本文へスキップ

日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 三論宗

6 三論宗

【沿革】
三論宗は、インドの竜樹の『中論』・『十二門論』及び、その弟子提婆の『百論』の三部の論をもととして、中国で立てられた宗派であり、『般若経』を基本とした空思想を教理の根幹としているので「空宗」ともいわれた。三論教学は随の嘉祥大師吉蔵(544~523)の『三論玄義』によって大成された。
 三論宗は、日本に最初に伝えられた宗派であり、推古天王33(625)年、高麗の慧(え)潅(かん)によってもたらされ、これが第一伝となり元興寺流といわれた。その後、智蔵が入唐して帰朝後法隆寺で弘めたのを第二伝といい、さらに智蔵の弟子道慈によって第三伝が伝えられた。道慈は大安寺に住していたのでこれを大安寺流といった。
 奈良時代には、元興寺、大安寺、西大寺等で盛んに三論教義の講学が行われたが、三論宗は鎌倉時代に法相宗の寓宗(他の宗派に付属し寄寓する)となっている。

【教義の概要】
〈二蔵判と三転法輪〉
 三論宗では、二蔵判と三転法輪との二種の教判によって一代仏教を判釈している。
 二蔵判とは、小乗仏教を意味する「声聞蔵」と大乗仏教を意味する「菩薩蔵」である。三転法輪とは、華厳経を「根本法輪」とし、華厳以後、法華以前の大小乗の教えを「枝末法輪」とし、法華経を「摂末帰本法輪」とするものである。すなわち華厳経は、仏が成道直後、その悟りを即座に説かれた根本教説であり、他の諸経はこの根本教説から流れ出た枝末の教えであるが、法華一乗の教えを説くことによって三乗の機根を整え、枝末の教説を摂めて華厳の本旨に帰入させるというものである。
 また三論宗では、個々の教典はそれぞれに意味をもって説かれているもので、他宗の教判のように教典の勝劣浅深は判定すべきではないと主張し、強いて勝劣をいえば、諸経のいずれにも等・勝・劣の三義があるとする。たとえば、阿含経は小乗の機には適切な教えであるが、大乗の機には不適切な教えである。華厳経は大乗の機には適切な教えであるが、小乗の機には不適切で、それぞれに勝劣の二義がある。しかし、それぞれの機根に利益を与える点では同等であるから、一経一論に固執すべきではないと主張する。
 これらのことから三論宗では、一代仏教を通じて論ずる「三部の論」を拠り所として宗を立てている。

〈代表される三教義〉
一、破邪顕正
 「破邪顕正」の「破邪」とは、一切の有所得(うしょとく)の迷見を打破することである。有所得とは、有と無、是と非などの互いに対立する一方に執着することをいう。この「破邪」により、あらゆる迷妄を払い去ることによって無所得(むしょとく)の理に到達することができる。それが「顕正」である。無所得とはいずれにもとらわれず、執着することもなく有無を離れた空の真理を体得することをいう。
 したがって三論宗でいう「破邪顕正」とは、破邪即顕正であり、徹底した破邪によっておのずから正理が顕れるとするものである。
二、八不中道
 『中論』には「八不中道」が説かれている。「八不中道」の「不」とは「破」とか「泯(みん)」とかの意で、我々が迷い執着するものとして「生・滅・断・常・一・異・去・来」の八つを挙げ、これを一つひとつ否定すれば一切の迷いは断破せられ、無所得中道の悟り(絶対自由)を得ることができるとしている。
 したがって、「八不」は「破邪」の具体的な説明であり、「破邪即顕正」がそのまま「八不中道」となるのである。

三、真俗の二諦
 『中論』には、「破邪顕正」の具体的な認識方法として「真俗の二諦」が説かれている。真諦とは第一義諦・勝義諦ともいい、絶対の真理ということで、現象界の一々の本性は空であると観ずる仏・菩薩の絶対的な立場をいう。また、俗諦とは世俗諦ともいい、相対的な真理のことで、人々の間で日常的に正しいとされている事柄や、究極的な真理を表現したり把握するために用いられる事柄をいう。『中論』で説かれる真俗二諦の関係は、無明に覆われた衆生は常に主客の対立に執着している。この衆生を導くためには、それぞれに適した教化の手段を用いなければならない。空に執着するものには世俗諦を説いて有を明かし、有に執着するものには真諦を説いて空を明かし、有と空の二つの極端を離れた不二中道を悟らせ、涅槃へ導入するというものである。したがってこの真俗二諦は、真理表現の手段と教化の方法を明かしたもので真理そのものではない。
 三論宗では、この真俗二諦を四重にわたって説き、それによって嘉祥大師当時の諸学派の教理を打破している。四重の二諦とは、三論宗の教判的役割を担うものでもある。
●第一重の二諦とは、一切有部の偏執を払って、空を真諦としたもの。
●第二重の二諦とは、俗諦は有であり真諦は空である(俗有真空)との説に執着する成実学派の偏見を払って、有空はともに俗諦、非有非空は真諦とするもの。
●第三重の二諦とは、摂論学派(無著の『摂大乗論』と研学する学派)の三性三無性説を払って、有空の非有非空もともに俗諦とし、非非有非非空を真諦とするもの。
●第四重の二諦とは、前三重の二諦はいずれも教門の分野であるから俗諦とし、非非不有、非非不空を真諦とするもの。真諦は言語を絶した境地であるが、しばらく非非不有、非非不空をもって無所得中道の理を顕そうとしたものである。

〈修証論〉
 三論宗では、理論と実践を分けずに教理を体得することがそのまま観であるとしている。したがって、「破邪顕正」をそのまま観法としたものが「八不中道」とか「無所得正観」といわれるものである。
 また、衆生は本来仏であり、迷悟不二にして成仏不成仏を論ずべきではないが、現実の差別相をみれば、機根の違いによって成仏の遅速がある。鈍根の衆生は、三阿僧祇にわたり52位の階位を経て修行することが成仏の要件であるとしている。

【破折の要点】
◆三論宗では、『般若経』を三論教義のもととしている。この経典は諸法を融ずる教えであり、円融の教理も説かれているが、これは二乗作仏・十界互具を説かない別教の教理を伴っている。したがって真の三諦円融を説く教えとはいえない。また、徹底した破執の実践によって空理を悟り、そこに中道を見出そうとしても、結局は隔歴・但中の理に過ぎないものとなる。真の三諦円融を説く唯一真実の円教である『法華経』からみれば、三論宗の教えは人間を根底から救済するものではない。

◆修証面においても三論宗では、鈍根の衆生は三阿僧祇にわたり、52位の階位に基づいて修行することを説いているが、これは理論上の教説であって、現実には衆生済度の利益を施すものではない。


 
inserted by FC2 system