本文へスキップ

日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

興師会 2月7日

 日興上人は後深草天皇の寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国(山梨県)巨摩郡大井荘鰍沢にお生れになりました。
「師生れながらにして奇相あり特に才智凡ならず」(「興師略伝」日霑上人)とあるとおり、幼少の頃からすでに非凡な才能と智慧をお持ちでした。
 幼くして父を失なったため、駿河国(静岡県)富士河合の外祖父由比入道に養なわれ、付近の蒲原(かんばら)荘の四十九院に上って仏法を学び、兼ねて良覚(りようがく)美作(みまさか)阿闍梨から漢学を、冷泉(れいぜい)中将隆茂(たかもち)について歌道と書道を究められました。
 特に能筆の才腕は素晴らしく、後年日蓮大聖人のお手紙を代筆されたり、あるいは重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその見事な数多くの筆跡を拝することができます。
 正嘉2年、日蓮大聖人が立正安国論執筆に当り駿河加島荘岩本の実相寺において一切経を閲覧された時、即座に願い出て大聖人の弟子となられました。
 それ以後は、内にあっては影の形に随うが如く、常に大聖人のおそばを離れずお給仕申し上げて弟子の道を尽くし、外にあっては、甲斐・駿河・伊豆・遠江の各地において折伏弘教に活躍されました。
 とくに弘長元年の伊豆ご流罪、文永8年の佐渡ご流罪には大聖人と艱苦を共にされました。
 このように師に対する不断の奉仕と熱烈な信仰により、師弟相対の上から、おのづと大聖人の真の教えを会得されたのです。
 日興上人の折伏はすさまじいものがあり、あの壮烈を極めた熱原の法難も、その大折伏によってひき起されたものでした。
 しかし大聖人の指導と日興上人の指揮によって信徒は一致団結して退転することなく、死地にあっても従容泰然として声高らかに妙法を唱えたのです。
 弘安5年9月に大聖人から一切の仏法を付属され、 10月13日には身延山の貫主としての付属も受けられました。
 大聖人滅後、関東方面の五老僧達は権勢を恐れて軟化し、もろもろの師敵対謗法をおかし、次第に大聖人の正義を失ないましたが、日興上人はいささかも教義を曲げることなく、正義を守り抜かれました。
 身延に在ること7年、地頭の四箇の謗法により身延の山もついに魔の栖(すみか)と化してしまい、断腸の思いで去ることを決意されました。
 これも偏に「日興一人本師の正義を存して本懐をとげ奉るべき者」との信念によるものと拝されます。
 そして戒壇の大御本尊をはじめとして、すべてのご霊宝を富士へお移しし、大聖人のご遺命によって広布の基盤をこの地に定められました。
 富士山に本門戒壇を建立するということは深いご仏意によることであり、日興上人によってその第一歩が印されたのです。
 後年五老僧中の日朗師は日興上人のもとに来て前非を悔い、また日頂師も富士に帰伏しています。これらの史実は「大聖人の仏法、富士に在り」という明らかな証拠といえましょう。
 富士へ移った日興上人は南条時光殿の寄進により大石寺を創立して戒壇建立の基礎を築き、門下の養成、御書の結集、全国的な折伏弘教、あるいは国家諫暁と、広宣流布への指揮をとられました。
 このころ弟子の日尊師が、講話の途中に舞い落ちる梨の葉に気をとられてよそ見をしたことから破門されました。
 なお、日尊(にちぞん)師は、その後発奮して三十六ヶ寺を建立して許されたといわれています。日興上人門下の清純な信心と盛んな折伏精神をよく物語るものといえましょう。
 なお、日興上人は、粗衣粗食であらせられ、お弟子が摘まれた若芹を常に愛好されました。そのため、現在でも興師会の前日、総本山では寒風が肌を刺す中を所化さんたちが近くの精進川畔で日興上人のご威徳を偲びつつ、青々とした若芹を摘みご宝前にお供えしています。
 かくて本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、88才の長寿をまっとうされ、元弘3年(1333年)2月7日薪尽きて火の滅するが如く安祥として重須談所(現在の北山本門寺)でご入滅されました。
 大聖人滅後、室町・戦国時代の動乱の中、また布教活動弾圧の江戸時代を経て、連綿として法灯が厳護されてきた根元は、日興上人の死身弘法、令法久住のお働きがあったからこそといえます。
 この日興上人の御威徳をしのび、広宣流布を目指し僧俗一致して前進することが、御報恩奉る道であり、興師会を奉修する精神なのです。

 
inserted by FC2 system