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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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日蓮聖人と法華経(第65世日淳上人 著)

 日蓮聖人と法華経との関係は聖人の教義を領解し奉る上に最も大切なことで、根本的な問題であり又教義そのものでもある。古来門下の教学において幾つかの異義が行われておるが、結局この関係において見解が異っておるからである。あるものは終始法華経を中心として、聖人の御一代の弘教を判断してゆこうとするし、あるものは聖人を中心として法華経を判断してゆこうとする。この二つの立場が基礎となって、大きく二つの潮流をなして、この上に幾つもの異義が成立しておる。
 そこで聖人の教義を正しく領解し奉るには先ずこの立場が批判されねばならない。法華経は仏教の教典中最勝第一であるとし、これを鉄則として、聖人の教義をこの眼で見て、御一代の弘教を会通し法華経の要約と敷衍とにあると考えることは、聖人の教学において正しい立場とはいえない。聖人の教義はあくまで聖人の御書に依て判断せられねばならない。
 もっともこの点については上述の無条件に法華経を中心として判断するものと、上人の御書からその帰趣は法華経を中心として聖人の弘教をその要約と敷衍とにあるとするものとがあるが、そういう立場をとる人は知らず知らずの間に前者の跡を踏襲しておるものである。これは教学の上から見れば明らかである。最初聖人の門下において教学を学ぶものが先ず仏教学として天台を学び、その上に聖人の教義を学んだのである。それがために天台の教義に制約せられて、真に聖人の御精神を領解し奉ることができなかったのである。後においては、かくして成立した教義を踏襲して如何に之を証明づけるかということに努力が払われたのであった。聖人の御書に接することができるようになってからもその流儀の羈絆(きはん)に束縛せられたものには寧ろ御書はその流儀の証明に役立たせるにほかならなかった。
 これについては二祖日興上人が「聖人の御抄を心肝に染め、極理を師伝して若し間(いとま)あらば台家を聞くべきこと」と、御遺誡置文に仰せられたが、学者は先ずその態度をはっきり決定して、法門を学ぶべきと教えられたもので、当時門下において天台を学び、その教学を中心として、聖人の教学に臨むという風があったのに対する御誡めである。聖人の教義は徹頭徹尾聖人の御書によって決定されねばならない。
 ここにおいて論者の中には、釈尊と聖人とにおいて仏教といえば釈尊が主である。聖人の御書の意と釈尊の法華経の意といずれをとるかといえば法華経をとるというものがあるが、これは法華経に上行を称歎せられ、於諸法之義名字及言辞楽説無窮尽如風於空中一切無障碍と仰せられた御文からいって釈尊の証明を尊重しないものである。この経文の意からいって聖人の御教示は末法に於ける仏教において絶対に権威のあるものである。それ故に聖人の教義は御書において決定せられて少しも差支えないのであって、そうすることが最も正しいのである。
 以上は聖人の御書に臨む心構えであるが、次に日蓮聖人の御書を拝読すれば御一代の弘教に三段があらせられることは何人にもうかがわれるところである。第一が聖人が上行菩薩の再誕であらせられることを論断せられたこと、第二は末法適時の大法である本門の三大秘法を建立して、一切の衆生に授け、これを受持せしめられるを目的としたこと、第三がこの三大秘法、即ち本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇と釈尊の仏法-法華経の所説との関係を明示し給はんととしたことである。この三点は御一代の間に如上の順序を以て展開し給はんとせられてをる。勿論これは縦に御一代の大途の上に立てられるところで、横にいへば御一代の間この三点は常に明らかにせられんとし給うたのである。
 由来聖人の御教示は聖人御自ら仰せられてあるように、乃ち「四悉檀を心にかけて申すなれば」とあるから世界、為人、対治、第一義を時と処と人とによって宜しきに随って御教示遊ばされてをる。そうして又大途御一代の上には序正流通を立てて御法を展開遊ばされてをり、このことは佐渡以前の法門は仏の爾前経と思召せとも、「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。乃至余は二十七年なり」とも、「三大秘法鈔云云」とも仰せられて御一代の弘教に段階があることを拝察できる。乃ち佐渡前と佐渡後、佐渡後において弘安二年の前と後とに重大な転換があらせられることがうかゞはれるのである。
 凡そ仏法において一代の施化の究竟を定めて整足するには一代の最後の段階によって為さるべきであって、聖人におかれては弘安二年を以って御一代の弘教の規準としなくてはならない。
 これ等のことは御書に接し奉る者、既に聖人がその御用意あって御教示し給うといふことを忘れてはならない。
