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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 禅系(臨済宗・曹洞宗・黄檗宗)

五 禅系

【沿革】
 現在日本では、禅系の宗派として「臨済宗」「曹洞宗」「黄檗宗」の3宗があり、これらを総称して「禅宗」と呼んでいる。このほかにも、平安末期に大日能忍が起こした日本達磨宗、鎌倉初期に心地覚心が起こした普化宗などがあったが、これらの宗派は現在廃絶している。
 禅宗は、中国の菩提達磨(~528)を始祖として、「教外別伝・不立文字」を標榜し、仏の説いた経論にはよらず、坐禅によって悟りを得ようとする宗派である。仏心を悟ることを目的とすることから「仏心宗」ともいい、また、達磨を始祖とすることから「達磨宗」ともいう。
禅宗で仏説とする『大梵天王問仏決疑経』によれば、「釈尊が涅槃のとき、聴衆の一人が一枝の睡蓮(または金婆羅華)を釈尊に捧げた。釈尊は黙ってそれを受け取り、拈(ひね)って大衆に示した。その場の大衆は、釈尊の意図するところがわからなかったが、摩訶迦葉一人がそれを理解して破顔微笑した(拈華微笑(ねんげみしょう))。そこで釈尊は、『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。不立文字、教外別伝にして、摩訶迦葉に附嘱す』といって、仏の悟った深遠微妙の法門は経論・言辞によらず、ただちに以心伝心をもって法を摩訶迦葉に付嘱した」という。これが「教外別伝・不立文字」のはじめであり、禅宗はここからはじまったとしている。そして、その法は摩訶迦葉から阿難・商那和修と師資相承し、付法蔵の28祖として達磨に伝えられたとする。
 南インドの僧であった達磨は、この教えを中国に伝えようとして、梁の武帝のとき(520年頃)北魏に入った。そして、嵩山(すうざん)少林寺の石窟で面壁(めんぺき)九年の坐禅を修し、中国禅宗の開祖となった。達磨は、坐禅の入門書『楞伽経』四巻と禅法を2祖慧可(487~593)に相伝し、さらに3祖僧璨(そうさん)(~606)、4祖道信、5祖弘忍(こうにん)(601~674)と次第した。
 弘忍門下に慧能(えのう)(638~713)と神秀(じんしゅう)(~706)の高弟があり、弘忍は慧能に法を付嘱し六祖とした。しかし、慧能と神秀は禅の正統について争い、これ以後、禅宗は南北両宗に分かれることとなる。
 慧能は、湖南の山岳を中心として南方広東曹渓山に住して禅を広め、無師独悟(頓悟)を主張したので、この法系を南宗(なんしゅう)禅・頓悟禅といった。これに対し神秀は、洛陽(長安)にあって則天武后の国師となり、次第に独自の法系を形成するようになった。この一派は漸悟を主張し、北方に勢力を得たので北宗禅・漸悟禅といわれた。この両法系を称して「南頓北漸」といったが、その後、慧能の南宗禅の法系が大きく発展し、中国禅として大成した。
 南宗禅は6祖の慧能のとき、南嶽(なんがく)懐譲(えじょう)(677~744)と青原(せいげん)行思(ぎょうし)(~740)の2系統に分かれ、これがもととなってさらに分派し五家七宗を形成した。五家とは、南嶽派の潙山霊祐(いさんれいゆう)と仰山慧寂(ぎょうさんえじゃく)が立てた潙仰宗(いぎょうしゅう)、臨済(りんざい)義玄(ぎげん)が立てた臨済宗の2宗と、青原派の洞山(とうざん)良价(りょうかい)と曹山(そうざん)本寂(ほんじゃく)が立てた曹洞宗、雲門(うんもん)文偃(ぶんえん)が立てた雲門宗、法眼文益(ほうげんぶんえき)が立てた法眼宗の3宗をいう。7宗とは、これらの五家に、臨済宗から分かれた楊岐(ようぎ)方会(ほうえ)が立てた楊岐派と、黄龍(おうりょう)慧南(えなん)が立てた黄龍派を加えたものをいう。その後、雲門宗は法系が絶え、潙仰宗・法眼宗は臨済宗に統合された。
 日本へ禅宗がはじめて伝来したのは、奈良時代の道昭によるものであった。道昭(629~700)は、孝徳天皇の白雉(はくち)4(653)年に入唐し、法相・成実の両宗を学ぶとともに、達磨の弟子・相州隆化寺の慧満について禅をも学んだ。帰朝後、法相・成実を弘めるとともに、飛鳥(奈良県)の元興寺に禅院を建てて禅法を修した。
 次いで天平8(736)年には、唐僧道璿(どうせん)(702~760)が来朝し、華厳・律宗とともに北宗禅を伝えた。
 このように禅宗は当初、他宗に付随する形で伝えられたが、鎌倉時代に至り栄西(1141~1215)が臨済宗を、道元(1200~1253)が曹洞宗を、さらに江戸時代には、明の隠元(1592~1673)が来朝して黄檗宗を伝えた。このうち、臨済宗は天竜寺・妙心寺・建長寺など14派に分かれ、曹洞宗は永平寺・総持寺の二本山(2派)に分かれた。

