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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

目師会 11月15日

御誕生
 第三祖日目上人は、奇くしくも大聖人が『立正安国論』を提出された文応元(1260)年に、伊豆の畠郷(現在の静岡県伊豆の国市)で御誕生されました。
 父は新田五郎重綱といい、母は南条兵衛七郎殿の長女で南条時光の姉に当たる方で蓮阿尼といいます。
 日目上人は、幼名を虎王丸といい、誕生まで母の胎内に十二カ月間おられたと言われています。この奇瑞は聖徳太子と同じであり、生まれる前より非凡さを伺わせる兆候がすでにあったのです。

新田家と南条家
 新田家は、もともと小野寺という姓を名乗り、下野(現在の栃木県)に暮らす一族でしたが、日目上人の祖父・重房が奥州新田(現在の宮城県)の地に移ってから、新田の姓を名乗るようになったとされています。新田家は、後に伊豆の畠郷の地も領するようになります。
 大石寺の開基檀那である南条時光が誕生した南条家は、北条家の御家人であり、元来、伊豆の畠郷に隣接する南条の地を収める領主でした。
 時光の父である兵衛七郎は、その後、上野の地も領することになります。
 新田重綱の妻として、時光の姉である蓮阿尼が嫁がれたのも、伊豆の地で新田家と南条家に親交があったからと推されます。

走湯山(そうとうさん)入山
 新田家では、虎王丸が五歳になる頃までに、虎王丸の祖父母と父が相次いで逝去するという哀しい出来事に見舞われました。そうした中、新田家では虎王丸の将来に期待をかけ、虎王丸十三歳の時、武士の子弟の学問修養所ともなっていた走湯山に入山させたのです。
 走湯山は伊豆山ともいい、熱海にほど近い場所にあります。虎王丸は、走湯山の円蔵坊という住坊に暮らし、日夜勉学に励はげみました。


日目上人出生地図

日興上人との出会い
 文永十一(1274)年、日興上人は、佐渡からお戻りになった大聖人を身延まで御案内した後、折伏弘通の教線をいよいよ拡大されました。日興上人が富士方面に赴かれた際、南条時光の甥に当たる虎王丸が走湯山に修学されていたことも、当然、耳に入ったことでしょう。日興上人は虎王丸を訪ねるため、走湯山に赴かれました。また走湯山は、日興上人が弘長元(1261)年に折伏した元真言僧の行満と因縁が深い場所です。
 虎王丸十五歳の時、日興上人が走湯山を訪れ、そのとき、日興上人と、山内随一の学匠と謳たわれた式部僧都との問答が行われました。
 日興上人と式部僧都との問答が重ねられるうち、式部僧都は言葉に詰まり、虎王丸は幼いながらに日興上人の学識の深さと偉大さに感銘を受けたことでしょう。虎王丸は、このとき、日興上人の弟子として出家することを決意したのです。

出家
 虎王丸は、日興上人と出会ってから二年間、昼夜の別なく勉学に励み、出家の時を待ちました。そして建治二(1276)年四月八日に、走湯山において日興上人を師匠として出家得度し、その後、日興上人と共に身延に登り、大聖人に御目通りをしました。さらに、大聖人からも身延山における修行を許されるのです。
 日目上人の身延山における修学を物語るものとして、得度の翌年の建治三(1277)年には、大聖人の講義を筆録したと思われる日目上人直筆の『五戒口決伝受』が伝えられています。

常随給仕
 日興上人は、大聖人の直弟子の中で大聖人の御本仏としての御境界をただ一人、拝信されていました。日興上人は身延入山まで常に大聖人のお側で伊豆、佐渡へと艱難を共にされてきましたが、大聖人の身延入山後は、富士方面への折伏に、またそれに伴って生じた熱原法難の対処のために、身延を留守にされることが多かったと思われます。そのような中、日目上人は、師匠である日興上人の御意を体し、大聖人に常随給仕されたのです。
 古歌に、
「法華経を 我が得しことは 薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし」
とあるように、日目上人は、大聖人こそ末法の御本仏であり、その御本仏への御給仕が自らの法華経修行であるという深い自覚に立たれていたと思われます。また、宗門に伝わる日目上人の御影は、頭上に水桶おけを乗せて大聖人に常随給仕をされ、頭頂の平らになったお姿が伝えられています。

