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初心者への指針(第65世日淳上人 著)

初心者への指針
「興尊雪冤録」の妄説を破す

 日淳上人のこの論文を掲載する前に、「興尊雪冤録」(こうそんせつえんろく)について、その概要を説明する。
発刊 昭和29年9月23日発行(非売品)
推薦頒布 大圓寺(だいえんじ) 
著者 高田聖泉(せいせん)

目次
1 富士日興上人の雄図を讃(たた)う
2 「血脈相承」に就いての御聖訓
3 富士門派の「唯授一人之相承」は無根也
4 「本門戒壇大本尊は」無根也
5 「弘安二年出世本懐説」は僻解也
6 「宗祖本仏義」は外道見也
7 「問答対論」に関する御聖訓
8 「本因妙抄」「百六箇相承」についての管見(狭い見識)
9 「産湯相承」に就て管見
10 聖名に縁して聖祖の本地垂迹観を述ぶ(寂日房書の「日蓮」と名乗る事は自解仏乗ともいうべし」に就いての信感を述ぶ)
11 「日蓮正宗」宗名について
日蓮宗管長 大僧正 増田日遠の推薦の言葉が掲載されている。

【本文】
 先頃来、高田聖泉といふ人が興尊雪冤録といふ小冊子を刊行して、盛んに世間に頒布しているとのことであるが、その目的とするところは日興上人の御性格の厳なりしことや、富士山に戒壇の建立を意図せられしことを讃嘆して大聖人の直弟子中尤も尊敬すべき御方なること、またその日興上人の御法門を自分が会得してをるかの如く暗々裡に匂はせて、その上に日興上人の正流である日蓮正宗の教義を批判して現在の教義は後年に出来上つたもので、上人の御正意に全く背いてをるといつて、日蓮正宗の法義を否定し、世間に向つてそのことを吹聴せんとするにある。
 此の種類のものは昔から沢山出ているので、本宗として今更問題にすることはないし、その論ずるところも極めて幼稚なものであるから、世間の識者も一読して組みするものはなるまいと考えられるから敢えて取上げて相手とする必要はないと思う。しかし此れをもつて、他門流における判断の仕方が如何に誤つてをるか、そうして支離滅裂であるかといふこと、畢竟此れは彼等が大聖人・日興上人の御法門を全く穿き違へてをるから起ることであるが、此れ等のことを知つていよいよ本宗の正しさを知る便宜とするならば、初心の人々にとつて好個の材料であると考えられる。よつて以下「雪冤録」の妄説なることを指摘して参考に供することにする。

 一,本迹勝劣義を謬れる僻見を駁す
 「雪冤録」を見ると始終十一項を立てヽをり、第一項が「富士日興上人の雄図を讃ふ」といふ見出しになつてをる。
 此の中に於て、高田聖泉氏の恩師田中智学氏の著書である日蓮聖人の教義中の名家略譜及び同氏の講習会での講演筆記「宗史小話」とによつて、日興上人についてその歴史を述べて「されば苟しくも日蓮門下と名乗り、本化の流類たる人々は仰いでこの両聖(日興上人と海外布教を企図せられた日持上人)の芳躅を紹継すべきである」との智学氏の言葉を引いて上人を讃嘆してをる。しかして後半に於て、日興上人の御法門について上人の本迹勝劣は他五人(日昭、日朗、日向、日頂、日持)の直弟子が大聖人の安国論の上書に於て、天台沙門と仰せられたに傚つて天台沙門といはれしを非として本迹勝劣といはれたにすぎないのであつて、此れは本化と迹化と末法と像法との弘通の差別を厳正にしたのである。
けつして日蓮正宗がいふが如く、法華一経中の本迹勝劣を固執せられたのではないと論じ、かような本迹勝劣は興尊御滅後十年内外に起つたものであらふとし、それが三位日順師によるが如く推定し、なほその日順の説も今日の正宗の教義とは相違してをるように思ふといひ、更に日蓮本仏義は順師の本因妙抄口決にその萌芽が見へるが、この書は文体からいつて順師の著述ではないといつてをる。
 以上が概要であるが、前半に掲げる歴史については極めて概略であり、大体富士門流の記録に準拠してをるからあまり批評する点もないが、上人が身延御在住七カ年守塔輪番の事に奉仕せられたといつて身延山久遠寺の御付嘱を受け給ふた事実を無視してをることは、もとより彼等の説によるところではあるが、大いに論議しなければならないことである。しかしそれは先の項に於て論ずることにする。
 後半に於て論評すべき点は、日興上人の本迹勝劣を説かれしは五人の直弟子が天台沙門といはれしを非とし、本化と迹化と末法と像法との弘通の差別を厳正にしなければいけないとの御意見のもとに仰せられたので、後世興門派で唱へる如き本迹勝劣に固執せられたのではないといふ点である。此れについていへば、一体高田氏は何をいつてをるのかわけがわからないが、察するところは本迹勝劣義はそんなに重要なことではなく、富士門に於て本迹一致の説をなすものは大聖人の弟子に非ずといふがそれ程の問題とは日興上人は仰せられてゐないといふのが高田氏の腹であると見られる。
 はたしてその通りであらふか。五人の直弟子は天台沙門と名乗つたばかりでなく、日蓮聖人は天台の余流を汲む云云と申状に述べてをる。此れは直弟子方が日蓮聖人の教は天台宗であると思ひ込んでをつたのではないか。それ故大聖人の教は天台宗の本迹一致に対して本迹勝劣を立て給ふにあつて、全くその軌を別にすることを主張し給ひ、五人と堅く義絶し畢ぬ、と仰せられたのである。一致と勝劣とは天台と聖祖の御法門の相違を明らかにする重要な点であつて、初期に於ける門下の第一番の問題であつたのである。
 若し此の点が明らかでなければ大聖人の御法門は出てこないからであつて、高田氏の考えるが如き軽い問題ではない。本迹勝劣こそ大聖人の御法門であらせられ、日興上人の強く仰せ給ひしところである。方便の権教に対し法華経をとり、法華経の中に於ては迹門を捨て本門をとり、本門に於ては文上を捨て文底をとり給ふ。即ち浅深勝劣を立て浅劣を捨て深勝を御取りなさるのが大聖人の御法門であらせられる。三重の秘伝・四重の興廃・五重三段・五重相対等の大聖人の御法門は皆此の御手法であらせられる。
 高田氏が涙をこぼして崇敬するその恩師田中智学氏も「日蓮聖人の教義」の中で「本と迹」の項ををいて「捨劣取勝して詮じ来り詮じ去って此の上もないといふところまで競い詰める揚句、いよいよ是といふ落着を決めるのが本迹判であって、此の本迹の分け方一つで別頭の仏教と普通仏教との差異が出て来る。故に当家では三秘ともに一々「本門」と冠称して居る。」といってをる。高田氏には恩師の田中智学氏の言葉が解らないのである。それ故一致と勝劣との問題を軽く考へている。その頭で日興上人の仰せを忖度して勝手なことを言ってをるのである。
 勿論田中智学氏の「日蓮聖人の教義」なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明らかである。唯本尊段に於て佐渡始顕の本尊を立てをるのは、日蓮正宗に何んとか対抗せんとの窮余の考へからである。そのことを知らない高田氏は該書が田中氏の初めて考案したものと考へてをるから、一度日蓮正宗のこととなると恩師の説に背く論法で正宗を悪くいふのである。矛盾撞着とはこのことである。
 なほ高田氏は興門派の主張は日興上人御滅後十年内外に生じて来たものと推測してをるが、それは日順師の書がその頃と見て判定しやうとしてをるやうであるが、此れは日興上人と日順師との御関係を無視しての論議である。日順師は上人の御薫陶を受けられたのであるから、その間に間隙はないのである。更に高田氏は順師の教説も、今日の興門派の教説と同轍ではないやうである、といってをるがどう違うかについては何ともいってをらない。また順師の本因妙抄口決に宗祖本仏義が見へるが、此の口決は順師の著述としてはその文体が異なっておるから怪しいといってをる。此れ等のことは高田氏が物の考へ方に於て、根本的に誤ってをるから起る僻見である。富士の法門は大聖人から日興上人へ、そのあと御代々と相伝せられてをるのであって、寸分の相違はないのである。
 但門弟や信徒を薫陶教化遊ばされる上に、或は対他的の必要に於て御法門を説かせられるので、重点に相違があり御教示に隠顕があらせられたのである。他門流の如く最初天台宗と思ひ込んでをった人々のあとを承けて、段々と御書の出版や研究によって工夫して法門を作成して来たものとは全くその趣を異にする。此の区別を知らずして論ずるならば、その所論は必ず僻見に堕するといふことを知らなければならない。高田氏が順師の口決書が他の書と文体が違ふから怪しいといふのは、該書の性質を考えない粗忽者の論評である。口決書は一般の著書と文体が異なるのは当然である。
 ついでにいへば他門流では本宗の教義が日寛上人によって作成されたといってとんだ批評をしてをるが、日寛上人は日蓮門下と称し諸方面に異説が出尽した時代に出現なされ、此れらの異説を破折なされ、大聖人の御正意を御門弟方に御教示遊ばされたのであって、その御教示は本宗の教義を一大体系の上に御説き明かされたのであるが、それは相伝御法門の敷衍であらせられることは上人の明確に仰せ遊ばされてをるところである。