【教義の概要】
 「禅」とは、サンスクリット語の「ディヤーナ」やパーリ語の「ジャーナ」の音写、「禅那」の略で、「心を静めて思惟する」との意である。この「禅」という音訳と、「静心」の意味を併せて「禅定」という。
 禅宗では、仏の悟りを「月」に、経典を「月を差す指」に譬え、仏の悟り(月)を得た後は、経典(月を指す指)は必要ないとし、その教義は達磨の「教外別伝(きょうげべつでん)・不立(ふりゅう)文字(もんじ)」「直指(じきし)人心(にんしん)・見性(けんしょう)成仏(じょうぶつ)」の四聖句によって代表される。
 不立文字・教外別伝とは、釈尊の教えの真意は文字などで表現できるものではなく、以心伝心といって、経典とは別に心より心へと伝えられるという。直指人心・見性成仏とは、教経を用いずに坐禅の修行によって自分の心を見つめ、自己の本性が仏そのものであると知ることをいう。
 これらのことから、禅宗では、禅宗以外の仏教は釈尊の教えを基とするので「教宗」といい、禅宗は釈尊の悟りの内容をもととするので「仏心宗」といっている。

〈本尊と所依の経典〉
 禅宗では「教外別伝・不立文字」と主張するが、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の三宗とも一応の義として本尊と所依の経典を定めている。本尊は、釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩を中心として、宗派によってそれぞれ異なったものを立て、一定していない。また、所依の経典も『金剛般若経』『楞厳呪』『観音経』等で、宗派によってさまざまである。

〈坐禅方法〉
 禅宗の修行は、座して禅定を得ることから坐禅という。坐禅の修法は、臨済宗は壁を背にして座るが、曹洞宗は中国以来の面壁を守り、壁に対面して座る。

〈看話禅(かんなぜん)と黙照禅(もくしょうぜん)〉
看話禅とは、古人の遺した公案(禅問答)を工夫思惟して、本来の自己(仏心)に目覚め、悟りを開こうとする坐禅のことである。日本臨済宗はこの看話禅を受け継いでいる。
黙照禅とは、黙々と壁に向かって坐禅し、坐禅の姿そのままが仏の行(悟りの姿)とみるものである。日本曹洞宗の道元はこれを受け継ぎ、「只管(しかん)打坐(たざ)」「修証(しゅうしょう)不二(ふに)」の禅を主張した。
臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層に、曹洞宗は一般民衆に広まったため、俗に「臨済将軍、曹洞土民」といわれている。

1 臨済宗

  開 祖   (中国)臨済義玄
  開 祖   (日本)明(みょう)庵(あん)栄(えい)西(さい)(千光国師・1141~1215)
  本 尊   釈迦牟尼仏・大日如来・薬師如来・観世音菩薩等
  経 典   金剛般若経・観音経・般若心経・楞厳呪等
  大本山   妙心寺・建長寺・円覚寺・南禅寺等一四派本山
  寺院教会数 5,700
  教師数   5,500
  信徒数   1,030,000

