見ず、解せず。諸仏は悉く知り、悉く見、悉く解す。南西北方、四維、上下も亦た復た是くの如し。是の故に仏を号づけて世間解となす」
と。この経文から、仏法にしたがって世間を観ることは自明の理であります。故に凡人が仏法の真髄を判ったと思っても、それはあくまでも慢心から出た錯覚であり、傲慢の仏教学であり、世間法から脱し得ない発明教学であることを認識すべきであります。あくまでも『日興遺誡置文』の一条に誡められている「先師の御弘通」の一文を心肝に刻むべきであります。それは『当体義抄』に、
「法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共は念仏者等なり、仏性・法身如来に背く故に妙経の体に非ず」(御書 六九四㌻)
と仰せのように、衆生も仏も真理の上からは同じく一法身でありますが、それは妙法蓮華経に同共して、初めて妙経の体となるのでありまして、仏法に随順しないで世間法に執着しているのであれば、決して成仏を目指す仏道修行にはなりませんし、「仏の世間解」には全く通ずることはないのであります。

「不染世間法如蓮華在水」の地涌の菩薩たらん
 『法華経従地涌出品第十五』には、
「世間の法に染ざること 蓮華の水に在るが如し」(法華経 四二五㌻)
と説かれています。これは弥勒菩薩が地涌の菩薩を讃嘆した文でありますが、何を讃嘆されたのでしょう。すなわち前文に、
「久しく已に仏道を行じて 神通智力に住せり 善く菩薩の道を学して」(同)
と説かれ、仏法の根本である信行学の肝要が世間の法に染まっていない、それはあたかも濁水に染まらず清浄な蓮華のようである、と讃えられたのであります。我々凡夫は、ややもすれば偏見で人を見たり、我見に束縛されて批判したり、邪見に気付かず執着したり、さらには折伏に臆病になり、御講の参詣にも総本山への登山にも不参加では、世間の汚濁に染まった姿ではないでしょうか。
 日蓮正宗の我々は、いかなる因縁によるのか識ることはできませんが、三国未曽有の三大秘法惣在の本門戒壇の大御本尊を信じ奉る今世の人身を得たのであります。我が身の不思議な因縁を思うにも、いかなる喜びにも増して法悦の極みでありましょう。御法主日顕上人猊下は、一月三日の出陣式において、
「妙法広布の大願をもって進む地涌の菩薩は、我ら日蓮正宗の僧俗、法華講の皆様のほかに、どこにありましょう」(大白法 五一七号)
と、勿体なくも「地涌の菩薩」の御名を戴きました。この御法主上人猊下の御恩に報い奉ろうではありませんか。
 宗旨建立七百五十年に向かい、名実共に三十万総登山を成就すべく、地涌の菩薩の御名に応えるためにも、唱題し折伏を実行し、謗法の元凶である創価学会の徹底した破折に精進することこそ、仏法を体とした如説の修行であり、世間の濁水に染まらない「地涌の菩薩」の尊き道であります。
inserted by FC2 system