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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 浄土系(融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・時宗)

四 浄土系

【沿革】
 浄土教とは、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』に拠るもので、阿弥陀仏の本願に基づき、観仏や念仏によって、穢土であるこの娑婆世界を去って、阿弥陀仏の極楽浄土に往生しようと願う教えである。
 この教えを基として最初に浄土思想を唱えたのがインドの竜樹や世親であった。特に世親の『浄土論』は北魏の曇鸞の註釈を通じて後世に大きな影響を与えた。
中国における浄土教は、曇鸞(476~542・南北朝時代)によって弘められた。曇鸞は北インドの菩提流支より『観無量寿経』を授けられて浄土教に帰し、『浄土論註』(往生論註)を著して念仏の教義を説き浄土宗を創始した。その流れを汲む道綽(562~645+唐代)と、その弟子の善導(613~681)によって浄土念仏の思想が大成された。
日本の浄土教は平安中期以降、空也(903~972)と恵心僧都源信(942~1017)によって弘められた。
 空也は、阿弥陀仏の救いを念じ、穢れたこの世を離れ極楽浄土に往生することを願う教えとして念仏を唱導した。また空也は、乞食の身なりで金鼓と錫杖を持ち、諸国を巡歴し念仏を説き、人の集まる町中で布教したので「阿弥陀聖」「市の聖」と呼ばれた。
 源信は『往生要集』を著して念仏を勧めた。これによって、貴族は競って阿弥陀堂を建てて阿弥陀仏を安置し、そこに現世の極楽世界を造りだし念仏三昧にひたった。
平安末期に出た良忍(聖応大師・1072~1133)は、延久四年、尾張国(愛知県)知多郡の領主の子に生まれ、はじめ比叡山で修行して、23歳で京都大原に引退し、来迎院を建てて専ら浄土の行を修した。後に永久五(1117)年、念仏三昧のなか融通念仏の偈を感得し、広く念仏を勧進し融通念仏宗を開いた。
 また、鎌倉時代の初頭に至り法然は、浄土三部経と世親の『浄土論』、さらには善導の教判をもととして専修念仏義を立て、浄土教を日本浄土宗として開宗した。
 法然(諱は源空1133~1212)は、平安時代末期の長承2年に美作国(岡山県)久米に武家の長男として生まれた。13歳のときに比叡山延暦寺に登り、15歳で得度し天台教学を学んだ。一八歳のとき京都黒谷に移り、慈眼房叡空に従って浄土教を修め、法然房源空と改めた。43歳の承安五(1175)年に、善導の『観無量寿経疏』(観経疏)の「一心念仏弥陀名号(一心に専ら弥陀の名号を念ず)」の文によって専修念仏(称名念仏)を弘めた。さらに建久9(1198)年には、浄土宗の根本宗典となる『選択本願念仏集』を著した。
 この専修念仏が広まるにしたがって、法然は奈良の旧仏教からの弾圧を受け、建永2(1207)年、四国に流罪されたが、同年には赦免された。そして建暦2(1212)年1月23日、浄土宗の要義をまとめた「一枚起請文」を遺し、同月25日、大谷の地で80歳をもって死去した。
法然の没後、九州に拠点をおいた弁長(1162~1238)は鎮西流を開き、京都で貴族の間で勢力のあった証空(1177~1247)は西山流を、親鸞は浄土真宗を開き、それぞれ浄土宗(鎮西流)・浄土宗西山派・真宗として現在に至っている。
 親鸞は、承安3(1173)年4月、藤原氏の一族日野有範の子として生まれた。9歳で出家し比叡山で修行をしたが、建仁元(1201)年、聖徳太子の夢告を得たとして法然の門下となり、法然の教えこそ「真の宗」と考えた。
 承元元(1207)年には師の法然が四国に流されたことに伴い、親鸞は越後国(新潟県)に流罪となった。親鸞はこれ以後、非僧非俗の立場をとって流罪地で恵信尼と結婚し、42歳のころより家族とともに関東の地で布教した。
 浄土真宗の立教は、親鸞が52歳のときに『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)を著した元仁元(1224)年となっている。
 親鸞没後、三代覚如(親鸞の曾孫)のとき、文永9(1272)年に、京都東山大谷の親鸞の廟堂を「本願寺」と称した。その後本願寺は、織田信長との石山合戦を経て、天正19年に現在地の堀川に移った。
 本願寺8代蓮如のとき、浄土真宗は全国に広まり、真宗他派や時宗を吸収し大教団となった。
 慶長7(1602)年、第12代教如は徳川家康より本願寺の東に寺有地を受け、東本願寺(現在の真宗大谷派)を創した。これをきっかけとして本願寺は東西に分かれ、もとの本願寺を西本願寺(現在の本願寺派)と呼んだ。
鎌倉中期に起こった時宗は、浄土宗西山派の聖達の弟子一遍房智真(1239~1289)によって開かれた。
 一遍は、延応元(1239)年、伊予国(愛媛県)道後の豪族・河野道広の次男として生まれ、10歳で出家し、13歳のときに太宰府の聖達のもとで浄土教を学んだ。その後、財産や家族、故郷の一切を捨てて諸国を遊行し、念仏の札を配って歩く一所不住の生活を送った。このことから時宗を「遊行宗」ともいう。時宗は、室町時代末期に浄土真宗に吸収され衰微したが、現在でも「踊り念仏」の宗派としてその名が知られている。