 日本の臨済宗は、栄西を開祖とし、中国の南宗禅に属する臨済禅の流れを汲む宗派である。
 栄西は、永治元(1141)年、備中(岡山県)吉備の神職の家に生まれ、11歳のときに出家し、天台宗寺門派の教えを学び、14歳で比叡山に入り、台密の修行をした。仁安3(1167)年、28歳のとき入宋し、中国の天台山に登り天台の典籍を持ち帰った。文治3(1187)年、47歳のとき再入宋し、臨済宗黄龍派万年寺の虚庵(きあん)懐敞(えしょう)から臨済宗の禅を学び、5年目に印可を得てその法を嗣いだ。
 建久2(1191)年に帰国して、九州を中心に禅の布教を開始し、建久6(1195)年、博多に日本最初の禅寺である聖福寺を建立した。その後、京都での布教を試みるが、叡山の画策によって、朝廷より栄西に禅停止の命が下された。これに対して栄西は『興禅護国論』三巻を著して、叡山の禅宗批判に抗するとともに、「禅の興隆は天台宗の開祖である最澄の真意にもかない、国家に寄与するものである」と反駁した。
 まもなく栄西は京都での布教をあきらめ、鎌倉を拠点とし活動するようになった。
 正治2(1200)年、北条政子の発願で鎌倉に寿福寺が建立され、栄西は開山として迎えられ、さらに建仁2(1202)年、土御門天皇の発願により、将軍源頼家が京都に建立した建仁寺の開山ともなった。しかし栄西は、叡山への配慮から純粋な禅寺にはせず、建仁寺の山内に止観院・真言院を置いて、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とした。
 このように栄西は、叡山の排撃を受けるなかで、不本意ながら教禅兼修の禅を修したが、密教的性格の強い黄龍派の禅を宣揚しようと努力した。そして建保3(1215)年7月、75歳で寿福寺において寂した。
 栄西没後、さらに円爾(えんに)弁円(べんねん)(聖一国師・1202~1280)が宋にわたって臨済禅を伝え、京都に東福寺を開いた。鎌倉時代の半ばからは、宋から禅僧も多く迎えられ、北条時頼に招かれた蘭溪(らんけい)道隆(どうりゅう)(1213~1278)は建長寺を、北条時宗に招かれた無学祖元(1226~1286)は円覚寺をそれぞれ開創し、日本の臨済禅の興隆に尽くした。このころから兼修禅から禅宗専修・純粋禅となり、臨済禅が根付いていった。
 室町時代は臨済宗が全盛期を迎えた時代である。臨済宗は、朝廷と幕府から庇護を受け、中国の南宋で設けられた五山制度を移入して多くの寺院が建立された。そして、五山制が定められ、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五寺を鎌倉五山とし、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の五寺を京都五山とした。さらに、南禅寺を京都五山の上の別格寺院とした。ここに禅宗建築、庭園、禅宗文学が誕生することになった。
 一方、鎌倉時代末期より室町時代にかけて、権力者とは関わりを持たず修行に専念した建長寺の南浦(なんぽ)紹明(じょうみょう)(大応国師)、大徳寺の宗峰(しゅうほう)妙超(みょうちょう)(大燈国師)、妙心寺の関山(かんざん)慧玄(えげん)(無相大師)の系統があった。これらは「応燈関の一流」と呼ばれ、後世まで勢力を持ち、現在の臨済宗はすべてこの応燈関の後継者によって占められている。
 特に、禅の中興の祖といわれる江戸時代の白隠(はくいん)慧鶴(えかく)(関山系・1685~1768)によって日本の臨済禅が確立された。妙心寺派・南禅寺派・東福寺派などの現在の臨済宗14派は、白隠の法系で占められている。そのなかで最も大きな勢力を有しているのが妙心寺派である。

〈臨済宗の特徴〉
 臨済宗の教えの特徴は「脚下照顧・衆生本来仏」にある。これは、凡夫は本来仏であるから、坐禅の修行によって具わっている仏性を見出し、日常生活において自己の宗教的人格を実現していくという教えで、作務(労働)を尊び、坐禅を重んじるものである。
 また、臨済宗の坐禅は「公案禅・看話禅」ともいい、禅問答をして公案(勝れた禅者の言葉・悟りへ導く課題)と一体になるように工夫し坐禅を組むものである。

