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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 日蓮宗

 日蓮大聖人は、六人の本弟子(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定めた後、弘安5年10月13日、滅後の法嗣と身延山の別当職を日興上人に託して入滅された。
 翌年1月、身延での100日忌法要の折り、六老僧は「墓所輪番制」を定めたが、日興上人以外の五老僧はこれを遵守せず、宗祖の一周忌、三回忌にも登山しなかった。その後、五老僧の一人民部日向が、身延に登山してきたが、日向は地頭・波木井実長を誑かして数々の謗法行為を犯すに至った。
 日興上人は、これを厳しく訓戒されたが、日向と実長がこれを聞き入れないため、正応2年春、日興上人は宗祖の御遺言に従い、一切の重宝を捧持して身延を離山した。
 これ以後、日興上人の一門と他の五老僧門流とは教義・信仰のすべてにわたって決別し、五老僧門流はさまざまに分派していく。
 ここでは、日蓮各派の主なものを取り上げて、破折を加えたい。

一 日蓮宗

  宗 祖   日蓮
  本 尊   久成実成の釈迦牟尼仏
  教 典   妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文
  総本山   身延山久遠寺 山梨県南巨摩郡身延町身延3567
  大本山   池上本門寺 東京都大田区池上1―32―15
  寺院・教会数 5,228
  教師数   8,051
  信徒数   3,580,901

【沿革】
 一般に日蓮宗といえば、日蓮教団全体の総称として用いられているが、ここでいう「日蓮宗」は、現在の法制上、宗教法人として認可されている身延山久遠寺を総本山とする身延・中山・池上等の一致門流(単称日蓮宗)を指す。
 明治5(1872)年、政府は一宗一管長制を定め、官命によりこの一致・勝劣の両派を合併統一して「日蓮宗」と名乗らせ、管長を各派交代制とした。しかし、もともと教義の異なる教団の統合には問題が多く、運営に支障をきたしたため、同7年、各派独立の方向に修正した。このとき、「日蓮宗一致派」は明治政府に対して宗派名から「一致派」の削除を強く訴え、明治9(1878)年、「日蓮宗」と公称するに至った。

〈日向以後の身延山〉
 日興上人の身延離山後、久遠寺の別当となった民部日向は、地頭の波木井実長が没した後も波木井一族の外護を受け、正和2(1313)年、弟子の日進に久遠寺を譲って上総(千葉県)藻原に退き、その地で翌年9月、63歳で没した。
 その後、身延山久遠寺は日善、日台、日院、日叡、日億、日学と続き、日台から日学までの5代は波木井家の出身といわれる。
 当時の久遠寺は、祖廟中心の一寺院に過ぎなかったが、寛正2(1461)年、行学日朝が晋山し、堂宇を身延山内の西谷から現在地に移転して伽藍を整え、弟子の12代日意、13代日伝とともに教学・法式・諸制度の整備に努めた。また、14代日鏡のとき、徳川家康の武運長久を祈願したことを契機に、身延は徳川家の外護を受け、その後、徳川幕府の権威を依拠として、絶大な権力と地位を確立していった。
 慶長6(1601)年、身延は京都本満寺の一如日重に晋山を求めたが辞退され、代わりに弟子の日乾が久遠寺に登った。当時、豊臣秀吉の大仏千僧供養に端を発した謗法の布施をめぐる不受不施論争が、日蓮門下全体を揺るがす大問題に発展していた。このとき、日乾は謗施を受けてよしとする受派の中心者となり、幕府と結託して不受派を制圧し、この難局を乗り切った。
 また、寛永7(1630)年、不受派の池上日樹、中山日賢らと法論した「身池対論」では、日乾、日遠、日暹らが身延代表として対決し、幕府の権力を後ろ盾とした身延派が不受派の六名を流罪に追い込んだ。そして幕府は、不受派の拠点である池上本門寺を日遠に、京都妙覚寺を日乾に与えた。
 この機に乗じて身延は、幕府の強権をかざして多くの寺院を傘下に従え、一気に日蓮各派の主導権を握ることに成功した。今日の身延派の教勢は、このような政略的な背景によって、もたらされたのである。

