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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

時事に鑑みて

【解説】ここでいう「時事」とは、大正7~8年にかけて全世界的に大流行した通称「スペインかぜ」というインフルエンザの通称である。感染者5億人、死者5,000万~1億人と、爆発的に流行した。

白蓮華 第13巻第10号(大正7年10月7日発行)
日柱謹記

 我が宗祖日蓮大聖人の一切衆生を憐愍し給ふや、「慈眼視衆生」なるは勿論、特に一切衆生の一切の苦を受るは、悉く是日蓮一人の苦となし給ひ、常に御身を以てこれが救護に当らせ給ふなり。これが救護を為し給ふには、先づ衆生の棲息する国土の安全を期し給ふ。故に『立正安国論』に曰く、
「国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁 れん。汝須く一身の安堵を思はゞ先づ四表の静謐を祷るべきものか。」(249)と。又曰く、「国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是 禅定ならん。」(250)と。又た御書には、「国の亡ぶるが第一の大事」(『蒙古使御書』909)等とふ。而して其の国家の安全を期し給ふには、固より根本精神的にこれを図らせ給へるなり。既にそれ災難頻発して国家の亡滅を致すの原因たる悪法を禁止すべきを絶叫して、上下の人に警誡を与へ給ふ。悪法は、善心を殺し、大義心を殺す、故にこれを折伏し給ふこと剴切なり。而かも最尊無比の正法を弘宣し、且つ国家を安全ならしむる要術を言行に示し給ふ。則ち其の御振舞中の主要は、堂々として三度の御高名に顕はし給へるを以て知るべきなり。
 抑も一切衆生の一切の苦を日蓮が苦と宣へるは、これ一切衆生の一切の苦を軫念し給ふと同時に、「唯我一人能為救護」の事実を行ふの聖意を言明し給へるなり。故に其の言明は必ず実行に顕現し給ふ。則ち不自惜身命の御振舞これなり。
 就中、其の国諌を為し給ふや、天変地動等の徴相を察して、当に起るべき国難を未萌に明言し、而かも其の国難の来由と、これを恐れざるべからざる所以と、救済の要術とを、併せて教示し給ふ。且つ夫れ大聖人一日片時も御身を安処し給はず、不自惜身命に振舞はせ給ふは、これ一日片時も国家及び一切衆生を憐愍し給はずと云ふことなき大慈悲心の発現なり。
 抑も亦た大聖人の『立正安国論』並に三度御高名の明言態度は、誠に国家の興亡に対し、捨身国諌の洪範なり。其の兼知未萌、明言的中せるは、恰かも掌を指すが如し。而かも実際の国難を、実際に解決し給ふ、若しそれ国家現当の事、『立正安国論』の聖意を以て定規とせば蓋し万違ふことあるなけん。而かも亦た立正安国の聖意を、誠意信念に感得する者は、其の誠意信念は、必ず国家の事に発露せずには止まざるべし。況や国家有事の時に於てをや、由来今の聖祖門下と称する者、多くは常に大言壮語する如きも、実践躬行に至て欠くる所あるは、これ誠意の足らざるか。又は信念の堅固ならざる故か。それ国家に大事あるに当て、平素の饒舌にも似ず、口を噤むで之に対する要術を説くあるなく、漸く事後に至て兎角の言辞を哢する如きは、言を撰時に仮りて、誠に時機を逸するの憾なきにあらず。
大聖人『立正安国論』に『大集経』を引て曰く、
「一には穀貴、二には兵革、三には疫病なり。」(237)と。此の一二の者、既に眼前に顕現せり。抑もこれ何の徴相なるか、将た何の結果なるか、況や未曽有の世界大戦乱あるをや。 それ「尺の池には丈の浪たゝず、驢吟ずるに風鳴らず」(『呵責謗法滅罪抄』715)と。然るに今や大戦乱の怒濤は世界に奔騰し、風雲鳴動するに大龍吟せざるの感あり。此の事変を解決すべき偉人出でて要訣を説くなきは、或は泰山鳴動するも僅かに鼠の出るが如きの類か。 好し偉人たらずと雖も、国土に起る所の災難が、天罰にあれ、時運にあれ、業感にあれ、其の孰れなるかを察知し、以て民心をして猛省するの警告をなすべきは、これ立正安国の聖意を奉体する者の精神的責務にあらずや。
