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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 天台宗系(天台宗・天台寺門宗・天台真盛宗)

1 天台宗

  高 祖   天台大師智顗(538~597)
  宗 祖   伝教大師最澄(767~822)
  本 尊   久遠実成無作本仏を本地仏とし、諸尊はその応現であるから一尊一仏としない。
  経 典   法華経を根本とし、その他の密教経典・大乗経典
  総本山   延暦寺 滋賀県大津市坂本4-6-2
  寺院教会数 3,273
  教師数   4.520
  信徒数   613,174

【沿革】
 天台宗は、中国の天台大師智顗を教えの源とし、伝教大師最澄によって開かれた宗派で、比叡山延暦寺を総本山とする。

〈中国の天台宗〉
 中国の天台宗は、陳・隋の時代、天台大師智顗によって創設された。
 智顗は、南北朝の時代、梁の大同4年、荊州に生まれ、18歳で湘州(そうしゅう)果願寺(かがんじ)の法緒(ほうしょ)を師として出家し、23歳のとき大蘇山(河南省(かなんしょう)南部)の南岳慧思(なんがくえし)を訪れ、修行の末、法華経の極理を悟った(大蘇開悟)。その後、陳の都である金陵で法華経の経題や『大智度論』などの講説に努めたが、都の仏教界の姿に疑問を抱き、38歳のとき天台山(浙江省(せっこうしょう))に入り修行の日々を送った。この時期に円頓止観を悟り、法華経の教理とその修得法を教観二門(教相門と観心門)として大成した。天台山を下りた智顗は、金陵の光宅寺で『法華文句』を、荊州の玉泉寺で『法華玄義』『摩訶止観』を講義して、法華経の教観二門を世に宣揚し、隋の晋王広(しんおうこう)(後の煬帝(ようだい))より智者大師の号を賜った。これらの講説は、後に弟子の章安大師潅頂によって筆録され、「天台三大部(法華三大部)」といわれている。開皇17年、智顗は60歳をもって入寂した。
 智顗は、釈尊一代の教説を五時八教の教判によって判釈し、法華経こそ唯一真実・最勝の経典であるとし、法華経の教理にもとづく一念三千の法門を説き、『摩訶止観』に説かれる観法によって悟りに至ることを説いた。当時の中国仏教界は、南三北七といわれる10師の諸説が互いに優劣を競っていたが、智顗の教観二門の教えによって、その争いに終止符が打たれた。
 智顗は、中国浙江省(せっこうしょう)東部の天台山の国清寺を拠点として活動していたことから天台大師とも尊称された。このことから中国天台は、六祖妙楽大師荊渓湛然のとき、天台宗と名乗るようになった。
 智顗以後の法系は、二祖章安大師灌頂、三祖智威、四祖慧威、五祖玄朗と受け継がれていったが、唐代に至り、中国の仏教界は法相宗、華厳宗、密教などが盛んとなり、天台の教勢は次第に衰退していった。それを復興したのが六祖妙楽大師湛然であった。最澄の入唐は、まさにこの天台復興の時期に当たっていたといえる。

〈伝教大師最澄〉
 日本天台宗の開祖である伝教大師最澄は、神護景雲元(767)年、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)三津首(みつのおびと)百枝(ももえ)の子として誕生し、広野(ひろの)と命名された。12歳で近江の国分寺に入り、14歳のとき、行表を戒師と仰いで得度し最澄と名乗った。延暦四(七八五)年、19歳のときに奈良の東大寺で具足戒を受け、国家公認の僧侶である近江国分寺の僧侶となった。しかし最澄は、腐敗堕落した南都の仏教界に失望し、比叡山へ入り山林の中での修行に専念した。このとき、自己反省と修行の決意を込めた「願文」を記している。