二、血脈相承についての愚難を駁す
 雪冤録第二項は「血脈相承についての御聖訓」といふ見出しである。此中に於て高田氏は大聖人の法華宗内証仏法血脈抄の御文を引き、大聖人の血脈相承は本仏釈尊―上行菩薩―日蓮であらせられ、此れは内証血脈相承であってまた経巻相承であらせられるとし、また顕仏未来記の御文により釈尊・天台・伝教・日蓮の三国四師の相承を外用の師資血脈とし、しかして内証外用の両相承に師資経巻の両相承が表裏をなしてをると解釈してをる。
次に血脈の語義を説いて、
一、身体の血管
二、血筋
三、伝統、仏法等の伝承される脈絡とし、
第三の血脈の例を御書にとって、一期弘法抄の血脈次第日蓮日興と仰せられた場合と、生死一大事の血脈抄の「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と仰せ給ひしを以って信心相承として、此二つを挙げて居る。而して相承とは戒体即身成仏義の如く相とは相対なり、承とは伝承なり師弟相対し師より弟子へ道を伝承するなりといふ。
 かように解釈して次に進んで師資、経巻の血脈は表裏を為すもので、此の両血脈を伝承するには信心の血脈を以てするとなし、山川智応氏の教行証三重をとって三重の血脈を立て、更に此の血脈を伝持するものは信心血脈であると、かくいって今我々が大聖人を慈父と仰ぎ南無妙法蓮華経と唱ふるものが信心血脈を相承するものであるとし、日蓮正宗の唯授一人の相承などある筈がない、それは「隠し食い相承」であり、また顕本法華宗の経巻相承は「土足相承」であると田中智学氏の言葉を借りて評してをる。
 而して次に信心血脈は田中智学氏にありとして、その証拠として小川泰堂居士のことを挙げてをる。それは泰堂居士が当時の門下に正しき大聖人の弟子なし、として自ら法名を撰び霊牌に記し、家人に告げて歿後法華の正脈の俗士が訪れるであろうから、その人に法名をつけて貰えと遺言をした。智学氏が訪ねた時家人に懇請されて法名を諡られたが、此れをもって田中智学氏が血脈紹継の人であることは明らかだといふのである。
 以上が大要であるが此れを読むと読んだあと煙に巻かれたという感じがする。御本人は順序次第を立て整然と説いたと考へておるであらうが、此れは全く辻褄があってゐない。それはアベコベに説いてをるからである。御書を引いて内証相承、外用相承を説き師資、経巻、血脈等の相承を説き乍ら結局は信心血脈のみを立てることにして其の他を否定するといふことになってをる。此れは国柱会の血脈を立てようとするあまり、かような珍説を主張することになったと思はれる。
 蓋し生死一大事血脈鈔に於て「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」と仰せられた血脈は脈絡のことで、即ち信心がなければ脈絡は成り立たないとの御意であらせられ「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」とは血液たる仏法を御指し遊ばされてをることは、御文によって明らかである。血液があり、脈絡があってその上に相承ということができるのである。その相承に師資相承、経巻相承之れに内証相承、外用相承があって此れ等の相承が具はって完全に相承の義が成り立つのである。仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであって、即ち魔族が仏法を破るからである。そのため展転相承を厳にして、それを確実に証明し給ふのである。
 天台大師は薬王菩薩として法華会上一経の付嘱を受けて像法に法華を弘宣し、伝教大師は天台に相承して日本に弘宣し給ふ。此れ法華の証明するところである。
日蓮大聖人は上行菩薩として法華会上妙法蓮華経の付嘱を承け、末法に弘宣し給ふ。
此れを外用相承の辺に拝すれば釈尊、天台、伝教、日蓮と三国四師相承が立てられ、内証相承の辺に拝すれば、大聖人は釈尊、日蓮(上行菩薩)で三大秘法鈔に「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せし也」と仰せ給ふところ、また経証に分明なるところである。しかしその御内証相承は如何といへば、寿量品文底に説かれるところ大聖人は久遠の御本仏にましますとの御事である。「今日蓮が所行は霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」と仰せ給ふところである。
 以上は大聖人の相承の御義であって、然らば大聖人の御あとはどうであらせられるかと拝すれば、直弟子中日興上人を御選び遊ばされ、一切大衆の大導師として一期の弘法をご付嘱遊ばされ、弘法抄を以てその事を証明遊ばされたのである。御文中「血脈の次第日蓮・日興」とあらせられるのは大聖人の正統を決定し給ふためであって、付嘱相承師資相承等の一切の相承のことが此の御文によって立証されておるのである。しかしてそのあとのことは日興上人を師と仰ぎ師弟相対して相承し給ひ、大衆は各々また師弟相対して相承してゆくのが仏法の道である。
内証の上には大聖人の御弟子であることは勿論である。といって内証のみに執して、師弟の関係を整へることが最も大事であって此れを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起ってくるのである。高田氏は智学氏が大聖人の滅後六百年の断絃を継がせ給ふといってをるが、師弟相承の証明もなく、その法門に於ても相承のあとが全くないのである。
 高田氏はいふであろう、法華経と御書六十余巻を手に握って立つるところで文証此れにありと、それならば何故に顕本法華宗の経巻相承を土足相承と評するか。国柱会の信心血脈も同一轍である。大聖人が経を手に握らない法門は信ずるなと仰せられしは仮令師資相承があると言っても経文にないことは信ずるなとの聖訓であらせられる。経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る。田中智学氏や顕本法華宗の経巻相承は其れを証する文証が何処にあるか。信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。法華一会の時一切の菩薩や人天の方々を、止みなん善男子といって制止し給ひ、上行菩薩に付嘱し給ひしは、信心の有る無しにより給ひしものか。まさか高田しもそうは言はないであらふ。また大聖人が仏法―最大深秘の正法と仰せ給ふ秘法、また末法には持ち難しと仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう顚倒の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。

 三、唯授一人の相承は無根也といふを誣妄を駁す
雪冤録第三項は「富士門派の唯授一人の相承は無根也」といふ見出しである。そのいふところは次の如くである。
日蓮大聖人が日興上人へ付嘱相承遊ばされたと富士派で主張するが、歴史的事実から見てその筈はないといって、其の証拠として大聖人の御遺物配分張によると、註法華経を日昭上人へ、御本尊を日朗上人へ、御分け遊ばされてをるから、六老僧の中で重きををかれたのであるし、また一方日道上人の御伝草案には日興上人への二箇相承のことは、一言も触れてをらない。また道理の上からも既に六老僧を定められてあって、尚且日興上人御一人へ御相承のある筈はないといふのである。
 而して御相承の系譜は本因妙抄の末尾にあるが、二箇相承と大変趣が異ってをる。大石寺でこれを何んと会通するかといひ、勿論本因妙抄は日尊師の著述であろうと推定し、いづれにせよ諸種の史伝記録からいって、二箇相承は富士と鎌倉との分裂によってお互に相承を立て、自讃毀他する為に偽作されたものであらふといふのである。
 高田氏の頭の顛倒していることは此項にも端的に顕はれている。それは大聖人が六老僧を定められたことを、元祖化導記(行学院日朝著)の中に日興上人の御記録を掲載して、そのことをいってをるのを引用してその事実を唱ひ、而して、次に日興上人の佐渡の国法華衆講宛の御手紙の中に、本弟子六人と仰せられしを引いてその証明にしてをる。六弟子定置の御記録は、日興上人の御筆であらせられるから、元祖化導記を土台として、日興上人の御手紙によってそれを証明するいうは逆である。此んなことはどうでもよいことであるが標本として指摘したのである。
 扨(さ)て此項についていへば、高田氏のいう遺物配分について、日昭上人が註法華経を、日朗上人へは釈迦像となってをるからといふが、此れは大聖人が二つとも墓所の傍に置けと、御遺言遊ばされたのに背いてをる。しかして後年の日興上人の御手紙によれば勝手に奪いとったと仰せられてある。(此れは波木井氏の感情が多分に含まれてをる)此れをもって拝察すれば此のことは大聖人の御思召によったものではない。
 また六弟子定置についてもその列名について、次第不同とおことわりになってをる。此れは列名が法臘順になってをるが、その順序を押へられて平等であるとの御意である。此のことを深く拝すれば御遺物の配分の事情や、その後身延山に就いての昭朗二師の言動と照合してみると、予め聖祖が法臘の長きを以って勝手をしてはならない、一同に平等であるぞ、との御念告であらせられることがうかがわれる、高田氏の考えるが如く(他門流一同にそう考へてをるが)昭朗二師が宗門の長老で尚六弟子定置があらせられたから、日興上人へ特に御相承がある筈がないといふが、六弟子定置は昭朗二師にとって栄誉あることではない。
 若し二師が長老としてそれでよければ、六弟子定置はいらない筈である。然るにも拘らず六弟子を定置し給ふことは、昭朗二師を押へる為ではないか。その底意は日興上人への御相承を御思召されての御用意であると拝すべきである。(此れ迄いへば実も蓋もないことであるが)心を沈めて拝察すれば高田氏の考えは全く逆である。
 此れ等のことは二箇相承及び当時の事情と関連して論じなければ充分でないが、今其の点を簡単にいへば二箇相承は何等疑義を挟むべき余地はないのである。それは歴史的事実及び日興上人の御文書、また御弟子方の御文書が立派に証明してをられるのである。他門流の者は唯一途に何んとか否定しやうと考へてをるからそれが見えないのである。此に其れを論ずれば際限がないから此には論じない。
 但し此項に守塔輪番といって、身延山久遠寺を輪番で守ったとして日興上人への身延山付嘱を否定しやうとし、其の証拠として池上の記録書を持ち出し、それに身延山久遠寺番帖とあるを以てその証拠としてをる。此れについていへば、成程池上にあるのはそうであるが、富士西山にある正本によれば墓所可守番帳の事となつてをる。此の相違をどう判断するか、先づ考へられるのはどちらが正書であるかといふことである。此点を比較すれば西山本が正書であるというべきで、それは六老中四人が継目に加判してをられるから明らかである。(伊与公、佐渡公は当時居合せられなかつたことは他の文献でも証明できる)然らば何故此の両書に相違があるか、此れを判断するには御遺言を拝すべきである。それは御遺言には六人の墓所守護の輪番のことを仰せられてをる。此の御遺言と西山本とは一致してをる。然らば池上本はどうかといふことになるが、此れが昭朗二師の主張によられたものであることが察せられる。此間の消息を物語るものは此時に於ける波木井殿の手紙である。此の手紙によつて昭朗二師と波木井殿との不和がもち上つたのである。池上本をかついで昭朗二師のことをいはんとすれば、かへつて昭朗二師に恥辱を与へるものである。贔気のひき倒しとは此のことである。
 次に日道上人の御伝草案に二箇相承のことがないから左様な相承はなかつたといふのであるが、若し此の見方が正当として許されるならば、御伝の中に六弟子定置のことがないし、日興上人の日目上人への御譲状のこともないから、皆それ等のことは無かつたといふ見方が許されなければならない。此れをもつて御伝の中にないから無かつたといふ議論は、問題にならない錯覚であることが理解できるであらう。
 御伝草案はその書の目的に於て弘通上の御事蹟を列挙せらるるにあつて、御相承のことは重視せられてをらないのは御文によつて明らかである。此のことを重視せられてをるのは日順上人の御書物に於てである。それ故略々(ほぼほぼ)同時代であらせられた同上人の御著述には、紹継のことが明白に出てをるのである。その御文は多々あるが、本因血脈詮要抄に次の如く仰せられてをる。
 「抑も此の血脈は高祖聖人弘安五年十月十一日御記文唯授一人之一人は日興上人にて御座候」
 此の本因妙口決は日順上人が他の請ひによつて説述されたもので、いふ迄もなく大聖人の本因妙抄を敷衍し給ひしものである。
 而して上掲の御文は本抄末尾に「日蓮嫡々座主伝法の書塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」との御文につき唯授一人とは日興上人であらせられると、念釈をなされたのである。
 高田氏は本因妙抄の最後の法華本門宗血脈相承事の系譜を挙げて、二箇相承と大変違ふと評してをるが、何の意味か吾人には解しかねるが、恐らく此れは上行の御名があり、一方はないといふのであろふが、此れは一方は地涌千界の眷属としての血脈であり、一方は師弟としての血脈であらせられる御文に於て明らかである。
 なお高田氏は本因妙抄を日尊師の著述かもしれないといつてをるが、此れは辰師書写本の後書による尤も軽卒な判断である。若し尊師の書であれば同時代の日順上人が恐々として説述なされる筈はないし、また本因妙抄の御法門は重々深遠到底人師の思ひ及ばざるところであらせられる。一体高田氏等他門流の輩は本御抄の御法門を拝して領解し奉ることができるか、珍糞漢糞皆目わからぬであらう。それであるからやたらと妄論を加へるのである。

