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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

目 連

目連(モッガラーナ)とは?

「目連もくれん」は、サンスクリット語ではマウドガリヤーヤナ、パーリ語ではモッガラーナといい、目犍連(もくけんれん)を略して目連といわれます。
お釈迦様の十大弟子の一人で、「神通第一」といわれる強力な神通力を持ちます。
母を餓鬼道から救い、お盆の由来になったエピソードもよく知られています。
舎利弗と共に釈迦二大弟子とまでいわれますが、断片的に名前が出てくるだけで、どんな生涯を送ったのかは意外と知られていません。
一体、目連はどんなお弟子だったのでしょうか?

  目連は、釈尊の十大弟子の一人であり、サンスクリット語「マウドガリャヤナ」、パーリ語「モガッラーナ」の音写語で「目犍連もくけんれん」とも、
また、しばしば経典の中で「大目犍連」とも呼ばれる。
マガダ国の首都王舎城の北方にあるコーリタに生まれたので、本名は村名と同じコーリタである。母の名前から目犍連子とか目犍連と呼ばれた。父は、王家を指導する大富豪のバラモン階級の祭司だった。目連は、小さい頃から頭が良く勉強が好きで、当時のあらゆる本を読み、すぐに理解することができた。

やがて目連は、成長すると、男らしい青年になった。
当時、隣村には同年代の舎利弗という頭のいい青年と共に学び、遊んでいるうちに、親友となった。
ある日、舎利弗と共に、「たまには息抜きをしよう」と一年に一度の大きな祭りに行った。
たくさんの人で賑わい、みんな楽しそうに騒いでいる。
最初は物珍しさもあり、気分転換をしていたのだが、どうも自分たちにあわない。大したことをやっているわけもなく、
「あれのどこが楽しいんだろう?」
「いや、分からん。」
そんな飲めや歌えのどんちゃん騒ぎが延々と続き、いつまで経っても終わりそうもない。これ以上見ていても虚しい気がしてきて、二人は静かな林の奧へ歩いて行った。

【出家への道】
そして、二人で語り合っているうちに、その祭りの騒ぎを鏡として、自分たちの人生も、ああやって欲望に動かされているうちに、儚く終わってしまうのではないかと思えてきた。
「それではなんのために生きているのか分からない」
いいようのない焦燥感にかられた二人は、共に出家することにした。
家に帰って両親に出家すると告げると、バラモンの良家で一人っ子だったため、両親は驚いて猛反対した。しかし、目連は小さい頃から非常に賢く、今まで判断を誤ったことがなかった。そこで、両親はかわいい我が子の意思を尊重し、泣く泣く出家を許したのだった。
出家といっても、当時はまだ釈尊が悟りを開いていなかったため、仏教ではなかった。目連と舎利弗は、当時有力だったバラモン教の六師外道の一人、サンジャヤ(刪闍耶毘羅胝子・さんじゃやびらていし)という人に弟子入りした。

ところが目連も舎利弗もあっという間にサンジャヤの奥義まで会得してしまい、サンジャヤの弟子250人を任される師範代となった。
それでも2人は迷いの解決ができず、心からの安心も満足も得られなかった。
そこで、2人のうちどちらかが、迷いの解決まで導いてくだされる真の師匠に会ったなら、お互いに教え合おうと約束したのだった。
ところが、そんなすぐれた師匠にはなかなか会うことができず、光陰矢の如しで、数年の歳月があっという間に過ぎて行った。

【釈尊との出会い】
そんなある日、舎利弗が、
「おい、目連、大変だ」
と飛び込んできた。
見ると顔はほころんで、目を輝かせている。
「どうした舎利弗、お前らしくもない」
というと、
「まことの師匠がおられた」
舎利弗は、その日、釈尊の最初の弟子・五比丘の一人である、アッサジに出会ったのだ。
「何?本当か。どんな教えを説くんだ?」
「その方のお弟子に聞いたんだが、すごいんだ。
 諸法は因より生じ、諸法は因より滅す。
 生と滅とかくのごとし。沙門はかくの如く説き給う」
『仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)』

「それは……それを説かれた方はまことの方だ」
目連は大きな衝撃を受けた。
これは「すべての結果には原因がある、原因がなくなれば結果はなくなる、すべてはこのようにできていると釈尊は説かれている」、
という意味で、仏教の根幹の因果の道理である。
目連が今までサンジャヤの教えを聞いても、あいまいで疑問に思っていたことが、その一言で明快に解決したのだった。