 延暦七(788)年、最澄は一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、後の延暦寺の前進となる比叡山寺の伽藍を整えた。また、次第に天台大師の法華一乗思想に傾倒しその確信をますます深め、延暦17(798)年には、天台大師の忌日に奈良の七大寺から10人の高僧を招き法華十講を行った。
 同21(802)年、最澄は、桓武天皇の勅命を受けた和気広世(わけのひろよ)の求めに応じて山を下り、高雄山神護寺で南都六宗の高僧に対し天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。南都六宗側は最澄の講説に対して反駁できず、それぞれ、讃歎する旨の書状を桓武天皇に奉呈した。これ以後、最澄に対する桓武天皇の信頼がますます深まり、崩御に至るまで絶大な外護を受けるようになる。
 同23(804)年、最澄38歳のとき、桓武天皇の勅許を得て還学生(げんがくしょう)(官費による短期留学生)として遣唐使の一行に加わり中国に渡った。このとき、後に真言宗の開祖となった空海も、20年間の長期勉学を命ぜられる留学生(るがくしょう)として同行していた。しかし、空海はその命を守らず、わずか2年で帰国の途につくこととなる。
 中国に渡った最澄は、天台山に上り、妙楽大師の弟子である道邃・行満から天台学・大乗戒などを受法し、さらには、帰国の途中、越州・龍興寺の順暁より密教を学び、8カ月にわたる中国滞在を終えて帰国した。
 延暦25(806)年、最澄は朝廷より比叡山の年分得度者の割り当てを受け、最澄の教えは天台宗として正式に認められた。天台宗では、この太政官符が公布された1月26日をもって開宗の日としている。年分得度者とは、官費で養成され、毎年公に認められる出家得度者のことで、これまでは南都六宗に一年に10名と限られていたが、以後、天台宗の止観業(法華部門)・遮那業(密教部門)の2名を加えて12名となった。
 この直後、最澄を庇護してきた桓武天皇が没し、最澄にとっては苦難の時代を迎えることとなる。しかし最澄は、さらなる天台教学の研鑽に努めると同時に、密教の理解をも深めようとした。
 最澄は、中国より本格的な密教を持ち帰った空海に教えを請い、さらには密教経典の借用を願うなどして親交を結んでいった。しかし、次第に空海が典籍の貸し出しを渋ったり、最澄の弟子が空海のもとに走るに及び、二人の関係は対立状態に陥っていった。
 また、晩年には、法相宗の徳一が投げかけた一乗方便三乗真実説に対して、最澄は『守護国界抄』『法華秀句』などを著し、三乗方便一乗真実の義をもって、法相宗の教義を破折した。これを「三一権実論諍」という。
 さらに、最澄が生涯をかけて取り組んだことに大乗戒壇独立運動がある。これまでの得度者はすべて東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺で受戒することになっていたが、これらは小乗の戒壇であり天台の教義に沿うものではなかった。そこで最澄は、法華一乗思想に基づく大乗の戒壇(圓頓戒壇)を比叡山に建立しようとした。しかし、南都六宗の反対にあって生前中は達成できず、弘仁3(822)年、56歳で入寂した。その7日後、朝廷より悲願の大乗戒壇建立の勅許が下りた。
  
〈最澄没後の天台宗〉
 最澄没後の天台宗は、真言宗に圧制されたことにより教勢は振るわなかった。その復興に取り組んだのが慈覚大師円仁、智証大師円珍、そして五大院安然であった。この三師によって天台の密教化が進み、以後、比叡山には密教が深く根付くことになる。このように密教化した天台を「台密」といい、真言宗を「東密」といった。

慈覚大師円仁
 円仁(794~864)は、下野国(栃木県)都賀郡に生まれ、大同3(808)年、比叡山に登って最澄の弟子となる。承和(じょうわ)3(836)年、遣唐使として中国に渡ったが、天台山に入山することはできず五台山で天台の教義を学んだ。その後長安に入り胎蔵界・金剛界、さらには、空海の入唐時にはなかった蘇悉地法(そしつじほう)を学び、承和(じょうわ)14(847)年、11年間の在唐生活を終えて帰国した。
 帰国した円仁は、嘉祥元(848)年、比叡山に総持院を建立して大日如来を安置し、国家の安康を真言密教の修法によって祈願することとした。そして、これまでの天台宗の年分得度者2名に、新たに「金剛頂経業」と「蘇悉地経業」の2職を増加して密教研修者の充実を計るとともに、真言密教は法華経に対すれば「理同事勝」であると主張して、比叡山の密教化を積極的に押し進めていった。
 また、円仁は、五台山で知った五会念仏の作法を用いて、常行念仏を比叡山の修行として取り入れた。これは、道場に阿弥陀如来を安置し、その回りを廻りながら口に念仏を唱える行である。これが後の日本浄土教発生の素因となった。
 仁寿4(854)年、円仁は第3代天台座主に任ぜられたが、貞観5(863)年、熱病を患い入寂する。その2年後、朝廷より、師である最澄に対して「伝教大師」、円仁に対して「慈覚大師」の号を贈られている。