 抑も泰平明時の世に於て、人心を煽動擾乱せしむるが如き事を為す者は、これ良民にあらず乱賊なり。国家の時難、又は将来憂虞すべき現象あるにも関はらず、唯だ謳歌を粧ふ如きは、これ諂諛の者にして不忠なり。殊に邪法又は悪風潮の浸染によりて、人心の欠陥を致し、国家の一大事を醸成する事あるを察知しながら、緘黙を守るは、教家の本分にあらず、又た其国難あるに際し、之れに対応するの要術を説くなくんば、平素に説く所の法義は何の為ぞ、余宗は之を措く。『立正安国論』を拝読せる聖祖門下の者、此の際此の時、何の面目あってか大聖人に見へんや。鳴呼滔々たる僧侶、『立正安国論』に、「法師は諂曲にして人倫を迷惑す」(238)と宣へるの徒なるを甘んずる者にはあらざるべし。
 大聖人は、其の当時天変地動を以て、国土に謗法充満せるに依ると喝破し、更に一転して、大聖人正法を弘宣し給ふ瑞相なりと示し給ふ。
『呵責謗法滅罪抄』に曰く、
 立正安国論には、法然が選択に付いて日本国の仏法を失ふ故に、天地瞋りをなし、自界叛逆難と他国侵逼難起こるべしと勘へたり。此には法華経の流布すべき瑞なりと申す。先後の相違之有るか如何。答へて云はく、汝能く之を問へり。法華経の第四に云はく「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し、況んや滅度の後をや」等云云。同第七に況滅度後を重ねて説いて云はく「我が滅度の後、後五百歳の中に閻浮提に広宣流布せん」等云云。(715~6)
 斯くの如く天変地動を、禍福両面より観察応用し給ふすら、既に霊妙の御振舞なるに、乃ち正法を弘宣して、更に亡国の相を変じて、興国の瑞となし給ふ。則ち「法華経の流布すべき瑞なり」(715)とは、興国の瑞なる事を意味するなり。斯く霊妙の御振舞は、例せば良医の能く大毒を変じて良薬と為すが如く、禍を転じて幸となし給ふなり。誠にこれ「慈眼視衆生」の御振舞、一切衆生の一切の苦を、悉く是れ日蓮一人の苦となし給へる大慈大悲の大救主たるの威徳なるによるなり。 古、鵑声を聴て国亡を知り、童謡を聞て民情を察せし例あり。蓋し天地の変妖は、何等かの信号にあらざるなきか。国土に顕現する災難は、国家興亡に関するなきか、常に警覚注意を怠るべきにあらず、且つ変災重なれども、これを払ふの要術を講ずるなく、
 人心甚だしく欠陥を生ずるも、これを救済するの道を施さずんば、終に衰亡の悲運に到達せん。尤もこれが対応策は唯だ為政者の策為に依り、物質的施行をなすべきこと、又た精神的に教養感化すべき事とあるべけれも教家は常に根本的大所より監視を為し、最善の施為を怠るべきにあらざるなり。倩ら大聖人立正安国の聖意を窺ふときは、最も其の然る所以を知るべし。 彼の物価騰貴に付ての騒擾事件の如き、人心の欠陥を偶ま其の動機に依て暴露せるならんも、後来幾多病毒の浸染して、何の所に勃発せずとも限らざるべし。然るに成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等、此等害毒の感染、予想外に迅速なり。さなきだに、民心は国利民福を物質的に求めて、立正安国の誠意に乏しき、これ忽緒に付すべからざる人心の疫病なり。教家の配剤処方を要する、実に多大なりと思惟す。宗教家たる者、唯だ経巻に依て、教理学説を云云するのみが本能にはあらざるべし。極めて世道人心に密接必要事を説きてこそ、其の本能も発揮せらるれ、殊に仏教の本義は、導利衆生にあれば、机上の理論、世道人心と殆んど没交渉的の学説をなすとも、そは死論死説のみ、活世界の活事に触れ、活論活動をなし、世道人心を指導裨益する所あり。国家に貢献する所ありてこそ、宗教家たるの本能も権威も顕るるなり。大聖人の『立正安国論』の如き、三度高名の如き、則ち其の活教訓・活洪範にあらずや。
 大聖人勧誡して曰く、
『十八円満抄』に、総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき。(1519) 「正理を修行」とは、これ実修躬行にあらずや。然れば徒らに教理学説のみを喋々する智者・学匠とならむよりは誠意信念、為国為法、実修躬行の人とならずむばあらず、彼の饒舌の者、多くは不実行の怯者なり。一顧の価だにもなきを知るべし。 今や内外国事多難、教界の事、亦た複雑を極む。教乱難期し難きにあらず。殊に眼前世界の大戦乱に付て、根本的解決は、閻浮帰一を唱導せる教家に待たずんばあらず。これが要訣を説き且つ行う偉人は如何。抑も転禍為福の大手腕を揮ふ者は何人ぞ。和党の第二陣者の先登は、誰人か自らこれに当る者ぞ。謹て『立正安国論』の聖意を感佩〈かんぱい〉し、乃ち時事に鑑み、敢て之を言ふ。
『法蓮抄』に曰く
夫天地は国の明鏡なり。(822) と。 以下の御文は、御書に就き拝読すべし。蓋し会得する所あるべし。(完)

