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日蓮正宗法華講 妙霑寺支部のサイトです。

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岡山県岡山市北区津高781番地 妙霑寺内

諸宗破折ガイド 新興宗教 法華宗系 立正佼成会

四 立正佼成会

  創 立   昭和13年3月5日
  創始者   庭野日敬(開祖)・長沼妙佼(脇祖)
  現会長   庭野日鑛(日敬の長男)
  信仰の対象 久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
  教 典   法華三部経
  本部所在地 東京都杉並区和田2―11―1
  信者数   5,742,564
  名称の変遷 大日本立正交成会(昭和13年3月) 立正佼成会(昭和35年)

【沿革】
 立正佼成会は、庭野日敬と長沼妙佼が霊友会を離れて新たに創立し、庭野の姓名判断・方位学・易学等と長沼の霊能によって、戦後急激に教勢を拡大した在家教団である。
 庭野日敬は、明治39(1906)年、新潟県十日町の農家に生まれた。本名を鹿蔵といい、17歳のときに東京大久保の炭屋に丁稚として入り、そこの主人から、九星・六曜・金神など民間信仰を学んだ。
 庭野は昭和5年に結婚し、同6年には中野に漬物店を開いた。その後、長女の病気が縁となって、女修験者(真言密教系)の綱木梅野に弟子入りし、師範代まで務めるようになったが、2年ほどで綱木から離れ、かねて知り合っていた小林晟高から姓名学を学んだ。
 昭和9年、近所の婦人から霊友会の信仰を勧められて入信した庭野は、翌年には支部長となり、商売も漬物屋から牛乳配達屋に転業した。昭和11年、庭野は配達先の長沼マサ(後の妙佼)を勧誘し、入会させた。
 以後、庭野は長沼と組んで布教に励んだが、霊友会・会長小谷キミの法華経軽視の発言を機に離脱し、同13年3月に「大日本立正交成会」を設立して、庭野の自宅を本部とした。
 同17年、杉並の和田本町に道場を建てて新本部とし、長沼の霊感による病気治しと庭野の姓名学・易学などで布教を展開した。
 同18年3月、霊感指導が人心を惑わすとの理由で検挙され、庭野は15日間拘留され、長沼も3週間にわたって拘留された。この事件によって、ほとんどの支部長が脱会した。
 同31年、読売新聞が「大日本立正交成会の土地(現本部所在地)購入に関して不正行為があった」と報道し、教団批判のキャンペーンを張ったことから、庭野は国会に喚問された。
 この事件の対処法などを巡って、教団内に庭野批判が起こり、ついには庭野を追放して長沼を教祖と仰ごうとする一派が決起したが、翌年の長沼の病没によって沈静化した。
 同33年1月、庭野は教団創立から長沼の死去までを”方便時代”と規定し、今や〝真実顕現の時代〟に入ったと称して、霊能中心の信仰から教学重視の信仰へ転換をはかるとともに、本尊を〝久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊〟とすると宣言した。さらに同35年、庭野は同会の名称を「立正佼成会」と改め、同39年4月には本部に大聖堂を建て、本尊である久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊の立像を安置した。

 同40年、庭野は第2バチカン公会議に出席した後、各宗との協力関係を重視するようになり、世界宗教者平和会議の開催に尽力したり、軍縮や開発途上国の援助などの活動を展開した。
 庭野は平成3年に長男日鑛に会長職を譲り、自らは開祖と称し、同11年10月に92歳で逝去した。