2 曹洞宗

  高 祖   希玄道元(1200~1253)
  太 祖   瑩山紹瑾(1268~1325)
  本 尊   釈迦牟尼仏が多く、特にこだわりはない
  経 典   法華経・涅槃経・華厳経・般若経等
  大本山    永平寺 福井県吉田郡永平寺町志比
  大本山   総持寺 神奈川県鶴見区鶴見2―111
  宗務庁   東京都港区芝2―5―2
  寺院教会数 14,529
  教師数   16,595
  信徒数   1,716,951

 日本曹洞宗は、鎌倉時代、5年間宋に留学した道元によって伝えられた。
 道元は、正治2(1200)年、京都で生まれ、父は内大臣久我(くが)通親(みちちか)、母は摂政関白の藤原基房(もとふさ)の娘である。幼くして両親を失い、建暦2(1212)年、13歳のとき比叡山に登り、翌建保(けんぽう)元年、第70代天台座主・公円を師として出家し、仏法房道元を名乗った。叡山で天台教学を学んだが「人は皆、元来仏であるならば、なぜ修行をするのか」との疑問を抱き、解答を得ることができず18歳のときに下山した。その後、三井寺の公胤のすすめで栄西の高弟である建仁寺明全の弟子となり、臨済宗黄龍派の禅を学んだ。
 貞応2(1223)年、24歳のとき、本格的に禅の学問を修めるために、明全に随行して入宋した。中国に渡った道元は諸寺を歴訪して臨済禅を学んだが納得できず、続いて天童山景徳寺の如浄に師事し曹洞宗を学んだ。道元は如浄の「参禅はすべからく身心(しんじん)脱落なるべし」、すなわち「坐禅そのものは全ての煩悩をはらって、自由の境界に至る」との如浄の言葉で悟りを開いたという。こうして如浄から只管打坐の重要性を教えられた道元は、曹洞宗の印可を得てその法を嗣ぎ、安貞元(1227)年に帰朝した。
 道元は京都建仁寺に身を寄せ、『普勧坐禅儀』一巻を著し坐禅を勧め、寛喜2(1230)年、京都の深草に移り、のちに興聖寺を創して11年間止住し、独自の禅風を作り上げた。このとき曹洞宗の根本聖典である『正法眼蔵』を著述しはじめ、道元はその「弁道話」の中で、天台宗・真言宗の兼修禅を否定し、只管打坐の専修禅・純粋禅を強調した。
 道元は寛元元(1243)年、44歳のとき、師である如浄の教えを実践するため越前(福井県)志比の山間にこもり、そこに大仏寺を草創し、曹洞宗の根本道場と定め日本曹洞宗の礎を築いた。大仏寺は寛元4(1246)年に吉祥山永平寺と改称され、現在、本山となっている。
 これ以後、道元は越前のこの地を拠点とし、弟子の育成と僧団の確立に努め、禅の集大成である『正法眼蔵』の執筆に励んだ。建長4(1252)年から病いにかかり、翌年、孤雲(こうん)懐弉(えじょう)(1198~1280)に永平寺を譲り、療養のため上洛したが8月28日、54歳で没した。 
 道元没後、2代懐弉は15年間在住したが、文永4(1267)年、病いにかかっため徹通義介(てっつうぎかい)に永平寺を譲った。その後、教団の発展を目指す義介の派と、只管打坐の伝統を固守しようとする義演の派との間に確執が起こった。それから5年後、義介は永平寺を出て、加賀の大乗寺に移った。この両派の争論は50余年にわたって続いた。
 その後、義介の門下から瑩山(けいざん)紹瑾(じょうきん)が出て、能登櫛比(現石川県門前町)に総持寺を開いた。しかし総持寺は明治31年、火災のため諸堂伽藍が消失したことにより、同43年には横浜鶴見に移転復興した。現在は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとっている。
 なお、曹洞宗には臨済宗のような分派は見られない。