【教義の概要】
 浄土宗は阿弥陀仏を本尊とし、浄土の三部経といわれる『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を所依の教典としている。
 浄土宗の教えは、この世は苦悩に満ちた穢土であり、専ら念仏を唱えること(専修念仏)によって阿弥陀仏の本願力に叶い、この穢土を離れて西方十万億土に極楽往生できるという「他力本願」の教えを説く。
 その教義の特徴は、二者択一の「選択」の教判にある。浄土宗では、仏教を難易二道に分け、難行道は自力聖道門、易行道は他力浄土門とし、難行を捨てて易行を選ぶのである。
 この教えは、インドの竜樹の著である『十住毘婆沙論』易行品の「仏法に無量の法門あり。世間の道に難あり易あり、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し、菩薩の道も亦是くの如し」(大正26の41)を根拠としている。すなわち陸路の歩行は難行、水路の乗船は易行という譬えをもって、菩薩が不退の位に至るには難行と易行との二つの道があるとし、難行道とは難行苦行によって悟りを得ようとすることであり、易行道とは仏や菩薩を信じ、その力によって悟りを得ようとするものである。
 中国の浄土教には、観相念仏の「廬山流」、称名念仏の「善導流」、禅浄律一致念仏の「慈愍流」の三派があり、その念仏の実践内容は必ずしも一致していなかった。しかし、中国浄土教の主流は善導流であり、これはインドの竜樹・世親の浄土思想を受け、曇鸞・道綽を経て善導に至り大成されたものである。
 中国浄土宗の祖曇鸞(476~542)は、『往生論註』の中で、「難行道」と「易行道」に自力と他力を加えて極楽往生の教えを説いた。ここでいう自力とは自分で修行することをいい、他力とは阿弥陀仏の力にすがることをいう。
 曇鸞によれば、難行道とは浄土三部経以外の経典に説かれる修行(自力)をいい、この自力・難行道では悟りは開けないとしている。これに対して、易行道とは浄土三部経に説かれる念仏の修行であり、阿弥陀仏の本願を信じ、阿弥陀仏の力(他力)によってのみ極楽往生が遂げられるとする。
 道綽(562~645)は、曇鸞の教えをもとに、『安楽集』(大正47―13)で一代仏教を「聖道門」と「浄土門」の二門に分けた。門とは教えのことで、聖道門とは、自力の行を励み、この世で悟りを開くことを目指す聖者の道をいい、浄土門とは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏を修行すれば、阿弥陀仏の力によって西方極楽浄土に往生し、来世に悟りを開くことができるという教えである。
 道綽は、聖道門は自力教で難行道であり、浄土門は他力教で易行道であるとし、浄土三部経で説かれる浄土門こそ凡夫の機に適った教えであり、「唯浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」と主張し、浄土三部経以外の法華経等の聖道門は「未だ一人も得る者有らず」と排斥した。
 中国浄土宗の第三祖善導(618~681)は『観無量寿経疏』『往生礼讃偈』を著し、これまでの浄土教を大成した。
 善導は、仏道修行に「正行」と「雑行」の二行を立てた。正行とは、阿弥陀仏に対する五種の行(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)であり、雑行とは、浄土三部経以外による雑多で無益な修行であるとした。そして、この正行を修行する者は「十即十生百即百生」といってすべての人が往生できるとし、念仏以外の雑行を修する者を「千中無一」といって千人に一人も往生できないと説いた。さらに、五種の正行の一つである称名正行こそ、阿弥陀仏の本願に叶う往生のための行であるから正定業(正業)とし、他の四正行は称名正行を助成するものであるから助業とした。
 日本浄土宗の開祖・法然(1133~1212)は、『選択本願念仏集』(選択集)を著し、善導の教えをもとに、正定業の称名念仏のみで往生できるとして口称の専修念仏を強調した。
 また、自宗を浄土門・易行道・正行と立て、他宗を難行道・聖道門・雑行と称して「雑を捨て、定散の門を閉じ、聖道門を閣き、諸雑行を抛ち」(捨閉閣抛)と説いて、浄土三部経以外の一切経を排斥した。