再び時事に鑑みて

白蓮華 第13巻第12号(大正7年12月7日発行)
日柱謹記

 予は、本誌前々号に、『時事に鑑みて』てふ一篇を掲載し、其の文中に、大聖人『立正安国論』に、『大集経』の三災を引証し給へるを、また引用して、時事に付て聊か愚見を披陳したりき。 其の三災中の第三疫病の事に至ては、人心に関する疫病ある事を略述せり。然るに疫病はそれにとどまらずして、世界感冒なる風邪流行し、殆ど全国人を風靡し此の風邪に冒さるる者、既に大半を超へ、死亡者続出すと云へり。啻に我国のみならず、世界各国皆然らざるはなしと。従来疫病と云ふと雖も、其の流行区域は多分は一国二国に止まりしが、這回の如く、世界一般と云ふが如きは、蓋し未曽有の事と謂ふべし。乃ちこれ瘴癘〈しょうれい〉の悪気世界に弥布して、世人を悩ますものなるか。而かも瘴癘の悪気の弥布せるは、悪鬼便を得たるの徴相にあらざるなきか。衛生上予防法の如き、多少効能はありたらんも、悪気伝染の迅速なる、実に予想の外に在り。其の惨、言語に絶す。 予は、所引の文意が眼前に顕現せるを以て、得意とする者にあらず。頗る国人のために憂ふるなり。何んとなれば、凡そ災厄の顕現するは、其の顕現すべき所以ありとは、我が宗祖大聖人の『立正安国論』の旨意なればなり。若し然れば、其の災厄が、唯だ其の当時のみの災厄にして終息せば、不幸中の幸として、将来の患となすべきにはあらざれども、或はそれ更に来るべき災難の前徴にはあらざるなきか。例せば、『立正安国論』に、天変地夭及び其の他の災難を挙げて、更に来るべき他国侵逼難・自界叛逆難の前徴となし給へり。則ち曰く、「徴前に顕はれ災ひ後に致る」(『立正安国論』242)と。今や世界の大戦乱は、休戦となり、又た更に講話談判も将に開催せられんとし、平和克復は近きにあらんとするに際して、国民は、種々なる方法にて祝意を表し、連合各国に於ても、亦た然りと云へば、よもや今後数年若しくは十数年の間には、国難の来るべしとは、何人も予想せざる所なるべし。否な、斯くの如き不祥事のあるべしとも思はざるなり。誠に四表の静謐を希ひ、国家の安全を祷るは、国民の衷心より欲する所たらずんばあらず。予の如き草莽の微臣と雖も、休戦に対し、又た平和克復に対し、祝福の誠意を表することは、敢て人後に在る者にあらず。而かも亦た毎日必ず宝祚無窮、天長地久を至祈至祷して怠らざるなり。 されど翻へて、思ふに、此の大戦争に依て、敵、味方の壮丁を殺せし事、幾十百万に達すと言へり。何ぞ惨憺の甚だしきや。彼等の英霊各々決する所ありて、其の国難に殉ぜし者なれば、まさかに申有に迷ふとは思はざれども、若しそれ怨念一団となりて、彼の悪気に便を得て、世人を悩ます事なしとするも、同情を以て彼等の冥福を祈るは、生存者たるものの人道にあらずや、況や「慈眼視衆生」の慈悲にあらずや。 而して慈眼視衆生の視線を、又た一面にそそぐべきなり。そは予がさきに列挙せる如き、人心の病症あることこれなり。其の毒気蔓延の徴候ある事は、識者既に之を患ふ。彼の感冒の悪気が、迅速の勢ひを以て人心を冒せる如きは、これ或は其の前表にあらざるなきか。
『立正安国論』に曰く、
 具に事の情を案ずるに、百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ。先難是明らかなり、後災何ぞ疑はん。若し残る所の難悪法の科に依って並び起こり競ひ来たらば其の時何が為んや。(249)若し幸ひに事なきを得ば、国家民人の幸福なり。然れども人心の欠陥は、機微の所に潜む、誡めざるべからず。 我が宗祖大聖人の当時に在ては、重に諸宗の悪法が、国家災難の因由なりしが、今や此の悪法と並びて、世に一種の危険思想なるものあり。此の思想は、君臣の大義を破滅し、固有の元気を消耗し、乃ち知恩報恩の要義に背くものなり。亦たこれ立正安国の大定規を以て律するときは、破国の因縁たらずんばあらず。若し然れば大ひに折伏を加ふべきなり。 要は立正安国の大経道を、人心に徹底せしむるに在るなり。(完)

