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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

宗祖日蓮大聖人は末法の御本仏であること

日蓮大聖人は末法の御本仏
 日蓮正宗において、日蓮大聖人が御本仏であるとすることは日蓮正宗の宗是である。
「宗祖大聖人は外相は上行菩薩の再誕として末法に出現し、内証は久遠元初自受用身として久遠においての即座開悟の南無妙法蓮華経を末法の我々に授与せられたのである」とある。
                   (日蓮本仏論:第66世日達上人)
  以下に、日蓮大聖人が、御本仏であることを、御書を引いて述べる。
 まず、それには「経典において仏」とされている釈尊よりも日蓮大聖人の方が勝れた存在であることを証明しよう。

1 本仏とされている釈尊よりも日蓮大聖人の方が『功徳』が勝れていること
【御書】
 法華経第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候
                  【国府尼御前御書:739頁】
【現代語訳】
法華経の第四品には、「人々が仏道を求めて一生の間に手を合わせ、私の前に座り、数え切れないほどの偈(詩)で賛美を捧げる。この賛美によって、無限の功徳を得ることができる。経典を持つ者を称賛するのは、その福徳が彼を超えるからである」と述べられています。この文章の意図は、釈尊自身を供養するために三業(身口意の行い)にふさわしい仏を一中劫(非常に長い時間)にわたって供養するよりも、末法の世に法華経の修行者を供養することによる功徳の優れた点を強調していると解釈されます。
【解説】
 本仏であるはずの釈尊を供養するよりも、末代悪世に法華経の行者である日蓮大聖人を供養する功徳の方が比較にならない程、勝れていると釈尊自身が説かれている。

2 本仏とされた釈尊よりも「法華経の行者」が勝れていること
【御書】
  仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加へ奉りて已上三人なり【報恩抄:1017頁】
【現代語訳】
 仏滅後の約1800年の間に、法華経の修行者が漢土(中国)に1人、日本に1人、以上の2人がおり、釈尊を加えて以上3人である。
【御書】
  日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず【撰時抄:864頁】
【現代語訳】
 日蓮が日本で最も優れた法華経の修行者であることは疑いのないことである。これを確信すべきである。漢土(中国)や月支(朝鮮)においても、一閻浮提の中で日蓮に肩を並べる者はいないのである。
【御書】
  日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり」【寂日坊御書:1393頁】
【現代語訳】
 日蓮は日本で最も優れた法華経の修行者である。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国内で日蓮一人だけが読んでいるのである。
【御書】
  教主釈尊より大事なる行者【下山御消息:1159頁】
【現代語訳】
 日蓮は教主釈尊より大事な行者である。
【御書】
 日蓮は是れ法華経の行者なり【聖人知三世事:748頁】
【現代語訳】
 日蓮は法華経の行者である。
【御書】
 日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり【撰時抄:845頁】
【現代語訳】
 日蓮は閻浮提で第一の法華経の行者である。
【解説】
  釈尊よりも勝れた法華経の行者が、日蓮大聖人なのである。

3 釈尊よりも日蓮大聖人の方が勝れた「聖人(=仏)」であること
【御書】
  夫れ仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴して但三人のみ有りて始めて此の正法を覚知せり。所謂月支の釈尊、真旦の智者大師、日域の伝教此の三人は内典の聖人なり【如来滅後五五百歳始観心本尊抄:651頁】
【現代語訳】
 仏教の開祖である釈尊の入滅から約1800年の間に、三つの国で経歴を持ち、この正法を正しく理解したのはたった三人だけである。それは、月支(がっし)の釈尊、真旦(しんたん)の天台智者大師、そして日本の伝教大師の三人は仏教において聖人である。
【御書】
 日蓮は一閻浮提第一の聖人なり【聖人知三世事:748頁】
【現代語訳】
 日蓮は一閻浮提において最も尊い聖人である。
【解説】
  正法を覚知した「仏」である釈尊や天台、伝教よりも勝れた聖人は、日蓮大聖人なのである。

4 ゆえに、末法の衆生が「南無日蓮聖人」とも唱えるべき存在なのであること
【御書】
  仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、業ふかくして但南無とのみとなへて仏といはず。今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん【撰時抄:867頁】
【現代語訳】
 仏さえ申される以上、地獄に落ちることはないと言われていたが、業が深くて南無(なむ)のみ唱えて仏(ぶつ)と言えなかった。現在、日本国の高僧たちも「南無日蓮聖人」と唱えようとするが、南無だけしか唱えることができず、残念でである。

 以上、日蓮大聖人が、釈尊よりも功徳の勝れた「法華経の行者」であり「仏」であり、末法の衆生が帰依すべき「御本仏」なのである。

  さらに、御歴代上人の著作においては、
日寛上人
【原文】
 文底の教主釈尊は即ち是れ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、之を思え云云
                       【観心本尊抄文段:270頁】
【現代語訳】
 文底の教主釈尊はつまり蓮祖聖人(日蓮大聖人)である。名前は異なっても本質は同じであり、口伝によってそれを理解すべきである。このことを思うべきである。
【原文】
 本地自行の自受用身とは即ち是れ本因妙の教主釈尊なり、本因妙の教主釈尊とは即ち是れ末法出現の蓮祖聖人の御事なり、是れ則ち行位全く同じき故なり【末法相応抄:聖典913頁】
【現代語訳】
 本地自行の自受用身とはつまり、本因妙の教主釈尊である。本因妙の教主釈尊とは、末法時代に現れた蓮祖聖人のことをである。それが行位が全く同じである理由である。
【原文】
 若し外用の浅近に拠れば上行の再誕日蓮なり。若し内証の深秘に拠れば本地自受用の再誕日蓮なり。故に知んぬ、本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり【文底秘沈抄:六巻抄49頁】
【現代語訳】
 もし外部の見かけに依れば、上行菩薩菩薩の再誕としての日蓮である。もし内部の深い考察に依れば、本地自受用の再誕としての日蓮である。だから知っておくべきことは、本地は自受用身であり、垂迹は上行菩薩、表面に顕れたところは日蓮である。

日応上人(本門戒壇の大御本尊について)
【原文】
 此の御本尊は久遠の本仏日蓮大聖人の御魂(おんたましい)で御本体なるが故に、直々霊山に詣でゝ生身の日蓮大聖人様へ御目見し奉る事よと存じて、臨終の夕べ迄も忘れ奉らざる様に信敬すべきなり【日応上人全集:一巻7頁】
【現代語訳】
 この御本尊は久遠からの本仏である日蓮大聖人の霊魂そのものであり、御本体である。そのため、直接霊山に参詣して生身の日蓮大聖人にお目にかかると知って、臨終の夕べまで忘れずに信じ敬うべきである。


 
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