本文へスキップ

日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

TEL 086-255-1155

岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 南都六宗

一、南都六宗
 「南都六宗」とは、奈良時代の6つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。「南都」とは、後に京都(平安京)を北都といったのに対して、奈良(平城京)を指したものである。
 日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。
 聖徳太子は、仏教思想をもととした国家社会の構築を目指し、推古15(607)年、最初の遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隨に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。
 聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舍宗が伝えられたが、2宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。
 これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。
 聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった。
 平安時代に入ると伝教大師と南都六宗との間で幾多の論争が起った。延暦21(802)年、高尾山神護寺において、伝教大師は南都六宗七大寺の高僧等に対し、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。南都六宗側は伝教大師の講説に反駁することができず、伝教大師を讃歎する旨の書状を桓武天皇に提出した。以後、南都六宗の教勢は次第に衰えていった。



 
inserted by FC2 system