四、本門戒壇大御本尊への誹謗を駁す
 雪寃録第四項は「本門戒壇大御本尊」は無根也といふ見出しである。
 その妄論の根拠は次の如くである。
 日興上人の御選述である「三時弘経の次第」を拝すれば、上人の御意は大聖人の御本願たる戒壇を富士山に建立し給ふにあつて、而して安置の御本尊は久成の釈迦仏である旨を明記遊ばされてをる。しかも重須学頭三位日順上人が戒壇建立の時は仏像を安置し奉るべき旨を心底抄に述べてをられる。しかるに拘らず、日蓮正宗では弘安二年の樟板の御本尊をもつてその御本尊なりといふ。此れは明らかに食ひ違つてをるといふのである。しかしてまた之を観心本尊鈔の御文のよつて拝すれば、仏像であらせられることは明らかであるとて本尊鈔の「其の本尊の体たらく」より以下の御文、「此の如きの本尊……八品に限れり」、「正像に寿量の仏ましまさず」、「此の仏像出現せしむべきか」等の御文を挙げてその次下の「本門の寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ崇重せざるの由之を申す」と仰せられてあるは、明らかに本化四菩薩を脇士とする久遠実成の釈迦仏を仏像として造立するにあらせられる。
 それ故日順上人が本門戒壇の仏像を安置することは、本尊の図の如くすべしといはれたのである。更に本門寺棟札があるが、此れこそ樟板御本尊が戒壇の大御本尊でない証拠である。棟札に三堂として大聖人御影堂、垂迹堂、本門寺根源とであるから、此れこそ御本尊の中柱、南無妙法蓮華経(天照八幡)日蓮と遊ばされてあるに合致してをり、妙法は本果妙の本仏釈尊であり、両国神は本国土妙日本霊国、下の御名は本因妙聖祖の御弘通に配すべきであるといつて此の妙法こそ釈尊であるといふのである。
 かように本門寺棟札を御残し遊ばされた日興上人の仰せに背く日蓮正宗は師敵対であつて、上人に恥辱を蒙らしめてをるものだと断定してをる。
 以上が概略であるが、先づ第一に指摘すべきことは此れだけ釈尊の仏像を主張し乍ら終りのところに於て「これ仏法の中心は法華経、法華経の中心は妙法五字、その妙法五字を閻浮の衆生に授与し給ふべく御流通あそばされるは本化聖祖を表して異体同心正法護持の意を形現したるものと拝する」といつて田中智学氏が日興上人の三堂に模して本尊壇式を制定した意味を解釈してをるが、此の文に於て仏法の中心は法華経、法華経の中心は妙法五字だといつて釈尊だとはいはない。釈尊のことは忘れている。此れはどういふ訳か。若し高田氏の論法でいへば仏法の中心は法華経、法華経の中心は釈尊である。その釈尊を本尊に建立することが大聖人の戒壇建立の本願であらせられるといはなければなるまい。話が全く辻褄があつてゐない。此れは法華経の中心は妙法五字であるその妙法は寿量品文底の久遠実成の釈迦如来であらせられる。即ち久遠実成の釈迦如来を久遠の妙法五字に建立遊ばされるのが大聖人の御本尊と拝すべきを逆に考へるから混乱して了ふのである。而して此の久遠の妙法五字は事の十界互具一念三千であらせられ、自受用無作の三身如来であらせられる。此の如来を実成の釈迦如来と仰せられたのである。
 印度の釈尊から開顕された久遠の釈尊を拝しようとするは文上である。文底は久遠の自受用身から印度の釈迦如来を拝するのである。さすればその釈尊が本果脱益の仏であることが領解できるであろう。而して末法には日蓮大聖人(法華会座には上行として御出現)が本因妙の教主として御出遊ばされ、妙法五字を下種遊ばされることが拝し得られよう。「三時弘経の次第」に於て久成の釈迦仏と仰せ給ふは迹門天台の方を始成の釈迦仏と仰せられしに相ひ対して仰せ給ふのであつて、その始成の釈迦仏とは寿量品の教主である釈尊-久遠を開顕しても開顕された釈尊は印度の釈尊であつて動かないのである。尤も一般日蓮門下は此の釈尊ではなく久遠ではなく久遠本果の釈尊を立てるといふのであるが、その久遠本果の釈尊も既に天台に於て説き尽されたところでその釈尊をも始成の釈尊に摂じ給ふて仰せられたのである。久成の釈迦仏とは自受用身即南無妙法蓮華経の仏のことであらせられる。
 高田氏の議論を総体に見ると日蓮正宗では弘安二年の大御本尊を戒壇の御本尊と云うも、それは全く誤りであつて戒壇の御本尊は釈尊の仏像を立つるのが日興上人日順上人の御意である。また大聖人の本尊鈔も仏像にあらせられるにあるといふのである。
 此れを論評するには、第五項の「弘安二年出世本懐説は僻解也」の項とを通じてなすのが便宜であるがそれはその時に論評するとして此項の妄説について論ずることとする。
 先づ高田氏は三位日順師は戒壇建立の時は仏像を安置して本尊とすべき旨を、心底抄に記してをる曼荼羅本尊ではないといふ。此の論難は他門流から常に繰り返へしてゐるところである。此れはその文にのみ執して考へるから順師の真意がわからぬのである。試みに順師の心底抄についていへば前段に大聖人の御本尊を明らかにして、経題の流布は仏駄の嘱累、所図の本尊は聖人の己証也、貴賤上下悉く本尊を礼し云云と説かれ、仏滅度後二千二百三十余年の間一閻浮提之内未曽有の大曼荼羅也と断言してをられる。其処には何等の仏像のことはないのである。
 而して後段に於て本門の戒壇について説き明かされるに戒壇と木叉とを分ち、南都の戒場、比叡山の戒場を説き後者の戒について人法倶に迹に処す、伝受の戒亦然なりといひ、而して本師を釈迦仏、教授を文殊とし、弥勒を和尚となすことを明かにしてをり、此れに対して本門戒壇建立必定なりと主張されてをる。その次下に於て其の必定なるを経文を引いて証明し、而して「行者既に出現す久成の定慧広宣流布せば本門の戒壇其れ豈立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し戒壇の方面は地形に随ふべし」と論じ、続いて久成の木叉とは妙法蓮華経なることを明かにされてをる。
 以上を見れば順師は迹門の戒壇に対して授戒の場所として戒壇を考へ、本師、教授、和尚また迹門に対して本門のそれを予想して本尊の図の如く仏像を安置せよといはれたのである。之を前の大曼荼羅を本尊とするといふのと照合すればその義が相応しないのである。順師の戒壇といふは叡山の授戒の壇に対するものと考へてをられたのである。叡山には根本中堂と大講堂と戒壇院とがある。戒壇院は授戒の時だけであつて一度戒を受ければ信仰の中心は根本中堂にある。しかし得度しやうとする者には此の戒壇が実に重要視され叡山の貫禄もこれにあるのである。それで叡山をさして迹門の戒壇と一口にいはれるのである。順師は此れに対する意味に於いていはれたのである。
 今大聖人の仰せ給ふを拝すれば観心本尊鈔に「伝教大師粗ぼ法華経の実義を顕示す、然りといへども時未だ来らざるの故に東方の鵞王を建立して本門の四菩薩を顕はさず」と仰せられて叡山の根本中堂の本尊を御挙げなされてをる。しかして三大秘法鈔には「王臣一同に本門の三大秘密法の持ちて……大梵天王帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり。」と仰せられてをる。此をもつて拝すれば大聖人は叡山の戒場でなく根本中堂に対して大御本尊安置の場所として本門の戒壇と仰せ給ふを領解し奉ることができる。なほ大聖人の本門の大戒は受持即持戒であらせられるをもつて拝察すれば然る所以が領解できなければならない。
 即ち本門の大教の根本道場を本門の戒壇と仰せられるのは明らかである。
かように拝察すれば順師が心底抄に説かれる戒壇は、本門寺の霊場の中に得度者入信者の最初の儀を行ふところを建立すべきを云はれたもので、それに於て仏像を安置するといふのである。その仏像とは迹門の戒壇に於て本師釈迦仏であるが、此れは本尊の図の如く大聖人の御影を安置する。それは主師親の三徳は大聖人にましますからである。
 教授とは日興上人、和尚とは日目上人の御影を立てるということになるが、順師は本師のことをいはれたものである。若し「本尊の図の如く」といふ通り十界を勧請するといふならば、とんでもないことになるのである。よくよく考ふべきである。今日蓮正宗で申してをる戒壇の御本尊とは、本門寺の正本堂に安置し奉る御本尊である。此のことは日興上人の日目上人への御付嘱書で明らかである。高田氏は八品派祖の日隆師が本門弘経抄の中に、心底抄と同じ言葉で述べてをるのをとつて、かかる相伝は他門流にも伝わつてをるといふが此れは日隆師が心底抄の文をそのままとつていつてをるのである。しかもその文の真意を知らず戒壇の本尊は十界の像を列立するものとしてをる。
 次に高田氏が本尊鈔の御文を以て仏像造立にあるとしてをる、即ち本尊抄の「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」と仰せ給ふのは、本門の釈尊を造立せられるにあるといふのである。此れ全く近視眼者の錯覚である。此の仏像と仰せ給ふは寿量品の仏である南無妙法蓮華経の如来のことであらせられる。即ち久遠の自受用身であらせられる。此事は本尊鈔の全御文を拝すれば明らかである。尚御本尊は大聖人の観心を建立し給ふことをしつかりと拝すべきである。南無妙法蓮華経は大聖人が所有し給ふは、法華経に明証せられるところである。元来釈尊を造立することは法華経にもないではないか。法華経には「此経の中に如来の全身があり」と仰せられて経典を尊重すべきを説かれてある。此の経典を尊重する、此れが法華経の談道である。それ故天台大師は法華経を根本に尊崇なされたのである。仏像を安置するは此の談道に背くことである。本尊問答鈔をよくよく拝すべしといひたい。大聖人は南無妙法蓮華経の如来を仏像に建立し給ふ、それが本尊鈔の御文である。また高田氏は本尊鈔の「本門の寿量品の本尊並に四大菩薩を三国の王臣倶に未だ崇重せざるの由之を申す」の御文を本化四菩薩を脇士とする久遠実成の釈迦仏の仏像を造立する御思召しであるといふが此れは全くの見当違ひで此の御文は「御本尊と四菩薩とを王臣一同に崇重しなければならない訳柄を説かれるが」とのことで脇士となるとかならぬとかのことではない。 以上に於て本門戒壇の大御本尊は大曼荼羅御本尊であらせられ、釈迦仏の造立といふことは絶対の誤りなることが領解できるであらう。なほ以下の項に於て併せて論ずることにする。

