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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 日蓮宗不受不施派

七-1 日蓮宗不受不施派

  派 祖   日奥
  本 尊   宗祖奠定の文字曼荼羅
  教 典   妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文・万代亀鏡録・録内啓蒙等
  本 山   妙覚寺 岡山県御津郡御津町金川600
  寺院・教会数 20
  教師数   41(実数2)
  信徒数   32,481(実数約5,000)

【沿革】
  日蓮宗不受不施派は、江戸前期に仏性日奥(1565~1630)を派祖として日蓮宗一致派から分立した一派で、岡山の妙覚寺を本山としている。
 同派は、僧侶は同派以外の者からの布施を受けない「不受」、また信徒も同派以外の僧侶に布施をしない「不施」の法規を信仰上の絶対条件として強調するところから、「不受不施派」と呼ばれている。
 派祖の日奥は、永禄8(1565)年、京都に生まれ、10歳で日像の流れを汲む妙覚寺の実成日典のもとで出家し、文禄元(1592)年、28歳で妙覚寺19世を嗣いだ。
 同4(1595)年9月、日奥が31歳のとき、豊臣秀吉の命による大仏開眼千僧供養の出仕問題が起こり、当時、身延門流の中心者であった一如日重(本満寺)をはじめとする主流派は、弾圧を回避するために国主の布施は例外として受けてもよいとする「王侯除外」の特例を設けて、法会出仕を主張した。これに対し、日奥は、「たとえ国主といえども、法華不信の者から布施を受けることは謗法となる」と、頑(かたく)なに不受不施義を唱えて日重に反発し、法会出仕を拒否した。これにより京都の日蓮宗は、その対応をめぐって受派と不受派が激しく対立し、ついに教団を二分するまでに至った。
 身延を中心とする受派は、幕府の権力と結託して諸山に法会出仕を迫ったが、これに反発する日奥は、妙覚寺を退出して隠棲生活に入り、同年11月秀吉に勘文を献じ、翌年7月、地震で大仏が崩壊すると、再び秀吉に「法華宗諌状」を送り、後陽成天皇にも奏状を捧げて法華最勝を説き、謗法の停止を訴えた。
 また、秀吉没後の慶長4(1599)年11月、身延派の日乾らが徳川家康に対し、日奥の不受義を公儀不遜の態度として訴えたため、日奥は妙顕寺日紹と大阪城で対論(大阪対論)することになった。ここでも不受義を強弁した日奥は、公命に背く反逆者として対馬流罪となり、その地で13年間を過ごしたが、その間も著述によって自らの正当性を訴え続けた。
 同17(1612)年正月、赦免されて帰洛した日奥は、日紹ら受派の改悔によって元和2(1616)年に妙覚寺に戻り、元和9(1623)年10月、不受不施義はようやく幕府より公許された。これによって、日奥と日蓮宗諸山との関係は表面上は収まったかに見えたが、先の元和2年に日奥が著した『法華宗諸門流禁断謗施条目』の中で、「霊鷲山を移し玉える名山、日乾の代に謗法の地とならん」と批判された日乾が『破奥記』を著して反駁したことから、その後両者は対立状態となり、身延と妙覚寺の間で「国主の供養を受くべきか否か」との受不受論が再燃し、激しい論難が応酬されることになった。

〈身池対論とその顛末〉
 寛永3(1626)年、身延の日暹らが、2代将軍秀忠の内室・崇源院の葬儀に当たって不受不参の態度をとった池上本門寺の日樹、中山法華経寺の日賢らを幕府に訴えたことから、同7(1630)年2月、幕府は日暹らの受不施派と、日奥を支持する池上の日樹ら不受派の僧侶を江戸城に召喚して対決させた。
 これは「身池対論」と呼ばれ、この法論では本来謗法の供養を受けるべきでない日蓮門下の信仰を曲げて、国主の供養を受けようとする身延派の主張には道理など無く、日樹ら不受不施派の優勢は明らかであった。しかし同年4月、幕府は法論上の勝敗を避け、公命に従順な身延派を勝者とする政治的裁決を下し、日樹をはじめとする不受派の僧侶全員を流罪に処し、その拠点であった池上本門寺と京都妙覚寺を、身延の日遠と日乾に与えた。
 この裁決直前の3月10日、日奥はすでに66歳で没していたが、幕府は不受不施派の首謀者として日奥の遺骨を再び対馬流罪に処すなど、過酷な弾圧を加えた。
 これを機に、身延派は幕府の権威をかざして、不受不施の寺院に対し、身延派への帰一を迫った。その結果、身延派は、中山法華経寺、小湊誕生寺をはじめ、久遠寺に離反した多くの末寺支配を実現し、当時の飯高、中村、小西の談林も支配下に治めて日蓮教団内での絶対的な主導権を握ったのである。

