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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 法華宗系 国柱会



一 国柱会


  創 立   大正3年1月
  創始者   田中智学(恩師)
  現会長   田中暉丘(ききゅう)(隆一・智学の曾孫)
  信仰の対象 佐渡始顕妙法曼荼羅
  教 典   『妙法蓮華経』『日蓮聖人遺文』
  本 部   東京都江戸川区一之江6―19―8
  信者数   20,157
  名称の変遷 蓮華会(明治13年) 立正安国会(明治18年) 国柱会(大正3年)

【沿革】
 国柱会は、身延派の僧侶だった田中智学が日蓮宗の摂受的風潮に不満を懐き、折伏主義を掲げ「純正日蓮主義」を主張して創設した在家教団である。また智学が提唱した「日本国体学」は、明治政府の国体主義と結びつき、一時は領土拡大を目指す軍部の理念にまでなった。智学の法華思想は高山樗牛や宮沢賢治などにも影響を与えた。
 田中智学は幼名を秀丸、後に巴之助(とものすけ)といい、文久元(1861)年11月、江戸日本橋本石町に生まれている。明治2(1869)年9月に母が、翌年2月には父が死去したことにより、同3年四月、巴之助は江戸川一之江の日蓮宗妙覚寺で得度し、智学と改名した。
 同4年の春、智学は千葉の飯高檀林に入ったが、同7年の夏、談林の廃校に伴い妙覚寺へ戻り、翌年の大教院(現立正大学)開校と同時に入学した。しかし院長と衝突を繰り返し、肺炎を患ったことも重なって、同10年2月に再び妙覚寺へ帰った。同12年1月末、智学は加療のために横浜の親戚へ身を寄せ、同3月には離宗還俗し、これを機として在家仏教活動を開始した。
 明治13年、智学は横浜の日蓮宗信者を中心に「蓮華会」を結成し、同15年には富士派(現日蓮正宗)本門講と文書による問答を行った。10月3日に本門講が質問書を送付し、以後5回まで文書を交わした。しかし6度目の問いに窮した智学が、突然、口頭対論への変更を求めたので、本門講は約定違反を明記した処断書を送った。その後、智学は行方を眩ました。
 明治17年1月、智学は浅草山谷(さんや)の正法寺を拠点に活動を再開し、翌年1月には「立正安国会」を設立した。以後、積極的に公開演説や書籍・雑誌の刊行を行い、国家主義に迎合した運動を展開して同調者を募り、次第に組織を形成していった。
 明治34年、智学は身延の教義や信仰を糺すため、『宗門の維新』を日蓮宗の要人等に対して送付し、『本化摂折論』を日蓮門下各教団連合の夏期講習会において講じた。さらに同36年から37年にかけて、大阪立正閣で開催された本化宗学研究大会において『本化妙宗式目』を講義した。この講義を弟子の山川智応が筆録し、のちに改題されて『日蓮主義教学大観』となった。
 大正3年、智学は「国柱会」と改称し、次いで鶯谷に国柱会館を完成させ、国柱産業株式会社を創立し、同6年には師子王病院を開設、さらに歌舞伎座で聖史劇と称した「佐渡」を上演するなど、さまざまな分野に活動の手を広げた。また昭和3年に一之江に「万人平等・永遠祭祀」をうたった妙宗大霊廟を建て、同6年には国柱会本部講堂を落成させた。
 昭和14年11月に智学が79歳で没した後、国柱会総裁に就任した長男・芳谷と高弟・山川智応らの間で権力争いが起こり、国柱会(田中芳谷(ほうこく))、立正教団(里見岸雄)、本化妙宗連盟(山川智応、高橋智遍)、正法会(中村雅哉)、立憲養正会、精華会等と四分五裂となった。
 同24年、芳谷は総裁を退き、妙宗大霊廟の賽主(さいしゅ)として会員の精神的向上に専心し、主幹に就いた長男の香浦(こうほ)に教団運営の一切を委ねた。同28年、国柱会は「迷信打破運動」を打ち出し、同40年から身延祖廟輪番給仕を開始し、同43年に本部新講堂を建てた。同48年、芳谷の死去に伴って会長制を敷き、香浦が会長に就任し、同53年から新たな日蓮主義を主張する「真世界運動」を展開している。
 平成8年には田中香浦が逝去し、長男暉丘が霊廟主を継いで会長となった。