〈曹洞宗の特徴〉
 曹洞宗の『宗憲』第3条には、「本宗は、仏祖単伝の正法に遵(したが)い、只管打坐、是心是仏を承当することを宗旨とする」と規定している。
 曹洞宗の教えは、臨済宗とは異なり、文字や知識は修行の妨げになるとし、公案を用いない。無所得・無所悟の立場から只管(ただひたすら)黙々と、何ら意義や目的を持たず求めず坐禅をする「只管(しかん)打坐(たざ)」を重んじ、坐禅修行の姿そのものが仏・悟りであるという「修証不二」を説く。すなわち修行の成果として仏になるのではなく、修行することが仏の行であると説くのである。
 この曹洞宗の坐禅は、臨済宗の公案を中心とした峻烈な坐禅に対し、「見性禅・黙照禅」と呼ばれ、ひたすら坐禅することによって、自身の中に仏性を見出し、自らが本来仏であるとの悟りを得ようとするものである。
 また、『宗憲』第5条には、「本宗は、修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする」とあり、坐禅行のほかに日常生活において、懺悔滅罪・受戒入位・発願利生・行持報恩の教えに則り、禅戒一如・修証不二を実践することを教える。
臨済宗が朝廷や幕府や豪族などを中心に布教したのに対し、曹洞宗は、道元の「一生不離叢林」(生涯、禅の修行の場を離れるな、世俗から離れよ)という教えにより、世俗の権力に近づくことなく、一般民衆に浸透していった。

3 黄檗宗

  宗 祖   隠元(いんげん)隆琦(りゅうき)(大光普照国師・1592~1673)
  本 尊   特定の本尊を崇拝しない。個々の寺院の縁によって釈迦牟尼仏・観音像・
        阿弥陀如来・薬師如来・地蔵菩薩等が祀られる
  経 典   心を宗とし無門を法門とする。化法として大小乗経論を用いる
        般若心経・阿弥陀経
  大本山   万福寺 京都府宇治市五ケ庄3番割34
  寺院教会数 463
  教師数   462
  信徒数   350,000

 黄檗宗は、明から来朝した隠元が京都宇治に黄檗山万福寺を開創したことにはじまる。黄檗宗の名称は明治9年に公称したものである。
 隠元は、明時代の末、中国の福建省で生まれ、29歳のとき、同省福州の臨済宗黄檗山万福寺に入り、鑑源について得度し禅を修行した。また中国の各地を訪れ、密雲円悟や費隠(ひおん)通容(つうよう)のもとで修行を重ね、43歳のとき、費隠のあとを受けて黄檗山万福寺を継いだ。
その後、肥前(長崎県)の興福寺(俗称・南京寺)逸然などの請いによって、承応3(1654)年7月、隠元63歳のとき、万福寺を弟子の慧門に譲り、20余人の弟子とともに日本に渡来した。
 隠元は、万治元(1658)年11月、将軍徳川家綱より宇治の土地を与えられ、寛文元(1661)年8月、その地に黄檗山万福寺を建立し、この山号にちなんで黄檗宗という日本独自の宗派を開いた。(日本の黄檗山に対して、中国の黄檗山を古黄檗という)
 寛文4(1664)年、隠元は万福寺を木庵に譲り、延宝元(1672)年4月、82歳で入寂した。
 隠元没後の黄檗宗は、上皇や幕府の帰依を受けて全国に寺院が建立され、宗勢は大きく発展し、最盛期には末寺3,500を数えたという。黄檗宗の僧は明からの留学生が多く、万福寺の第21代までは一人を除き渡来僧が住持を務め、22代以降は日本の僧が住職となっている。
 明治時代になり黄檗宗は、帰依していた諸大名の没落と廃仏毀釈の施策によって、廃寺となる寺院が続出した。
 明治7(1874)年、太政官令布告(明治5年発布)により臨済宗に合併したが、2年後にはまた黄檗宗として分離独立し、今日に至っている。

〈黄檗宗の特徴〉
隠元の教えは、人が生まれながら具えている仏心を坐禅によって見出し、仏と同じ境地を体得させようとするものである。
 黄檗宗では坐禅を重視するとともに、作務、朝夕の念仏、写経、食事の作法など生活のすべてに精進し、実践による錬心を中心とした修行で仏の世界に至れるように努力すべきである、と説いている。
 黄檗宗の第一の特徴は、念仏禅といわれるものである。黄檗禅は本来臨済禅の一つであるが、臨済宗や曹洞宗の禅とは異なり、禅のなかに念仏を取り入れた念禅一致を説く。黄檗禅でいう浄土は、浄土教でいう浄土ではなく、己の心のなかにあるとする天台・真言で説くような浄土である。
 隠元は、朝夕の勤行に、浄土讃、阿弥陀経などを読誦し、参禅で仏心をきわめ、念仏によって阿弥陀を体得することを主張した。
 第二の特徴は、読経の発音である。一般仏教では呉音であるが、黄檗宗の読経は唐音を用いている。たとえば「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」も、読み方は「ナムオミトーフー」と読む。また木魚(もくぎょ)・磬(けい)子(す)・銅鑼(どら)・引磬(いんきん)等の鳴り物を使い、リズムにのって経を読むことから、「黄檗の梵唄(ぼんばい)」といわれる。
 第三の特徴は、黄檗山万福寺に見られる建築の様式である。寺院のたたずまい、窓の形、壁の色彩等は、すべて中国の明朝時代の様式が取り入れられている。