 五、弘安二年出世本懐は僻解なりとの謗言を駁す
 雪冤録第五項は「弘安二年出世本懐説は僻解なり。」である。
 その理由とするところは、大石寺派の主張するのは聖人御難事鈔に大聖人が本懐を遂げ給ふと仰せられてをるから此の御書の御述作が弘安二年十月であらせられ、而して所謂戒壇の御本尊が其の同年月の御建立であるから御本懐の御本尊だといふのであるが、此の御難事鈔は大聖人が御本懐を遂げ給ふというのでなく、二十七年の間大難にお遇ひ遊ばされたことを御述べ遊ばされたのであるから此の主張は成立しないといふ。而も大石寺日道上人の御伝草案によれば此の御本尊は日興上人への御授与の大曼荼羅である。而してまた「日興跡条々事」によれば熱原法難に因縁のあること、本門戒壇の大御本尊などと称すべきでないことが明らかである。それは「日興跡条々の事」の御文は「日興が身に宛て給はるところの弘安二年の大御本尊は日目に○○○○之を授与す(之れを相伝す本門寺に懸け奉るべし)となつてをり、その○○のところは削つてあり、( )の中は他人の筆である。
 此れは後年都合の悪い文字を削り、都合のよい文字を加へたのである。此れをもつて本門寺の戒壇御本尊といふのは誤りであるは明らかだといふ。
 かく論じて大聖人の御本尊は田中智学氏が奠定した佐渡始顕の本尊こそ、最も大切な御本尊である。然るに大石寺派では此れに対して、
一、始顕本尊は未だ御本懐を遂げ給ふ以前だから未究竟である。
二、佐渡は配所であるから不浄の処で重要な御本尊の建立がある筈がない、と論難するが、佐渡こそは発迹顕本の地であらせられ重要御書の御著作地であるから、一の論難は当らない。二に就ては大聖人は弘安四年五月十五日に護国の大曼荼羅、文永十一年七月二十五日に閻浮未曽有の大曼荼羅、文永十一年十二月万年救護の大曼荼羅を御顕し遊ばされてをつて、此れ等の御本尊こそ重大である。(此のところは高田氏の論述は支離滅裂でその真意を捉へることが困難である。)
 以上が概略であるが先づ初めに御難事鈔についていへば、高田氏の見解こそ鷺を烏といひくるめるものである。聖人御難事鈔の御文は次の如くである。
 「仏は四十余年天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す許りなし先先に申すが如し、余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり」。
 此の御文に於て「余は二十七年なり」は釈尊の四十年、天台の三十余年、伝教大師の二十余年に比較して本懐について仰せられ次の其の間の大難より下は上の其の中の大難申す許りなしに並説し給ふは明かである。かやうな論議をしてをるのは世間の識者からその頭を疑はれる。如何に日蓮門下は馬鹿げた論争をしてをるかと笑はれる程の問題である。
 本御鈔は大聖人の御施化が漸く確立されて妙法の信仰が命にかへても受持されるを御覧遊ばされ本懐を遂ぐと仰せ給ふのである。しかし乍ら猶その受難に堪ふべきを御身の体験に照して激励遊ばされた御文である。此の文の読み方は中学校過程の問題で御話しにならない。
 此の御難を御覧なされた大聖人は、所弘の仏法此に確立せりとして、大御本尊を建立せりとして、大御本尊を建立遊ばされたのであつて戒壇の願主と御撰定遊ばされるのは当然である。
 なほ此れについては御難事鈔の御文から考へついて戒壇御本尊を偽作したとまで極論するものがあるが、此の御文を引くのは田中智学氏の流類が戒壇御本尊のことは御書にないから偽作だというので、大聖人の御本懐は弘安二年十月にあるといつてそれを証明する為である。面白いことには国柱会では戒壇の御本尊のことは御書にないから偽作だといふ。
しかして国柱会で立てる佐渡始顕の本尊はどうかといふに御書に一言半句も仰せられてをらない。此れをこそ身勝手な議論といふべく、識者の笑ふところである。
 次に戒壇の御本尊といふのは日興上人へ授与されたもので、唯熱原の法難を因縁としたにすぎないといふのはまるきり話にならない議論である。日道上人の御伝草案にあるのは「大聖人熱原の法難に御感あつて日興上人と御本尊をあらはす云云」といつて日興上人と御相談にて御本尊を建立遊ばされたのであるは明かで、其の対告衆は熱原であることに矛盾するものではない。此れを日興上人へ御授与遊ばされるためとの意味に解するは文章を読むことのできない幼稚な頭の持ち主である。此の文によつて熱原の人々を願主として御本尊を建立遊ばされたことは、炳乎として明かである。しかして此の弘安二年の御本尊をやがて日興上人に賜はつたことは、「日興跡条々事」に於て「日興が身に宛て給はる弘安二年の御本尊」と仰せ給ふを拝すれば少しの疑義をはさむ余地はない。日興上人を宗団の大導師として給はつたのである。「身に宛て給はる」とは日興上人が御本尊の願主でないことを雄弁に証明遊ばされてをる。
 次に此の御本尊については、日興上人は何とも仰せられてをらない。それを後年御譲状に「本門寺に懸け奉るべし」との文字を加入して本門寺の戒壇の御本尊と称するに至つたので、その謀略を此に暴露してをるといふが、其の論拠は日蓮宗々学全書の冠註にある。
全く馬鹿ばかしくて御話しにならない。成程御真跡の文字の削除や加入は冠註の如くである。しかし、これは後年どころか日興上人が直々なされたことである。此れこそ上人の御用意が万々籠らせ給ふところで、我々が涙をもつてその思召の程を拝察申上げるところである。此には此れ以上は申さない。軽々しく申すべきではないからである。高田氏に一分の道念があれば日蓮正宗に帰依してその御真書を拝したら此のことは納得がゆくといふことだけを申してをく。それともそれが明らかになれば帰依をするといふならば、何時でも説明をする。総じて他門流の考へるところは高田氏の程度を出てない憐むべきである。
 扨て其の次が佐渡始顕の本尊についての高田氏の説は、独りできめた論難をわけのわからぬ論法で反駁してをるが我々にいはせると一、佐渡始顕は願主がない。大聖人の御本尊はそれを信じ奉る人があつてこそ御授与遊ばされるのである。たとへ佐渡始顕の御真筆があつたとしてもそれはその御本尊をもつて弟子や信徒を御導き遊ばされる思召がなかつたことは明らかである。従つて御付嘱が明らかでない。六百年の後田中智学氏が掘出してなどとは子供欺しの論議である。それこそそういふ尊い御本尊なら直弟子方のどなたかに御付嘱あつて然るべきではないか。国柱会が同御本尊を最第一とするならば、此の点をはつきりと説明すべきである。田中智学氏も「日蓮聖人の教義」に於ては抜け目なく佐渡始顕の本尊は原模だといつて大曼荼羅はかくの如く書いたらよかろうといふ見本に書かれたといつている。「原模」といふ言葉をよく味つて見ることだ。それと御本尊は信者の信仰の絶対唯一の目標として御授与遊ばされるということと思ひ合せて拝察申上げることである。
 それはそれとして戒壇の御本尊は弥四郎国重殿を最先達とし法華講衆(大聖人を信じ奉る者を総称してかく仰せられた)を願主として御建立、(観心本尊鈔には四天王寺、東大寺、延暦寺に比して閻浮提第一の御本尊建立と仰せ給ふ)日興上人を大導師として御付嘱、本門寺の正本堂に安置せしめられんとお思召されたことは御文書に於てかくの如く明々白々である。
 なほつけ加へていへば、他門流で御本尊を否定するために種々ないひがかりをつけてをる。一、御本尊は偽筆であるから一般に拝ませないといふ。此れについていへば御本尊は信徒であれば拝ませてをる。唯身延の如く信仰のあるなしに拘らず御賽銭稼ぎに一般の人に拝ませることはしないといふだけである。