 前において、日蓮聖人と法華経との関係を拝察し奉ると、第一に法華経が上行の出世とその建立すべき三大秘法を指示しており、聖人がこれに呼応して御出現なされ、三大秘法を建立遊ばされたこと、第二に聖人は建立遊ばされた三大秘法は法華経の所説と相対比して明示し給ったことと、この二点において法華経との関係があらせられたことが拝せられる。世上には日蓮聖人が仏教中法華経が最勝第一の経典であると仰せられて、諸経諸宗を破折なされたのを以て、聖人は法華経そのものを弘通するのが御一代の眼目であったかの如く説くものがあるが、これは御本意を誤って拝するものである。聖人が法華経を第一とし他を破折し給ったのはどこまでも天台の助言であり、聖人の弘教の第一歩であらせられる。けっして聖人の御主意は法華経そのものを御弘通なさるものではない。
 これについては又聖人は天台の法華経と義を異にせられ、別な解釈を以て、それこそ真実な解釈であるものを以って弘通せられたと説くものがあるが、これも御本意ではない。法華経の解釈は天台大師によって究竟せられ、また加減すべきものは何ものもないのである。天台といへば法華経、法華経といへば天台に尽きるのである。若しこのことを云為すれば法華経の範囲を逸脱するものである。開目抄に、「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶことなけれども云々」と仰せられて、天台伝教の立場を尊重してをられる。但し天台のいふ法華経は此経の範囲において解釈せられたのであって、それが指示する上行の範囲と自ら限界があるのであって、これについては天台は内に知り給うも外に説かれなかったのである。
 報恩鈔に「問て云く、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答て曰くあり。求めて云く何物ぞや。答て云く三つあり、末法の為に仏留め置き給う」と仰せられてあるから以てその限界を拝することが出来る。
 世上、聖人の立てる仏法を天台から出て一歩を進めたものであるといふ者が多いが、これは全く如上の消息を知らないからである。聖人が法華経を最第一としてこの経を押し立てられたのは、一には諸宗の謗法を破する順序からと、一にはこの経がその権威を現はしてこそ初めて末法に上行菩薩と三大秘法とが出現する因縁が明らかになるからである。そうして法華経を立てることを第一段階として、聖人がこの経を色読した上行菩薩たることが確証せられるからである。このことは聖人の仰せられる法華経の意とその御主意が三秘にあらせられることからかように拝されなければならない。
 蓋し法華経は釈尊が何人の為に説かれたかといふに、第一に在世の衆生、菩薩と二乗と凡夫とのために説かれたのである。第二には釈尊滅後の衆生の為である。しかして今滅後より見れば寧ろ滅後を主とするのである。それは法華一会の衆生が方便品以下において諸法の実相を証し了ると、釈尊は滅後の弘教を勧奨せられた。これに対し皆異口同音にその任に当るべきを申出でられた。しかるに釈尊はこれに答へ給はず、やがて止みなん善男子といってこの願を抑止たまわったのである。かくて大地の底よりはるばる上行を召出されたのである。この筋目を以つて法華経を読めば法師、宝塔、提婆、勧持等の諸品は悉く滅後のために説かれたのである。而して本門に到って上行への付嘱を読んで振り返へれば、此等が皆滅後末法のためであり、上行一人のためであることが拝される。
 日蓮聖人は開目鈔に、「而るに法華経の第五の巻、勧持品の二十行の偈は日蓮だに此国に生れずばほとんど世尊は大妄語の人、八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚証罪にも堕ぬべしと仰せられ、又法華取要鈔に「問ふて曰く法華経は誰人の為に之れを説くや。答て曰く乃至滅後の衆生を以て本となす。在世の衆生は傍なり。滅後を以て之を論ずれば正法一千年、像法一千年は傍なり、末法を以て正となすなり。問て曰く、その証拠如何。答へて曰く、況滅度後の文是なり。疑て云く。日蓮を正となす正文如何。答へて云く有諸無智人悪口罵詈等及加刀杖等云云」と、更に下に、「問て曰く本門の心は如何。乃至、寿量品に云く是好良薬今留在此云云」と、仰せられ、又日向記に既に「止善男子の止の一字は日蓮門下の大事なり、秘すべし、秘すべし、口外も詮なし、上行菩薩等を除いては、総じて余の菩薩をば悉く止の一字を以て成敗せり云云」とも仰せられてをる。此等の御文によって、末法のための法華経は聖人出世の予証であって聖人一人のためである。一般の末法の衆生にはこの明鏡により聖人出世の因縁を承知し、その化導を信ずべきを教えられたのである。
 次に法華経本門の心を以ていえば、これは上行菩薩が三大秘法を建立せらるゝを指示せられたのである。神力品において釈尊は上行菩薩に妙法を付嘱してをられるが、始めに法華経を四句に結んでこれを授けられた。即ち如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此経において宣示頸説すといって、此経を付嘱し給ったのである。