智証大師円珍
 円珍(814~891)は、弘仁5年、讃岐国(香川県)に生まれた。母親が空海の姪であったが、叔父が天台宗の僧であったため、天長5(828)年、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真の弟子となる。33歳で真言学頭に任ぜられ、仁寿3(853)年、入唐し、天台山などで天台の教義と密教教理を学び、天安2(858)年に帰国した。
 帰国後の円珍は、太政大臣・藤原良房の庇護を受けるとともに、貞観4(862)年には、大友氏から氏寺である園城寺を預けられ、円珍はここを自らの拠点とした。貞観8(866)年、園城寺は天台別院となり、以後、円珍門流が代々の別当職を務めることとなる。また、円珍が清和天皇の母である皇太后明子(あきらけいこ)(藤原良房の女(むすめ))の護持僧に任ぜられたことにより、天台宗は、藤原家と密接なつながりを持つようになり次第に貴族化していった。
 貞観10(868)年、円珍は第5代天台座主となり、円仁の「理同事勝」をさらに押し進め、大日経は法華経よりもはるかに勝れた教えであるとして「円劣密勝」の考えを打ち出した。
 また、仁和3(887)年、円珍は、大比叡神(おおひえじん)、小比叡神(おひえじん)のために、それぞれ「大毘盧遮那経業」、「一字仏頂輪王経業」の年分得度者二職を増加した。大比叡神(おおひえじん)、小比叡神(おひえじん)とは、最澄が延暦寺の開創に当たり、比叡山の守り神として祀った土地神のことである。この年分得度者の増加は、密教の修法によって神仏習合思想の充実を計り、天台宗の国家仏教としての基盤を揺るぎないものとするためであった。これは、やがて山王一実神道へと発展し、江戸時代、天海が徳川家康を日光の輪王寺に東照宮として祀ることにつながっていった。
 この「山王一実神道」とは、神仏習合思想を天台の教義に基づいて理論化した天台の神道である。奈良朝以来、仏教と在来の神祇とは、神仏習合という関係で進展してきた。平安初期になると、この神仏習合思想は本地垂迹説として発展し、平安末期から鎌倉中期にかけて、天台宗と真言宗によってそれぞれ理論化された。天台宗では、神々をはじめとする森羅万象は本地仏である釈尊のあらわれであるとし、比叡山の鎮守日吉(ひえ)山王(さんのう)権現の大比叡神(おおひえじん)を本地仏である釈尊の垂迹として祀る「山王一実神道」を発生させた。「山王一実」とは、日吉(ひえ)山王(さんのう)権現の「山王」の文字が、いずれも縦の三と横の一、横の三と縦の一からなっているところから、三画は空仮中の三諦、一画は即一を意味し、一念三千、一心三観を表しているというものである。
 寛平3(891)年、円珍は78歳をもって入寂した。

五大院安然
 円仁、円珍の後を受けて天台密教を大成したのは安然(841?~897?)である。
 安然は円仁の弟子であったが、円仁没後遍昭の弟子となり、比叡山の東谷に五大院を建立して著作に専念する生涯を送ったため、五大院安然と呼ばれている。
 安然は、天台の四教(蔵・通・別・円)のうえに密教を加えた「五教教判」を立て、法華円教より真言密教がはるかに勝れた教えであるとした。また、さまざまに説かれた仏の教えを、仏と、説かれた時と、場所と、内容の四つに分け、それらはすべて、絶対の真理である密教に帰一するという「四一教判」をもって、円仁以来唱えられてきた一大円教論を教義的に大成した。
 一大円経論とは、釈尊の教法はもとより三世諸仏の諸説の法門、さらに宇宙森羅万象のすべては、皆真言密教であるという円密総合思想である。安然が大成したこの台密の教義は、従来の天台教学に密教の現実肯定主義を取り入れることとなり、それが、衆生はそのままで本来仏であるという天台本覚思想の隆盛につながっていくのである。

慈慧大師良源
 10世紀頃の比叡山は、幾度かの火災によって諸堂宇を消失し、荒廃の一途をたどった。それを復興し、最盛期をもたらしたのが慈慧大師良源(912~985)であった。
 良源は近江の国浅井郡に生まれ、12歳で比叡山に入る。康保3(966)年、第18代天台座主となり、藤原師輔(もろすけ)・兼家父子の外護のもと、比叡山の伽藍を整備し、横川の復興にも力を入れた。良源の門弟は3,000人ともいわれ、なかでも源信・覚運・尋禅・覚超は四哲と呼ばれる逸材であった。
 永観3(985)年、良源は73歳をもって入寂した。入寂の日が1月3日であったため、元三大師(がんさんだいし)とも呼ばれている。
 当時の比叡山は、学問も興隆し教団も隆盛を極めたが、藤原摂関家の権力との癒着によって貴族化を招き、さらには、僧兵集団の台頭などによって、次第に世俗化していった時代でもあった。