1 融通念仏宗

  宗 祖   良忍(1072~1132)尾張国(愛知県)生
  本 尊   11尊天得如来(中央に阿弥陀如来、その周囲を10体の菩薩が取り囲む曼陀羅で表示)
  経 典   (正依)華厳経・法華経
        (傍依)梵網経・無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経
  総本山   大念仏寺 大阪市平野区平野上町117―26
  寺院教会数 359
  教師数   417
  信徒数   129,870

 融通念仏は、華厳経の事々無礙融通思想と法華経の十界互具互融の説に基づいた念仏説である。
 良忍は、延久4年1月1日に生まれ、12歳のとき、比叡山で良賀を師として得度した。永久5(1115)年5月15日46六歳のとき、洛北の大原山で修行中、阿弥陀如来より夢告で授けられたといわれる「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行、是名他力往生、十界一念、融通念仏、億百万遍、功徳円満」との文を立宗の基としている。これは念仏を唱えれば、「その功徳は一切に及び、自分にも帰ってくる。この功徳で自分も成仏することができるので他力往生という。念仏を称えるなかに、阿弥陀仏の本願力と自分の念仏の力と他の念仏の力が互いに融通して大きな功徳となる」ということで、苦悩の娑婆世界がただちに寂光浄土に転じて、現世に喜びあふれる楽土、仏身仏国土が築かれるとした。
 良忍は、天治元(1124)年に入洛して鳥羽上皇をはじめ公卿百官に念仏を説き、摂津住吉郡平野郷の修楽寺に留まって布教した。この修楽寺は、明治七年に宗名を公称し、総本山大念仏寺となった。

2 浄土宗

  宗 祖   法然(1133~1212)美作国(岡山県)生
  本 尊   阿弥陀如来・弥陀三尊(中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩)
  経 典   無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経、世親の往生論(三経一論)
  総本山    知恩院 京都市東山区新橋通大和大路通東入三 林下町400-8
  寺院教会数 7,081
  教師数   10,133
  信徒数   6,032,798

 浄土宗は法然を宗祖とし、「阿弥陀仏に帰命し、その本願を信じ、称名念仏によって、その浄土への往生を期するにある」(宗綱第三条)を教旨としている。
 法然は、当時の貴族仏教・伽藍仏教を否定し、称名念仏こそすべての衆生を死後、平等に往生せしめるという「念仏為先」を説いた。

 法然の没後、称名の意義をめぐり、一度の念仏で浄土往生できるとする「一念義」と、臨終の往生のために日頃から数多くの念仏を唱えるべきだとする「多念義」等の論争が生じた。これにより隆寛の多念義(長楽寺派)、弁長の筑紫義(鎮西派)、幸西の一念義、証空の弘願義(西山派)、長西の諸行本願義(九品寺派)、親鸞の浄土真宗等の諸流派が形成された。
 今日の主流は、弁長の鎮西流を中心とした流派で、三祖の良忠(1199~1287)が教団の基礎を固め、7祖の聖冏のときに宗義を明確にした。
 その他の浄土宗諸派系譜は別表の通りである。

3 浄土真宗本願寺派(西本願寺)

