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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 華厳宗

 2 華厳宗
  開 祖    良弁(689~773)
  宗 祖    杜順(557~640)
  本 尊    毘盧遮那仏
  所依の経典  華厳経(大方広仏華厳経)
  大本山    東大寺 奈良市雑司町406
  寺院教会数 134
  教師数   1,010
  信徒数    44,235

【沿革】
 華厳宗は、中国の唐の時代の杜順(とじゅん)によって創始され、法蔵によって大成された学問仏教である。
 中国では、杜順(とじゅん)、智儼(ちごん)、法蔵(ほうぞう)、澄観(ちょうかん)、宗密(しゅうみつ)の5人を華厳宗の五祖としている。
日本の華厳宗は、天平8(736)年、唐の道璿(どうせん)によって『華厳経』が伝えられ、天平12(740)年、法蔵の弟子である新羅の僧・審祥(しんじょう)が来日し、金鐘(こんしょう)寺(現在の東大寺法華堂)で『華厳経』の講義を行ったことにはじまる。次いで、審祥の後継者である良弁(ろうべん)が東大寺の法華堂で『華厳経』の講義を行い、実質的に華厳宗を開宗した。
 良弁は持統3年、相模の国に生まれ、家系は百済からの渡来人の一族であった。東大寺の義淵(ぎえん)のもとで法相宗を学び、天平5(733)年、良弁が44才のとき、聖武天皇に見出されて金鐘寺の住職となる。さらに、審祥(しんじょう)からは『華厳経』を学び、日本における華厳宗の開祖となった。天平15(743)年、聖武天皇の発願による「東大寺の大仏」で有名な毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)造立に当たっては中心的役割を担った。天平勝宝4(752)年に毘盧遮那仏が完成し、東大寺の初代別当となった良弁は、僧侶の「四位一三階の制」を定めるなど、南都仏教界のリーダー的存在となり、宝亀4(773)年、85歳で入寂した。
 良弁によって創始された日本の華厳宗は、聖武天皇の庇護と総国分寺という格式をもつ東大寺の存在により一時、南都仏教の中心となるほど隆盛を極めた。しかし良弁以後、特に進展は見られず、その勢力は次第に衰えていった。
 弘仁13(822)年、空海が東大寺に灌頂(かんじょう)道場を建立して南都真言の拠点としたことを契機として、東大寺は華厳宗の教義を持ちつつ、作法や行事の面では次第に密教化が進み、南都六宗全体にも密教化の影響を与えた。
 しかしその後、光智(864~979)が東大寺別当となり、東大寺に尊勝院を建立して華厳宗の本拠とした。また、光智門下の松橋(しょうきょう)と観真が、本寺派と末寺派をそれぞれ形成した。
 鎌倉時代、末寺派の高弁は、栂尾(とがのお)に高山寺を建て、以後末寺派を高山寺系と称した。これに対して、東大寺尊勝院に住する本寺派を東大寺系と称した。
 以降はきわだった興隆は見られず、明治政府の宗教政策により、八宗兼学の東大寺は一時、浄土宗に組み入れられたが、明治19年に華厳宗として独立し今日に至っている。

【教義の概要】
 華厳宗では、『華厳経』を所依の教典とし、『華厳経』に説かれる毘盧舎那仏を本尊とする。
 『華厳経』は、正しくは『大方広仏華厳経』といい、大方広の仏、つまり時間と空間を越えた仏が説いた教えとされている。また、「華厳」とは「雑華厳飾」の略で、あらゆる因行の華で荘厳された仏を譬えたものである。
 また、『華厳経』に示される毘盧舎那(びるしゃな)とは、太陽の光がすべてのものを平等に照らすように、迷える人々に智慧と慈悲を及ぼし、あまねく蓮華蔵世界に生じさせる仏であるとされる。毘盧舎那仏は、長い修行の末に悟りを得て蓮華蔵世界の教主となった仏であり、この仏こそ宇宙の本源であり真理そのものであるとしている。
 華厳宗では、現象と本体の関係を四種に分け、その中の事事無碍法界(じじむげほっかい)を理想世界としている。この事事無碍法界を説明するのが「法界縁起」「無尽縁起」である。「法界縁起」「無尽縁起」とは、法界森羅万象の姿は、一の中に一切の多を包含すると同時に、その一は一切の多に及び、お互い無限に関連し合い、しかも一微塵の中に全宇宙が反映し、一瞬のうちに永遠の時間が含まれるというものである。
 このような事事無碍法界は、毘盧舎那仏を中心とした蓮華蔵世界という浄土において成立するもので、衆生は、この毘盧舎那仏によって蓮華蔵世界に生ずることができるという。