 本年も早や歳晩に臨み、年内余日も少なし。謹みて読者諸君の健康を祝福し、目出度く、新春を迎へられん事を希ふ。尚ほ新年号より更に筆硯を清め、諸君に見へんとす。諸君希くは、健在なれ。

御書の明鏡

白蓮華 第14巻第3号(大正8年3月7日発行)
日柱謹記

 今や世界大戦乱の惨禍は、漸く終熄を告げたけれども、所謂世界感冒は、一旦稍や弛緩と見へしに、再び猛烈の勢を倍して、捲土重来し、国境もなく、疫風吹き捲りて、人命を奪ひ去るは、これ由々しき現象にあらずや。蓋し人身は、殆んど四百四病の容器なれば、衛生上予防不行き届きにより、疫風に冒されたりとて、当然と云はば云へ、斯くの如く悪疫の流行するは、唯だ尋常一様の事と、冷視し難かるべし。
『神国王御書』に、
 一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮かぶるのみならず心をもうかべ給へり。心を浮かぶるのみならず先業をも未来をも鑑み給ふ事くもりなし。(1302) と宣へり。 予は今ま此の聖言の如く、大聖人の御書も亦た然りと申すものなり。乃ち当世の現象を、此の明鏡に照らし視るに、  
『日女品々供養御書(日女御前御返事)』
 去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼ゆる犬は腸切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。日本国の一切衆生すでに三分が二はやみぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はやまざれども心はやみぬ。又頭も顕にも冥にも破ぬらん。罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。(1232~3) (尚ほ『聖人御難事御書』1397をも参照すべき事) 此の御書、今の世の有様を浮べ給へるのみならず、人の心をも浮べ給ひて明かなるにあらずや。 現今医薬及び衛生法等、其の進歩並びに其の行き届ける点は、鎌倉幕府当時の如き、とても此れに比すべくもあらざるべし。然るに悪疫流行に至ては、敢て彼れに遜色あらざるは、果してこれ何のゆへぞ。単にこれを衛生上のみより観察して可なるか。
 抑も亦た精神上欠陥より由来するにあらざるなきかに、想到せざるも不可なきか。 且つそれ右の御書に、「今一分は身はやまざれども心はやみぬ」(1232)と。今ま此の明鏡に照らして、心に疚〈やま〉しからざる人、果たして幾許かある。心の病者とは、予が嘗て云へる、成金中毒症、徳義衰亡症、報恩亡失病、偏見民本病等にして、殊に甚だしきものは、大謗法病なり。人心の病は、終に国家衰亡の病たるなり。此等の病疫が人心に胚胎せりと思ふうちに、早や既に国家の膏毫に侵入せるに心付かざる事あり。唯だ皮相の見のみを以て油断すべきにあらず、而かも亦た其病勢の漸進に乗じて、悪鬼悪魔の其の便りを得、一層害毒を猛烈ならしむる事あり。恰も火勢に風威の加はるが如し。故に国病の防止、退治こそ最も急務なれ。
 曾て大聖人が不自惜身命に、諫暁に、強折に、極力病源の対治に努め給ひしは、実に事の急なるに依るゆへなり。今亦たこれに例して知るべきなり。 尚ほ念言す、国土は兎角に災難の絶へぬもので、少しも安心は出来ざる事なり。そは則ち天変地妖の如き、此等は唯だ科学的にのみに就て、警誡するに足らずとなすべきか、若しくは所謂四罸の孰れにか相当するにあらざるなきかを、常に猛省するは、肝要事なるにあらざるか。 予は、今は多くを言はず、正さに御書の明鏡をかかげて以て、世人の其の心を照らし視んことを、希望するものなり (完)