  宗 祖   親鸞(1173~1262)日野(京都)生
  本 尊   阿弥陀如来(立像の絵像・木像本尊、六字・九字・十字の名号本尊)
  経 典   無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経
  本 山   本願寺 京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町
  寺院教会数 10,485
   教師数   29,871
  信徒数   6,940,681

 浄土真宗は、古くは一向宗・門徒宗と呼ばれた時期があったが、明治時代に名称を改め現在に至っている。
 宗祖の親鸞は、師である法然の専修念仏・他力思想をさらに一歩進めた。親鸞の教えの特徴は、絶対他力・悪人正機(救済)・往生成仏にある。法然には、念仏を自分の意志で唱えるという自力の部分があるが、親鸞は、念仏を唱えることすら阿弥陀仏の本願力によるものであるとして、一切の自力を捨てて「信心為本」に立つ絶対他力を主張した。
 また、『歎異抄』第三条に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と説き、悪人こそが仏の救いの対象であり、弥陀の本願力を受ける機根であるという悪人正機を唱え、農民層への布教に努めた。
 浄土宗の本尊は阿弥陀三尊であるが、浄土真宗は阿弥陀如来の一仏立像を本尊とする。立像の姿は、苦悩の衆生を救うために立ち動く慈悲の姿であり、他力回向を表するものと意義づけている。
 また親鸞は、依経である浄土三部経に勝劣をつけ、『無量寿経』を大経として真実の教えを説くものとし、『観無量寿経』『阿弥陀経』を小経として方便の教えを説くものとした。これによって浄土真宗では、一方では三経一致を説きながらも『無量寿経』が弘願真実の法門を明かした経典として最も重視している。

4 真宗大谷派(東本願寺)

  宗 祖   親鸞(1173~1262)
  本 尊   阿弥陀如来 形像本尊 名号本尊
  経 典   無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経
  本 山   本願寺 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
  寺院教会数 8,874
  教師数   16,734
  信徒数   5,533,146

 本願寺は宗祖を親鸞と仰ぎ、8代蓮如(1415~1499)のとき急激に発展したが、第11代顕如のとき、織田信長との対立が原因となって、顕如と長男教如の父子が不和となった。さらに豊臣秀吉の時代には、顕如の跡目をめぐって、顕如の長男教如と三男准如の確執があった。その結果、准如が顕如の跡を継ぐことになり、教如は慶長7(1602)年、徳川家康から寺用地の寄進を受けて本願寺の東に寺を建立した。これが東本願寺である。
 明治4年に、他の真宗諸派とともに「真宗」と称したが、明治14年に「真宗大谷派」と改称し現在に至っている。
 なお、東西の教義に大きな違いはない。

 5 時宗

  宗 祖   一遍(1239~1289)伊予(愛媛県)生
  本 尊   阿弥陀如来
  経 典   浄土三部経・六時礼讃
  総本山   清浄光寺(通称・遊行寺)神奈川県藤沢市西富118―1
  寺院教会数 415
  教師数   510
  信徒数   57,556

 時宗(別名遊行宗)の開祖一遍は、延応元(1239)年2月、伊予の豪族河野通広(出家して如仏と名乗る)の子として生まれ、13歳のときに九州太宰府の浄土宗西山派の聖達の弟子となり、師の命により華台のもとで浄土の教えを学んだ。父如仏の死により故郷伊予に戻ったが、親族間の確執で再び出家して諸国を遊行し「捨聖」といわれた。
 文永11(1274)年、一遍は、熊野権現から「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上妙好華」という神託を直受したという。一遍の念仏は、救われたい往生したいという願いの念仏ではなく、一切を弥陀にまかせ弥陀の計らいによって浄土に往生できるというものである。
 一遍はこの念仏を徹底するため、この世で極楽往生を保証するという賦算(念仏の札)を配り歩いた。また、善悪・浄不浄・信不信を問わず念仏を称えれば往生ができるという喜びを踊り念仏(念仏おどり)で表した。さらに、一遍が止住の寺を持たずに布教をしたので、歴代も止住する寺を持たなかった。しかし四代呑海は、正中2(1325)年建立の相州藤沢の清浄光寺に止住した。この寺が現在の総本山となっている。
 「時宗」の名称は、常に臨終の時と心得て念仏する意味から名付けられたという。