「その方はどこにおられるんだ?」
「今、王舎城の竹林精舎に来られている、釈尊という方だ」
こうなるともうじっとしてはいられない。
目連は、舎利弗と共に、師匠のサンジャヤの元へ行き、今までお世話になったお礼を丁寧に述べると、竹林精舎に向かった。
その時、サンジャヤの250人の弟子たちも、サンジャヤより目連と舎利弗のほうがいいと思ってついてきてしまったために、サンジャヤは血を吐いて倒れたという。
こうして、目連は、舎利弗と共に釈尊から戒律を受け、弟子になった。
時に釈尊が35才で仏のさとりを開かれた翌年で、目連は20代の後半であった。

【目連の厳しい修行】

それから目連の厳しい修行が始まった。
静かなところで一人瞑想していると、いつしか眠くなってウトウトし始める。
すると釈尊が忽然と現れ、
「目連よ、睡眠をむさぼってはならぬ」
と注意を受けるのである。
「もし眠くなったら、今まで聞いた仏教を暗唱せよ。それでも眠くなるなら、誰かに仏法の話をせよ」
と戒められた。
また「眠くなったら全身に冷水を浴びよ」とか、「屋根にのぼれ」と厳しく注意を受ける。
こうして目連が一心に修行に励んで行くと、天賦の才もあり、やがて心が一つになり、一瞬、高い瞑想の境地に入ることができるようになった。
しばらくするとまた気が散って瞑想から覚めてしまうと、また釈尊が忽然と現れて、
「目連よ、心のままに任せてはならぬ、心を一つにせよ」
と叱責を受ける。
このような釈尊から、直接の厳しい指導により、目連はごく短期間のうちに、悟りを開くことができたのだった。

【目連の神通力】

目連は「神通第一」といわれ、強力な神通力の持ち主であった。
同様の強力な神通力を持つ舎利弗が「智慧第一」といわれて、明晰な頭脳を備えていたのに対して、目連は豪快で爽やかな性格を持っていた。
それが分かるエピソードが経典にたくさん説かれている。

【他人の心が見える】

例えば『中阿含経(ちゅうあごんきょう)』には、次のように説かれている。
ある時、釈尊の説法に集まると、沈黙されたまま、一言も話さない。1時間経ち、2時間経ち、3時間経っても4時間経っても一言も話さない。
やがて阿難が礼儀正しく、
「世尊よ、どうか教えをお説きください」
と言うと、釈尊は、
「この中に清らかでない者がいる。ここでは清らかな教えを説くことはできない」
と言われた。
この時、目連が瞑想に入り、参詣者の心を見たところ、清らかでない者を2人見つけた。
その2人の前に立ち、
「お前たち、早々に立ち去れ」
と言うと、2人は無視する。
すると目連は、2人の肘をつかんで引きずって行き、門の外へ放り追い出すと、
「お前ら、どっか遠くへ行け」
と門を固く閉ざした。
目連が席に戻ると、釈尊は、
「今より教えを説こう」
と説法を始められたといわれる。

【他の人に見えない生き物が見える】

『雑阿含経』には、釈尊が王舎城の竹林精舎におられた時のことが説かれている。
ある日、目連ともう一人の仏弟子が托鉢中、目連の表情が一瞬変わったことに気づいた。
理由を尋ねると、目連は、
「今は答える時ではない」
と言って竹林精舎に戻った。
釈尊のもとへ着くと目連は、共に托鉢に歩いた仏弟子に、表情を変えた理由を語り始めた。
「私はあの時、ある生き物を見た。身体は楼閣のように大きく、苦しみうめき、泣き叫んで空中を飛んで行く。それを見て表情を変えたのだ」
その時、釈尊はこう説かれてた。
その時世尊、諸の比丘に告げたまわく
「善哉、善哉、我が声聞中、実眼、実智、実義、実法に住し、決定して通達せるは是の衆生を見るなり。我れもまた此の衆生を見て、而も説かざるは、人信ぜざるを恐る。ゆえんはいかん。如来の所説を信ぜざらん者あらば、是れ愚痴の人にして長夜に苦を受くればなり」。
(善哉善哉 我聲聞中 住實眼實智實義實法 決定通達見是衆生 我亦見此衆生而不説者 恐人不信 所以者何 如來所説有不信者 是愚癡人長夜受苦)