疫病流行に就て

白蓮華 第15巻第2号(大正9年2月17日発行)
日柱謹記

 大正七年の末より八年の春にかけて、世界感冒なる疫風流行し、それに罹〈かか〉れる者、算なく、死亡者幾千万人と注せらる。依て予は曾て御書の明鏡を掲げ、以て所見を披陳したりき。然るに本年に至て、亦た前年にもまさる悪症の感冒流行し、患者続出、殪〈たお〉るる者、日に幾百千人と称す。鳴呼悲惨、転〈うた〉た同情に堪えず、故に復た一言なかるべからざるなり。
弘安元年の頃、疫病流行せるに付き、大聖人、檀越に示して曰く、(『中務左衛門尉殿御返事(二病抄)』一七三八)
 夫、人に二病あり。一には身の病。所謂地大百一・水大百一・火大百一・風大百一、已上四百四病。此の病は治水・流水・耆婆・扁鵲等の方薬をもって此を治す。二に心の病。所謂三毒乃至八万四千の病なり。仏に有らざれば二天・三仙も治しがたし。何に況んや神農・黄帝の力及ぶべしや。又心の病に重々の浅深分かれたり。六道の凡夫の三毒・八万四千の心の病をば小乗の三蔵・倶舎・成実・律宗の仏此を治す。大乗の華厳・般若・大日経等の経々をそしりて起こる三毒・八万の病をば、小乗をもって此を治すれば、かへりては増長すれども平愈全くなし。大乗をもて此を治すべし。又諸大乗経の行者の法華経を背きて起こる三毒・八万の病をば、華厳・般若・大日経・真言・三論等をもって此を治すればいよいよ増長す。譬へば木石等より出でたる火は水をもって消しやすし。水より起こる火は水をかくればいよいよ熾盛に炎上り高くあがる。
 今の日本国去・今年の疫病は四百四病にあらざれば華陀・扁鵲が治も及ばず。小乗・権大乗の八万四千の病にもあらざれば諸宗の人々のいのりも叶はず。かへりて増長するか。設ひ今年はとゞまるとも、年々に止みがたからむか。いかにも最後に大事出来して後ぞ定まる事も候はんずらむ。法華経に云はく「若し医道を修して方に順じて病を治せば更に他の疾を増し、或は復死を致さん。而も復増劇せん」と。涅槃経に云はく「爾の時に王舎大城の阿闍世王○遍体に瘡を生ず。乃至是くの如き瘡は心より生ず。四大より起こるに非ず。若し衆生の能く治する者有りと言はゞ是の処有ること無し」云云。妙楽云はく「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」云云。此の疫病は阿闍世王の瘡の如し。彼の仏に非ずんば治し難し。此の法華経に非ずんば除き難し。
 此等の御書、蓋し亦た現今の有様を照し鑑みるの明鏡にあらずや。斯く疫病が、去年よりも今年と、猖獗〈しょうけつ〉を逞〈たくまし〉ふし、一回は一回より、病害の猛烈を加うるは、これ何の禍に由るか。而して其全く終熄するに至るには、右の聖言中に「いかにも最後に大事出来して後ぞ定まる事も候はんずらむ」と宣へるが如き、最後大事出来に逢着するの前徴にあらざるなきか。若し然れば其の最後の大事とは、果して善事か、将た悪事か、須らく注意誡慎を要すべし。
 抑も病を治せんとするには、其の根源を知るを要すとは古来の確言にして、事実も亦た然かなり。されば衛生上、人力の及ぶ限りを尽して予防すべきは、元より当然なりと雖も、若しそれ悪鬼乱入して、人を食するための疫病たるに於ては、唯だ一遍の鼻風として軽症視すべきにあらず。又た一片のマスク或は含嗽等の能く予防し得べき所ならんや。