〈天台各派の分流〉
 初代天台座主義真の没後より天台宗には、円仁門徒と円珍門徒という二つの派閥が形成されていたが、良源の没後、比叡山の山門派と園城寺の寺門派に分裂し、天台宗は対立の時代に入った。
 永祚(えいそ)元(989)年、円珍門徒の余慶を天台座主に任ずるという「永祚(えいそ)の宣命(せんみょう)」が下ったことに対して、円仁門徒が反対したのをきっかけに、円珍門徒1,000余人は園城寺に移った。以後、比叡山の円仁門徒を山門派といい、園城寺の円珍門徒を寺門派といって、両者の対立はここに決定的なものとなり、寺門派は比叡山での実権をほとんど失い、天台座主も数代を除いてほとんどが山門派で占めるようになった。
 また、『往生要集』を著した恵心僧都源信(942~1017)は恵心流を、檀那僧都覚運(953~1007)は檀那流をそれぞれ形成し、平安末期(11世紀)の天台の法華教学は、この恵心流と檀那流の教義を中心として展開され、本覚思想が唱えられるようになった。
 本覚思想とは、衆生が菩提心を起こさず修行しなくとも、煩悩があるそのままですでに仏であるという現実肯定主義の思想・理論である。「本覚」とは、『大乗起信論』にはじめて現れる言葉で、心の本性は本来的に悟りそのものであるということである。これに対して、修行によって迷いをうち破り悟りを得ることを「始覚」という。この「本覚」の義が、台密教義の進展とともに、本覚思想として発展していった。
 12世紀になると、この本覚思想の展開に伴って恵檀八流の学派が生じた。すなわち、恵心流四派の、椙生流(皇覚)、行泉房流(静明)、土御門門跡流(政海)、宝地房流(証真)と檀那流四派の恵光房流(澄豪)、安居院流(長耀)、毘沙門堂流(智海)、猪熊流(聖融)である。本覚思想は、主に恵心流を中心として受け継がれ、後の中古天台本覚思想として爛熟期を迎えるのである。
 また、台密も次第に分流し、初期の根本三流(根本大師流、慈覚大師流、智証大師流)から、良源以後の谷流・川流を基本として一三流もの流派を形成するに至った。
 なお、これら比叡山の仏教は、後の鎌倉仏教発生の母胎ともなり、栄西・道元の禅宗、法然・親鸞、一遍などの浄土教を生み出している。

〈僧兵の台頭〉
 僧兵とは、武装した僧侶のことで、その萌芽は8世紀のはじめごろといわれている。しかし、その勢力が増大し問題化したのは平安時代以降のことである。
 このころの南都・北都の諸大寺は、律令体制の崩壊などによって急激に増大した寺領荘園を各寺で自衛する必要が生じてきた。そのため、僧尼令の無力化に伴う僧侶乱造と相まって、諸大寺ではいずれも僧兵の増大化を計った。奈良法師と呼ばれた興福寺、山法師と呼ばれた延暦寺、寺法師と呼ばれた園城寺の僧兵などが有名である。
 山門派と寺門派の抗争でも、互いの僧兵が実動部隊となり、延暦寺側は園城寺の焼き打ちを繰り返したり寺門派の天台座主就任を妨害した。朝廷は源平の武士団をもって鎮圧に当たったが、その効果は少なかった。
 しかしその後、元亀元(1571)年の織田信長による比叡山焼き打ち、天正13(1585)年の豊臣秀吉による根来寺襲撃、及び高野山多武峰の武器没収によって、僧兵の時代は終止符が打たれた。