〈寛文の惣滅と禁制不受不施派の成立〉
 身池対論において政略的勝利をおさめた身延派は、寛文5(1665)年、幕府の朱印状再交付の時期に合わせ、不受不施派寺院に対して、寺領を幕府の供養と認めるように手形の提出を要求し、これに従わない僧侶は公命に背く者として流罪に処せられた。さらに翌年、幕府は寺領のみならず飲水、行路、五穀もすべて国主の供養であるとする「土水(どすい)供養令(くようれい)」の発令した。これによって、不受不施派の中には受派に変節したり、退転する者が現れた。こうして不受不施派は「寛文(かんぶん)の惣滅(そうめつ)」と呼ばれる壊滅状態に追い込まれていった。
 このような幕府による執拗な弾圧によって、日蓮宗内は動揺し、国主の供養(福田)に対するさまざまな解釈が生じた。すなわち、身延派の日暹を中心とする受派は、土水のすべてを国主からの供養(敬田)と解釈して受領したことから「敬田派(きょうでんは)」と呼ばれ、同じく受派の小湊日明、碑文谷日禅、谷中日純等は、幕府からの弾圧を避けるために、これを世間の慈悲哀愍の布施(悲田)と解釈して受領したことから「悲田派(ひでんは)」と呼ばれた。これに対し、不受不施派の安国日講、興津日堯、平賀日述、妙満寺日英等は、寺領や土水は政道上の仁恩(恩田)であり、信仰上の布施には当たらないと主張したことから「恩田派(おんでんは)」と呼ばれた。
 その後、さらに弾圧が強まり、不受不施義を貫く「恩田派」から「敬田派」や「悲田派」に転向する僧俗が続出するようになった。一方、寺院を捨てて強盛に不受不施を貫く「法中(ほっちゅう)」と呼ばれる僧を中心に、それに従う「法立(ほうりゅう)=清派(せいは)」と呼ばれる強信者、そして表向きは受派や他宗に籍を置く「内信=濁派(じょくは)」と呼ばれる内得信仰者の三者による特異な秘密組織が形成されていった。
 これは、「法中」は謗法に汚れた「内信」の供養を受ければ与同罪となる為、両者の間に強信者の「法立」を置き、「内信」の謗施を浄化して「法中」に取り次ぐ役目を果たすというものである。
 寛文9(1669)年、さらに幕府は不受不施寺院の寺請停止を発令し、不受不施派の壊滅を謀った。これによって、公民権も奪われた僧俗による地下信仰組織「禁制不受不施派」が生まれた。

〈津寺派と日指派の分裂〉 
 天和2(1682)年、岡山県で看経礼拝での「法立」と「内信」の同座をめぐり、同座を謗法とする津寺村と、それを許す日指村の僧俗が対立する事件が起こった。
 このとき、津寺の法中日隆は、先の「土水供養令」に反発して日向流罪中であった安国日講に仲裁を求めたところ、日講は「法立」と「内信」との同座同行は謗法とする厳格な指導を与え、内信に寛容な態度をとった日指村に対し、不通を申し渡した。
 これに対し、日指の法中日通は、同じく讃岐に流罪中であった興津日堯の「法立」と「内信」の同座同行を認める指導に従って、津寺の主張に反発したため、この対立が、やがて教団全体に広がり、不受不施派は、日堯の説を支持する日指派(堯門派)と、日講の説を支持する津寺派(講門派)の二派に分裂した。
 両派の主張には、内信者を謗法逆縁と見るか、順縁と見るかという点に大きな相違がある。日堯は身口意の中の意業を重視し、強制的に改宗を迫られ、仮に外相は他宗に籍を置いても、意業である内心に不受不施義を堅持する内信者は順縁として扱い、本尊も与え、同座同行を認めた。これに対し、日講は身業である外相は内心の表れであり、身口意が一致しない内信者は純信とはいえない。不浄の内信者と同座同行すること、内信者の本尊を拝むことも謗法となるという厳格な態度をとった。
 日堯の流れを汲むのが、現在の日蓮宗不受不施派であり、日講の流れを汲むのが不受不施日蓮講門宗である。
 その後、両派が対立しながら厳しい禁制時代を凌ぎ、明治の公許まで約200年間にわたって法統を存続できたのは、ともに「法中」の僧を支える「法立」「内信」の信徒の力によるものであった。
 明治9(1876)年4月、日堯派は、妙覚寺35世日正らによって「日蓮宗不受不施派」として再興公許され、同15(1882)年3月、妙覚寺(岡山県金川)を再建して祖山とした。