これはどういう意味かというと、
「私の弟子の中、真実の目、真実の智慧を備えて、真実の義、真実の法の真相を決定して深く心得ている者は、この生き物を見る。私もかつてこの生き物を見たけれども、人々が信じないことを恐れて説かなかった。なぜなら如来の言葉を信じない愚か者は、 長く苦しみを受けねばならないからだ」である。
さらにこの生き物は何なのかを教えられた。
「この大きな生き物は、かつて王舎城に住んでいたが、牛を屠殺した殺生の罪の報いで地獄の苦しみを受け、今は地獄は出てきたが、まだ余罪があってこのような形で、憂いや悲しみ、苦しみ悩みを受けている。 目連の見たことは決して誤りではない」
このように、輪廻転生している他の人には見えない生き物や、その過去世も見えるのである。

【人や物を動かせる】

また『増一阿含経』によれば、ある時コーサラ(拘薩羅)国の軍勢が、釈尊の故郷であるカピラ城へ攻め込もうとしていた。
それを知った目連が、釈尊に
「神通力で軍勢を他の世界に投げ捨てましょうか」
とお尋ねしたところ、
「そなたは過去の業を他の世界へ投げ捨てられるか」
と言われた。
そこで目連は、敵を攻撃するよりも味方を護ろうと思い、
「それではカピラ城を空中に浮かせましょうか」
とお尋ねしたところ、
「そなたは過去の業を空中に浮かせられるのか」
と言われた。
目連は、確かに因果応報の過去の業の報いは止められないと考えて諦めたのであった。

【須達長者の子供を守る】

ある時、目連が祇園精舎を出発して、舎衛城を托鉢し、祇園精舎の建立で尊い布施をされた須達長者の家に行くと、子供がバラモン教の本を暗唱していた。それを見た目連は、
「外典は鉄のザクロのようなもので、どんなに頑張っても食べられない。それなのに仏教は、初めから終わりまですばらしいから、よく飲み込めば、涅槃に赴くことができる。なぜ仏教を学ばせないのか?」
「いや、教えてくれる人があれば、ぜひお願いしたい」
「それなら私がお教えしましょう」
こうして目連は、須達長者の子供を教育することになった。
ところが、須達長者の家から、祇園精舎までは4キロくらい離れていて、途中には暗い林もある。
須達長者の子供は、従者と一緒に通っていたのだが、ある日、林の中で身代金目当ての盗賊に誘拐されてしまった。
命からがら逃げ帰った従者が長者に報告すると、長者は王様に訴えて、盗賊を捕らえる軍勢を出してもらうことになった。ところが、この軍勢がなかなか出発しない。
このことを神通力で知った目連は、祇園精舎への道に盗賊が出てはよくないと思い、懲らしめることにした。
そこで、神通力で王様の軍勢を現し、猛烈に太鼓を鳴らして大挙、盗賊のアジトへ攻め寄せ、盗賊たちを包囲した。
驚きあわてた盗賊たちは、須達長者の子供を捨てて、一目散に逃げて行った。
それを見届けた目連は、王様の軍勢をおさめると、帰り道の木の下で座禅を組んでいた。
やがて長者の子供が通りかかると、「明日もちゃんと勉強にくるんだぞ」と言って、帰っていった。
長者の子供はそのまま舎衛城へ歩いて行くと、なぜか、さっき助けてくれたはずの王様の軍隊が向かってくる。本物の王様の軍隊がようやく出陣したのだ。
子供が将軍に「先ほどは助けて頂いてありがとうございました」とお礼を言うと、将軍は内心、はて、これから助けようと思っていたのにどういうことか、と思いつつも、
「おおそうかそうか。それで今来た道で誰かに会わなかったか?」と尋ねると、
「さっき途中で目連先生に会いました」
と言った。
さては神通第一の誉れ高き目連尊者が神通力を現して、功を他人に譲られたものだろうと、その徳の高さに敬服したのであった。

【鹿子母(ろくしも)講堂の建立】
舎利弗が祇園精舎の建立の監督を務めたように、目連は、鹿子母講堂の建立の監督を務めた。
建立の布施をしたのは、毘舎佉(びしゃきゃ)という女性である。当時のインドの十六大国の中でも一番東の鴦伽(あんが)国の長者の家に生まれ、小さい頃から仏縁深かった毘舎佉は、舎衛城の長者・鹿子の息子に嫁いた。ところが、毘舎佉が非常に尊かったために、鹿子の一家全員が仏教に帰依するようになった。 特に、義理の父親である鹿子は、仏教を喜んで、嫁の毘舎佉を母のようだと言った。それで、毘舎佉が、鹿子母もといわれるようになった。
その鹿子母が、祇園精舎で仏教を聞いていて、当時、そこには2人の代表的な比丘尼がいた。一人は瞑想を得意とし、もう一人は読経を得意としていた。
ところが、瞑想中は読経を控えなければならないため、争いが起きたわけではないが、どうしても修行は交代で、本当はできるはずの半分しかできなかった。
そこで鹿子母は、寺を布施することにしたのである。
祇園精舎の東北に数キロメートル離れた所に良さそうな場所があったが、調べると国有地だったため、舎衛城の波斯匿王の娘、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)に許可を得て、莫大な金額で買い求めた。
釈尊にお願いすると、監督として目連尊者を派遣されて、寺院の建立が始まったのであった。やがて一階に500部屋、二階に500部屋の大寺院が竣工し、鹿子母講堂と言われるようになった。または東園とか、東寺、鹿堂ともいわれた。こうして仏教は、ますます勢いを増し、多くの人々に弘って行ったのであった。