〈五教十宗・同別二教の教判〉
 唐の法蔵は、「五教十宗」「同別二教」の教判を立て、『華厳経』が最勝であると主張している。
 「五教判」とは、仏教全体を教理の浅深について五つに分けたものであり、十宗とは、教えの内容について10種に分けたものである。この教判によって、『法華経』と『華厳経』はともに大乗円教であり円明倶徳宗であるとして最高位に配している。しかし『法華経』は、円融の一乗を説いているが、三乗教に同じて説いた教えであるから同教であり、『華厳経』は、円融の法門を説くに当たって、三乗教とは別に説いた教えであるから別教であり、真実の円明倶徳宗であるとして、同別二教を立てるのである。これらの教判を図示すると次のようになる。

 五教十宗・同別二教
小乗教…『阿含経』『婆沙論』『倶舎論』等に説かれる教え
①我法倶有宗(主観の我も客観の事物もともに実有であると説く)
②法有我無宗(客観の事物は過去・現在・未来の三世にわたり実有であるが、主観の我は無であると説く)
③法無去来宗(物事は現在においてのみ実体があり、過去と未来とには実体はないと説く)
④現通仮実宗(物事は過去・未来に無実体であるだけでなく、五蘊以外は現在でも実体がなく、仮りの存在と説く)
⑤俗妄真実宗(世俗の物事は虚妄であり、仏教の真理のみが実であると説く)
⑥諸法但名宗(あらゆる物事は、仮りの名のみで実体はないと説く)

 大乗始教(人法ともに空の理を説く大乗初門の教え)
⑦一切皆空宗(すべての事象・存在は、皆ことごとく真の空であると説く)
相始教……『解深密経』『瑜伽論』『唯識論』等
空始教……『般若経』『中論』『百論』等

大乗終教(終教とは大乗終極の実教という意味)
⑧真徳不空宗(すべての物事の本性は、真如であり清浄であると説く)
     …『勝鬘経』『起信論』『宝性論』等

大乗頓教(頓速(すみやかに)悟る教え)
⑨相想倶絶宗(真理は主観と客観との区別を超絶し、相対を絶した不可説・不可思議なところにあると説く)
   …『楞伽経』『維摩経』『起信論』等

大乗円教(円満、円備、円通、円融の教え)
⑩円明倶徳宗(あらゆる事象・存在は互いに妨げることなく、一切の功徳を備え、重々無尽の関係にあると説く)
同教一乗…『法華経』(円融の一乗を説いているが三乗教に同じて説く教え)
別教一乗…『華厳経』(円融の法門を説いているが、三乗教とは別に説く教え。真実の円明倶徳宗)



〈四法界〉
 華厳教学では、法界を事法界・理法界・理事無碍法界・事事無碍法界の四種(四法界)に分け、森羅万象の姿を説いている。すなわち、森羅万象は一心にまとめられるが、これを現象界と本体界からみると、以下のような四種の意味があるとする。
一、事法界  ……一々の事象が千差万別であること。縁起する諸法をあるがままに肯定する世界。
二、理法界  ……理とは事法界の一切の事象に行きわたり、これを成り立たせている体性(理体・理性)であり、法界の諸法は差別の事象であるが、その理性を見れば、いずれも同一性であり平等であるということ。
三、理事無碍法界…事と理が水と波の関係のように、融通無碍に相即し相成する世界。
一切諸法は差別の面では事であり有であり、平等の面では理であり空であるが、その間に何らの矛盾衝突がなく、空有無碍、理事無碍であることをいう。
四、事事無碍法界(じじむげほっかい)…現象の事々物々のあるがままに、事と事との関係が融通無碍であることを明らかにしたもの。一々の事法には、空有の両義を具しているので、事法相互の間にも重々無尽に相即相入する無碍の関係をもっていることを明かすもの。

〈十玄縁起〉
 事事無碍法界の特徴を10の方面から説明したものが十玄縁起である。これに通ずれば華厳の玄海(真理の領域)の入ることができるので玄門といい、法界の諸法が碍(さわ)りなく円満に融通している現象を縁起という。一般に縁起とは、因と縁とがあいまって諸法が生起するその活動の過程を意味しているが、華厳宗の「法界縁起」は、生起の意味ではなく、現実に顕れている現象そのものを指している。すなわち、法界森羅万象の姿は、現象と本体、現象と現象が互いに一体化し(相即)、その働きが互いに入り交じり(相入)、あるがままに融通して障りがなく(事事無碍法界)、幾重にも重なり合って無尽に縁起して(重々無尽)、しかも一を挙げれば他のすべてがそこに含まれる(主伴具足)というものであり、これを「法界縁起」という。

〈六相円融〉
 六相円融とは、十玄縁起と同様に法界の真相を説明するものであるが、縁起の諸法がことごとく総相・別相・同相・異相・成相(じょうそう)・壊相(えそう)の六相の関係より成り立っていて、互いに他を礙(さまた)げず、全体と部分、部分と部分が一体化して、円満に融(と)けあっていることを説いたものである。
 総相と別相には全部と部分との関係を説き、同相と異相には統一された調和と個々の差別を説き、成相には事物の建設的方面を、壊相にはその否定的方面を説いている。