〈江戸から幕末の退廃期〉
 その後、江戸中期までの身延は、武家の庇護によって全盛を極めたが、近年までにたび重なる火災を起こし、当時の伽藍のほとんどを失っている。また、庶民の間で大黒天・鬼子母神・七面明神等の番神信仰が盛んになると、身延は各末寺と競って雑多な番神を祀り、さらには、布教師を地方に派遣して布教する「出開帳」などを頻繁に行って、信者の増加と教線拡大を図っていった。その結果、教団は経済的繁栄を築く一方で、久遠寺をはじめ各地の末寺で寺蹟の相続争いが多発した。安永5(1776)年には、身延の七面社殿が焼失して死者を出したことから、七面邪神説を唱えた貫主が、身延歴代から除歴されたうえ、牢死させられるなど、教団全体が教義的な退廃と混乱に覆われていった。
 さらに、幕府が宗教政策の一環として進めた檀家制度や談林の設立によって、僧侶の堕落に拍車がかかり、幕末から明治にかけて教団から離脱する僧俗が相次いだ。
 この間、江戸前期には、草山元政(1623~1668)が独自の法華律を立て、戒律を重んじた修行の実践を唱え、江戸中期には一妙日導(1724~1789)が『祖書綱要』を著して、天台偏重の談林教学に対抗した。また幕末には優陀那日輝(1800~1859)が出て、金沢立像寺に学室を設けて充洽園と称し、学徒の教育に努めながら教団の改革を目指した。さらに日輝は、平田篤胤らが神道復古を目指して唱えた排仏思想に対する防衛手段として、『立正安国論』の精神を否定して折伏を放棄し、教団存立のために神道中心の尊王思想に迎合した摂受偏重の教義を展開した。

〈明治以降の変遷〉
 日蓮宗近代教学の大成者といわれる日輝の教学は、これまでの訓詁的な伝統教学を否定し、神道・儒学・仏教の一致を強調した摂受主義に徹したものである。この日輝教学は、はじめは教団からも異端視されたが、明治に入って弟子の新居日薩が身延に晋山し、日蓮宗宗教院を設けて院長に就任したことを機に、日輝教学が身延の主流となっていった。
 明治5(1872)年、日薩は政府の一宗一管長制の意向を受け、身延久遠寺・池上本門寺・中山法華経寺・京都本圀寺・京都妙顕寺・京都妙満寺・越後本成寺を一宗七大本山として各門流の統合を謀ったが、勝劣派の猛烈な反発に遭い、同7(1874)年、政府は一宗一管長制を改め、一致・勝劣の両派に管長を置くことを認めた。これによって日薩は「日蓮宗一致派」の初代管長となり、同9(1876)年、「日蓮宗一致派」を「日蓮宗」と単称することを政府に請願し、他派の抗議のなかで公許を得た。
 この前年に当たる明治8(1875)年1月、身延山は失火によって、またも全山が炎上した。この火災により、身延の本堂・祖師堂はじめ144の堂宇を全焼するとともに、『開目抄』『報恩抄』等の重要御書をはじめ、数多くの御真蹟が灰燼に帰した。
 このとき、日薩は久遠寺住職を吉川日鑑に譲り、以後も三村日修ら日輝の門下生が宗内の要職について復興作業に当たった。また明治11(1878)年、日鑑は身延久遠寺を総本山、池上本門寺・京都本圀寺・京都妙顕寺・中山法華経寺を四大本山、小湊誕生寺ほか39箇寺を本山と定めた。
 このように明治期の身延教団は、思想・運営の両面にわたり、日輝の門下生によって独占支配された。その結果、教団内には権威主義の悪弊がはびこり、門下生および日輝教学に対して厳しい批判が浴びせられ、教団を離脱した在家による組織が生まれ、新たな在家中心の信仰や運動が活発化していった。その代表的なものが、田中智学(1861~1939)の国柱会である。
 大正2(1913)年11月、池上本門寺において、田中智学と顕本法華宗の本多日生(1867~1931)が中心となって日蓮門下統合の決議が行われたが、本尊の雑乱勧請問題を抱えた日蓮宗が1年後に離脱したため、この目論見は失敗に終わっている。
 昭和16(1941)年3月、国家の思想統制によって、日蓮宗は顕本法華宗、本門宗と合同したが、同22(1947)年4月に顕本法華宗が離脱して現在に至っている。
 日蓮宗では、日向以来の本尊雑乱問題とともに、かつては正当教学ともてはやされた日輝教学に対する批判と修正が、今後の大きな課題となっている。

【教義・信条】
 日蓮宗の三宝は、法華経を所依の経典とし、久遠実成の釈迦牟尼仏を仏宝と立て、南無妙法蓮華経を法宝とし、宗祖を日蓮大菩薩と称して僧宝に置いている。
 日蓮宗では、「久遠実成本師釈迦牟尼仏から、その本懐である法華経を末法に弘通することを付嘱された本化上行菩薩の応現日蓮聖人が開創唱導した真実の仏法を開顕する」(「日蓮宗宗憲」)としており、教義的には本迹一致を立てている。

