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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 法華宗系 孝道教団

三 孝道教団

  創 立   昭和11年2月
  創始者   岡野正道(しょうどう)(大統理) 貴美子(初代副統理)
  現後継者  岡野正貫(正道の長男・第2世統理) 鄰子(第2世副統理)
  信仰の対象 熟益(じゅくえき)開顕(かいげん)正法(しょうほう)大曼荼羅
  経 典   法華三部経
  本部所在地 神奈川県横浜市神奈川区鳥越38
  信者数   313,633
  名称の変遷 孝道会(昭和11年) 孝道教団(昭和21年)

【沿革】
 孝道教団は、天台宗の僧であった岡野正道が、霊友会の信仰を経て「みのる法華経・熟益正法」と称する教説を掲げ、妻の貴美子とともに設立した天台系の在家教団である。
 岡野正道は明治33(1900)年に茨城県の出島村に生まれ、19歳のときに埼玉県川越市の天台宗無量寿寺で得度したが、22歳で還俗している。
 東京本郷の電気医療機械の商社に入った正道は、約半年後に札幌支店へ赴任し、翌年、その支店を独立させて経営者となった。しかし間もなく事業閉鎖に追い込まれ、東京に戻って大崎電線へ入社し、大正13年に鹿児島市出身の田中貴美子と結婚した。その後、東京下谷で会社を設立するが、昭和2年に経営が破綻したため、大阪のラジオメーカーに勤務した。会社を退職した正道はラジオの製造販売をはじめたがすぐに経営が行き詰まり、横浜へ移って西前町でラジオの家内工業を起こした。さらに正道は、それを発展させて横浜・扇町でラジオ店を営むようになった。
 同9年、井戸清行(せいぎょう)(後に、霊友会から離れて思親会を結成する)に誘われて霊友会に入会した正道は、熱心に活動して横浜岡野支部を形成し、貴美子も激しい修行に打ち込んで霊能力を身につけたという。しかし霊友会に満足できなかった正道は、同11年に貴美子とともに「孝道会」を設立し、同14年には正式に霊友会を脱会した。
 結成当時、ラジオ店の2階で説法会などを開催していたが、同15年には横浜市金港町に道場を建設すると、夫婦はラジオ店をやめて本格的な布教活動に専念するようになる。
 同19年の横浜大空襲で道場を失った2人は、同21年に神奈川区六角橋に仮道場を建設し、時を同じくして「孝道教団」と改称した。同24年、神奈川区鳥越に土地を取得して「孝道山」と命名し、その孝道山内に同27年に本仏殿を建て、宗教法人「孝道教団」の根本道場とした。

 本仏殿建立に際して身延山久遠寺より「霊木」と称する材木を寄進されたり、また同27年に伝教大師が請来したと称する「仏舎利」を比叡山延暦寺から贈られるなど、教団は久遠寺と延暦寺の両方に関わりを持った。しかし同31年に延暦寺から大黒天を贈られ、同35年には不滅の法燈が根本中堂から遷燈されるなど、しだいに延暦寺との関係を強め、教団信者の修行地も久遠寺から延暦寺へと移行していった。
 同39年に正道は延暦寺から大僧正位を受け、貴美子も同46年に権大僧正位を受けている。この頃すでに、正道と貴美子の二人三脚の活動が孝道教団の特徴となり、この形態を踏襲して、同50年、2代目の統理に長男の岡野正貫が就任してからも、妻の鄰子(副統理)と2人で布教・教化活動等のすべてを行っている。
 同51年に75歳で貴美子が、53年に79歳で正道が、それぞれ死去した。
 同55年に新本仏殿を建て、本尊には「熟益開顕正法大曼荼羅」を祀った。
 なお、教団では現在、教団外部の人々への仏教精神の普及と住みよい社会の建設を目指すとして「マイトリー(思いやり)運動」を実施し、
 一、大自然の中に生かされている自分の存在を知ろう、
 一、家族に対する責任を果たそう
 一、人々とともに喜びも苦しみも分かち合おう
 一、すべての生き物に対する思いやりを持とう
 一、自分の持つ能力を世の中のために活かそう
の5つの条目を掲げて、後援会や集会を開いている。

【教義の概要】
 孝道教団は、立正佼成会と同様に釈尊を久遠実成大恩教主と仰ぎ、孝道山頂に仏舎利を祀っているが、本仏殿には熟益開顕正法大曼荼羅なるものを安置している。また「教団の福の神」と称して大黒天も祀っている。
 正道は「末法は五百年間」と限定し、しかも、末法とは釈尊にはじまった「種熟脱の循環」がひとめぐりして新たに下種をする時代であり、その下種の初期において中国の天台大師や日本の伝教大師が「聞法下種」し、さらに下種の本期に日蓮上人が「唱題下種」をして、下種の時代は終了した、と主張している。さらに、現在はすでに熟益の時代に入っているので、「みのる法華経・熟益正法」でなければ人々が成仏できない時を迎えている、という。
 また中国の天台大師と日本の伝教大師の時代は、理論を中心として法華経(理の法華経)が行われたときであり、日蓮上人の時代はむずかしい理論は置いて、やさしい南無妙法蓮華経と唱える(事の法華経)実践法によって人々の心に法華経の種を蒔くときであり、現代に至っては、理論と実際の解け合った「理事円融の法華経」が要求されるときとなった、とも説く。
 実践論としては、法華経による先祖供養を基盤とした孝道を立て、これによって縦に先祖代々から子々孫々にわたる孝と、横に無辺の衆生に及ぼす慈悲の孝を尽くし、そこに仏教本来の理事円融、つまり普遍的な真実と現実とが融合一体となった境地を開顕するとしている。
 基本的な修行として、信徒は仏壇に向かって教団発行の「孝道経典ー朝夕のおつとめ」を読誦し、定例化されている本仏殿における朝参り、修養会・錬成会への出席、比叡山への団参などを勤めることになっている。
 また、同教団では「六波羅蜜のなかの布施行を完全に行うことにより、他の持戒・忍辱・精進・禅定・智慧はおのずから完成される」として、修行の第一条件に布施を挙げている。

【破折の要点】
◆正道は天台宗の「大僧正位」を有していることを宣伝しながら、天台大師の「後五百歳遠く妙道に霑う」、伝教大師の「正像稍過ぎ已はって末法太だ近きに有り」等の、末法には未だ至っていない、との明言を無視し、天台と伝教の両大師時代を「末法の初期」という。これは宗祖である天台大師・伝教大師の教えに背くものである。

◆正道は「末法は五百年間」と規定し、天台大師を末法の初期、日蓮大聖人を末法の本期と配し、その上で現在は「熟益正法の時代」などと放言している。しかし天台大師が生まれた西暦538年から日蓮大聖人が御入滅された西暦1282年までは、実に744年もあり、正道の末法500年説は完全に論理破綻である。したがって、当然、「熟益正法時代」などという説も、所詮は空言である。

◆正道は「上行菩薩につづいて、無辺行菩薩が霊山会上で釈尊より直伝されたのが熟益の法華経であり、」などというが、上行菩薩に続いて、無辺行菩薩が出現するという経文はまったくない。まさに独断と偏見による己義にほかならない。


 
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