【教義の概要】
 佼成会の本尊は、長沼妙佼の霊感によって、
 ①発足当初は、霊友会の曼荼羅に守護神として毘沙門天を加えたもの
 ②中央に南無妙法蓮華経、その右に「天壤無窮」、左に「異体同心」と書いた旗(昭和15年4月)
 ③前記の旗を掛け軸にし、守護神として大日如来を加えたもの(同17年5月)
 ④「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」と庭野が書いたもの(同20年10月)
 ⑤「日蓮聖人の大曼荼羅」と称して、庭野が書き写したもの(同23年3月)
と変遷し、さらに長沼が亡くなった翌年、庭野は「今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべきである」と宣言した。
 会員の場合は、入会当初は総戒名だけを祀り、信仰が進んでくると〝御守護神〟や釈迦の絵像を祀り、幹部級になると〝大本尊〟といわれるものになる。
 佼成会が総戒名を用い、法華経によって先祖供養と懺悔滅罪することは、霊友会の教義と実践法を受け継いでいるが、具体的な修行方法は長沼の霊感によって決定されたり、真言の九字や水行などの密教的要素の強い修行も行う。さらに布教手段として庭野の姓名判断・易学などを用いる。
 独自の教えとしては、〝妙・体・振(ふり)の因縁〟の理論がある。妙とは目に見えないもの、すなわち神仏であり、体とは妙が現実化した可視的なもので森羅万象および姓名などを指す。振とは妙に促されて体に現れる種々の動作・運動のことであり、振を見れば体がわかり、妙を感じ取ることができるので、結局、体は人間の営みのうえに現れる因縁に他ならない、というものである。
 庭野は長沼の死後、「真実顕現」を宣言して〝法華三部経を日常生活に活かす〟と主張し、根本仏教の四諦・八正道・十二因縁と大乗仏教の示す六波羅蜜の法門を用い、これによって〝反省と精進を重ねて仏知見を開き、菩薩道の実践をめざす〟としている。
 信者は、仏壇に総戒名を祀ってその手前に霊鑑(過去帳)を置き、朝晩に〝聖典〟と称される経典を読んで先祖の供養をする。
 佼成会に入会しても〝それまでの宗教を捨てる必要はない〟〝自分の檀家寺や氏神を大切にするように〟と教えられる。入会した者は〝法座〟と呼ぶ少人数のグループの一員となり、サークル方式で互いに懺悔や悩み事について話を交わし、そこでさまざまな指導が行われる。修行の中でも〝お導き(布教)〟と本部通い(労働奉仕)で功徳を積むことも強調される。

【破折の要点】
◆佼成会では本尊を六回も変えており、信ずる根本対象がクルクル変わる宗教は、まさに大聖人が、
 「諸宗は本尊にまどえり。(中略)例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごとし」(開目抄 新編554)
と、喝破された姿にほかならない。

◆佼成会では長沼の〝神のお告げ〟によって本尊を変えたといっているが、仏教において教理経文をもって厳格に定めるべき本尊が、きわめていかがわしい〝お告げ〟なるもので簡単に替えること自体、仏教とは無縁の邪教である。

◆庭野は久遠の釈迦像を本尊とし、それが教主釈尊の本懐であり、さらに日蓮聖人のご本懐でもあるといっている。しかし大聖人が、
 「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事 新編685)
と断言されているとおり、釈尊の本懐は法華経以外になく、しかも法華経のどこにも「釈尊像を本尊として祀れ」とは説かれていない。むしろ、大聖人は、
 「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。(中略)此は法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」(本尊問答抄 新編1274)
と仰せられ、明確に〝釈尊を本尊とすることは法華経の正意ではない〟と説かれている。

◆佼成会では会員に庭野が勝手に造った本尊に向かって唱題させている。しかし大聖人が、
「日蓮等の類の弘通する題目は(中略)所謂日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり」(御講聞書 新編1841)
と仰せのように、大聖人が顕わされた御本尊以外のものに向かって、どれほど題目を唱えても、正しい功徳とはならない。

◆法華経には「正直捨方便」「不受余経一偈」と説かれ、爾前経の教えを捨てて法華経だけを信ぜよ、と教えられている。にも関わらず、佼成会では四諦・八正道・十二因縁を用いて精神修養を勧め、道徳的な行動を奨励しているが、修行や行動規範に爾前経を用いることは明らかに仏説に背いている。

◆法華経自体が衆生に爾前権教のすべてを捨てさせ、ただ法華経に示される仏心に従わせる〝随自意〟の教えであり、折伏の経典である。佼成会では、この法華経を所依の中心経典としながら、入会したときに〝それまでの宗教を捨てる必要はない〟と教えるばかりか、自分の檀家寺や氏神を大切にするようにと指導している。これは「不受余経一偈(余経の一偈をも受けざれ)」という、法華経の精神に背くものであり、きわめて不純な信仰である。


 
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