〈本迹一致説〉
 本迹一致とは、釈尊の八年間の説法といわれる法華経28品の前半を「迹門」といい、後半を「本門」と立てるなかで、迹門と本門の勝劣について、一応、本門の優位性は認めるものの、二門は緊密な相関関係にあり、これを二分して本門のみを重視するのは不当であると主張するものである。
 この本迹一致説を唱えたのは、六老僧中、日興上人をのぞく日朗、日向などの一致門流の派祖並びにその後継者であるが、上代における本迹一致説の内容は、前述したような単純な一体論であり、また天台に付随した台当一致の一体論であったことが窺える。しかし、次第に教義的な意義付けがなされていった。
 身延の中興といわれた11代行学日朝は、
 「首題の内証は本迹未分の法体也という処を堅く心得る可き也、されば当流には本迹をば説の浅 深と約束し給へり」(本尊抄見聞)
と述べて、本迹は説法に前後浅深はあるが、その説かれる釈尊の真意である題目それ自体に違いはないという「本迹未分」の一体論を主張した。
 また、身延近世の学匠といわれた優陀那日輝は『本迹帰宗論』に、
 「本に非らずんば迹を垂るるの体なく、迹に非らずんば本を顕すの用なし。本迹殊なりと雖も妙 法は一なり(中略)本と迹と両輪双翼不二の妙法」
と、教相のうえで本迹の勝劣を認めながらも、正行である唱題修行は本迹を超えたところにあり、本迹二門はその正行の妙理をよく顕わすものである。また、本迹二門を見た場合、単純に迹門を否定するのではなく、迹門も本門もお互いに相い助けあって法華経の正意を顕わすものであるから、本迹二門は「本迹相資」の関係にあるという一致論を唱えた。

〈本尊論〉
 日蓮宗では、法華経の本門寿量品に開顕された久成の釈尊を本尊とし、聖人の示された大曼荼羅は、久成の釈尊の広大な慈悲の世界を紙幅に書きあらわしたものであるとしている。
 本尊の形態としては、
 一、首題本尊(南無妙法蓮華経の題目のみを書かれたもの)
 二、釈迦一体仏(釈尊の立像)
 三、大漫荼羅(宗祖が紙幅に図顕されたもの)
 四、一尊四士(釈迦一体仏に上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩像を加えたもの)
 五、二尊四士(釈迦多宝の二仏に四菩薩を加えたもの)
の五種があるとしているが、日蓮宗としては、「日蓮宗は一定の宗派の教義に拘泥することなく、特に戦後は、宗祖の日蓮の真蹟遺文を中心に教義の再検討を加えているが(中略)望月歓厚博士らによって、木像造立の場合には、一尊四士の形態が久遠実成教主釈尊への帰依の心情に最もふさわしいものとの論がなされている」(日本仏教基礎講座)と説明し、現在の日蓮宗寺院の多くは、一尊四士の仏像を本尊として祀っている。

【破折の要点】
◆本迹一致を破す
 日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との釈によるもので、大聖人の御教示ではない。また、天台の「不思議一」との意味は、迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、法華経開会の法門を説き示したものであり、決して身延のような本迹二門を対等に見たうえでの「一致」を説く文ではない。
 大聖人は『治病大小権実違目』に、
 「本迹の相違は水火・天地の違目なり」(新編1236)
と、また『妙一女御返事』には、
 「迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏なり」(新編1499)
と、法華経の本迹の相違を明確に御教示されている。
 法華経本迹二門は、久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、その説かれる法体においても勝劣があり、その相違は水火・天地のごとくである。しかし、日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、「本迹一致」の邪義を主張しているが、これらは宗祖の御教示にはないものであり、宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかである。