【教義の概要】
 国柱会の礼拝対象は、大聖人が文永8年9月12日に顕されたとされる「佐渡始顕妙法曼荼羅」と称する本尊である。この本尊の左に皇室代々の尊霊を表す位牌「天壌無窮牌(てんじょうむきゅうはい)」を、右に日蓮聖人の高弟六老僧、先祖代々の霊、親戚・同志の先亡の霊等すべての霊位を表す「異体同心牌」を祀っている。
 智学は、釈尊を本仏とするなど日蓮宗身延派の伝統教義を踏襲しながらも、当時の宗内における摂受主義を批判して折伏主義を力説した。また智学は、本化聖祖(日蓮聖人)の教えによって人類の思想道徳を統一する「純正日蓮主義」を主張し、日本に三大秘法を具現して仏法と国体の冥合をはかり、立正安国の真世界の建設を目指した。
 身延の教義と異なる智学独自の教義としては、曼荼羅本尊中心説、富士戒壇説、大導師一人説、日本国体学等が挙げられる。
 曼荼羅本尊中心説とは、聖人が佐渡においてはじめて顕したという「佐渡始顕妙法曼荼羅」を統一本尊とすべきであるとの主張である。智学がこの本尊に特定した理由は、
 第一に、本尊は統一する必要がある
 第二に、一尊四士・二尊四士等を造立するには技術的に困難である
 第三に、曼荼羅本尊が一番適当であるが、聖人の一期のご化導を考えれば広式の佐渡始顕本尊となる
というものである。
 富士戒壇説については、智学は戒壇建立地を富士山麓に規定し、さらに遥拝殿の意匠まで提唱している、ということである。
 大導師一人説とは、智学は当時の日蓮宗に対して、管長の上に新たに「大導師」と称する霊的代表の宗長を置き、一宗尊厳の中心とすべきであると提言している。
 日本国体学とは、日本の国体は天照太神の神勅に発しているとし、世界統一を実現すべき実行者は神武天皇であり、指導者は日蓮聖人であると述べ、その絶対主義天皇制と聖人の宗教を統合することを「日本国体の開顕」といい、これをもって王仏冥合の根本原理とする、と主張していることである。
 会員の基本的な修行は、仏壇に向かって、智学の定めた『妙行正軌』にもとづき、方便品のはじめの部分と三徳偈(譬喩品要文)と寿量品の自我偈の読誦、そして唱題をする。また、本部で毎日行われる国祷正中法座、身延への登詣団などに参加する。
 同教団では、特に「本門三大秘法の具体的な修行」と称して三施護法、すなわち、
 一、身をもって護法に尽くすという身施
 二、財を法に捧げるという財施
 三、正しい宗教を人に勧めるという法施
を実践するように強く会員に促している。

【破折の要点】
◆統一本尊を智学が選定するという大慢心
 智学は「佐渡始顕本尊を(日蓮門下の)統一本尊とする」という。しかし末法衆生が拝すべき本尊は、顕された大聖人御自身がすでに決定されていることである。おこがましく、智学や教団幹部が決定する次元の事柄ではない。大聖人が確固として示された本尊に気づかない、自分たちの不明を省みるべきである。

◆国柱会の立てる佐渡始顕本尊は、得体の知れない本尊
 智学の立てる「佐渡始顕本尊」は付嘱が明らかではない。これが信仰の絶対唯一の目標として大聖人が顕された御本尊ならば、なおさら直弟子方の誰かに明確な付嘱があってしかるべきである。しかも、この本尊には願主が記されていない。明らかに、この本尊によって弟子や信徒を導かれるというお考えが大聖人にはなかったことを意味しているではないか。まして、この御本尊の実物は存在しない。いかに身延山第33代遠沾日亨の模写と行学日朝の『元祖化導記』の語句によって曽存を主張しても、所詮は得体の知れない本尊である。

◆『観心本尊抄』の曲解
 智学は、『観心本尊抄』の「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」(新編661)の文をもって佐渡始顕本尊を本懐成就の本尊としている。しかし、この御文は自界叛逆・他国侵逼の両難が現出した後に本懐の本尊を顕発する旨を示されたものであり、佐渡在島中に本懐究竟の御本尊を顕されることはあり得ない。これは弘安二年に認めた『聖人御難事』の「余は二十七年なり」(新編1396)とのお言葉とも合致する。大聖人は弘安2年に本懐成就の本尊を建立されたことは明白である。

◆智学の「富士戒壇説」は、日蓮正宗からの盗用
智学は、富士戒壇説を主張している。しかし日蓮正宗では、大聖人の、
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書 新編1675)
との仰せに基づき、古来富士山に本門戒壇を建立する、とのことを重要法義として相伝されている。
 不相伝家である身延の教義に、この説はあろうはずがなく、智学が蓮華会時代に横浜問答において大敗したことを契機に、日蓮正宗の戒壇義を盗用したものにほかならない。
 だからこそ、智学自身が「本門の本尊も題目も、実は戒壇がなくば真の価値を顕はすことができない」(本門戒壇論21)と重要視する、戒壇建立地の決定根拠が「富士は大日蓮華王山と称する」とか「大聖人が富士に法華経を埋めたという伝承がある」とのお粗末な二点だけなのである。

◆智学の「唱題の心構え」は、大聖人の御意に反する
 智学は唱題の心構えについて、大聖人の『法華題目抄』の「問うて云はく、法華経の意をもしらず、義理をもあぢはゝずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて、一日に一返、一月乃至一年十年一期生の間に只一返なんど唱へても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかず、つひに不退の位にいたるべしや。答へて云はく、しかるべきなり」(新編353)との御文を挙げ、「唱題の時には、妙法五字によってのみ成仏が叶う、との大なる意識を要する」(趣意・教学大観1804)と述べ、無意識に唱えては無益であると断定している。
 しかしこの御文は、大聖人が「一遍口唱の大功徳」を御教示されたものであり、智学の述べる「意識の有無」は一切触れられていない。それどころか、この御文の後に大聖人は、
 「今の代の世間の学者の云はく、只信心計りにて解心なく、南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて、 争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば、阿鼻大城をまぬかれがたし」(新編354)
と仰せられ、智学のようなことを主張する者こそ無間地獄は間違いない、と決判されている。
 結局、田中智学は自らの慢心と我見によって大聖人の正統教義から完全に逸脱しているのである。
 なお、田中智学の没後、国柱会から分離した立正教団・本化妙宗連盟・正法会・立憲養正会・精華会などの教義は、国柱会と同様に田中智学の流れを汲んでいる。


 
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