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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 不受不施日蓮講門宗(旧不受不施講門派)

2 不受不施日蓮講門宗(旧不受不施講門派)

  派 祖   日講
  本 尊   曼荼羅
  教 典   妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文・万代亀鏡録・録内啓蒙等
  本 山   本覚寺 岡山県御津郡御津町鹿瀬492
  寺院・教会数 6
  教師数   6(現在4)
  信徒数   20,050(実数800余)

【沿革】
〈寛文の不受問題〉
 不受不施日蓮講門宗は、江戸前期の元禄2(1689)年、不受不施派内で起こった「日指派」との教義論争で対立した「津寺派」の僧俗で、安国日講を派祖と仰ぐ。
 日講(1626~1698)は、御書の註釈書である『録内啓蒙』の著者であるところから啓蒙日講とも呼ばれる。寛永3(1626)年、京都に生まれ、10歳で京都妙覚寺の安国日習について出家し、20歳のとき、関東に遊学して飯高・中村談林で学んだ。25歳のとき、不受派の学匠であった小湊誕生寺の日遵を尋ね、中山法華経寺の日養と受不受論を論じて、次第に日奥の説く不受不施義に傾倒していった。
 寛文(かんぶん)元(1661)年、下総の野呂檀林で法華玄義を3年間講じ、谷中感応寺に退いたが、再任の求めに応じて談林に戻り、能化職に就いている。同6(1666)年の「土水供養令」による不受問題では、不受派の中心となり、『守正護国章』を著して不受不施の意義と土水令の不当を訴え、身延の日奠(受派)に対抗した。しかし、幕府は日講の主張を認めず、日講は翌年、佐土原(日向)に流罪となった。佐土原では藩主の島津忠高が日講に帰依し、日講は求めに応じて仏教や諸学を講述しながら、流罪生活は30余年に及んだが、不受不施の主張を止めることはなかった。この間、貞享4(1687)年4月より、日講は録内御書の講義書を著しはじめ、9年を要して元禄8(1695)年5月、『録内啓蒙』(36巻)を完成させている。
 日奥の不受不施義をさらに厳格に捉え、その宣布に努めた日講は、元禄11(1698)年3月、流罪地の佐土原で73歳の生涯を終えた。
 日講の流罪中に生じた日指派と津寺派の対立による不受不施派の分裂については、前項(日蓮宗不受不施派)で述べた通りである。以後200余年におよぶ弾圧を凌いだ津寺派は、明治15(1882)年3月、岡山県鹿瀬に本覚寺を創して「日蓮宗不受不施講門派」として再興の公許を得て、現在に至っている。

【教義の概要】
 日講は『録内啓蒙』の中で「朗師本迹一致御所立の事、(中略)迹門に説く所の実相常住の理体と本門寿量品とは全同なり、故に処々の解釈には本迹殊なりと雖も不思議一と釈し、或は即迹而本・即本而迹とも釈したまえり」と述べ、本迹一致を主張する身延門流と教義的に大きな相違はない。寛文五年の「土水供養令」以後、三田(敬田・悲田・恩田)思想が展開されて不受不施派の中に硬軟両派が生じたときも、日講は強義折伏を主張し、教団内の僧俗に対しても清派と濁派の同座同行を許さなかった。その信条は派祖日奥の不受不施義を、さらに厳格にしたものといえる。
 また、本尊については『録内啓蒙』に「題目を事の一念三千とする義と、古来一幅の曼荼羅を事の一念三千とする義と敢えて相違せず。(中略)題目即本尊・本尊即題目にして一法の義、而二不二也」とあり、題目を本尊を立てている。現在、本覚寺の本堂には日講自筆と称する曼荼羅と大聖人の御影を安置しており、一般信徒は宗祖の曼荼羅の複製、または管長が書写した紙幅の曼荼羅を祀っている。