【破折の要点】
◆禅宗の付法蔵は欺瞞
 曹洞宗の道元は「単伝正直の仏法」といい、釈尊から付嘱を受けた迦葉より、第28祖達磨が相承して中国に伝えた禅が仏法の正統であり、その教えが自らに伝わったとする。しかし釈尊からの付法は、第2祖迦葉・第3祖阿難と次第して、第24祖師子尊者に至ったが、師子尊者はダンミラ王に殺され付法蔵は断絶したのである。
 しかし禅宗では、付法蔵の断絶後も、勝手に婆舎斯多・不如蜜多・般若多羅と次第させ、第28祖菩提達磨に付嘱されたとしている。これは何の根拠もない後世の偽説である。

◆「拈華微笑」について
 道元は『大梵天王問仏決疑経』の「拈華微笑」の説話を『正法眼蔵』の中に引用し、自宗の拠り所としている。釈尊が、迦葉に付法蔵の第一として小乗の法を付嘱されたことは事実であるが、禅宗では、釈尊の一代聖教には真実を顕さず、真実の法は釈尊が迦葉一人に、一代の教えのほかに別に伝えたという。
 しかし釈尊の涅槃のときには、迦葉はその場にいなかったのである。ゆえに『大梵天王問仏決疑経』のように、釈尊が華を拈って迦葉尊者一人が笑みを浮かべたという事実はなく、まったく根拠のない作り話である。

◆教外別伝・不立文字
 禅宗で主張する教外別伝の根拠は、『大梵天王問仏決疑経』の「仏言はく、吾に正法眼蔵・涅槃妙心・実相無相・微妙の法 門有り、文字を立てず、教外に別伝し(中略)摩訶迦葉に付嘱するのみ」という文である。
 禅宗では、これを根拠に「教外別伝・不立文字」と説き、仏の真意は文字を立てず心から心へ伝わるというが、「教外別伝・不立文字」と仏が説いたこと自体が教えであり、言葉であり、文字として残っているではないか。不立文字とは文字を立てないことであるから、当然、経典等は用いないことになるが、教外別伝の根拠を『大梵天王問仏決疑経』の経文に依るとは自語相違である。
 しかも依経としている『大梵天王問仏決疑経』は、唐時代の末の慧炬(えこ)の『宝林伝』の中に記されているのみで、大蔵経の古録である『貞元釈教録』『開元釈教録』にもその存在はない。このことからも『大梵天王問仏決疑経』は古来偽経扱いされているのである。
 また、達磨は『楞伽経』四巻を註釈した書五巻を作り、第2祖慧可に禅の法を正しく伝えたとしているが、これもまた「不立文字・以心伝心」の禅宗の教えに自語相違している。
 一代聖教を誹謗し、経典を捨て去り、教外別伝・不立文字を立てる禅宗は、『涅槃経』の、「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれるように天魔の所業といわざるをえない。

◆直指人心・見性成仏
 禅宗では、「直指人心・見性成仏」といい、教経を用いず、坐禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものとする。たしかに円教の理においては十界の衆生はすべて仏といえるが、しかしこれは単なる理仏であって実際の仏ではない。
 三毒強盛の凡夫の心は所詮、迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を観ずることはできない。だからこそ釈尊は『涅槃経』に、「願って心の師と作(な)るとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められているのである。
 完全無欠の仏を蔑ろにし、「是心即仏・即身是仏」などと凡夫の愚癡無慚の心をもって、「我が心を観じることによって仏となる」という禅宗の教えは増上慢以外の何ものでもない。


 
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