〈修行と証果〉
 華厳宗では、教えを学ぶことそのものが修行であり、法界縁起の真相を知ることがすなわち観となることから、「教即観」を主張する。華厳の教えでは「心と仏と衆生は無差別」を説き、事々無碍法界の真理を学び体得すれば、おのずから悟りに至るという。
 また、事々無碍法界を説く華厳の教えでは、本来、修行の階位は認められないが、教導の面から次第行布門と円融相摂門とを立てる。次第行布門では52位の階位を立て歴劫修行の三生成仏を説く。三生成仏とは、修行者の成仏の次第を過去・現在・未来の三生に分けて述べたものである。
 ①見聞生…過去に華厳の法門を見聞する一生。
 ②解行生…今生で華厳の法門を聞き行ずる一生。
 ③証入生…未来に仏果に証入する一生。
 また、円融相摂門では信満成仏を説く。これは52位の中の最初の階位である十信の満心に、修行者の仏道が成就するということである。
 このように一往、修行を行布・円融とに分けるが、華厳の本来の教義に基づけば、行布即円融となり、一行即一切行、一位即一切位であり、断惑証理も一断即一切断、一得即一切得であり、成仏も一成即一切成となるとしている。

【破折の要点】
◆華厳宗の五教十宗の教判では、法華経と華厳経はともに大乗円教であり円明倶徳宗であるが、同別二教の判釈によって、法華経は三乗に同じて説いた「同教一乗」であるから劣り、華厳経は三乗とは別に説いた「別教一乗」であるから法華経より優れた教えであるとしている。
 これは真の円融の義を弁えない大いなる謬論である。ここでの「円」とは、少しも欠けるところがなく、円満にすべてが具足しているという意味である。法華経は、三乗を開して一仏乗に会入せしめるものであり、この開会の法門によって三乗ともどもに成仏せしめる真の円融の教え(円教)なのである。しかし華厳経は、法華経と同じ円融の教理を説くといっても、別教の教理を含んでいるために真の円融の教えとはならず、純円一実の教えを説く法華経には遠く及ばない。
 釈尊は『法華経』法師品に、
 「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり(中略)已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於て、此の法華経、最も為れ難信難解なり」(開結325)
と示され、一切諸経の中で法華経が最高の教えであると説かれている。
 したがって、「華厳第一、法華経第二」とする華厳の判釈は、釈尊に違背する大僻見の説である。

◆華厳経で説かれる事事無碍法界は、あくまでも毘盧舎那仏の蓮華蔵世界の姿であり、裟婆世界に住する我々凡夫には無縁の世界である。毘盧舎那仏の智慧と慈悲によって蓮華蔵世界に生ずることができるといっても、それには52位の階位による歴劫修行の三生成仏が必要とされる。たとえ円融相摂門で信満成仏を説いても、それは円教の菩薩が修行する位について説いたものであり、末法の凡夫には当てはまらない。したがって娑婆世界には無縁、歴劫修行が必要、末法の凡夫に不適である華厳経をもととする華厳宗など信仰に値しないことは明白である。

◆華厳宗では、華厳経の中にも一念三千の法門が説かれているとして、『華厳経』の「心は工なる画師の如し。種々の五陰を造る。一切世界の中に法として造るらざることなし。心の如く仏も亦而なり、仏の如く衆生も然なり」との文によって、十界三千の事物はことごとく心から起生するという「心生の十界」を説いている。しかし、十界三千の諸法は心から生ずるのではなく、一切衆生の心性にも、一切の色法にも本来具わっているもので、染浄の縁に随って差別の相を現ずるのである。この法理を説いているのが法華経であり、華厳経で説く「心生の十界」は、本来から存在するものではなく途中で心から生じたものであり、本無今有の失は免れない。
 日蓮大聖人は、華厳宗について、
 「華厳宗は澄観が時、華厳経の『心如工画師』の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人 これをしらず」(開目抄 新編528)
と喝破され、義を盗用し衆生を欺く宗派と断じている。

◆華厳経は、別円二教を説く高度な教えであるが、事実のうえで衆生の成仏の裏づけとなる種熟脱の三益の法門が説かれていない。
 この三益の重要性を日蓮大聖人は、
 「設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還って灰断に同じ、化の始終無しとは是なり」(観心本尊抄 新編656)
と示されている。さらに大聖人は、
 「種・熟・脱の法門、法華経の肝心なり。三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(秋元御書 新編1447)
と、法華経のみが種熟脱の三益を説く唯一の教えであり、その法華経の中でも、寿量品の文底に秘沈された妙法蓮華経こそがあらゆる仏をはじめ、一切衆生が成仏する根本の種子であることを示されている。
 種熟脱を説かない華厳宗の成仏義などは、所詮、机上の空論に過ぎない。

◆華厳宗では、教えを学ぶことそのものが修行であり、これによって悟りに至るというが、釈尊は衆生救済のため、絶対的な真理を説くとともに実践的な修行の重要性を示している。華厳宗のような実践面が欠如した理論偏重の教えでは、実際に衆生を救済することなどできるはずはない。


 
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