二、日有上人の時板に彫刻をした、それで大聖人の御筆の墨は削りとられたか もはや御魂はないといふ。此の議論はとるに足らぬが、此の攻撃は其の言葉自体御本尊が日有上人以前からあらせられたことを認むるものである。また日有上人のとき偽作されたといふならば、日興上人が日興跡条々事の中に「日興が身に宛て給はる弘安二年の大御本尊・・・・・本門寺にかけ奉るべし」と仰せ給ふ御本尊は別にあらせられる筈である。此の辺のことまで論じて貰はないと論そのものが成り立たないのである。
 なほまた高田氏は日順上人の戒壇御本尊は仏像を安置するとの御文をとつてそれが大聖人、日興上人の御教へである。日蓮正宗の現在の教義は脱線であるといふ。しかし乍ら御本尊の造像について田中智学氏は「日蓮聖人の教義」の中で次の如く述べている。
 但だ木像などでは其のすべてを造ることは困難なると、造像の根拠等が不明であるから已むを得ず節略して勧請するため本化教観の精要を発揮することは出来ない。却て「文字図形」を正式とせられた本化聖断のいかに簡要的切にして着想の超群なるかはその図形配置交渉安排の妙を究めたのを見ても知れるであらふ。
 此の言からいへば、大聖人の御本尊は文字図形を正式と断定している。今此れを正式とすれば、肝心な戒壇の御本尊が造像にあるといふのは変形を立てるといふことになる。此の点を論ずれば高田聖泉氏は、恩師田中智学先生の説の逆を主張してゐることになる、結局恩師の説を否定するのである。此れこそ涙をこぼさん許り尊崇する智学氏の顔に泥を塗るものである。
 かような詮議をすれば際限がない。これ以上いへば高田氏をからかふことになるからやめてをく。但しいふべきは、田中智学氏の説を縦横に批判できるようになつて初めて日蓮正宗の教義を批判せよといふことである。

 六、宗祖本仏義は仏法最極の法門なり
 雪冤録の第六項は「宗祖本仏義は外道の見なり」といふ題である。
 此れに於て次の如く論じてをる。
 日蓮正宗の宗祖本仏義は「本因妙鈔」と「百六箇抄」との中の御文によつて立てるところであるが、両血脈はその文からいつて宗祖又は日興上人の御真撰ではない。然るに拘らず大石寺日寛師は観心本尊抄文段下に於て「当家の意は仏の中にも本門の仏を脇士とする・・・・妙法蓮華経の五字の本尊である妙法五字の体は何物ぞや、謂く一念三千の本尊是れなり。一念三千の本尊其躰何物ぞや、謂く蓮祖聖人是也」といつてをるが、此れは全く日興上人の教に背くもので、上人の正応元年波木井実長に与へられた書状では四菩薩を造り副へた久成の釈迦であるは明らかである。また元享三年佐渡法華講衆への御手紙では本師釈迦如来に対して師弟の分を正して信心しなければ法華を持つても地獄に堕つと仰せられてをる。更に日満上人の日満抄によれば、日満上人が身延山久遠寺の本尊は三身中何れれに定むべきかとの質問に対して、報身如来であると御答へなされてをる。此れは寿量品の報身如来のことである。此れを以つて見れば日寛師が御本尊の体は宗祖であるとは邪会の妄計であるといふ。
 以上がその概略である。
 第一に高田氏は両巻抄は宗祖または日興上人の御真撰ではないといふ。その論拠は文体が怪しいといふだけである。此れでは問題にならない。若し偽書といふならば一々の例を挙げて論ずべきである。怪しいから怪しいといふのだ、と力みかへつて見ても問題にならない。一々例を挙げて論ずるならばその妄断なる所以を一々破砕して見せる。且て他門流から「百六箇抄」の「其の教主は某なり」の某といふことは大聖人の御言葉にはないといつて攻撃を加へて来たものがあつたが、大聖人は諸御書に某と仰せになつてをる。今一々挙げないが大凡その両巻抄否定の論拠は此の類である。
 第二に日寛上人の観心本尊鈔文段の御文、御本尊の躰は蓮祖聖人であるとの御教示を邪会の妄計だといつてをるが、此れは未だ高田氏に日寛上人の御書を拝するだけの素地が出来ていないから起る妄念である。その素地が出来ていないといふのは、日寛上人の御教示は一念三千の其の体は蓮祖聖人也と仰せられて、其の間の論理的過程を省略遊ばされてをる。その過程が既に理解されてをらねばならないがそれが出来ていないといふのである。
日寛上人の御著は大石寺一山の大衆のために御説きなされたもので、駈け出しの高田氏の如きものへ説いたのではない。
 第三に日興上人には宗祖御本仏の義はなかつたといつて波木井殿や佐渡への御手紙を挙げてをる。先づ波木井殿への御手紙について申せばいかにも四菩薩を造り副へて久成の釈迦にせよと仰せられてをるが、此れは波木井殿が大曼荼羅御本尊に承服しないであくまで釈尊の像(聖祖御所持の)にとらはれるから仕方がなく釈尊の像を造るなら致し方がない、しかし四菩薩を造り副へよとの御教訓であらせられる。止むを得ない猶預の御言葉であらせられる。此のことは御手紙を素直に拝すれば領解できる筈である。また原殿抄等他の御文章と照合すれば明々白々である。
 此に余分なことであるが、此の手紙の初めに「身延山は久遠実成の釈迦如来の宝座なり日蓮上人の御霊な崛なり」と仰せ給ふをもって此れ身延の尊厳を讃嘆し給ふ御言葉として身延門流では解釈してをるが、此れは日興上人が波木井殿に対して其の謗法を禁め給はんが為に、身延の山は仏の御住居遊ばされたところであるから、夢にも謗法をして山を汚すなとの御意である。解釈を誤てはならない。なほついでにいへば此の手紙の終りに「総じて久遠寺の院主学頭は未来までも御計へて候べし」の御文があるが、此れを解釈して「日興上人が久遠寺の院主学頭の撰定は未来迄御自由になさるべし」との御言葉としてをる。一々逆に解釈をするがそれが身延門流の僻見である。此の御文は今や日興上人は身延の山を去るが院主学頭として未来先々のことまで心配して申上げるといふのであらせられる。しかして此の御文が日興上人が院主であらせられた明証である。
 次に佐渡への御手紙は、高田氏によれば釈迦如来との間の師弟のことを正しく守って、といふ意味に解釈してをるが、此れこそ故意に御文意を曲げるものである。御文は次の如くである。
 なほなほ此の法門は師弟子を正してほとけになり候、師弟子だにもちがい候へばおなじ法華 を持ち参らせて候へども無間地獄に堕ち候なり。うちこしうちこし直の御弟子と申すやから が聖人の御時も候ひし間本弟子六人を定めおかれて候、その弟子の教化の弟子はそれを其弟 子なりといはせんずるためにて候。あんの如く聖人の御後も末の弟子共がたれは聖人の直の 御弟子と申すやから多く候。此れ等の人謗法にて候なり。
 御文を拝すれば師弟を正すといふは日蓮大聖人から直弟、そのまた弟子という順序を間違はぬ様に正しく行くことを仰せ給ふものである。借問す、高田氏は師弟の順序を正してをるか、聖人の直の弟子なりと申す輩ではないかといいたい。此の御手紙の前半にある聖人の仰せ候はより下の御意は初発心の有縁の釈迦を捨て阿弥陀、大日を師とするは地獄の因であるといふにあり、此れを受けて下に仰せられるは末法の衆生は大聖人血縁の衆生であるから大聖人からの師弟の順を正すといふにあらせられる。さればこそ「宰相殿御信心を起し、本迹の法門を聞し召し、受け取らせ給ひけるは師はたれにて候けるぞ、御師だに定まり候はば云々」と仰せられたのである。粗忽な解釈は慎まねばならない。
 第四には高田氏が日満抄の文を以て日寛上人の宗祖御本仏義を破折するとして、同抄の文を挙げているが其の引用の文を見るに少しも日寛上人の本仏義に相違するところはない。此れは高田氏が錯覚しているのではないか、察するに文中法華行者値難事の「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字也云々」の御文を以て「此れ三大事歟」といはれしを此の御文は釈尊を本尊とし、四菩薩を脇士となすとの御意と解し、しかも本尊は報身如来と定むるとの文をもって釈尊本仏なりとして日寛上人の宗祖御本仏義は之れに相違するとの意味であらふと思ふ。
 此れについていへば、三大事とは戒定慧で、本門の本尊と戒壇と題目とである。法華行者値難事に四菩薩と仰せられるは脇士がどうかといふ御意味でなく、御本尊建立の主を挙げ給ひて三大秘法並に四菩薩の出現を仰せ給ふたのである。
「天台伝教は之れを宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之れを残し給ふ。所詮一には仏授与し給はざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来れり四菩 薩出現し給はんか、日蓮此の事を先づ之れを知りぬ。法華行者値難事
 日満抄の次の段に於ては久遠寺の本尊は三身の中のいづれと定むるかの問題についてである。
 文によれば自受用身と無作三身とを立て分け「無作三身に於ては勝劣はないが境智冥合自受用法楽の上に三身を論ずる故に報身を以て正となす」といはれるのである。しかも文末に「山家の御釈に云く一念三千即自受用身、自受用身とは尊形を出たる仏なり」の文を引いてをる。以上の点からいって此文には釈迦本仏、宗祖本仏の義は少しもないのである。高田氏の錯覚といふ所以である。若し此れを強いていへば「山家の釈に自受用身とは尊形を出たる仏なり」といふ引文にある。此れは寿量品の仏は尊形を出たる仏なり、との事である。
本仏の義について日満抄此の次の段がそれになるのである。即ち本尊抄の三仏の顔貌を拝見せん、の三仏を如何に得意すべきかとの問答段である。此れについて迹門、本門、観心の三重に於て解釈せられてをり、観心の重に於ては深く用心して私詞を加へんや、といい後世の愚人最もたづぬべき処なりといってをられる。此の筋目からいって日寛上人の御文に於て一念三千の本尊其躰何物ぞや謂く蓮祖聖人是也。と断定し給ふは全く函蓋相応実に符契を合するものである。
 宗祖御本仏義は高田氏の俄かにわかる法門ではなく。仏法最極の法門である。しかし今試に其れを領解し奉る筋道だけをいへば、寿量品の説法は上行菩薩・末法の日蓮大聖人のために説かせ給ふところである。それは文底に無始の十界互具を説いて本因妙を明かし給ふからである。大聖人は上行菩薩として此の無始本因妙の本地に冥合し給ふ時、久遠の仏であらせられ給ふを内鑑あらせられるのである。此の御境界が寿量品の事の三大事の戒定慧であって、此れを衆生に示し、持たしめられるが本門の本尊、戒壇、題目の三大秘法であらせられる。此の事は既に天台大師の文句等に於て証明せられるところ、釈尊、天台、伝教の意図し給ひ、指示し給ふところである。日寛上人の御教示こそ門下支離滅裂の異議の競ひ起るの時、その誤りを正して大道を明らかにし給ふものであらせられる。高田氏あたりが日寛上人を評して邪会の妄計だなどとは、幼稚の子供が老人を評するの類で問題にならない。それよりか田中智学氏の法門の裏の裏まで眼につくようになる迄勉強してみることである。一つ問題を提供しやう。本化聖典大辞林の中に身延の堂塔の整理について次の如くにいってをる。「祖師堂の外に本堂を造るは考へものなり、宜しく祖師尊像の後部に御真筆又は御真筆模写の御本尊を奉安して之れを本堂として極力此堂を荘厳するに如かず」此の言説を何んと解釈するか。