〈その後の天台宗〉
 比叡山の天台宗は、開宗以来、最澄と桓武天皇の関係に象徴されるように、政治権力と深い関わりを持っていた。特に藤原摂関家とのつながりは、比叡山に繁栄をもたらした反面、僧団の貴族化や世俗化が進み、比叡山は次第に退廃していった。さらには、政変や動乱の渦中にも巻き込まれるようになり、最大の事件である織田信長の比叡山焼き打ちによって、比叡山は壊滅的打撃を受けることとなった。その後、豊臣秀吉によって、根本中道の再建をはじめ諸堂宇の復興がなされた。
 しかし、天台宗が名実ともに復興を遂げたのは、江戸時代の天海(1536~1643)のときである。天海は、徳川家康、秀忠、家光と三代にわたって親密な関係を持ち、比叡山の復興とともに、寛永2(1625)年、江戸に東叡山寛永寺を創建して宗政の中心を関東に移した。また、天海は、日光の輪王寺を復興して家康の遺体を久能山から移し、日光廟を創建して東照大権現として祀った。以後、この日光山輪王寺は、比叡山延暦寺、東叡山寛永寺とともに、天台宗の三大本山とされた。
 また、この時代には、妙立、霊空等による戒律復興運動である安楽騒動が起こった。寛文10(1672)年、妙立は具足戒を受けて小乗の四分律を兼学することを宣揚し、僧風の粛正を計るとともに、中国趙宋天台の教学を重視した。妙立の後を受けた霊空は、比叡山に安楽律院を中興し律義を弘める道場としたが、伝教大師の大乗円戒の立場からは四分兼学の制度は受け入れられなかった。しかし、このときの趙宋天台の宣揚は、以後の天台教学の主流となり、平安末期から続いた中古天台本覚思想が終焉を迎えるこことなった。
 明治に入り、約10,000箇寺あった寺院が、廃仏毀釈によって約4,000箇寺に減り、また明治7年、寺門派(三井の園城寺)が、明治11年には真盛派がそれぞれ天台宗から独立した。
 その後、昭和15年の宗教団体法により一時、天台宗として統合されたが、戦後再び分派し、さらに四天王寺(和宗)浅草寺(聖観音宗)なども独立するに至った。

【本尊】
 天台宗では、法華経本門で開顕された久遠実成無作の釈尊を本尊としている。さらに円密一致の宗旨から、釈尊と大日如来は一体不二であるとして大日如来も本尊とする。また、その他の仏・菩薩・明王などは、衆生済度のために本仏が縁に随って身を変えて現れたものであるから、何を本尊としても良いとする。実際例を挙げれば、
 延暦寺東塔・根本中道………薬師如来
 東塔・総持院…………………大日如来
 西塔・釈迦堂…………………釈迦如来
 西塔・浄土院…………………阿弥陀如来
 横川・横川中堂………………聖観音菩薩
などとなっている。
 また各末寺の本尊も、釈迦・薬師・阿弥陀の三尊のほかに、大日如来・観世音菩薩・不動明王・毘沙門天・両界曼荼羅・祖師像など、多種にわたっている。

【所依の経典・章疏】
  法華三部経………『法華経』『無量義経』『観普賢経』
  天台三大部………『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』
  浄土三部経………『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』
  その他……………『涅槃経』『梵網菩薩戒経』『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』等

【教義の概要】
〈天台大師智顗の教義〉
●教観二門
 教相門…経論の解釈や研究を中心とした教理、理論面をいい、主に『法華玄義』『法華文句』に明かされている。
 智顗は、釈尊一代の教説を五時八教の教判をもって判釈し、法華経こそ純円一実の教えであるとした。また、法華経以前の諸経は、開会の法門によって法華経の教えのなかで生かされた。
観心門…教相門で明らかになった教理(悟り)を体得するための修行そのものや、そのための諸規定や諸準備を示したもので、主に『摩訶止観』に明かされている。
●一念三千
 『摩訶止観』に説かれる法門で、一瞬一瞬の心に、あらゆる諸法が具わっていることを示したもの。一念とは一瞬一瞬の心であり、三千とは三千世間あるいは三千如是といわれる一切の諸法をいう。
●円頓止観
 教理を体得する修行法を天台では止観という。『摩訶止観』には、修行者の能力に応じて、漸次・不定・円頓の三種の止観が説かれているが、智顗の主とするところは円頓止観である。この円頓止観は一心三観ともいわれる。
 智顗は、円融の三諦によって諸法の真実の姿(諸法実相)を説き明かした。すなわち、諸法の姿には、空諦、仮諦、中諦という三通りの状態があり、空諦とは、あらゆる存在には実体がないということ。仮諦とは、あらゆる存在は因縁によって仮にその姿が現れていること。中諦とは、中道第一義諦ともいい、あらゆる存在は空でも仮でもない、しかも空、しかも仮とする、偏執のないところに真実があるということである。円融の三諦とは、三諦が互いに融通しあい、三諦それぞれが他の二諦を含んで、しかも一諦に偏執しないことをいい、これが諸法の真実の姿であるとした。
 これを悟るためには、空諦を悟るための観法である従仮入空観(空観)、仮諦を悟るための観法である従空入仮観(仮観)、中諦を悟るための観法である中道第一義諦観(中観)の三観を融じて、自己の心に一時観達しなけれなならないとする。その修行法が一心三観であり円頓止観である。これによって、一念三千の法理を悟るのである。