◆仏像本尊は、宗祖の本意にあらず
 日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、未だに宗祖の正意が何であるかが理解できず、本尊に関する御書を集めて候補を選び、その中から適当な形式を相談して決めるという、極めて杜撰な見解を発表している。
 それを要約すれば、「御書に現れた本尊形式は、①首題本尊 ②釈迦一体仏 ③大曼荼羅 ④一尊四士 ⑤二尊四士があり、このうち①と③を法本尊、②④⑤を仏本尊とし、その中心は、③の大曼荼羅と、④の一尊四士であるが、祖書の教示等に照らし、一尊四士を日蓮宗の本尊と定めるのが至当である」(大崎学報・趣旨)というものである。
 日蓮宗では、本尊の依文として『観心本尊抄』の、
 「此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せ しむべきか」(新編654)
との御文を挙げ、「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしている。しかし、「仏像出現」の御文の意味は、文中の正像の本尊に対する「造り画けども」との語句と、末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみれば、「この仏像出現せしむべきか」の意味は、後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、「仏像の造立」という意味ではなく、現実に現れるということを示されたと拝するべきである。
 すなわち、この御文の真意は、末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士と為す未曽有の本尊を顕わすことを明かされたものである。
 また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、
 「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(新編661)
との御文について、「本門の釈尊を脇士と為す」を、「本門の釈尊の脇士と為る」と誤読し、一尊四士が正意であるとしている。しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、『観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、との御教示ではないのである。それは、大聖人が佐渡以後、法本尊について御教示された御書に照らして見れば明らかである。
 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決 新編523)
 「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(妙法曼陀羅供養事 新編689)
 「法華経の題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給 えり。故に全く能生を以て本尊とするなり」(本尊問答抄 新編1274)
 これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝するとき、大聖人の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、正しく大聖人が顕された大曼荼羅こそ、正像未曽有の観心の御本尊であることは明らかである。
 また、『真間釈迦仏供養逐状』『四条金吾釈迦仏供養事』など、一部の信徒に与えられた数編の御書で釈迦仏造立に触れられたものがあるが、これをもって日蓮宗では、宗祖が御在世当時、仏像本尊を認められた証拠としている。
 しかしこれらの御文は、当時、法華誹謗者の多いなか、大聖人に帰依する際、今までの阿弥陀仏や大日如来を捨てて釈尊の仏像を造立したいと願い出てきた者に対して、曼荼羅本尊に導くために一時的にその善根を称歎されたものである。
 日蓮宗が釈尊像を本尊としたはじまりは、宗祖滅後まもなく、身延の地頭・波木井実長が日興上人の訓戒を破って一体仏を造立したり、日朗が大聖人の墓所から随身仏を持ち去り、『日朗譲状』なるものまで偽作し、これを正当化しようとしたことにある。
 しかし、この随身仏について大聖人は、
 「仏は(釈迦立像)墓所の傍らに立て置くべし云云」(宗祖御遷化記録 新編1866)
と御遺言されたとおり、滅後における本尊でないことは明らかであり、日朗に譲った事実などないのである。
 大聖人御図顕の曼荼羅本尊を蔑ろにして釈尊の仏像を崇める日蓮宗は、宗祖の意に背く師敵対大謗法の極みといわざるを得ない。

◆不相伝の曼荼羅書写を破す
 日蓮宗では、曼荼羅の中に「日蓮大菩薩」と書いたり、首題の南無妙法蓮華経の下の「日蓮」の御名を削除し、代わりに自分の名を書き加えるという本尊の深義を知らない不相伝ゆえの大きな過ちを犯している。
 これらの原因は、日蓮宗ではあくまでも仏は久成の釈尊であり、大聖人は釈尊から末法の弘通を託された上行菩薩の再誕であるとしか見ることができないことにある。
 大聖人が説き明かされた南無妙法蓮華経は無始無終の法であり、久遠元初に一人の聖人があって即座開悟されたのが、その法の実体である。またその聖人とは我が身即妙法と悟った一迷先達の仏である。ゆえに証悟の人はこの妙法のほかになく、また妙法はこの証悟の人のほかにはありえず、人即法、法即人、人法体一なのである。そして、末法にその久遠の法を顕す日蓮こそ、そのまま久遠元初の仏であり所弘の法は久遠の本法である。
 したがって、実に根本の仏こそ日蓮大聖人であり、曼荼羅本尊の中央に、「南無妙法蓮華経 日蓮判」と認められているのは、日蓮即南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経即日蓮という人法一箇の本尊の深義を顕しているのである。
 これを『御本尊七箇之相承』に、
 「首題も釈迦・多宝も上行・無辺行等も普賢・文殊等も舎利弗・迦葉等も梵・釈・四天・日月等 も鬼子母神・十羅刹女等も天照・八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり」(聖典379)
と、宗祖大聖人自らが示されているのである。
 日蓮宗は、相伝なきがゆえに、大聖人の法門を勝手に解釈し、大聖人が御本尊に認められたこともなかった「日蓮大菩薩」などを書いているのである。
 富士大石寺においては、日興上人以来、血脈相伝を承けた代々の法主上人によってのみ御本尊が書写され、宗内僧俗に授与されてきた。日蓮正宗の何処の寺院、何処の信徒宅へ行っても、御本尊はすべて法主上人書写の曼荼羅御本尊である。
 この事実こそ、大聖人から日興上人以来700年、現在に至るまで本尊の深義が代々の法主上人のみに相伝されてきた何よりの証左である。
 これとは逆に、身延を中心とした日蓮宗各派の本尊雑乱の実態と曼荼羅御本尊の軽視こそ、信仰の根幹に迷う不相伝の輩であることを、自ら証明するものである。