七、問答対論について
 雪寃録第七項は「問答対論」に関する御聖訓といふ題である。
 此の論ずるところは教化弘通についての態度に関する御聖訓を列挙したにすぎない。此れについては教義の問題でないから論議を省略する。

八、本因妙抄、百六箇相承についての疑難を破す。
 雪寃録第八項は「本因妙抄」「百六箇相承」についての管見といふのである。
 そのいふ所の概略は次の如くである。
第一に両秘書の成立年代を考究する必要があるとして、日蓮宗宗学全書に収録されてをる要法寺所伝本に就いてその後記を挙げて、此の両秘書は日尊師の書かれたものである。正本は今日存在しないといふ。これは最も怪しむべきことで能書第一の日興上人の伝へるところといはれる此書に於て御真跡がないといふのは首肯し得ないことである。
 今日存在する原本は日辰師の奥書によって尊師の筆とみられる。そこでその後記を見れば百六箇抄の題一段は正和元年十月十三日、日興日尊に示すとあって聖滅三十年後であり、第二段は康永元年十月十三日日尊、日大日頼に示すとなってをる。これは聖滅後六十年で日興上人示寂後十年に当る。日尊師は日興上人御遷化後京都に於て天台の学風に影響せられ、従来の遵奉してをる日興上人の本迹勝劣義と合して両秘書を著作したものと推定される。即ち興尊示寂から日大日頼に示した康永元年迄の十年の間に成立したといふのである。
 第二には内容の検討で両書の題号並に御署名について詮索してをる。題号については本因妙抄は本因妙の行者といふ署名によってその名が唱へられたものとし、百六箇抄はその題号具謄本種正法実義本迹勝劣正伝といふのは本因妙抄の文から出ているとしてその文を挙げてゐる。
かく論定して本因妙教主といふのは大義名分を誤る名称であって、日興上人の佐渡国講衆に仰せられてある如く、本師釈迦如来を無視するが如き名称は許さるべきでないといひ、しかしてまた本門の大師といってをるが此れは御書の中に「現身に大師号もあるべきに」とは仰せられてをるが、実際にはかゝる名称は御在世中になかったのである。従って御書四百余篇にかゝる名称は一つもない、此れをもって本書が御滅後富士方の何人によって偽作されたといふことは明らかである。
 かく論じて第三に両書の本文にいふところと御妙判との相違を論じて、四信五品鈔には一度日蓮の弟子となるものは名字即の位であるといはれてをるのに、此の書によると日蓮は名字即の位で弟子檀那は理即の位であるといって明かに相違がある。而も日蓮は下種益の法主、釈尊は脱益の仏とするは三世常住の本仏釈尊をないがしろにするものであって、全く魔道の見である。此れ両書が偽書たる明証であるといふ。
 次に此の本因妙抄に「此の血脈を列する事は云々」といってをるが此れは一跡門徒存知事の文と一致する節がある。門徒存知事も偽書ではないかと思われるが一往当時仮名書を軽んじた
 風があることは肯かれる。而し重大な点は文中に「去る文永の免許の日─ 一人もなく唯我日蓮与我日興計也」の文に至っては、既に文永の佐渡より鎌倉に帰り一宗流通を幕府より許可されたときに於て一人の与同するものもなく日興一人であったとは到底判断できないといふ。しかして奇怪なることは此れ許りでない本因妙抄の末尾に於ては上行菩薩──日蓮と、無辺行菩薩─ 日興とが並んでをって、身延、池上の二相承の血脈次第日蓮日興と縦に列してをるのと大変な相違がある。此れは横に名を列する本因妙抄の書き方が師弟を正すといふ日興上人の教に反するものである。此れ等をもって偽書たるは明かであるが、しかも本書を百六箇抄と呼んでをるが、実際には百七箇条あるのは全く笑ふべきであるし、此文中に興尊授与の本尊を本堂の正本尊とせよといって本門寺戒壇院の本尊とせよと書けばよいのを偽作の時粗忽のために取り落としたものであると推断してをる。
 更に百六箇抄に於て、大聖人が日興上人に付嘱せられる証人として釈迦多宝を初め日昭日朗の上老、日高の中老等を挙げてをるが、五人所破抄に此れ等の人々を日興上人が破折してをられる。此の破折された人々が証人に立つとは抱腹絶倒だというのである。しかも六老僧は弘安五年十月に御定めのことで此の書では弘安三年に此のことがあったと推定されるが此間全くの食違いがある。なほ日興は無辺行、日朗は安立行、日蓮は上行菩薩、日目は浄行菩薩といふ奇怪な文句があるが此れ全く謀書たるの証拠である。従って書中宗祖本仏義があるのは日蓮正宗の論拠になってをるが、此れは富士流の奸計にほかならないといふ。
 第三に両書の文体についていへば、此の両書の文はまことに粗末なものでしかも富士流では漢文体のものを否定してをり乍ら此れはその文体によってをるは矛盾してをる。殊に奇怪なのは富士流に於ては相変らず本迹勝劣に固執してをるが、既に小川泰堂居士の努力によって大聖人の御書は全体が揃ふて明らかとなった今日、其の態度を改めないことである。恩師智学先生は大聖人の教を全体の上に組織し、門下各派の人に聖祖絶対、聖祖中心に集まるやう主張せられたが此の業の成就を念願するものであるといふ。
 以上の高田氏の研究を読んで第一に思ひ浮ぶのは此の研究が全く間が抜けているといふことである。折角田中智学氏の私的研究の強調を受け継いで考証したのであるが、全然研究がなってをらない。思ふに智学氏が史的に研究せよといったのは、一般門下が歴史を知らず法門を論じてをるのを戒めたものであって、日蓮正宗に対する言葉ではない。先ず高田氏が歴史の研究について一層努力しなければ物にならぬといゝたい。
 高田氏は宗学全書によって要法寺所伝本をとって考証してをるが、若し此の他になく唯此の一本のみであるといふならば一応無理もないと思ふが、全書に校合本として大石寺本である日時上人の写本があり、妙本寺の日山氏の写本があり、その他各々筆者不明の古写本が数種あるといふてをる。さすれば他はをいても時師本と尊師本とに於て考究がなされねばならない。
 尊師本についていへば終に於て「日興示日尊師」とあって即ち「日興上人が日尊師に之れを示す」といふことである。此の「示す」といふは授与し給ふことではない。容易に他に示すべきではないが日尊師の功に大して披見せしむるとの御意である。依って日尊師が此れを書写なされたのである。本文から拝すれば「然る間玉野太夫は王城の開山、日目は弘通の尊高なり、花洛並に所々に上行院を建立有り云々依て之れを授与す」とあるから此の授与は日目上人へであらせられ、日尊上人へは展示をなされたものと拝察できる。
 大石寺の時師本には此れ等の後記がない。此れは日目上人へ御授与の正本が写伝されたものと拝察できる。
 此に於て両所伝本を考へると、尊師本が後年写伝されるに至つたとも考へられるが、尊師系と大石寺系との法門上の交渉から判断して到底此のことは考へられないことである。日時上人と日大師とは幾何も年月に相違がないのである。唯授一人として固く付嘱を禁ずとなす日尊師が日大師にそのことを告げてをるをもつて、幾何ならずして他方へ写伝される筈はない。
 富士に於て尊師本に拘らず両書が存在せられしことは、日順上人に本因妙抄口決のあることである。宗学全書によれば大石寺に棟師・俊師・寛師の各上人の写本が現存することを記載されてをる。而して此の詮要抄には他よりの懇請により黙することができずして訓義し給ひし旨を記してをる。
 此れをもつて察すれば、既に富士に於て本因妙抄が或る種の人の間に習学せられてわつたことがわかるのである。前にも述べたが尊師と順師とは殆んど同時代であつて、若し尊師の草案であるならば順師は恐々として扱ふ筈はないのである。また其の後に於ても尊師の法門に対する富士系の態度を見れば何人も此のことを首肯するであらう。もつとも近頃はまた日順上人の本因妙抄口決も偽書だといふ暴説が起つてきてをのるを聞くが特に何等の論拠がない。唯ハツタリの暴言を大にして日蓮正宗を抹殺しやうというのである。
 かく拝してくると両抄の存在は日尊師以前日興上人の御時まで溯つて拝察できる。しからば日興上人の御作であらせられるかといふと、御文から拝して大聖人の御書であらせられるは疑ふ余地がない。若し日興上人の御著作であらせられるか筆受であらせられるなら必らずその旨を御記しなさる筈である。他文書に於て皆悉くそのやうに御記し遊ばされてをるから此の御抄だけそうでないといふことは考へられないことである。
 論者は、御抄が弘安五年の十月十一日の日付になつてをるが此れは御入滅直前で到底御著作があつたと考へられぬ、といふが之れは先々に御したためあつた御抄を十一日御付嘱に当つて署名遊ばされたと拝すべきである。
 次に内容の上に高田氏の主張を批判すれば、高田氏は御抄に本因妙の教主とあるが此れは本師釈尊に対して大義名分を誤るものであるといい、その理由とするところは日興上人の佐渡講衆への御手紙に師弟を正して、と仰せ玉ふをもつて此のことに違ふというのである。此れについては高田氏が御手紙を読み誤つてをることは前に指摘した通りである。また高田氏は御抄に本門の大師と書かれてをるが大聖人は種々御振舞抄に「現身に大師号もあるべきに」とは仰せられてあるが、未だ大師号敕諡はなかつた。御弟子の中には日持上人が池上の御影に南無日蓮大師としたためてあるばかりである。それ故本門の大師と御自ら仰せ給ふ筈はないといふ。御振舞書の御言葉は「大師号があつてもよい程の日蓮」の御意であるは明からである。今御抄に本門の大師と仰せ給ふは迹門の大師に対して本門の大師であるという御意味と拝すべきで、若し大師号として御用ひになるならば他に御名を撰び給ふ筈である。尚四百余篇に一箇所も此の自称はないといふが、それは御著作に於て御述べになるところによつて御立場があらせられる。今此には本門の枢要を御説き明かし給ふが故に本門の大師と仰せ給ふと拝すべきではないか。若し一定の御自称を御用ひになられるならば高田氏の挙げる通り御書によつて御自称を御かへ遊ばされる筈はない。
