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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

畢 陵 伽 の 習 気(じっけ)

 長老の畢陵伽婆蹉(ひつりょうがばしゃ)は眼痛を患っていた。この人が乞食をして恒水を渡る時は川岸まで来て弾指(だんし:指ではじくこと)して常に「小婢、住(とど)めて流すこと勿(なか)れ」と言うのであった。すると水は二つに割れてそこを通過することができた。
 ここに恒神は仏の所に詣で「仏弟子の畢陵伽婆蹉は私を罵って 『小婢、住めて流すこと勿れ』と言った」と申し上げた。仏は畢陵伽を呼んで恒神に懺謝(さんしゃ)するように命じた。畢陵伽は手を合わせ、恒神に「小婢、瞋(いか)ること勿れ、今汝に懺謝する」と言って謝罪したのであった。すると側にいた大衆はドッと笑った。恒神は「どうして懺謝してまた私を罵るのか」と不愉快になった。
 その時、仏が恒神に向かって言うのであった。「汝も畢陵伽が手を合わせて懺謝するのを見たであろう。慢心からでなく、ついそう言ってしまったのだ。悪意があるのではない。この畢陵伽は五百世以来ずうっと婆羅門の家に生まれ、常に自己を憍貴(きょうき)し他人を軽賤してきたので、それが習慣となって口から出てしまうのである。決して憍慢から言うのではない。このように多くの阿羅漢は煩悩を断じたといっても、いまだ余気(よけ)(習気:じっけ)があるのである」。
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 これは大論に記されている。さらに大論には習気について「摩偸尸他比丘という人が五百世の間、獼猴(みこう)のなかに生まれ、その後人身を得て阿羅漢になったが、なお跳擲(ちょうちゃく)する癖が抜けなかった。これは余習があるためである」と記している。習気は、誓えば部屋に奇麗なバラを入れ、しばらくしてそのバラを持ち去っても、いまだ馨(かぐわ)しい香りが部屋に残っている状態をいう。つまり煩悩を断じ尽くしても、その後に習慣性が残ることをいうのである。
 見思の惑の習気を完全に断破するのは菩薩の領分である。
          (歴代法主全書四巻)


 
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