【破折の要点】
◆浄土三部経は未顕真実の教え
 釈尊は法華経の開経(序分)である『無量義経』に、
 「四十余年には未だ真実を顕さず」(開結23)
と説き、さらに『法華経』方便品には、
 「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」(開結124)
と説いて、四〇余年の経教はすべて法華経に導くための方便の教えであり、法華経のみが真実の教えであることを明かしている。
 浄土宗の所依の経典は、この四〇余年の間に説かれた方便の教えであり、未顕真実の教えである。 しかも唯一真実教である法華経を「千中無一」「捨閉閣抛」といって誹謗する念仏宗は、釈尊の教えに背反している。この念仏を信仰することは、まさに無間の業を積む所為にほかならない。

◆弥陀の本願に背く浄土の教え
 『無量寿経』には、西方浄土の阿弥陀仏が念仏を称える者を救うと説かれているが、阿弥陀仏が因位の修行のときに立てた48願中には、例外として「唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。すなわち阿弥陀仏自身が、正法である法華経を謗る者は救えないと断言しているのであるから、念仏宗の信仰は、自分たちが本尊と仰ぐ阿弥陀仏の本願にも背いていることを知るべきである。

◆阿弥陀仏は架空の仏
 浄土宗で本尊とする阿弥陀仏は、釈尊の経典中に出てくる架空の仏であり、実際にこの世に出て、衆生を教化したことはない。これに対し釈尊は、現実にインドに生まれ、法を説き、衆生を済度された仏である。
 『法華経』譬喩品に、
 「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ我が子なり 而も今此の処 諸の患難 多し 唯我一人のみ 能く救護を為す」(開結168)
と説かれるように、釈尊こそ主師親の三徳を兼備した仏であり、現実の娑婆世界で、一切の衆生を救っていく真実の仏であることが明かされている。したがって、法華経に説かれる真実の仏を捨て架空の権仏を憑む浄土宗の教えでは、成仏など絶対にできないのである。

◆極楽浄土は娑婆世界の衆生には無縁
 浄土宗では、念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願力によって臨終の後、西方極楽浄土に往生できると説く。しかし、このような教えは、私たちが住んでいる現実の世界を穢土といってきらう厭世思想や、今世では決して成仏できないというあきらめや現実逃避の思想を生み出すもととなる。しかも現実に、さまざまな苦悩にあえいでいる人々を今世で救えない教えなど、真実の教えではない。
『法華経』如来寿量品には、
 「我常在此。娑婆世界」(開結431)
 「我常住於此」(開結439)
 「我此土安穏」(開結441)
と説かれており、真実の仏は常に娑婆世界に住して教えを示され、衆生を教化される。その教えを信順してこそ、衆生は娑婆世界で成仏を遂げることができるのである。

◆難行道・易行道
 浄土宗が主張する難行・易行の二道は、竜樹の『十住毘婆沙論』の文の真意を失うものである。『十住毘婆沙論』で説かれる難行道・易行道は、法華経以前の経教を難易の二道に分けたものである。法華経はこの難易の二道のなかには含まれていない。
 この竜樹の真意を曲げて浄土宗では、法華経も難行道であって末法の衆生に適わない教えであると説いている。しかし、仏法の目的は成仏であり、そのためには法の浅深勝劣が第一に問われるべきであって、修行の難易で信仰の対象を選別することは釈尊の教えにないものである。
 さらに『法華経』随喜功徳品に説かれる「五十展転」の行は、称名念仏よりも行じ易いものであり、分別功徳品に説かれる一念信解の行も、念仏三昧等の五波羅蜜などより、はるかに容易である。したがって、法華経は難行道で念仏は易行道という浄土宗の教えは、まったく仏説に違背する戯論である。

 このような念仏の邪義を物語る現証として、中国念仏の祖である善導の臨終が挙げられる。善導は、西に向かって極楽往生を願い、柳の木から身投げをしたが固い土の上に落ち、腰の骨を折って七日七夜苦しみもだえて死んだといわれる。これはまさに地獄の様相であり、正法である法華経を誹謗した大謗法の現証である。日蓮大聖人はこの善導の死について、
 「善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心 出来し候ぞ」(上野殿御返事 新編746)
と仰せられ、現世を厭うことを教える念仏を唱えるならば、善導と同じように自殺願望の心が生まれると破折されている。


 
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