【破折の要点】
◆本迹一致の邪義
 不受不施両派の立てる本迹一致の教義は、六老僧の一人である日朗から受け継いだものである。これは釈尊一代の化導における法華経の本迹について、「同じ法華経の教えであるから、久遠の仏の悟りが開顕されれば、本門も迹門も相違はない」という本迹一致を、主張している。
 しかし、これは宗祖の『治病大小権実違目』における、
 「本迹の相違は水火・天地の違目」(新編1236)
との御教示に明らかに反する邪義である。
 さらに大聖人は『開目抄』に、
 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(新編526)
と、末法のこの釈尊文上の法華経本門の寿量品文底に「一念三千の法門」が秘されていた種脱相対を説かれて、釈尊在世の脱益仏法に対し、大聖人による末法相応の下種仏法の存在を明かにされている。この御教示に反して彼等の派祖である日奥・日講は、不受不施義に固執するあまり、本迹論の手前の権実論(法華経と爾前経との勝劣)に傾いていたこともあり、大聖人の深い教義に暗く、本迹一致という師敵対の邪義に陥った者である。

◆不相伝の曼荼羅書写の誤り
 不受不施両派の日奥や日講は、信仰の根幹である本尊について明確な説明をしていない。現在は、「久成の釈尊の正体が曼荼羅」と解釈し、宗祖の曼荼羅を本尊としており、妙覚寺(不受不施派本山)には日奥自筆の曼荼羅を、また本覚寺(不受不施講門宗)には、日講書写の曼荼羅の前に宗祖の御影を安置している。いずれも五老僧をはじめとする日蓮教団と同じく御本尊に対する正しい相伝がないために、大聖人が曼荼羅御本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められ、人法一箇の大事を顕わされた深い意義も理解できず、大聖人の御当体たる曼荼羅を勝手に改鼠し、首題の下に「日蓮大菩薩」と書き、その下に自分の名を書き加えるという過ちを犯している。
大聖人は、『開目抄』に、
 「夫一切衆生の尊敬すべき者三つあり。所謂、主・師・親これなり」(新編523)
 「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(新編577)
と、自ら末法の一切衆生にとって主師親の三徳を具えた仏であることを明かされている。
 この末法御出現の御本仏大聖人を「菩薩」と下すことは、不受不施問題を論ずる以前の信仰の根幹に関わる問題であり、明らかに師敵対の謗法行為である。

◆戒律に偏重する教団の実態
 不受不施両派は、もっとも大切な衆生救済や広宣流布という本来の信仰姿勢を忘れ、些末な形式だけの教条主義に陥り、折伏の実践も怠って自己の得脱のみに汲々としている姿は、大聖人が、
 「謗法の悪人を治罰せずして観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず、詐って慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべし」(聖愚問答抄 新編405)
と呵責された、邪宗の徒そのものである。結局、彼らが主張する敬田・悲田、恩田という三田思想も、自らを正当化するための詭弁に過ぎない。
 彼らは謗法厳誡を強調するあまり、長年にわたって僧俗の間に厳しい規制や戒律を強要してきたが、大聖人は、末法初心の行者に対し、
 「檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり(中略)又教大師未来を誡めて云はく『末法の中に持戒の者有ら ば是怪異なり。市に虎有るが如し』云云」(四信五品抄 新編1113)
と、正行の妨げになる無様な戒律を制止されている。
 法華経に「不染世間法 如蓮華在水」とあるように、大聖人の弟子たる僧侶とは末法濁悪の世間を忌み嫌うどころか、衆生の中に身を投げ、その謗法に染まることなく、折伏弘教に一切衆生を救済すべきものである。
 不受不施派僧侶は、この僧侶の使命を忘れ、「謗法厳誡」を建前に聖僧を装い、自分の清純のみを追うために信徒を犠牲にしているのである。まさに本末転倒の姿である。
 その現証は明らかで、現在の両派をみれば、信徒の実数は800~数千名、教団の中心たるべき「法中(僧侶)」に至っては法主を含めて数名に激減し、教団の存続すら危ぶまれている。このため、近年では在家信徒から入道を募って肉食妻帯を許し、高齢に至って出家させて「法中」を補足する苦肉の策を講じて、教団の衰退打開に苦慮している。
 また、両派の宗是である不受不施の強義も、今では道徳的な内規という程度にまで形骸化しており、折伏の実践など、ほど遠い状況に陥っている。
 何よりもこの現状が、宗祖の本義に違背した謗法教団たることを如実に物語っているといえよう。
 なお、不受不施講門宗では、自ら立てた戒律である「肉食妻帯」の禁制も現在、後継者不足を理由に破られている。


 
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