目連と舎利弗の違いがよく分かるエピソードが、戒律が記された『毘奈耶(びなや)』に伝えられている。

【画家と彫刻家】
昔、すぐれた画家が旅をした時、すぐれた彫刻家の家に泊まった。主人の彫刻家は、木で美女を彫り、化粧をして美しい着物を着せ、部屋に侍らせておいた。
部屋に通された画家は、旅の疲れからうっとりして、
「こっちへおいで」と手を取ると、 手が取れたので、びっくり仰天した。よく見ると彫刻なので、騙されたと思い、壁に絵を描いて、明け方に旅出って行った。
翌朝、昼頃になっても、客が起きてこないので、昨日のいたずらもあって気になっていた宿の主人は、部屋に起こしに行くと、 画家が自殺していた。さては自分に騙されたと思って死んでしまったかと思い、警察を呼んで検死をしてもらうと、それは壁に描かれた絵であった。この彫刻家が過去世の目連で、画家が過去世の舎利弗だと言われる。
どちらも本物と見間違える凄腕だが、 彫刻は時間をかけて立体的に作られているが、絵画は二次元であっという間に描かれる。真面目で質実剛健な目連と、機転を利かせて当意即妙に切り返す舎利弗の性格を暗示しているようである。

【二人の画家】
またある時、2人のすぐれた画家があり、 互いに技を競っていた。ある時、2人で王様のもとへ行くと、それぞれ宮殿の壁画を描くことになった。
一人は、精妙な壁画を描き始め、もう一人は、まず壁面を磨き始めた。
半年後、壁画が完成したと聞いて王様と群臣が見に行くと、すばらしい壁画が2つ、完全な左右対称に仕上がっていた。
ところがよくよく見てみると、片方は鏡のように磨かれた壁面に映し出された影像であった。実際に壁画を描いたのが過去世の目連、壁を磨いたのが過去世の舎利弗だといわる。

【目連のお母さんとお盆】
「盆と正月」という言葉があるように、日本で正月に次ぐ大きな休みは、お盆である。
そのお盆の由来になったのが、『仏説盂蘭盆経』に説かれる目連尊者のお母さんのエピソードである。
ある時、目蓮尊者が、亡くなったお母さんが、今頃どこにいるだろうと思って、神通力で見てみたところ、餓鬼道に堕ちて苦しんでいるのを見つける。
餓鬼道というのは、欲の深い人が行くところで、食べたいものも食べられず、飲みたいものも飲めず、ガリガリに痩せ細って飢えと渇きに苦しむ世界である。
目連尊者は大変親孝行な人だったので、餓鬼道で苦しんでいるお母さんを何とか助けてあげたいと思って、釈尊に相談しました。
すると釈尊は、
「そなたの母親の罪は深いので、一人の力ではどうにもならない。雨安居の7月15日にたくさんの僧侶が集まるから、その僧侶に布施すれば布施の功徳は広大だからお母さんは餓鬼道の苦しみを抜けられるだろう」
といわれた。
目連がその通りに実行すると、母は天上界に救われたのである。
それで目連尊者が踊り上がって喜んだのが、盆踊りの始まりともいわれている。
これはあくまで六道の中で、餓鬼道から、天上界という比較的苦しみの少ない世界に救われたということで、輪廻転生を離れたわけではない。母親は、 自分の育てた子供を縁に、相対的に苦しみが減っただけで、天上界にも苦しみはある。これは一時しのぎの対症療法なので、仏教では、これとは別に苦しみや迷いの根本的な解決である「成仏」が説かれている。