〈伝教大師最澄の教義〉
 最澄は、『法華経』を根本聖典とし、天台大師が説かれた教義にもとづき、法華円教による一乗思想を打ち立てた。さらに、当時中国で弘まっていた密教、悟りを得る方法である禅(天台では止観という)、梵網菩薩戒を基とした大乗戒の三つを、法華円教の教えによって総合的に統一し融合させる四宗融合思想によって天台宗を創設した。

〈円仁の台密教義〉
 密教の経典である『大日経』には、大日如来の慈悲によって育成される悟りの世界を表す胎蔵界が説かれており、『金剛頂経』には、煩悩を打ち砕く堅固な悟りの智慧を表す金剛界が説かれている。真言宗では、この金胎両界によって教義を立てているが、比叡山第三代の円仁は、これに『蘇悉地経』の蘇悉地法を加えて台密の教義を確立した。『蘇悉地経』は、胎蔵界・金剛界の両部にわたった要点を統一して完成(悉地)するという性格を持つもので、上中下の三種の悉地や修行法の基本的作法が網羅されたものである。
 また円仁は、最澄の一乗真実・三乗方便の判釈を基に、独自の顕密二教判を立てた。この教判とは、蔵・通・別の三教は三乗教であり顕教である。これに対して、『華厳経』『般若経』『法華経』などの円教と、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』などはともに密教である。しかし、『法華経』等は唯理秘密、『大日経』等は事理倶密となるので、同じ密教といっても「理同事別」である。したがって、『法華経』と真言密教とでは、仏の印と真言という事相のうえで真言密教が勝る(理同事勝)というものである。

〈円珍の台密教義〉
 第五代座主円珍は、円仁の顕密二教判のうえに独自の五時教判を唱え、天台の密教化をさらに進めた。五時教判とは、天台の五時教判に則ったもので、『法華経』『涅槃経』と『大日経』はともに第五時の説法であるが、そのなかでも、『法華経』は「初」、『涅槃経』は「中」、『大日経』は「後」に当たる教えであるとして、『大日経』は『法華経』よりもはるかに勝れた教えであるという「円劣密勝」を主張するものである。

〈安然の台密〉
●五教教判
 五大院安然は、円仁の顕密二教判、円珍の五時教判を基に五教教判を立てた。これは、蔵、通、別、円の四教のうえに密教を加えて五教としたもので、教理内容のうえからも、真言密教は『法華経』に優れると主張した。
 また、さまざまに説かれた仏の教えを、「仏」と説かれた「時」と「場所」と「内容」の四つに分け、「四一教判」を説いて、円仁以来唱えられてきた一大円教論を大成した。

●四一教判
一、一切仏一仏…三世十方の諸仏は、大日如来の内証に具する万善万徳のなかの一徳づつが顕れ たものであるから、その実は大日如来の一仏に帰するということ。
二、一切時一時…時を総別の二時に分け、総の一時とは、大日如来が衆生に対して無始無終に密 教を説く法爾常恒の説時をいい、別の一時とは、華厳乃至法華・涅槃時等の説 時をいう。別の一時は、総の一時が、法を聴聞する因縁生起と衆生と仏の感応 道交により、その時々によって現れたものであり、すべての時は大日如来の説 時に帰するということ。
三、一切処一処…一切経のそれぞれの説処は、理智冥合して自受法楽する自内証の境地である自 受用法界宮の一処(大日如来の本所)に帰するということ。
四、一切教一教…無量の法門は、皆ことごとく大日如来の教えである真言密教に帰するというこ と。

【修法】
四種三昧
天台宗では、悟りを得る修法を止観といい、天台大師が著した『摩訶止観』に説かれる四種三昧を根本修法としている。
  常座三昧………坐禅止観によって一念三千の理を観ずる。(90日間堂内に止観する)
  常行三昧………阿弥陀仏の名号を唱えながら行道する。(夏の90日間堂内にこもる)
  半行半座三昧…懺悔して仏心を成ずる。(90日間法華経を読誦する)
  非行非座三昧…特定の期間や儀則などは設けず、日常生活の立ち居振る舞いのなかで仏を念じ修行する。
 このほかに台密の修法としては、蘇悉地法の一八道行法が主として行じられる。これは真言密教の修法に従って印を結び真言を唱える行である。また、天台宗では阿弥陀仏を本尊として光明真言法を修する光明供などの修行も行われる。
 このように天台宗といっても、流派や寺院によって本尊や修法は一様ではない。比叡山などは毎日の勤行としては、「朝題目に夕念仏」が広く行われている。