 一々論じ来ると高田氏の考へ方は皆逆である。逆さに判断してゐては何によらず真実は見えないのである。
 次に高田氏の、両御抄の御法門と御妙判の御法門と相違してをるとの主張についていへば、 高田氏は四信五品鈔には「予が意に云はく三釈の中には名字即は経文に叶ふ歟」と仰せられてをる。然るに本因妙抄には「日蓮は名字即の位、弟子檀那は理即の位なり」とあつて両者は相違してをる。其故本因妙抄は偽書であるという。此れは四信五品鈔は法華の所対の機の位を定むるにあらせられ、本因妙抄は御施化の上に機を定め給ふが故に自ら配位が下がるのであつて、少しも相違はないのである。此の辺の立て分けがつかないでは問題にならない。
 次にまた高田氏は本因妙抄に「仏は熟脱の教主、某は下種の法主なり」とあつて熟益の仏は末法に益なしといふに至つては三世常住の本仏釈尊を無視するものであるといつてをるが、此れは種熟脱ということが法華経の根幹を為してをるのを知ないからである。観心本尊抄に「設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還つて灰断に同ず化の始終なしとは之なり」と仰せられてをる。しかして此の種熟脱をもつて法華経本門を判ずる、此に大聖人の御法門があらせられる。されば次下に「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し乃至彼は一品二半、之は題目の五字なり」と仰せ給ひ御義口伝には「其故は此品は在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益、滅後は下種なり、仍て下種を以て末法の詮となす」と仰せられるのである。此の種脱相対の御法門こそ大聖人の仏法に於ける至極の教判であらせられる。此のことを明示し給ふのが百六箇抄の御法門であらせられる。血脈抄と仰せ給ふ、誠に所以あるかなと唯々驚嘆し奉るほかない。
 高田師等一般日蓮門下では寿量品に開顕された釈尊に執着して、本仏釈尊と計り考へておるから大聖人の文底の御法門がわからぬのである。本尊問答鈔をよくよく拝し奉ることである。即ち御鈔に「問ふて曰く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答ふ上に挙ぐる処の経釈を見給へ、私の義には非ず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と仰せられてをる。而して此の法華経に於て迹門、本門、寿量品文上、文底と捨劣取勝して久遠の妙法を御立てなさることは諸御書に於て明かである。此の妙法蓮華経こそ一念三千自受用身の仏にましますのである。此れを本果の上に説かれるのが釈尊で本因の上には大聖人(過去に上行として出現、久遠本地は妙法蓮華経本因妙の仏)であらせられる。此のところを御説き遊ばされるのが本因妙抄であらせられる。よく一般日蓮門下に於て上行所伝(末法には上行の御名では出現せられない、日蓮として御出現になつておる)の南無妙法蓮華経といふが此の妙法は寿量品文底の十界互具一念三千の妙法である。此の妙法を所有なさるところが戒定慧の三大事である。而して此れ大聖人の御身に当り給ふところである。
 故に御義口伝に「本尊とは法華経の行者(日蓮大聖人)の一身の当体なり」と仰せ給ふ所以である。此点は此れ位にして此の本因妙抄に「文永免許の日に爾前迹門の謗法を対治し本門の正義を立てらるればと申せし時聞く人は耳を塞いで方人するものはなく日蓮と日興計也」という御文があるが既に弘通が免許になつてのに大聖人が未だ謗法対治云云と仰せ給ふ理はない。しかも方人が一人もないといふは解釈できないと高田氏はいつてをるが、此のところはシドロモドロの議論で読む方にはそれこそわからないが、此の御抄の御文は免許されたからもうおつしやることはないと思つておつたところを謗法を退治せよと仰せられたので聞く者は大聖人の御言葉に耳を塞いだ、しかるに拘らず日興上人御一人が大聖人に従つて動じなかつたとの御意である。此の御文のどこに不審があるかといいたい。不審に思ふ頭の方が狂つてをるのである。
 次に本因妙抄の終りに大牟尼世尊、上行日蓮・無辺行日興と横に血脈の系譜が列ねてあるが日興上人を無辺行に凝したのは日順師の文献にあるからそれによつたものであろうが此の血脈譜は二箇相承の系譜と大変相違してをる。此れは本御抄が偽書たることを雄弁に語つてをるといふ。此れも高田氏の頭の低いことを雄弁に物語るものである。本因妙抄の系譜は地涌千界の眷属としての御系譜で、二箇相承は師弟としての御付嘱であらせられる。両御抄一往その形を異にせられるも、在々所々師と共に生れる御境地に於て少しも相違がないのである。諸法実相鈔其の他の御書をよくよく拝すべきである。
 更に高田氏は百六箇抄について、此れは脱に五十一、種に五十六、の条目があるから百七箇条になる。此れは作者は算数ができないのでかような間違ひをしたのであるといふ。此の議論に至つては無茶苦茶と評する他はない。御抄に於て「一百六箇之れを註す、数量につき表事あり、之れを覚知すべし」と仰せられてをるから本文を一百六箇に拝すべきである。此れについては深い御義があらせられることを深く思ふべきで、作者が計算できなかつたといふにいたつてはその常識が疑はれる。而して御抄の「日興嫡々相承の曼荼羅を本堂の正本尊とせよ」との仰せについて此の文は「戒壇院の本尊とせよ」と書くべきを粗怱にも「本堂の正本尊となせ」といつてをると高田氏は論じてをる。此れは前にも述べた通り、戒壇院は順師の御言葉であつて本門寺正本堂とは別のものである。高田氏の論は狂者が幻像を描いてその上に囈語してをると同じである。
 尚また高田氏は百六箇抄の後記に於て日興上人への御付嘱を日昭日朗等の六老を証人となされてあるが、此の六人は五人所破抄に破されし方々であるから証人に立つる道理がないといふ。此れも馬鹿馬鹿しい議論でとるに足らぬが五人所破は後年のことで弘安三年にはそのことはないのである。而して御抄に六人の弟子といつてをるが六弟子定置は弘安五年十月であるから史実に相違するといふのが高田氏の意見である。かような判断の仕方では到底論ずるに足らぬ。六人の弟子は前々から大聖人が格別に思召し遊ばされたところであつて、それを御入滅に際して改めて御遺言を遊ばされたのが弘安五年十月の御記録であらせられる。十月に咄嗟の場に御定めになつたといふは物の道理を知らぬもののいふことである。
 高田氏はまた御抄後記の中の「日目は予が天奏の代りとして而も二度の流罪三度の高名是れあり」の御文について此れは全く史実に相違するもので日目上人にかかる史実はないから此れ偽作の証であるといふ。此れについていへば若し高田氏が百六箇抄は日尊師の著作といふならば、尊師は全くカラクリヤの虚言の大家ということになる。然るに高田氏は日興上人と日尊上人とのことについて、「師厳にして道尊し」の御手本であると賞揚をしてをる。高田氏自身の矛盾した此の考へ方はどういふことになるか。本御抄を著作する程の方が子供にもわかる間違ひを御書きなさる筈がないではないか。
 御抄の上掲の御文は文が簡略になつてをるからそのところを深く拝さねばならない。拝読するものは軽々に考へてはならない。高田氏等の浅見者流の到底考へ及ばぬところである。
 第四の両書の文についての高田氏の考察は、御抄の御文は御粗末で、しかも富士門に於ては漢文を否定し乍ら漢文をもつてかかれてをるが此は自語相違だという。恐らく此れは一跡門徒存知事によつて考へたところであろうが此れも高田氏の読み違ひである。門徒存知事に於ては当時門下諸方面で漢文の御書は尊重するが和文のものは軽視する風あるを、和字の御書も絶対に尊重すべきを御教訓遊ばされたのである。漢文風の文章を否定したとは全く戸惑ひの妄見である。
 此の項の終りの高田氏の妄論にいたつては唯々開いた口が塞がらない。それは氏が大石寺流では御書も何も知らずして法門をデツチあげたからとんだ間違ひをいふやうになつたのである。しかし今や小川大堂居士によつて新しい御書も発見せられ整備されて大聖人の教義の全貌が明らかになつた。田中智学先生が此に宗学の体系を完成されたによつて智学先生に従つて祖道復古の大業に集まれといふ。此の高田氏の言を聞くと最早相手にするも馬鹿馬鹿しくなる。
御書の編纂は日興上人に於て整備せられたのであつて一跡門徒存知事に於て十大御抄を目録に記しその御述作の聖意をも合せて記録遊ばされてをり、また御自ら御写し遊ばされて御具へなされたのである。御一代の御法門書としては、血脈相承を別として残るところなく列挙遊ばされてをる。小川泰堂居士によつて此れ等の御書の御法門を覆へす重要御書が発見されたとでもいふのか。
 田中智学氏も現在をつたならば高田氏の此の言葉を聞いてかへつて赤面するであろう。