【目連の殉教】
釈尊が80才になられた時、すでに提婆達多も死んで、当時最強のマガダ国の阿闍世王も仏教に帰依し、仏教はますます盛んになっていた。
ところが、それを面白くないと思った外道の者たちが、仏教の勢いをくじくには、まず釈尊の高弟を殺そうと企て、すでに70代の長老になっていた目連が歩いており、それを大勢で取り囲んで石や杖で殴りかかった。
袋だたきにされて、全身が真っ赤に染まり、傷まないところがないくらいの重傷を負い、神通力で舎利弗を呼んだ。
血だらけの目連に驚いた舎利弗は、
「どうした目連!」
と言った。
「今そこで外道にやられた。もうダメだ。これで涅槃に入ろうと思う」
「お前は神通第一といわれる強大な力を持っているのに、なぜそれを使わなかったのだ」
「これは過去世の業の報いだ。因果応報の因果の道理は仏でも曲げることはできない」
「少し待て。それなら私はもう病におかされているから、先に涅槃に入る」
こう言って舎利弗は、生まれ故郷に帰って、病気で死んだ。
その知らせを聞いた目連は、神通力で釈尊に今までの礼と別れを述べ、涅槃に入った。

開目抄に、
「目連は竹杖に殺さる、法華経記別の後なり」(570頁)
とある。
ここでいう竹杖は、竹杖外道のことで、竹の杖で目連を撲殺したので、こう呼ばれているが、執杖梵志のことである。
宇宙最高の原理である「梵」を志す者ということから、バラモン僧の別称である。仏教が盛んになったことで、弟子たちを取られた怨みを晴らしたいと考えていた。
目連が、王舎城で修行していたところを見つけ、執杖梵志は仲間たちと共にそれぞれ棍棒や杖を持ち、目連を取り囲んで全身を散々に打ちつくした。目連は激しい痛みと苦痛を受け、神通力を使って祇園精舎に帰り舎利弗を呼んだ。
舎利弗は、目連の姿を見るなり、
「世尊第一の神通の弟子であるのに、なぜ神通をもって避けなかったのか」と問うた。
目連は、
「私の宿業は極めて重いため、このような事態になったのだ。やがてすぐに命を落とすだろうが、どうか滅度を取ってくれ」
と頼んだ。
目連が撲殺されたことを知った阿闍世王は、大いに怒り、大臣に命じて「かの外道を探し出してこれを焼き殺せ」と命じた。すると側近の耆婆大臣が「仏教を信仰する者として、そのようなことをしてはなりません」と制したのだった。
しかし、目連の弟子であったアッサジ(阿説迦)とプナッバス(補捺婆素迦)の二人が、師僧である目連が撲殺されたのを聞いて憤怒に堪えず、大力によって執杖梵士を捕えてこれを殺したのだった。その後、この二人は教団を追放処分されている。

後にある比丘が釈尊にこの件について「聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのか」と問うと、釈尊は「目連はかつて過去世に、バラモンの子となり婦人を婬溺して母に孝行をしなかった。ある日、母に怒り悪語を発した。強い力を得て相手の体を打たないことがあろうかと言った。 この悪語によって五百生の中においてまさに打ち砕かれ、 今日聖道を修して神通第一になったが、なおもこの報いを受けたのだ」と説明した(毘奈耶雑事18)。
また他の説では、彼は過去世において弊魔(「弊」とは、悪い。よくない。害になるという意味)だった時に、しばしば拘楼孫仏(くるそんぶつ)の 上首の弟子であった毘楼尊者(びるそんじゃ)を弄び、小児に変化して大杖で彼の頭を撃ち、血を流させたことで地獄に堕した。その宿業によって現世では釈迦仏の上首となり外道によって撲殺された(魔嬈乱経)。
目連は妙法蓮華経授記品第六において 「目連も未来世に於いて、八千の佛に仕え、法を広めた後、それぞれの佛の滅度の折に、七寶で飾られた、高さ一万一千キロ、幅六千キロの塔を建立し、また、二百万億の諸佛も同じように供養した後に、多摩羅跋栴檀香如来となるであろう。その世は、喜満と名づけられ、国を意楽という。そこでは、 水晶が地を覆い、華々が舞い、世は清浄であり続けることであろう。多摩羅跋栴檀香如来の寿命は四億年、正法は六億七千万年、像法も六億七千万年の間続くのである」と記別(成仏の保証)を受けた。
この「記別」とは、妙法蓮華経信解品第四に、
「仏は、声聞にまさに仏となるであろうと説かれた。これは無上の宝聚を求めていないのに得ることができた」とあるように無上の宝聚であるとしている。
開目抄では、この記別を受けた後に、打ち殺されたとあえて説明されている。それほど過去世で犯した罪業が重たいということであろう。


 
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