●回峰行
 回峰行は、慈覚大師の弟子である相応(831~918)によってはじめられた修行で、7年間で1,000日、比叡山の谷や峰を巡って礼拝する行である。比叡山は古来神の山といわれ、最澄入山後は神仏習合の霊山として尊ばれていたが、台密教義の発展に伴い、比叡山の一木一草をはじめすべてが仏であり、密教の曼荼羅世界であると見なされるようになった。したがって、全山を巡礼することは仏の世界に入ることであり、天台宗では聖者となるための重要な修行となっている。また回峰行は、法華経の『常不軽菩薩品』に説かれる不軽菩薩の礼拝行の実践であるともいわれている。

【門跡寺院】
 門跡とは、本来、一門を統摂するといった意味で、寺院の主を指した言葉であるが、後に、宮家、摂家、貴族の子弟が住職を務める寺院を指すようになった。
 天台宗では、現在八箇寺を門跡寺院としている。代表的な寺院を挙げると、三千院門跡(京都市大原)・東叡山輪王寺門跡(東京台東区上野)・日光山輪王寺門跡(栃木県日光市)などである。
 その他「別格大寺」として、寛永寺(東京台東区上野)、中尊寺(岩手県平泉町)などがある。

2 天台寺門宗

  開 祖   智証大師円珍(814~891)
  本 尊   久遠無作の本仏(応現として諸尊諸仏も尊信)
  経 論   法華経・大日経・法華三大部・授決集
  総本山   園城寺 滋賀県大津市園城寺町246
  寺院教会数 233
  教師数   1,151 
  信徒数   367,520

 総本山である園城寺の創建は、飛鳥時代とも奈良時代ともいわれる。もともと大伴氏の氏寺として建てられ、天智、天武、持統の三天皇の産湯の水を汲んだ井戸があるところから三井寺ともいわれる。貞観4(862)年、大友氏が氏寺である園城寺を円珍に預けたことにより、円珍は伽藍を整備修復し、多くの典籍を運び込んで自らの拠点とした。
 その後、円仁門徒(山門派)と円珍門徒(寺門派)の争いにより、正暦4(993)年、円珍門徒が比叡山から離れて園城寺(三井)に移り、ここを拠点として立宗の基礎を築いた。比叡山から独立した戒壇を園城寺に建立しようとして何度か朝廷に願ったが、その都度、山門派の激しい反対にあって成就しなかった。また、何度も比叡山の僧兵の焼き打ちに遭い、再建と復興を繰り返した。
 明治7年、天台宗から分派独立し天台宗寺門派となる。昭和16年、宗教団体法のもとで天台宗に統合されたが、昭和21年、再び独立して天台寺門宗と公称した。天台寺門宗の特色は、円密一致、三道融合(法華・密教・修験が同等のもの)の修行によって即身頓成を目指すところにある。したがって、天台寺門宗は、修験道にも大きな影響力を及ぼしているといわれる。

3 天台真盛宗(しんせいしゅう)

  宗 祖   真盛(1443~1495)
  本 尊   阿弥陀三尊
  経 典   法華三部経・梵網経・浄土三部経
  総本山   西教寺 滋賀県大津市坂本5-13-1
  寺院教会数 426 
  教師数   443
  信徒数   66,840

 総本山の西教寺(さいきょうじ)は、推古天皇26(618)年、聖徳太子の創建とされるが定かではない。慈慧大師良源が草庵を結び、後に、恵心僧都源信が念仏の道場としたことにはじまるといわれている。鎌倉時代になると一時荒廃したが、後醍醐天皇の命を受けた恵鎮(えちん)によって復興され、さらに青龍寺の流れを汲む円頓戒の道場ともなった。ここで西教寺は、従来の念仏道場であるのみならず、円頓戒を伝える戒場となり、黒谷流円頓戒の四箇戒場の一つに数えられた。
 宗祖の真盛は伊勢国一志郡に生まれ、幼少にして同郡の光明寺盛源を師として出家し、尾張の密蔵院で台密を学んだ。後に比叡山に登り、35歳で大乗会の講師を経て権大僧都に補任されるという破格の昇進を遂げたが、当時の比叡山の退廃に失望し黒谷の青龍寺に隠遁した。黒谷は、浄土宗の祖法然が学んだとされる称名念仏の中心地であった。真盛はここで念仏の修行に専念し、源信の『往生要集』に啓発され、常に念仏を唱えつつ、円戒を守るならば成仏は疑いないとの確信を得た。文明18(1486)年、真盛は西教寺に入り、円頓戒と称名念仏の二門による法義を唱え、真盛門流を形成するようになった。
 明治11年、天台宗から独立して天台宗真盛派となり、昭和21年、天台真盛宗となった。