日目上人水汲み

御本尊授与
 弘安二(1279)年二月に、大聖人から日目上人に対して御本尊(桑名市伝馬町寿量寺蔵)が授与されています。
 日興上人の『弟子分本尊目録』には、
「新田卿公日目は、日興第一の弟子なり。依って申し與たふる所、件の如し」(歴代法主全書)
と日興上人が大聖人に申し上げて御本尊を授与していただいたことが記されています。
 日目上人が御本尊を授与された弘安二年は、大聖人御入滅の三年前であり、九月には熱原法難が起こり、十月には大聖人が本門戒壇の大御本尊を御図顕あそばされるという重要な年に当たっていました。
 師匠の日興上人は、大聖人の御境界の深まりと呼応して、お側で仕える御弟子・日目上人の信心修行が深まりを見せていったのを感じ取られていたことでしょう。

代奏
 大聖人は、弘安四(1281)年、さらに弘安五(1282)年にも朝廷を折伏するため、日目上人を代奏に発たせています。日興上人最晩年の元弘二(正慶・1332)年の御本尊には、「最前上奏の仁、新田卿阿闍(梨)日目に之を授与す一が中の一弟子なり」との脇書わきがきがありますが、この「最前上奏の仁」の意味は一番最初に天奏を遂げた方という意味であります。
 日目上人は弘安五年の天奏の際には、後宇多天皇より、
「朕、他日法華を持たば必ず富土山麓に求めん」
という下文を賜たまわっています。

大聖人御入滅
 弘安五(1282)年九月、大聖人は常陸の湯(福島県いわき市)に湯治に向かわれました。日目上人も、師匠の日興上人と共に大聖人のお供に加わり、常陸に向かわれました。途中、武蔵の国池上宗仲の館(東京都大田区)に立ち寄られますが、その地が大聖人御入滅の地となるのです。
 そこに大聖人の逗留を知った、天台宗の僧侶・伊勢法印が数十人を引き連れて問答を挑んできました。
 大聖人は、
「卿公問答せよ」(日蓮正宗聖典 603頁)
と仰せられ、日目上人に問答の相手を命じられました。この時、日目上人は伊勢法印の問難を一々に破折し、伊勢法印はついに閉口し、日目上人に屈服するのです。
 大聖人は、
「日興に物かかせ日目に問答せさせて又弟子ほしやと思わず小日蓮小日蓮」(同 654頁)
と、日興上人と日目上人を「小日蓮」と評しておられますが、まさに日目上人は問答の名手だったのです。
 大聖人は池上で最後の力を振り絞り、柱にもたれながら『立正安国論』の御講義をされたと伝えられています。
 日目上人は大聖人のこの御振舞いを拝し、広宣流布への誓いを新たにされたに違いありません。
 大聖人は弘安五年十月十三日、弟子・檀越に見守られる中、御入滅あそばされました。
 日目上人は大聖人の葬送に際し、大聖人の棺の前陣右側を担われています。

奥州弘教
 池上では大聖人葬送の後、『墓所守るべき番帳の事』が制定されます。日興上人は大聖人正統の後継者として身延に入山されますが、その他の弟子も当番で、大聖人の墓所に大聖人生前のごとくに常随給仕申し上げることが定められました。
 日目上人も墓所の番の責を果たされましたが、自分の当番以外の時には奥州に布教に赴かれたのです。
 日目上人は新田家の御出身で、日目上人の祖父、父はもともと奥州新田の地(宮城県登米とめ市)に暮らしており、日目上人の縁者も奥州に大勢おられたようです。
 日目上人の弘通により、日尊が帰依し、奥州陸前三ノ迫新田に上新田坊(本源寺)、法華堂(上行寺)、一ノ迫柳ノ目に法華堂(妙教寺)が建立されました。

身延離山と日目上人の大石寺運営
 日興上人は身延の別当(住職)として身延に住まわれていましたが、地頭・波木井実長や民部日向の謗法により身延を離はなれ、富士に移ることになりました。
 日興上人は南条時光の庇護のもと、正応三(1290)年十月十二日に大石寺を建立され、その翌日には、日目上人に血脈相承を内付されました。
 内付とは、公けには知らされない御相承のことですが、日興上人は、日目上人に血脈相承の証となるべき大幅の御本尊、通称「譲座御本尊」を授与されています。
 日興上人は大石寺建立の八年後、永仁六(1298)年に大石寺からほど近い重須に談所(講義所)を開かれ、後進の指導に専念せられました。そして、大石寺は名実共に日目上人に譲ゆずられたのです。
 正安元(1299)年には、十宗房を問答によって論破され、日道上人及び妙教寺三代日運が得度しました。
 日目上人は、日興上人が定められた本六僧を中心として大石寺の運営に当たられました。本六僧が本堂の香華当番をするということは、七百年以上経った現在も、御本番六人、御助番六人という制度に、厳然と受け継がれています。