◆謗法厳誡について
 日蓮宗の寺院には、現在も鬼子母神、稲荷、七面大明神、清正公など、三十番神をはじめ雑多なものを信仰の対象として祀っている。しかし、これらの雑乱勧請は、すべて大聖人滅後、宗祖の教えに迷乱した弟子檀那によって作り出されたものである。
 すなわち、京都で最初に日蓮宗を弘めた日朗の弟子・日像は、民衆への布教を図るため、当時、世間で盛んだった三十番神信仰(日本国中で祀る法華守護の三十神々が、国家と庶民を毎日交代で一カ月間守るという天台宗の思想から起こった民間信仰)を積極的に取り入れ、曼荼羅の中に書き加えたのが、そのはじまりである。
 仏法では、「神」の存在意義は正法の行者を守護するところにあると説かれている。
大聖人は『新池御書』に、
 「其の上此の国は謗法の土なれば、守護の善神法味にうへて社をすて天に上り給へば、悪鬼入り かはりて多くの人を導く。仏陀は化をやめて寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成 りぬ」(新編1458)
と仰せられ、今この国は全体が正法に背く謗法を犯しているので、善神は国を去り、本来善神が住むべき神社には、魔や悪鬼の栖となっているとして、社参を禁じられている。
 しかし、日蓮宗では、『諫暁八幡抄』の、
「若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば 其の所に栖み給ふべし」(新編1543)
との御文を自分たちに都合良く解釈し、善神が去っても法華経の信仰者の住する場所には、善神が還帰して守護してくれるといって、神社に参拝しているのである。
 『諫暁八幡抄』の「法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし」との御文は、法華経の行者即ち大聖人(大聖人の教えを正しく信仰する人々も含む)がおられたならば諸天善神は守護するということではあるが、それは決して神社へ参詣して良いということではない。その理由は、前にも挙げたとおり、神社は諸天善神が天に去り、悪鬼魔神の栖となっていることに変わりはないからである。
 また、彼らは十羅刹女や鬼子母神など、御本尊に認められた諸尊を単独で祀っている。現在、一般に知られている柴又の帝釈天も、実は「題経寺」という日蓮宗寺院であり、雑司ヶ谷の鬼子母神も「法明寺」という日蓮宗寺院である。ともに本堂の本尊よりも別勧請で祀った諸天の方が有名になっているのが実状である。
 大聖人は『日女御前御返事』に、
 「されば首題の五字は中央にかゝり、四大天王は宝塔の四方に坐し、釈迦・多宝・本化の四菩薩 肩を並べ、(中略)三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等、加之日本国の守 護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々、総じて大小の神祇等、体の神つら なる、其の余の用の神豈もるべきや。宝塔品に云はく『諸の大衆を接して皆虚空に在り』云云。 此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中 に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊とは申すなり」
(新編1389)
と説かれ、十界互具の御本尊の相貌をお示しになっている。
 すなわち、諸天善神はすべて御本尊の中にましまし、その諸天は、妙法の功徳によって法華守護の任を果たすということなのである。したがって、諸天善神とは、あくまでも法華経の行者を守護するものであり、諸天善神そのものを祀り、祈りを捧げるという信仰の対象とするものではない。
御本尊と諸天善神との関係を曲解し、大聖人の御正意に迷った結果、身延をはじめ日蓮宗の本山や末寺は、仏像や番神の絵像木像を雑乱勧請するに至ったのである。

 現在、身延の門前では、大聖人の曼荼羅本尊の複製がおみやげとして不特定の参拝客に売られている。このような実態こそ、宗祖が「諸宗は本尊に迷えり」と仰せられた邪宗の姿であり、謗法を誡め、他宗の者に本尊を授与されなかった宗祖の教えに背く非法宗団そのものなのである。


 
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