【破折の要点】
◆天台の教えは像法時代の教え
 仏法流布については時を弁えなければならない。『大集経』には五箇の五百歳が説かれていて、釈尊滅後2,000年を過ぎると末法の時代に入り、釈尊の説かれた仏法が衰え、衆生を救う功力が失われることを明かしている。
 中国の天台大師は、一代仏教のなかで最勝深秘の教えである『法華経』をもって人々を救済し、伝教大師は天台大師の教えをもとに日本天台宗を開宗して、当時の人々に『法華経』の利益を与えた。しかし、この時代は像法時代であり、天台大師の教えは像法時代には衆生を救う功力があったが、末法の時代である現在にはその力が及ばないのである。
 日蓮大聖人は、
 「設ひ天台・伝教の如く法のまゝありとも、今末法に至っては去年の暦の如し」
                             (観心本尊得意抄 新編914)
と説かれている。すなわち、過ぎ去った昔の暦を用いるならば、日常生活にさまざまな支障をきたし安穏な生活が送れないのと同じように、利益を失った釈尊の仏法を末法の今、天台・伝教両大師の教えどおりに信仰したとしても、利益を得ることはできないのである。
 日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、
 「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」
                                    (新編1219)
と示されている。末法の時代は、日蓮大聖人が説かれた寿量文底の南無妙法蓮華経の教えを信仰することが、成仏の唯一の道であることを知らなければならない。

◆天台の教えは迹門理の一念三千、日蓮大聖人の教えは本門事の一念三千
 天台大師は、心と諸法は相即して而二不二の関係であるとして、『法華経』の教理をもとに一念三千の法門を説いた。しかしこの教えは、日蓮大聖人の仏法からみれば浅い教えである。天台大師の説いた教えは、『法華経』の迹門を表とし本門を裏とした「迹面本裏」の教えであり、真の最勝深秘の教えではない。また、天台の教えは迹門脱益・理の一念三千の法門であり、像法時代には利益があっても五濁悪世の末法の凡夫を救う力はない。末法の衆生に成仏の大利益をもたらす教えは、日蓮大聖人が説かれた本門寿量品文底の事の一念三千の南無妙法蓮華経以外にないのである。これこそ、天台の教えよりはるかに勝れた真の最勝深秘の教えであり、仏法の根源となる究極の教えである。

◆天台の修行は末法の機根に堪えざるもの
 天台の理の一念三千を体得するには、『摩訶止観』に説かれる「十乗観法」といわれる観念観法によらなければならない。この修行は、本已有善といって、過去世に成仏のもととなる仏種を下された衆生の修行法であって、末法の本未有善(未だ仏種を下されたことがない)の衆生には不可能な修行方法である。
 これに対して日蓮大聖人の説かれた教えは、久遠元初事の一念三千の妙法をただちに衆生の心田に下種する教えであり、その修行は、南無妙法蓮華経の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱題することであり、そこにあらゆる人々が即身成仏の大利益を得ることができるのである。

◆密教導入後の天台宗は、権実雑乱、師敵対の大謗法
 伝教大師は、天台大師の教義を用いて当時の南都六宗を破折し、像法時代に適した教えを弘めたが、円仁、円珍、安然の時代に至り密教を取り入れ、法華円教のみを広めるべき本来の天台宗を汚濁してしまった。密教の所依の経典である『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』などは、天台大師の五時八教の教判でいえば、第三方等時の説法であり、小乗の教えに執着する二乗を弾訶するために説いた教えである。ただちに真実の教えを説く『法華経』にははるかに及ばない権りの教えである。円仁・円珍・安然が天台宗に密教を導入したことは、前述したとおりである。
 『法華経』の法師品には、
 「我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり」(開結325)
と示され、法華経こそ諸経の中で最第一の教えであると説かれている。したがって、円仁・円珍・安然が唱えた台密思想は、師である天台・伝教の両大師に師敵対するだけでなく、仏説に違背した大謗法の謬論である。
 密教導入後の天台宗は、教義や本尊も雑多となり、阿弥陀信仰や修験道まで取り入れ、「天台過時」というだけでなく、権実雑乱の謗法の姿を呈している。


 
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