日目上人の寺院等の建立と御本尊書写
 永仁六(1298)年、大石寺塔中蓮蔵坊を建立されました。この蓮蔵坊は、現在の学頭寮で次期法主予定者として公表された者が登座まで居住する坊です。
 永仁三(1295)年に、大石寺において御真蹟をもとに「一代聖教大意」を書写されました。
 正安二(1300)年、母蓮阿尼が亡夫新田重綱のために日目上人の筆による供養碑を陸前新田柴垣に建立しました。
 乾元元(1302)年、駿河安居山に東漸寺を建立しました。
 正中元(1324)年には、日興上人が御本尊を日目上人に授与され、嘉暦元(1326)年には、御本尊を書写して日郷に授与されています。
 元弘二(1332)年には、自ら御本尊を書写され、さらに日興上人から御本尊(御手続本尊)を授与されています。また、日目上人の命により日道上人が、陸前宮野に妙円寺を建立されています。
 元弘三(1333)年には、御本尊を書写して陸前三迫の新田太夫四郎の妻、陸前一迫の河田美濃房、陸前新田の太夫四郎母・新田十郎重道妻の姉に授与されています。

日興上人の御遷化
 日興上人は御遷化の前年、元弘二(正慶元・1332)年に日目上人への血脈相承の意義を門下に徹底させるべく『日興跡条々事』を著されました。その中には、
「日目は十五の歳とし、日興に値あひて法華を信じて以来七十三歳の老体に至るも敢て違失の義無し」(御書1883頁)
と、日目上人の御振舞がすべて日興上人の御意に適ったものであったことが記されています。
 日目上人のみが、日興上人の生前より唯一、御本尊書写を許され、さらに「違失の義無し」と日興上人の仰せを賜っているのです。この事実からも、日目上人が日興上人の正統な後継者として血脈相承を受け継がれていることは疑う余地がありません。
 日興上人は日目上人に跡を託され、元弘三(正慶二・1333)年二月七日、安祥として御遷化あそばされました。

日目上人の御遷化
 日目上人は、生涯四十二度にもわたる天奏を果たされたと言われています。最後の天奏は日興上人が御遷化された年、元弘三年の十一月に、七十四歳の身を押しての出発でした。
 日目上人は、出発前、日道上人に金口嫡々の血脈相承を授けられました。そして日尊師、日郷師らの弟子をお供として天奏に発たれますが、二度と大石寺に戻られることはありませんでした。
 日目上人は、美濃の垂井の地(岐阜県垂井町)で、吹すさぶ鈴鹿おろしの中、病床に臥し、十一月十五日、安祥として御遷化あそばされます。
 日尊師、日郷師は日目上人を荼毘に付し、御遺骨を抱いて代奏を果たされます。そして、日尊師は京都の布教を志されて京都に留まり、日郷師は御遺骨を抱いて富士に戻られたのです。

日目上人天奏

一閻浮提の御座主
 日目上人の辞世に、
「代々を経て思をつむぞ富士のねの煙りよをよべ雲の上まで」(富士宗学要集)
との歌を詠れています。
 この意味は、富士大石寺のみに継承される血脈正統の仏法は、代々の御法主上人に受け継がれ、広宣流布への思いは富士よりも高く「雲の上まで」届き、必ず成就するのであるとの、熱烈な願いを表現されたものであります。
 このことから古来、宗門では、一閻浮提広宣流布の暁きには必ず日目上人が再来され、一宗を統率あそばされると伝えられています。

日目上人御影

 日目上人の身命をかけた広宣流布への強いご精神は、永遠に受け継いで行かねばなりません。また、大聖人のおそばで常にお給仕に励げまれたお姿は、末代の信者すべての鏡として長く受け継がなければなりません。
 その日目上人に報恩の誠を尽すため奉修されるのが目師会です。

 
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