 現今の有様を観るに、国民は、果して身心共に健全なりと謂い得るか。其の多くは、殆んど奢風、驕風、惰風、慢風、邪風、貪風、瞋風、痴風等の悪風に冒されざるはなきにあらずや。然れば又た一種の感冒症に罹れる者と謂ふべし。此等の病因、宛かも此れ大聖人の聖言に「見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此始めなり」(『治病大小権実違目』1238)と宣へるに在るにあらずや。是を以て魔風疫風の茲に便を得て、猖獗〈しょうけつ〉を逞〈たくまし〉ふする。亦た怪しむに足らざるべし。
大聖人示して曰く、(『四条金吾殿御返事』一五四五)
 賢人は八風と申して八つのかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。をゝ心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまぼらせ給ふなり。(1118)
而かも亦た世人此の八風に冒されざる者、果して幾許かある。斯くの如く世人はなんすれぞそれ悪風に冒され易きや。斯くして最後大事出来を招致する如きは、甚だ心なき所為〈しわざ〉なり。宜しく定業能転、転禍為福の要術を施すべし。唯だそれ尋常一様の処方にては、却て「定業の者は、薬変じて毒となる」の聖言に該当するの虞れなきにあらず。
 抑も身心健全たらしむるは、乃ち身心の二病を防ぐの要法なり。其の健全と云ふは、先づ純正の信念充実にあるなり。若しそれ信念充実せば、身心共に健全にして魔風悪風の冒すべき余地ある事なけん。
『四条金吾殿御返事』に曰く、
 摩訶止観第八に云はく、弘決第八に云はく「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」云云。神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候。法華経はよきつるぎなれども、つかう人によりて物をきり候か。(1292)
『立正安国論』に曰く、
 汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし。(250)
故に要する所は、国民の純正信念堅固たるに在り。然るに目下又た前の諸病にまさるの重病ありて、人心に浸染せんとす。三正一貫の正道を罔〈な〉みするの邪教則ちこれなり。これを大謗法の重病と名く。大聖人嘗て教示して曰く、(『妙心尼御返事』一七六六)
 今の日本国の人は一人もなく極大重病あり、所謂大謗法の重病なり。今の禅宗・念仏宗・律宗・真言師なり。これらはあまりに病おもきゆへに、我が身にもおぼへず人もしらぬ病なり。この病のこうずるゆへに、四海のつわものたゞいま来たりなば、王臣万民みなしづみなん。(900)
とへるが、今やまさに外来の邪教なる大謗法の重病其一を増せり。此の重病恰かも「あまりに病おもきゆへに、我が身にもおぼへず、人もしらぬ病なり」(900)と宣へるが如きもの、これが種々に変化し来りて、人心を毒惑し、下剋上、背上向下、破上下乱なる危険症の大重病となる、此の病のこうずるとき、終に国家を亡滅にさずんば止まざらんとす。これが防止の方法、決して油断すべきにあらず。
 如上の諸病、大謗法の重病、これを退治するの大妙薬は、唯だそれ大聖人方剤の妙法丹あるのみ。(完)


 
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