九、産湯相承を痴難せるを駁す
 雪冤録第九項は「産湯相承」についての管見という題である。
 そのいふところを見れば大石寺の日道上人に、聖祖と日興上人と日目上人の三師伝があつて此れは信憑できるものである。しかるに此れには産湯相承書に記載されてをるようなことは一ケ所も見当らない。而して本文を見れば宗祖本仏の萌芽が見える。第二に「出雲国の日の御崎に天照大神が始めて天下り給ふ」といふのは他御書の安房国をすみそめ給ふ国と仰せられると相違する。第三には「日神と月神と合して訓ずれば十である。十羅刹女は諸神を一躰に束ね合せた義である」とは日と月と合せてその画数は八であるから十にはならぬ。此れは興門派の数へ違ひである。第四には聖祖が主師親の三徳を具へ給ふをいはれるのに、寿量品に云くといつて今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子、唯我一人能為救護の文を挙げてをるが寿量品の文ならば我此土安穏、我亦為世父、常説法教化、の文でなければならない。富士流に於ては迹門をすてるのであるから譬喩品の文を挙げるのは自語相違である。なほまた日蓮は今此三界の主、日蓮大恩以希有事といつて信解品の文を以て仏世尊に同じ奉つてをるが此もまた同断である。一々点検すればかくの如く産湯相承は聖祖の夢想に托して口決を捏造したものであるは歴然たるものであるといふのである。
 以上に対して批判すれば、第一に三師伝に産湯相承は御誕生のことであらせられる。しかもこのことは日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なりと仰せられ、その口決を日興上人が筆に遊ばされたものである。三師伝に出てゐないといふのは何んの不審もないことである。第二に「日の御崎に天下り給ふ云々」とは日の御崎には日御崎神社があり、上下二社の下社は天照太神が祀られてをる。此の事実をもつて仰せの御言葉が他の御消息御書と異なるからといつて兎角申上げる筋はない。若し今日世間の人の頭からいへば安房国が天照太神の天下り給ふといふことは不審に思ふところである。さればこそ清水粱山氏が論証されたのではないか。それよりか何故に産湯相承にをかれては出雲の国を御とりなされたかといふ、此の線に沿つて拝察すべきである。甚深微妙の御意、凡下のうかがうことのできないところである。第三に「日神・月神を合せて訓ずれば十なり」は画数が八であるから十でない。此れは興門派の人々の勘定違ひであるといふ。此れは十であるから十であるとだけいつておく。高田氏の頭の程度を遺憾なく暴露してをる議論である。御文を穴のあく程見つめて拝解すべし。第四の聖祖が主師親の三徳を具へ給ふを明かすに、寿量品といひ乍ら迹門の経文を引いてをる。此れ明らかに誤りではないかといふについては、一体その文の上に何とあらせられるか、即ち「久遠下種の寿量品に云く」と仰せられてある。此れは高田氏の到底及ばぬところである。勿論産湯相承は高田氏のような人に解らせやうとの御書ではない。直弟子中におかれても了解第一の日興上人への口決であらせられる。分を知つて御書に臨むといふことが大切である。
 十 聖名についての痴惑を暴す
雪寃録の第十項は「聖名に縁して聖祖の本地垂迹観を述ぶ」といふのである。
そのいふところは次の如くである。
産湯相承はその名目と内容が異り、内容も荒唐無稽で問題にならないが、その着想に於ては参考になるところがある。聖祖の御母が懐胎のとき大日輪が胎中に入り給ふ霊夢を感ぜられたこと、幼名を善日麿と呼ばせられたこと。其の後是生房蓮長と称せられたこと、開宗に当つて日蓮と仰せられたこと、此れは古くから伝承されてをる。(此の伝承と産湯相承とは一致してをるといふ意見らしい)しかして日蓮の御名については寂日房御書に日蓮と名乗ることは自解仏乗といふべし、と仰せられてをりその下に於て神力品の如日月光明の御文の日に当る旨を御説きなされ、日向記には如蓮華在水の経文を釈して蓮華は地涌の菩薩に譬へ給ふ。(此下本門の付嘱を説いてをる。)涌出品の如蓮華在水と神力品の如日月光明との御文に典拠があることは本門八品の大事顕現を表するのである。しかしてまた此の経文と照合して日蓮の御名は本地と垂迹とについて深意があることを顕はされたものと拝される。更に日本の日と妙法蓮華経の蓮と此れは聖祖が日本に妙法を弘通せられる御一代の御事蹟を表し、しかも法華経の元意、即ち天地法界の中心生命たる妙法蓮華の至法を表し給へるものであると。(以上は産湯相承の御文の意により、御書の文によつて解釈してをる。)
 宗門の古伝説によると大聖人は開宗直後に御両親に授戒して妙日、妙蓮の法諱を御授けなされたといつてをり、産湯相承には授戒前に既に妙日、妙蓮と称せられたといつてをる。此れについて考へると仏法の綱格からいつて弟子の名を師匠がとるといふことはあり得ないから授戒の時妙の字をそへて御授戒あつたといふべきである。
 以上が大略の意見である。
 扨て此れを論評すれば、高田氏は前項に於て産湯相承を全く否定してみたが、熟考して見たら此れは強ちにそう許りはいへないと思ひ直して着想に於ては参考になるといつてをるが、まだその御文は荒唐無稽だといつてをるからまだまだ熟考が足りない。第一に名目と内容とが違つてをるといふがどこがどう違つてをるか。御文は御誕生までのことを御母の御物語によつて仰せ給ひ、その御霊夢にをいて御名と御身性の既に具はらせ給ふを御説き遊ばされたのであつて、即ち産湯相承の御名称に契合してをられる。少しも違ひはない。第二に御書にある御幼名について宗門の伝承に一致してをるといつて伝承を主としてをるが一体その伝承とは何によるのか、恐らくずつと後にできた伝記によるものであろうが、然らばその伝記は何によつてか書かれたものか。此れを検討してゆけばその源がわかるのである。
 小川泰堂居士によつて文献は凡て収集されたといふが、その収録の中に善日麿、是生房等の御名の依拠があるか、一箇所もないではないか、漸く近頃金沢文庫にある円多羅義集の御文に是聖房の御名があるといつて騒いでゐる程である。此れを以て考へれば高田氏のいふ「宗門の伝承」といふのは富士流に於て此の産湯相承によつて伝へるところが世間に出てそれが史書に記載されたと見るべきである。御文が伝承と一致してをるといふのはアベコベである。第三に高田氏が御名につき他の御書によつて解釈してをるが此の考へ方は正しいといへる。此れは産湯相承の御聖言を指南として考へるからである。しかし笑うべきは上来口を極めて宗祖本仏義を悪口雑言してきてしかも産湯相承に宗祖本仏義の萌芽があるから偽書であるといひ乍ら、此処に至つて日蓮の御名は法華経の元意即ち天地法界の中心生命たる妙蓮華経の至法を表し給へるものであるといふ。此れは何んのことかと反問をしたい。妙法は即ち日蓮というのではないか。然らば高田氏宗祖本仏を立つる萌芽があるのではないか。第四に産湯相承は大聖人が御父母に授戒し給ふ前に妙日、妙蓮と仰せられたと記してをるが、それならば日蓮の御名乗は開宗の時にあり続いて授戒を遊ばされたから聖祖の御名は御父母の名をとられたことになり、師が弟子の名から名をとられたことになり、仏法の綱格に反すといふ。高田氏は産湯相承のどの御文をとつて御父母が御授戒前に妙日、妙蓮と名乗らせ給ふたと断定をするか。そういふことは御文中にないではないか、恐らく此れは御文の初めの「法号は妙蓮禅尼」と仰せ給ふを元々からの御名乗りと考へ、尚「さては某は日蓮なりと言給ひしなり。」との御文を曲解してをるのではないか。「法号妙蓮」との仰せの中には別に御名乗の時を仰せなされてはをらない。「さては某は日蓮なりと言給ひしなり」とは大聖人が御夢の御物語とを御考へになつてその御夢によつて日蓮と名乗らせ給ふたとの御意である。それであるからこそ、寂日房御書に「日蓮と名りしことは自解仏乗といふべし」と仰せられたのである。しかして自解仏乗なる所以を下に経文によつて御説き遊ばされたのである。若し予め如日月光明、如蓮華在水の御文等によつて名を御定めなされたのであれば自解仏乗ではない。本化聖典大辞林を見よ。同書には此語を解して自発的に仏乗を解することといつて天台の十徳を頌する章安大師の玄義の文を挙げてゐる。もつて考ふべしである。

 十一、結論
 以上に於て興尊雪寃緑の全文を解剖して批判したことになるが繰り返していふまでもないが、全文悉く逆な考へ方をして妄断をしてをる。此れでは大聖人、日興上人の御法門は目茶々々になつて了ふ。此れは何から起るかといへば自分達の立場をつくらふのに日興上人の正統をもつて自負しやうとする、それには日蓮正宗が邪魔になる、そこで日蓮正宗の法門を否定しなければならない。此の邪魔によつて立論するから一切が邪見になるのである。まだ田中智学氏は日蓮正宗の正統なることが腹にあるから著書をもつて公然とは批評しなかつた。唯演説会等に於て追随する弟子や信徒に日蓮正宗を罵倒して溜飲を下げるに止まつたのであるが、弟子になると此のことを知らずして日蓮正宗を攻撃するからかように僻見を暴露するのである。かように考へるは僻目であろうか。
 近来他にも日蓮門下といふ人々が盛んに日蓮正宗の教義を論難してくるが大概高田氏の見と同じである。而も大概が富士の依用の御書を偽作だと呼ぶのが落ちである。甲も乙も丙も丁も皆一様に眼を皿の如くしてどこかに偽書たるの穴はないかと探して、従来の論難につけ加へて更に輪をかけて論難するといふのが現状である。
 吾人は唯恐れる、かよう理屈にもならぬ理屈をもつて議論をしてをると、世間の具眼の士は定めて日蓮門下の宗学者の常識を疑い冷笑しはしないかといふことである。
 最後に参考までに一文を掲げてをく。
 法華顕本下山消息御抄の有無名字の諍論尤も此れを定むべし。若し製作を以て御書に非ずといはば日蔵已下の弟子道俗逆罪を遁れ難し。若し偽書を構へて恣に聖筆と云はば富士の立義貴賤上下信仰憑みなし。実否は冥に譲つて邪正明らむべし。(日順上人の摧邪立正抄)高田氏はまだ摧邪立正抄を偽書だといふであらう噫乎。
                       昭和三十年十月(単行)

 
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