 日蓮宗不受不施派は、昭和16(1941)年3月、宗教団体法の公布により、「日蓮宗不受不施講門派」と合同して「本化正宗」と称したが、同21年7月に再び分立して「妙法華宗」と称し、さらに同27年1月には「日蓮宗不受不施派」の名称に戻り、現在に至っている。
 同派が現在「宗綱」として定めている「勧誡例」10項目を見る限り、派祖日奥が信条とした厳格な折伏精神や不受不施義を見いだすことはできない。また、再興当時、100名前後いた法中(清僧)も現在は2名に激減し、教団の存続問題が持ち上がっている。そのため近年になって、教団組織を〈法主―宗務長―法中―法務係―入道―講社長―信徒〉という形に改め、在家より多くの入道(入門者)を募集し、その中から10余名の法務係を選び、老後、正式に出家させて法中とし、衰退する教団の維持回復を図ろうと苦慮しているのが実情である。

《次の真俗莫作の誡例(上)と真俗奉行の勧例(下)を上下段の表にする》@@@@@@@@@@@
〈真俗莫作の誡例〉
・謗法の堂社に参詣いたすべからざる事(但し遊覧等を除く)
・謗法の僧侶を供養すべからざる事(但し仁義愛礼等を除く)
・不信謗法の供養物を受くるべからざる事
・他に向かって同行者の過失を言うべからざる事
・他門を罵詈し、不覚の宗論を致すべからざる事
〈真俗奉行の勧例〉
・異体同心にして我が本化事観の妙行を修すべき事
・常に法のために不惜身命の心地あるべき事
・過失あれば懇に相い諫め、共に善に進むを喜びとする事
・相い互いに謙下し、礼儀を重んずべき事
・各自其家業を大切に精進すべき事

【教義の概要】
 当時、豊臣秀吉や徳川家康による宗教支配に脅かされた日蓮宗は、身延派の日重が中心となって、大聖人の信仰の根幹である謗法厳誡の精神を捨てて為政者に阿諛追従する道を選び、教団全体を摂受主義に貶めていった。これに対し、日奥は「大聖人の御本地に於て猶豫の思を成さず」との言葉通り、大聖人の謗法厳誡の教えに対して寸分の躊躇も許さないという絶対信に立ち、不惜身命の不受不施の実践を強調した。
 両者の主張を要約すると、次のとおりである。

《次の身延の主張(上)と日奥の主張(下)を上下段の表にする》@@@@@@
〈身延(受不施派)の主張〉
①相手の得脱が目的ならば、むしろ謗施を受けて下種とし、相手を善導すべき
②法華誹謗が無い者の布施は、謗施とは云えない。
③大聖人も船守、阿仏房の謗施を受けて、善導されている
④受ける側の純不純で謗施であっても功徳となり、供養自体を区別すべきではない。清濁呑み込んで成仏の大道に立つ者こそ達人である
〈日奥(不受不施派)の主張〉
①謗施を受けて相手を善導するとのいい分は、凡僧たる自身を弁えぬ詭弁である
②諸宗の謗法に対して立てた不受不施の法度に自ら背く事は、それ自体が謗法である
③船守、阿仏房は明白な法華誹謗の者でなく、その施は謗施にあらず、世間の仁施である
④供養の清濁は飽くまでも施者の心の問題であり、信施すら不浄な信者の供養は受けられない。たとえ受者が清浄でも、不浄の謗 施を受ければ不浄となる。信仰の正邪も糾さず受けるのは謗法 である

 このように、受派が幕府の弾圧を恐れ、教団維持を図って謗施受領の言い訳を繰り返したのに対し、日奥は謗法厳戒を第一として、最後まで不受不施を貫いて対立したが、教義的には日朗門流の系統に属し、身延派と同様に本迹一致を主張している。
 また、本尊について日奥は『法華宗奏状』の中で 「三大秘法者本門本尊、要法題目、本門戒壇也、抑末法相応本尊者本門久成教主釈尊也」 と述べ、久成の釈尊を本尊としているが、これは秀吉に対する大仏否定の言葉であって、日奥自身が釈尊の仏像を本尊としたものではない。『日本仏教基礎講座』によれば、現在同派では「宗祖日蓮奠定の十界常住の文字曼荼羅」を本尊と規定しているが、日奥には明確な曼荼羅本尊の主張もなく、その教義的根拠は明かではない。また同書には、明治一五年に再建された妙覚寺には、日像作と称する宗祖の御影を安置して同派の祖山としたとの記述があるが、現在本堂には「慶長十二年丁未卯月上対馬左遷刻 於宮谷草庵書之」と脇書のある日奥直筆の曼荼羅が安置されている。
 また信徒は、それぞれ先祖から伝えられてきた教化僧書写の紙幅曼荼羅や御影などを本尊としており、必要に応じて管長書写の紙幅曼荼羅や額縁入りの曼荼羅が与えられている。


 
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