 而して次に付嘱を受けた上行菩薩を称歎し、如来の所有の法と、自在の神力と、秘要の蔵は上行之れを具有し、そうして如来の甚深の事を振舞うのであるといはれてをる。換言すれば上行は仏であって、その化導において三大秘法を建立して、日月の光明の能く衆生の闇を除くが如くというのである。即ち上行の三大秘法建立を指示されたのである。而も予め寿量品に色香美味皆悉具足の良薬を今此に留むとして、その三秘を指示されて上行への付嘱を意味深くも仰せられてをる。
 かように拝して来ると、末法のための法華経は第一に上行の出世を明し、第二に三大秘法を建立せらるゝを指示せられたことを領解し奉ることが出来る。
 ここにおいて、然らば法華経と三大秘法との関係はどうかということが問題となるが、このことを領解し奉るには先ず共の実体である妙法蓮華経の所在を確かめねばならない。釈尊の在世には釈尊にあらせられることはいうまでもない。滅後において一往法華経に如来の全身ありといはれたが、これは釈尊の教益の及ぶ正像二千年の間である。
 末法においては上行菩薩が所有してゐられるのである。日向記に「地涌千界の出現、末代の当今の別付嘱の妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に取次ぎ給うべき仏勅使の上行菩薩なり云云。取次とは、取とは釈尊より上行菩薩の手へ取り給う、」と仰せられてある。これを以て妙法は末法において上行菩薩にあることを拝し得られる。前に述べた神力品のことを思い合すれば領解し奉ることができる。
 次に三大秘法といえば本門の本尊が主であって、三秘はこの一秘に納まることを知らなければならない。このことは聖人の施化(せけ)が先ず題目に始まり、常に題目のことを仰せられてあるから、御法門が題目に要約されると誤るものが多いが、これは尤も用心すべきところである。聖人は法華経により題目を説かれ、次に本尊を、そうして戒壇と展開説示し給うたが、この順に拝すると聖人の御法が法華経の要約にあると拝し誤ることになる。上行菩薩と三秘とが顕はれ了って振返って拝すると、御本尊と法華経との関係になる。そこで御本尊は法華経を内容とするかどうかということが肝心な問題になる。
 これについて察し奉ると御本尊は上行の建立し給うところであり、その内容は上行の御内証である。法是れ久成の法なるに由る、故に久成の人に付すとの道暹(どうせん)律師の釈からいって、上行は既に久成の人であって法華経によって逆を成ぜられた方ではない。一方法華経において、一会の衆生は法華経によって得脱をされたが、実には皆下種に戻られたのである。即ち仏になろうと精進して来たが、登って見ると展望は一転して仏は衆生を化導しそれを成就せられつつある。かくて己が身を省みると漸く仏の因位にあることがわかったのである。これが法華の究竟の境界である。釈尊は今は既に満足したといわれて安穏にして所作なき境界にあられるが如くでいるが、常住の仏は不断に化導に努められてをる。それが第一義の本相である。これは法華経を去って久遠に到るもその姿は同じである。
 次に法の上からいえば、一念三千の法門は仏法の極理である。しかしてこの法門は、法華経本門の寿量品の文の底にしづめられてをる。この一念三千は迹門方便品にある。しかしこれは諸法の実相において説かれてをるから、理上の法門である。
 本門においては仏の久遠の生命に約し、その御振舞において説かれてあるから事である。しかしこれも仏の果位において、仏の御境界において、談ぜられる限り理であって凡夫位において身につける一念三千はもう一重立入って観ぜられねばならない。ここに事行の一念三千がある。聖人が末法の衆生に示されたのはこのところである。
 聖人は一往上行菩薩より御身を観ぜられ、再往御自身から上行菩薩を観ぜられ、名字凡夫の御境界に主客一如し、末法と久遠とを一時にして、その姿を御示しなされた。御義口伝に「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」と、又「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とも仰せられたのはこの御意からであると拝される。
 次に仏身からいえば、小乗から昇進せられた釈尊はたとえ法華経の教主としても低いのであって、寿量品に顕本せられた上は久成の釈尊を立てなくてはならない。しかして久成の釈尊というも既に成道せられたという限り、無始本有とはいえない。ここに本有常住の本仏は自受用無作の三身を立てねばならない。
 寿量品に如来秘密神通之力を説かれてあるが、御義口伝に「如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏なり。別して無作の三身なり」と示され、この無作の三身を御本尊に御立てなされたのである。もとよりこの三身は又化導上より拝すべきで釈尊を仰ぐは大通結縁の衆生と滅後二千年の衆生とであって、末法の有縁の本仏は聖人であることは法華経の指示せられるところであり、聖人の御思召しである。
 以上拝し来れば法華経は聖人の出世とその御立ての三大秘法を指示、予証せられたのであり、その三大秘法は聖人の御内証を顕示せられたのであることを察し奉ることができよう。
           昭和二十二年十月  (宗報)

 
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